Semua Bab 死ぬために嫁がされた私、二度目の転生で冷酷御曹司と運命を変えます: Bab 91 - Bab 100

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第91話 水科家の請求書②

 私の視線が、サイドテーブルに置かれた小さな小包に向けられる。  茶色いクラフト紙で包まれ、麻紐で十字に縛られただけの、ひどく質素な包みだった。天野家が用意するような豪奢な包装とはまるで違う、生活の匂いが染み付いたような外観。 「……ありがとう。後で確認するわ。もう下がってちょうだい」 「それでは、失礼いたします。おやすみなさいませ」  千尋が深く一礼し、部屋から退室していく。  カチャリと扉が閉まる音を確認し、私はすぐにサイドテーブルへと歩み寄った。  麻紐に指をかける。  少し毛羽立った麻の繊維が、指先にザラリとした感触を残す。  佳乃。  彼女は父の後妻として水科の家に入ってきた女性だ。常に父の三歩後ろを歩き、決して自分の意見を主張せず、没落していく水科家の家計を無言でやり繰りしていた、冷たくて影の薄い継母。  私が天野家に差し出されることが決まった時も、彼女はただ黙って俯き、言葉一つかけてはくれなかった。  その彼女が、わざわざ私宛に「忘れ物」を送ってくるだろうか。  私が水科の家を出る時、自分の意志で持ってきたのは、前世の記憶を頼りに買った数冊の実用書や、あの革張りのメモ帳くらいだ。忘れ物など、存在するはずがない。  引き出しからペーパーナイフを取り出し、麻紐を切断する。  クラフト紙を開くと、埃と古いインクの匂いがほのかに鼻を突いた。  中に入っていたのは、一冊の分厚い本だった。  海外の古典文学のハードカバー。水科家の書庫の奥で埃を被っていたのを、私が暇つぶしに自室に持ち込んでいた本だ。だが、わざわざ本邸にまで送ってくるほどの思い入れはない。  本を持ち上げると、表紙とページの間から、三つ折りにされた何枚かの紙の束が滑り落ち、絨毯の上にバサリと散らばった。  私はペーパーナイフを置き、その紙の束を拾い上げた。  一目見た瞬間、私の脳内の「広報としての事務処理センサー」が、強烈に反応した。  それは、手紙ではない。  白いコピー用紙に黒いトナーで印字された、数枚の『請求書』と『契約書』の写しだった。  宛先は、『株式会社水科ホールディングス』。父・惣一郎が当主を務める、水科家の資産管理会社。  私はソファに腰を下ろし、一番上の請求書に視線を落とした。  発行元は、『天野アセットマネジメント株式会社』。  
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第92話 水科家の請求書③

 実体のない、ひどく曖昧な名目の羅列。 前世で、広報部として会社の決算報告書や不正会計のニュースに目を通してきた私には、この文字列が何を意味しているのか、痛いほどによくわかった。 これは、真っ当な事業取引ではない。 架空のコンサルティング料や、価値のない美術品の売買を装って、資金を移動させるためのダミー請求書だ。 佐伯が送ってきたメールの文章が、頭の中でフラッシュバックする。 ――理沙は、天野のペーパーカンパニーを通じた不自然な資金流用のデータにアクセスした形跡がある。 天野の資金流用。 それが、まさか自分の実家である水科家を経由して行われていたとは。 私は二枚目、三枚目の紙をめくった。 契約書のコピーには、父・惣一郎の震えるような署名と、水科家の実印がはっきりと押されていた。 日付は、今から数年前。水科家の経営が急速に悪化し始めた時期と一致している。 点と点が、頭の中で冷たい音を立てて繋がっていく。 父は単に事業に失敗して借金を抱えたのではない。 没落していく家名を守るため、あるいは自分の無能さを隠すために見栄を張り、天野グループが持ちかけてきた「怪しい投資話」や「架空のコンサルティング契約」に自ら手を出したのだ。 天野側は、水科家のような「名ばかりの旧家」を隠れ蓑にして、グループ内の不正な資金洗浄(マネーロンダリング)を行っていた。 それから、父がその裏取引のシステムから抜け出せなくなり、膨れ上がった架空の負債によって首根っこを掴まれた時。 天野家は、その借金を肩代わりするという名目で、水科家を自分たちの支配下に置いた。 水科家は、ただの哀れな被害者ではない。 父の弱さと見栄が、天野家の隠蔽工作に自ら加担し、傷を広げた共犯者だ。 だからこそ、父は天野家に逆らえない。「娘を差し出せ」と言われれば、どんな異常な契約書であっても、目を瞑って判を押すしかなかったのだ。もし天野家の機嫌を損ねて、この不正な資金の流れが公になれば、水科家は借金だけでなく、犯罪の片棒を担いだとして社会から抹殺されるのだから。「…&hell
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第93話 水科家の請求書④

