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90 فصول

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「プロトタイプ店舗の総料理長が借金取りに怯えていては、最高のパフォーマンスなど出せないだろう。私はシステムに不確定要素を残すのが嫌いでね」 淡々とした口調だが、その言葉には絶対の自信と権力が裏打ちされていた。「君は、料理と店の経営にだけ集中しろ。外部のノイズはすべて私が遮断する」 冷たい路地裏の空気が、彼の放つ圧倒的な熱量によって塗り替えられていくようだった。「私が君の盾になろう。全てのトラブルから、私が君を守る。だから、君の腕を私に貸してくれ」 礼司は右手を差し出した。  節立って大きな、数々の経営判断を下し続けてきた手。 春菜はその手を見つめた。 翔太には裏切られ、手酷く捨てられた。  たった1人で日銭を稼ぎ、いつ取り立てが来るか分からない恐怖に怯えながら、先の見えない日々を送っていた。 だが目の前の男は、春菜の料理と頭脳の価値を認めてくれた。  すべての障害を自分の力で排除すると言い切っている。(……この人なら、本当に全部なんとかしてしまいそう) 感情論や同情ではない。極めて合理的な損得勘定に基づいた、ビジネスとしての提案――の、はずだ。 だからこそ信頼できると、春菜は思った。  彼にとって春菜は、投資する価値のある人間なのだ。 春菜は愛し合っていたはずの翔太に捨てられた。  長年の親友だと信じていた梨沙に裏切られた。 それゆえに礼司のビジネスを強調する言葉に好感を持った。(信じてみよう。御堂社長という人そのものではなく、彼のビジネス眼を) ただ1つ気になるとすれば、彼の両目に不自然なほどの熱が灯っていること。焦がれるような、熱烈な視線。  けれどそれも、春菜は単に「仕事上の熱意」と思うことにした。(……私も覚悟を決める) 春菜はエプロンで自分の右手を軽く拭いた。いつの間にか、緊張で汗がにじんでしまっていた。 それから、礼司の差し出した手をしっかりと握り返した。「分かりました。私の料理と経営のノウ
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81:グレーな契約

 翌日の午前。春菜は都心のビジネス街にそびえ立つ、ガラス張りの高層ビルを見上げていた。 御堂ホールディングス本社ビルである。  陽光を反射する巨大な建造物は、周囲のビルと比べても強い存在感を放っていた。 春菜は手持ちの服の中で、一番見栄えのする白いブラウスと紺色のスカートを着てきた。  それでも足を踏み入れるのに勇気が要る。  自動ドアを抜けると、大理石の床が広がるエントランスホールがある。空調の効いた冷たい空気が肌を撫でた。「あの……佐伯春菜です。御堂社長に呼ばれて来ました」「佐伯様、お待ちしておりました。こちらへどうぞ」 受付で名前を告げると、すぐに専用のエレベーターへ案内された。  耳が詰まるほどの速度で上層階へ到着する。 案内されたのは、重厚感のある木製のドアの向こうにある重役用会議室だった。  壁の一面は完全にガラス張りになっており、眼下にはミニチュアのような東京の街並みが広がっている。  中央には磨き上げられた長大で立派なテーブルが鎮座していた。(場違い感がすごい。私、完全に迷い込んだ子羊状態なんだけど。子羊のローストにされて食べられちゃわないかな) 春菜が部屋の隅で縮こまっていると、別のドアが開いて御堂礼司が入ってきた。  今日は深いネイビーのスーツを着ている。彼の後ろには、揃ってダークスーツを着た3人の男女が続いていた。「よく来たな、佐伯。座ってくれ」 礼司はテーブルの中央に腰を下ろし、春菜にも席を勧めた。  春菜は革張りの椅子に浅く腰掛ける。 礼司の隣に並んだ3人は、それぞれ手帳やタブレット端末をテーブルに置いた。「彼らは我が社専属の法務チームだ。企業間の訴訟や契約トラブルの解決において、国内で右に出る者はいない」 礼司の紹介に合わせ、3人の中で一番年配の白髪交じりで眼鏡をかけた男性が頭を下げた。「御堂社長からお話は伺っております。早速ですが、お手持ちの資料を拝見してもよろしいでしょうか」 年配弁護士の落ち着いた声に促されて、春
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 さらに店を追い出された後に届き始めた、見知らぬ金融業者からの督促状の束もある。 一体どうしてここまでのことになったのか、春菜では理解できなかった。 春菜はそれらの書類をテーブルの上に並べた。「こちらです。よろしくお願いします」 年配弁護士は契約書のコピーを手に取って、目を細めた。隣の若手と女性弁護士も身を乗り出して文面に視線を走らせる。 しばらくの間、パラパラと紙の擦れる音だけが室内に響いた。 春菜は手に汗を握りながら彼らの顔を見つめた。(御堂社長を疑うわけじゃないけど、本当に解決できるのかしら。やっぱり正式な書類だと分かって、どうしようもなくなるのでは)「なるほど……これは、非常に悪質ですね」 最初に口を開いたのは若手弁護士だった。彼は手元のタブレットで条文の一部を拡大表示しながら、年配弁護士を見た。「先生。第14条の特約部分、これ完全に素人を騙すためのトラップですよ。主債務と保証債務の範囲が、意図的に不明瞭にされています」「ええ。それに抵当権の実行条件も異常です。通常のテンプレートにはない言い回しが多用されていますね」 女性弁護士も同意するように頷いた。 春菜は彼らの会話についていけず、戸惑いながら口を挟む。「あの。トラップというのは、どういうことでしょうか」 年配弁護士が契約書をテーブルに置き、春菜に向き直った。「佐伯さん。この契約書は、一見すると一般的な連帯保証契約に見えます。しかし細かい特約条項を組み合わせることで、主債務者である元婚約者の方の、一ノ瀬翔太さんの返済義務が実質的に免除され、連帯保証人であるあなたに全額の請求がいく仕組みになっています」「え?」 春菜は目を見開いた。「翔太が私の実家を抵当に入れると決めたのは、2人の店を作るためでした。あの時は、彼も本気で夢を語っていました。それなのに、最初から私に借金を押し付けるつもりだったんでしょうか」 あの時の翔太と春菜は、心が通じ合っていたはずだったのに。
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 翔太をそそのかして実家を抵当に入れさせ、法律の専門知識を悪用して逃げ道のない罠を仕掛けた。 翔太は梨沙の悪意に気付かず、あるいは気付かないふりをして、彼女の財力と魅力に溺れて春菜を裏切った。 借金の書類を持ってきた時の梨沙の言葉が脳裏に浮かぶ。『春菜、例の資金繰りの書類、うちの法務に作らせておいたわよ。なるべくあなたに負担がかからないよう配慮したから、安心してサインしてちょうだい』 あの時はまだ、梨沙を親友だと信じていた。 梨沙はいかにも優しい笑みを浮かべて、春菜に笑いかけていたのに。 自分を完膚なきまでに叩き潰そうとした梨沙の底知れぬ悪意と、それに踊らされた翔太の浅はかさ。 その事実を突きつけられて、春菜は冷や水を浴びせられたような感覚に陥った。唇が渇き、うまく言葉が出てこない。「あまりにも卑劣です。他人の人生をなんだと思っているんでしょうか」 若手弁護士が義憤に駆られたように声を上げた。「佐伯さん、安心してください。相手が法律の専門知識を利用してあなたを騙したのであれば、それは優越的地位の濫用にあたります。我々が必ず解決します」「解決、できるんですか。こんなにちゃんと私のサインと印鑑があるのに」 春菜が督促状の束を見つめると、女性弁護士が力強く頷いた。「可能です。相手の悪意が立証できれば、民法上の『錯誤無効』を主張できます。つまり、あなたが勘違いをしてサインしたため、この契約自体が無効であると突きつけるのです。我々が内容証明郵便を作成し、相手方に送付します」 年配弁護士もそれに続いた。「法廷に出るまでもない案件です。九条不動産のような大企業の社員が、このような詐欺的な契約の作成に関与したとなれば、深刻なコンプライアンス違反に問われます。それを盾に取れば、相手は一切の弁明ができません。債務は本来の持ち主である元婚約者の方へ差し戻されますし、あなたへの請求は完全にストップします」 彼らの流れるような説明を聞きながら、春菜はめまいに似た感覚を覚えた。(すごい……。私が何ヶ月