 私はただの小切手ではなく、天野家の資金流用という犯罪行為を隠蔽するための、生きた人質としてここに置かれている。 私は紙の束の一番最後に、小さな付箋が貼り付けられているのに気づいた。 手書きの、細く控えめな文字。 佳乃の筆跡だった。『凛花へ。 この書類は、お父様には内緒でコピーしたものです。 天野との取引に関わる古い帳簿の原本は、私が別の場所に隠してあります。佳乃』 呼吸が一瞬だけ止まった。 古い帳簿。 天野家の資金流用と、水科家の負債の実態を証明する、決定的な一次情報。 冷たくて、父に従順なだけだと思っていた継母の佳乃。 彼女は家の中で何も見ていないふりをしながら、実は父の愚かな取引の全貌を把握し、万が一の時のために密かに証拠を抜き取り、隠し持っていたのだ。 なぜ、彼女は私にこれを送ってきたのか。 ただの沈黙する傍観者でいれば、彼女自身は安全なはずなのに。 危険を冒してまで、私が天野の本邸にいるこのタイミングで、この請求書のコピーを送りつけてきた理由。 それは、「あなたが売られた本当の理由を知りなさい」という警告であると同時に、彼女なりの、ギリギリの抵抗の意思表示なのではないか。 私は手の中のコピー用紙と付箋をじっと見つめた。 紙の表面に印字された黒いトナーの文字が、私の進むべき道をはっきりと照らし出している。 天野家の隠蔽の仕組みを崩すための、外部からのアプローチ。 佐伯律が一人目の花嫁の死の真相や、天野の資金流用の流れを外から追うのなら。 私はこの水科家の帳簿という「内側からの証拠」を手に入れなければならない。 水科家は、守るべき愛する家族ではない。 けれど、この犯罪の構造を暴くためには、父の罪ごと、全部を明るみに出す必要がある。 私が生き延び、自分の名前を取り戻すためには、天野家だけでなく、自分を売り飛ばした水科家をも同時に破壊しなければならないのだ。 不思議と、恐怖はなかった。 代わりに、胸の底で冷たく重い「責任」の感覚が、輪郭を持っていくのを感じた。
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第94話 佳乃の沈黙①

 革張りのメモ帳を閉じ、冷たくなった指先でその表紙を二度、撫でた。  水科家の借金は、天野の資金洗浄の隠れ蓑。  それから、継母である佳乃が、その決定的な証拠となる古い帳簿を隠し持っている。  その事実の重みが、私の身体の芯に冷たく、太い鉄の杭を打ち込んだような感覚を残していた。  ベッドに入り、シルクのシーツを首元まで引き上げても、交感神経が昂って全く眠気は訪れなかった。  古い帳簿の原本。  それがどこにあるのか。佳乃は付箋に『別の場所に隠してある』とだけ書き、具体的な場所を明記していなかった。  当然だ。もしこの小包が、私に届く前に天野家の手によって開けられ、中身を検閲されていたら。帳簿の隠し場所がバレれば、天野側はすぐに水科家へ人を差し向け、その証拠を物理的に消し去ってしまうだろう。佳乃はそのリスクを理解した上で、あえて「存在」だけを私に知らせてきたのだ。  ならば、次は私が動く番だ。  彼女から、その具体的な場所を聞き出さなければならない。それも、この厳重な監視網の敷かれた天野本邸の中で、黒瀬や美津子に一切の不審を抱かせることなく。  私は暗闇の中で目を開いたまま、ゆっくり呼吸のリズムを整え、翌日の計画のスクリプトを脳内で組み上げていった。  翌朝。  分厚い遮光カーテンが開かれ、朝の光が絨毯に四角い模様を描いた直後。  ワゴンで朝食を運んできた千尋に向かって、私は紅茶のカップに口をつける前に声をかけた。 「千尋さん。お母様……美津子様に、お伺いを立てていただきたいことがあるの」  千尋の動きがピタリと止まり、彼女は少し怯えたような瞳で私を見た。 「……私で、お力になれることでしたら」 「昨日、実家から忘れ物が届いたの。衣装のことで母に確認したいこともあるから、午後に来てもらってもいいかしら」  私は声を少し柔らげた。誰に聞かれても、不自然に思われないように。 「忘れ物のお礼も、直接言いたいの」  千尋は小さく頷き、「奥様に確認してまいります。……少し、お時間をいただいてもよろしいでしょうか」と答えた。  許可は、必ず下りるはずだ。  美津子にとって、私が実家の母親を呼ぶという行為は、「まだ実家への未練があり、精神的に寄りかかろうとしている」という弱さの証明に他ならない。没落した水科家の人間を本邸に呼びつけ、天野
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第95話 佳乃の沈黙②

 監視の目が光る密室で行われる、情報の引き出しと、暗号の受け渡しだ。 時計の針が午後一時五十五分を指した時、私は部屋を出て、指定された一階の第二応接室へと向かった。 第二応接室は、昨日のサロンが開かれた部屋よりも少し手狭だが、それでも水科家のリビングが二つは入るほどの広さがあった。 壁には重厚なタペストリーが掛けられ、アンティークの革張りソファが向かい合っている。 部屋の隅、扉のすぐ横には、漆黒のスーツを着た黒瀬が、気配を殺して立っていた。 彼の手には、いつもの薄い革の手帳が握られている。 私の発言、佳乃の発言、その何もかも、彼の耳というフィルターを通して美津子の元へ「議事録」として提出されるのだ。 私はソファの上座に腰を下ろし、背筋を伸ばして待った。 やがて、廊下からかすかな足音が近づき、使用人の手によって扉が開かれた。「水科様、お見えでございます」 部屋に入ってきた女性を見て、私の胸がチクッと痛んだ。 水科佳乃。私の継母。 彼女はくすんだベージュ色の、明らかに仕立ての古いスプリングコートを着ていた。首元には地味なパールのネックレスをつけ、手に持っている黒いハンドバッグは、角の革が少し擦り切れている。 この完璧に磨き上げられ、富と権力の匂いが充満する天野本邸の応接室の中で、彼女の姿はひどく場違いで、小さく萎縮して見えた。「……凛花さん」 佳乃の声は、カサカサに乾いていた。 彼女の視線は私を捉えた後、すぐに部屋の隅に立つ黒瀬へと向けられ、そして怯えたように床へと落とされた。「お母様。よくいらっしゃいました」 私は立ち上がり、完璧な令嬢の微笑みを浮かべて彼女を迎えた。 近づくと、微かに白檀のお香の匂いが鼻を掠めた。水科の古い屋敷に染み付いている、あの鬱屈した生活の匂い。「さあ、どうぞこちらへ」 私がソファを勧めると、佳乃はコートを脱ぐことも忘れ、バッグを胸の前で両手で強く抱え込むようにして、浅く腰を下ろした。 メイドが音もなく近づき、二人の前に紅茶と焼き菓子を並べる。
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第96話 佳乃の沈黙③