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 礼司は春菜の方へ視線を向けた。「これで分かっただろう。君の抱えていた問題など、この程度のものでしかない。私がすべて排除すると言った意味が理解できたか」「は、はい」 礼司の言葉は冷酷な響きを含んでいたが、春菜にとってはこれ以上なく心強いものだった。 礼司の言葉は冷酷な響きを含んでいたが、春菜にとってはこれ以上なく心強いものだった。  彼は利益と合理性のために動いている。春菜の料理の腕と頭脳を自社のシステム開発に利用するため、障害となるものを権力で粉砕しただけだ。(ビジネスとしての冷静な判断よね。だからこそ、私は彼を信頼できる) 春菜はそう信じて疑わなかった。 だが礼司の眼差しには、単なる合理性だけでは説明のつかない熱が交ざっていた。 春菜を見つめる彼の瞳の奥には、彼女の料理に対する強い渇望と、彼女自身を自らの手元に置いておきたいという執着のような色が揺らめいている。  礼司自身もまだ明確な言葉にはしていない。  けれど彼は春菜の生み出す皿に完全に胃袋を掴まれ、その実務的な才覚に深く魅了されていた。 それは紛れもなく、恋心に似た感覚だった。 春菜は深く頭を下げた。重くのしかかっていた足枷が、音を立てて外れ落ちるのを感じる。  顔を上げると、礼司がわずかに口角を上げていた。「感謝は君の仕事で示してもらおう。借金問題は彼らに任せて、君は店の準備に入ってくれ。場所は銀座四丁目の路面店だ。明日、現地で厨房の設備を確認してもらう」「感謝は君の仕事で示してもらおう。借金問題は彼らに任せて、君は店の準備に入ってくれ。場所は銀座4丁目の路面店だ。明日、現地で場所を確認してもらう」「銀座4丁目、ですか」 春菜は思わず聞き返した。  高級店が立ち並ぶ一等地である。「プロトタイプ店舗の宣伝費と考えれば安いものだ。それに、内装も厨房機器もすべて最新のものを準備中だ。君の理想とするメニューを形にするために、必要なものは何でも要求しろ」 礼司は立ち上がり、タブレット端末を操作して画面を壁の
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 春菜は、みやこ食堂で定食を食べる主婦や学生、サラリーマンの笑顔を思い浮かべた。  赤狸でジョッキを傾けながら串焼きをつまむ、サラリーマンたちの笑い声が耳に蘇る。  シエルでテイクアウトの惣菜を受け取り、嬉しそうに帰っていく母親と子供の姿も思い出した。 下町を転々としながら学んだのは、高級食材を使って技巧を凝らした料理だけが人を幸せにするわけではないということだ。 みやこ食堂や赤狸で使っていた食材は、決して高級ではなかった。  それでも仕入れの工夫とソースのクオリティアップで、お客を笑顔にできた。 シエルは良い食材を使っていたが、最高級ではない。客が満足する味に仕上げたのは、シェフの努力の結果だ。 人の温かさと、真心のこもった接客。  手の届く価格で、本物の美味しい料理を味わえる空間。 それこそが、春菜のたどり着いた理想の店だった。 裏切りと喪失から始まった旅だったけれど、春菜は大切なものを手に入れていた。(この思いは、譲れない) 春菜は姿勢を正し、礼司に向かってはっきりと口を開いた。「御堂社長。申し訳ありませんが、その立地とコンセプトでは、私にはお受けできません」 会議室の空気がピタリと止まった。 タブレットを操作していた若手弁護士の手が止まり、他の2人も驚いた顔で春菜を見た。  礼司は眉を寄せて、鋭い視線を春菜に向けた。「……どういう意味だ。銀座の一等地だぞ。料理人として最高の舞台を用意したというのに、不満があると言うのか」「舞台が立派すぎるんです。それに、私の目指す方向性とは違います」 春菜はモニターに映る豪華なパース図を指差した。「私がこの数ヶ月、下町の店を回って学んだのは、料理は日々の生活に寄り添うべきだということです。高級フレンチの技術は素晴らしいですが、それを5万円も払える一部の人たちだけに向けて提供するのは、私のやりたいことではありません」 そういう路線は、レストラン『一ノ瀬』で経験済みだ。 高級店そのものが悪いわけではない。だ