 お父様が仰った、というのは嘘だ。あの請求書の束を、惣一郎が送らせるはずがない。彼女は黒瀬という監視の耳を意識して、水科家としてのお飾りの言葉を使っている。「お父様は、お元気ですか?」「ええ。天野家からの……ご支援の通知をいただきまして。お父様も、ようやく肩の荷が下りたと、大変安堵しておられました」 佳乃の唇が、かすかに震えている。 肩の荷が下りた。その言葉を口にする彼女の表情には、喜びなど微塵もない。むしろ、家を救うために娘をこの得体の知れない屋敷へ差し出してしまったことに対する、吐き気をもよおすような自己嫌悪が滲み出ていた。 私は紅茶を一口飲み、小さく息を吐いた。「それは良かったです。私も、天野家の婚約者として、少しでもお力になれたのなら本望ですわ」 私はカップを置き、佳乃の目を真っ直ぐに見つめた。「ところで、今日お越しいただいたのは、結婚式のお衣装の件なのですけれど」「あ……ええ。帯や、小物のこと、ですよね」 佳乃が、弾かれたように顔を上げる。「ええ。水科の家に代々伝わるものがあれば、少しでも持ち込ませていただけないかと思いまして。……天野家には及ばないかもしれませんが、私の『ルーツ』として、身につけておきたいのです」 ルーツ。 その言葉に、佳乃の瞳孔がかすかに揺れた。 私は彼女に「あなたの本当の目的を理解している」というサインを、言葉の端に忍ばせている。「……そうですね。水科の蔵には、古いものがいくつか残っております」 佳乃の声が、先ほどよりも低く、ゆっくりしたテンポに変わった。 彼女もまた、この監視下の対話のルールに気づいたのだ。「凛花さんが小さい頃に着ていた着物や……お母様が残された品々。あの家には、本当に古いものばかりが、埃を被って眠っていますから」 佳乃はついにハンドバッグから手を離し、自分の膝の上で両手を強く組み合わせた。 その指先の関節が、白く浮き出ている。
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第97話 佳乃の沈黙④

「でも」 佳乃の息が浅くなる。「あなたがこの家に来る前の晩。あなたの背中を見て……あのままでは、あなたが本当に、古い埃と一緒に押し潰されてしまうと……そう思って」「お母様」 私は佳乃の言葉を優しく、けれど明確な強さを持って遮った。 これ以上、直接的な後悔を口にさせれば、黒瀬の記録に『水科の妻が天野家への不満を漏らした』という致命的な文脈が乗ってしまう。「わかっています」 私はテーブルの上で自分の両手を重ね合わせ、佳乃に向かって、ゆっくり深く頷いてみせた。「お母様も、必死だったのですよね。家を、守るために」 表面上の言葉は、「没落する水科家を守ろうとした母への理解」。 けれど、私の目線が伝えている裏の文脈は、「あなたが保身を捨てて、私にあの請求書(証拠)を送ってくれた勇気を、私はちゃんと受け取っている」という肯定だった。 佳乃の目から、ポロリと、大粒の涙が零れ落ちた。 彼女は慌ててハンドバッグからハンカチを取り出し、目元を乱暴に押さえた。「ご、ごめんなさい……。私ったら、急に……」「お気になさらないでください。……私も、水科の家を出て、少し寂しく思っていたところですから」 私はハンカチで涙を拭う佳乃に、決定的な問いを投げかけるタイミングを計った。 彼女はあの請求書の束と一緒に、致命的な一次情報である『帳簿の原本』の存在を教えてくれた。だが、それがどこにあるのかを聞き出さなければならない。「お母様」 私は声のトーンを日常の世間話のレベルまで引き戻した。「衣装の小物のほかに、もう一つ、探していただきたいものがあるのです」 佳乃が、ハンカチから目を赤くして顔を上げる。「私が子どもの頃に大切にしていた、分厚いアルバム……いえ、日記のものだったかしら。本邸に持ってくるのを忘れてしまって」 日記、あるいは帳簿。 その言葉の響きに、佳乃の背
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第98話 佳乃の沈黙⑤

 離れの蔵。二階の一番奥。積まれた桐箱の、一番下。  嫌になるほど、よくできている。  これほど具体的な位置指定なら、私が直接取りに行くにせよ、佐伯のような外部の人間を動かして盗み出させるにせよ、迷うことはない。  それから、この会話を黒瀬がどう記録しようと、「娘が子どもの頃のアルバムの保管場所を継母に聞いた」という、微笑ましくも退屈な日常の会話としてしか処理されない。 「……ありがとうございます、お母様」  私は心の底から安堵し、深く頭を下げた。 「そこにあるとわかっていれば、安心です。いつか、自分で取りに行きたいくらいですわ」 「ええ」  佳乃は薄く、本当に数年ぶりに見るような、穏やかな微笑みを浮かべた。 「いつか、あなたが本当に必要になった時……取りにいらっしゃい。私が、ちゃんと守っておくから」  それは、彼女なりの、精一杯の戦線布告だった。  家と夫に縛られ、逆らうことの怖さに縮こまっていた彼女が、義理の娘が殺されるからくりに組み込まれたことを知り、最後の最後で反旗を翻した。  私はティーカップを持ち上げ、まだ温かい紅茶を一口飲んだ。  ダージリンの渋みと香りが、今日ははっきりと舌の上に感じられた。  味覚が戻ってきている。私が、この理不尽な箱の中で、確かな武器を手に入れた証拠だった。 「本日は、遠いところをご足労いただき、本当にありがとうございました」  三十分後。面会の時間が終わり、私は立ち上がって佳乃を見送った。  佳乃はスプリングコートを羽織り、ハンドバッグを腕にかけ、私に向かって深く一礼した。 「……どうか、お身体を大切に。凛花さん」  佳乃が部屋を出て、使用人の案内で玄関ホールの方へと遠ざかっていく。  私は扉が閉まるまで、その小さな背中を見送った。  誰もいなくなった第二応接室。  部屋の隅に立つ黒瀬が、革の手帳をパタンと閉じた。 「……ご苦労様でございました、凛花お嬢様」  黒瀬の低い声が、静寂を破る。 「お母様とのご歓談、穏やかにお済みになられたようで何よりです」 「ええ。おかげ
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第99話 ふたりきりの温室①