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「大衆的な洋食店だと? 我が社の次世代AIシステムのショーケースだぞ。そんな地味なコンセプトで、世間の注目を集められると思っているのか」「集められます」 春菜は即答した。「AIによる自動化の真価は、人手不足に悩む大衆店でこそ発揮されるはずです。高級店は元々スタッフの人数が多く、手厚いサービスが売りです。システムを導入しても、その恩恵は伝わりにくい。ですが、薄利多売の大衆店がAIの力で効率化されて、その分料理の質を高められたらどうでしょう」 春菜は言葉を続ける。「仕入れや予約管理のコストを限界まで削り、浮いた予算をすべて食材に回す。そうして手間暇をかけた極上の洋食を、大衆店の価格で提供する。そのコストパフォーマンスの高さこそが、最大の宣伝になります」 礼司は黙り込んだ。 彼の頭の中で、春菜の提示したモデルが急速に計算されて評価されているのが分かる。(お願い。分かってほしい。ただの高級店を作っても、意味がないんだって) 数秒の沈黙の後、礼司は小さく息を吐いた。「……AIの真価は、人手不足に悩む大衆店でこそ発揮される、か。確かに、システムの普及を考えるなら、高級店限定のシステムと思われるよりも、大衆店での成功例を見せる方が市場へのインパクトは大きい」 礼司はモニターの電源を切り、春菜を見つめた。「分かった。君の理想とするコンセプトで進めよう。銀座の物件はキャンセルする。もっと親しみやすく、かつ集客の見込める土地を探し直そう」「ありがとうございます!」 春菜は顔を輝かせた。「ただし、条件がある」 礼司は人差し指を立てた。「君の言う『極上の洋食』が、本当に私のシステムに見合うだけの集客力を持つのか。それを証明してもらう。メニューの完成度には一切の妥協を許さない」「望むところです。最高のハンバーグとオムライスを作ってみせます」 春菜の力強い宣言に、礼司は満足げに頷いた。 年配弁護士へ向かって指示をする。「物件探しの条件を変
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87:翔太と梨沙の焦り

 レストラン『一ノ瀬』のバックヤード、スタッフルームにて。 ディナータイム前の休憩中、一ノ瀬翔太はパイプ椅子に腰掛けて缶コーヒーを飲んでいた。(最近、どうも客足が鈍いな。インフルエンサーの宣伝効果が落ちたか) 彼は活気を失った厨房を眺めた。 多くのスタッフが辞めていった後、穴埋めでアルバイトを雇ったが、やはり経験が浅い者たちの動きは悪い。 何度もクレームになって、翔太はその度にスタッフへ怒鳴り散らしていた。 おかげでスタッフたちは萎縮してしまい、さらに動きが悪くなる。 怒鳴られるのが怖くて、ちょっとしたことも自分たちで判断できない。 いちいち翔太にお伺いを立てるので仕事が進まない。 まさに悪循環だった。 だが、翔太はどうして悪循環が発生しているのか理解していない。 だから何も改善しないどころか、時間が経つほどに事態は悪くなっていく。(これも新人たちの動きが悪いせいだ。あとでもう一度、叱ってやらないと。それに……春菜がいた頃の常連はすっかり来なくなったし) 昔の常連はいつの間にか、姿を見せなくなっていた。 以前は月に一度は必ず来ていた客も、今では全く顔を見せない。 純粋に料理を楽しんでいた上客、良客ほど先に消えたのに、翔太はやはり気づいていない。 だからインフルエンサーという即時的な手段を取って、後は放置していた。 けれどインフルエンサーの宣伝で呼び込んだ客は、リピーターになる率が非常に低かった。 彼らは一度来ただけで、二度と『一ノ瀬』に来ようとしない。 当然だった。 宣伝に釣られて来た客は、料理の味に無関心だ。 彼らは一時の「画面映え」だけを求めて、すぐに飽きてしまう。 そんな客層がリピーターになるはずがない。 少し考えれば、誰でも分かることだ。 だが翔太と梨沙はその失敗を認めたくなくて、あえて意識の外に押しやっていた。 と。 小さな振動音が鳴る。テーブルの上に置いて
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 翔太は舌をもつれさせそうになりながら、言い返した。「えっ、ちょっと待ってください。あれは佐伯春菜が払う約束で、契約書でもそうなってるはず……」「そんなもん通用しねえんだよ。御堂ホールディングスの法務部から直接連絡が来てんだ。こっちもあんなバカでかい企業相手に揉め事はごめんだよ。あんたが借りた金だ、あんたが払え。明日までに1千万、まずは指定の口座に振り込むんだ」 一方的に通話が切れる。ツー、ツーという電子音が、無慈悲に響いた。(ど、どういうことだよ! あの借金は春菜名義で間違いないだろうが。梨沙がそういう書類を作ったのに! 1千万なんて大金、あるわけない!) 翔太はパニックに陥って、慌ててスマホの連絡先を開く。 何度も間違えながら、ようやく梨沙の番号をタップした。 コール音が長く続いた後に、ようやく繋がる。「梨沙! 大変だ、業者が明日までに1千万払えって……」「うるさいわね。今、それどころじゃないのよ」 電話の向こうの梨沙の声は、かつてないほど冷え切っていた。 翔太の言葉を聞かず、電話はすぐに切れた。 後には呆然とした翔太だけが残された。 ◇  同じ頃、九条不動産本社ビルで。 最上階にある社長室の重たげな扉の前で、梨沙は息を整えていた。 今日は父親である九条社長に呼び出された。 父はプライベートでは娘に甘いが、仕事上の線引きははっきりとしている。 その父が社長として梨沙を呼び出した。(何事かしら) 梨沙は少々の緊張とともに、ドアを開けた。 中に入ると、広大なデスクの奥で九条社長が鋭い視線を投げかけてくる。「お父様、お呼びでしょうか」 社長は無言のまま、デスクの上にあった数枚の書類を荒々しく放り投げた。 バサッと音を立てて紙が散らばる。「梨沙、これを見ろ。御堂ホールディングスの法
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 佐伯春菜。その名前にギクリとしながら、梨沙は拾い上げた書類に目を落とした。 見覚えのある書類の債務者は、確かに『佐伯春菜』になっている。  間違いない。翔太と組んで春菜に借金を押し付けた時の書類だ。 それがどうして、御堂ホールディングスの名前で送られてきたのか。(春菜は御堂ホールディングスをスポンサーにつけたの? 確かにあの会社は、レストランポータルサイトを運営している……!) 梨沙の頭の中で最悪の予想が組み上がった。(そんな馬鹿な。春菜の悪評を流して業界から追い出してやったのに、一体どうやって?) 冷や汗が流れる中、彼女は父親に向かって必死に言い訳を始めた。「誤解です。私はただ、あの女に少し痛い目を見せようと……」「言い訳は聞かん。御堂のトップ弁護士チームが動いているんだ。お前が個人的な感情でグレーな契約を主導した証拠も完全に揃っている。会社にどれほどの損害と信用の失墜をもたらすか、分かっているのか」 父親の目は完全に冷え切っていた。「お前は関連プロジェクトの責任者から即刻外す。あのレストランへの資金援助も今日限りで凍結だ。自宅で頭を冷やせ」「お父様、お待ちください! 資金援助を止めたら、あのお店は……」 インフルエンサーを使った強引なテコ入れで客足を戻したが、その効果も切れつつある。  放置すれば最悪、倒産まで転がり落ちるかもしれなかった。 しかし九条社長は怒りの表情のまま続けた。「下がれ」 もはや取り付く島もない。 梨沙は唇を噛み、社長室を退出した。 廊下に出た途端、手元のスマートフォンが振動する。翔太からだ。  梨沙は苛立ちに任せて応答ボタンを押した。『梨沙! 大変だ、業者が俺のところに1千万払えって言ってきた!』「うるさいわね。あなたのせいで私はお父様に叱られたのよ。資金援助もストップよ。もう私に連絡してこないで」 梨沙は一方的に通話を切り、スマートフォンの電源を落とした。  保身で手一
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