 深夜零時。  分厚い遮光カーテンを細く開けると、冬の夜空に冴え冴えとした半月が浮かんでいた。  屋敷は完全な静寂に包まれている。黒瀬や使用人たちの活動が停止するこの時間帯だけが、私にとって唯一、自由に呼吸ができる時間だった。  昼間、第二応接室で佳乃から帳簿の隠し場所を聞き出し、監視の目を欺き切った確かな手応えが、まだ胸でほのかな熱を帯びている。  佐伯と連絡を取るためのライター。  天野の資金洗浄を証明する、離れの蔵の帳簿。  武器は揃った。美津子の構築した「精神的失調による自滅」というレールから降り、この屋敷の仕組みを内側から破壊するための導火線は、確かに私の手の中にある。  けれど、まだ足りない。  一人目の花嫁である理沙が殺された理由。そして、透が自分自身を「呪い」で縛り付け、私を遠ざけようとする原因となった、あの温室の火災。  私はクローゼットから黒いカーディガンを取り出し、ナイトガウンの上に羽織った。  足音を殺して自室を出る。  フットライトだけが点灯する薄暗い廊下を抜け、一階のテラスへ。  ガラス戸を押し開けると、肺を刺すような冬の冷気が、ガウンの薄い生地を容易く通り抜けて肌を粟立たせた。  白砂利の小道を、つま先からそっと足を下ろして歩く。  月明かりに照らされた庭園の奥、巨大なガラスの箱が、鈍い燐光を放つように鎮座していた。  温室。  昼間は黒瀬の威圧的な気迫によって立ち入りを阻まれた、あの緑の迷宮の奥深く。  白いアイアンフレームの扉に手をかけ、ゆっくり引く。  金属がかすかに軋む音とともに、むせ返るような湿気と、黒土の匂い、そしてあの暴力的なまでに甘い花の香りが、分厚い壁となって私にのしかかってきた。  中に足を踏み入れ、背後で扉を閉める。  外の冷気が遮断され、一瞬にして真夏の熱帯夜に放り込まれたような錯覚がした。  自動散水装置から落ちる水滴が、ポタ、ポタと巨大なシダの葉を叩く音だけが響いていた。  私は迷わず、温室の中央スペースを抜け、鬱蒼と絡み合うツタとヤシ科の植物が作る「緑の壁」へと向かった。  昼間と同じように、巨大な葉を両手でかき分ける。  結露した水滴が手首を伝い、冷たい感触を残して落ちる。  暗がりの中に、黒く炭化した太い木の柱と、熱で歪んだレンガの壁が浮かび上がった。
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第100話 ふたりきりの温室②

 記録の抹消。  この扉の向こうに、あるいはこの火災そのものに、天野家にとって絶対に知られてはならない事実が隠されている。 「……やはり、来たか」  背後から、低く、湿った空気を震わせる声がした。  ビクッとしてライトを消し、振り返る。  緑の葉の向こう、温室の薄暗がりの中に、長身のシルエットが立っていた。  天野透だった。  彼はスーツではなく、黒いタートルネックのニットに、ダークグレーのスラックスという、ひどくラフな格好だった。  音もなく葉をかき分け、彼が私の目の前まで歩み出てくる。  月明かりがガラス屋根を透過し、彼の顔の半分を青白く照らし出していた。 「何度警告しても、君は踏み込んでくる」  透の声には、怒りよりも深い、諦めにも似た疲労の色が混じっていた。  彼は私が夜の温室に来ることを、あらかじめ予期して待っていたのだ。 「隠されているから、知りたいんです」  私は彼から視線を逸らさず、真っ直ぐに答えを返した。 「理沙さんが、なぜ死ななければならなかったのか。そして、あなたが何を抱えて、自分を呪いだと思い込んでいるのか」  透の眉間が、苦痛に歪む。  彼は深く息を吐き出すと、私の視線を避けるように、足元に群生する白い花へと目を落とした。 「……この花の名前を、知っているか」  ぽつりと、独り言のようなトーンで彼が言った。 「いいえ」 「『白灰蘭(はくはいらん)』という」  透はゆっくり膝をつき、その純白で肉厚な花びらに、左手の指先でそっと触れた。 「この花は、他の植物が枯れるような熱と湿気でしか育たない」  白灰蘭。  灰の中で咲く蘭。 「火事のあと、焼けた土から、この花だけが一斉に芽を出した」  透は焼けた扉へ目を向けた。ここは美津子が趣味で作らせた温室で、その奥には使われなくなった小さな離れがあったという。 「僕は、よくあそこに隠れていた」  彼は花びらから指を離し、ゆっくり立ち上がった。 「母の前では、服を汚すことも、成績を落とすことも許されなかった」  透の告白は、まるで古い傷口を自分の爪で開くような、痛切な響きを持っていた。 「埃っぽくても、あそこなら息ができた」  彼の氷のように透き通った瞳が、月明かりの中でほのかに揺れている。  完璧な次期当主として作られた彼の、誰にも見せ
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