บททั้งหมดของ 捨てられ料理人は諦めない: บทที่ 1 - บทที่ 10

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1:裏切りの予兆

 高級レストラン『一ノ瀬』のディナータイムは、いつも通りの賑わいを見せている。 そんな中、厨房はまさに戦場と化していた。 換気扇が回る低い音が響く中、四基のコンロからは青い炎が絶え間なく上がる。 フライパンの中で油が弾ける音が絶えず鳴り響いていた。「前菜、3番テーブルと5番テーブル、同時にアップして!」 佐伯春菜(さえき・はるな)はテキパキとした動作で、部下たちに指示を飛ばしていた。「はい、すぐに出せます!」「メインの肉、火入れはあと1分。ソースの仕上げ急いでください。付け合わせの野菜は上がってる?」「上がってます! アスパラガスのソテー、少し色がついちゃいましたけど大丈夫ですか?」「色? 見せて」 春菜は、アシスタントの若手スタッフが差し出したフライパンを覗き込んだ。 不安そうなスタッフを安心させるように微笑んでみせる。「これくらいなら許容範囲。でも次はもう少し早めに上げてくださいね。余熱で火が入るから」「すみません、気をつけます」 スタッフたちの声が飛び交う中、副料理長である春菜は、3つのフライパンを同時に操りながら全体の進行を管理していた。 彼女の視線は手元の食材だけでなく、厨房全体の動きを的確に捉えている。 指示を飛ばしつつ、手元の真鯛のポワレに白ワインを回しかける。 アルコールが飛ぶ一瞬の香りを確かめて、すぐに火から下ろした。 その絶妙なタイミングに、周囲のスタッフから思わずため息が漏れる。「さすが春菜さん。素晴らしいタイミングです」「褒めても何も出ませんよ」 春菜は少し照れたように笑った。 と。 そこに、ホールスタッフが飛び込んできた。ひどく慌てた様子である。「春菜さん! VIP席の九条様から特別オーダーが入りました!」 春菜はフライパンを保温スペースに移しながら、眉を寄せた。「特別オーダー? コースのアレルギー変更なら事前に聞いてるけど。何か追加ですか?」「違います。その、『私の舌を驚かせる、今まで食べたことのない一皿を出して』と」 その言葉を聞いて、春菜は作業の手を少しだけ止めた。 九条梨沙(くじょう・りさ)。九条不動産の社長令嬢であり、春菜の高校時代からの親友だ。 この店のオープン当初からひいきにしてくれている常連でもある。(また梨沙の気まぐれか。相変わらずね) 春菜は苦笑した。 
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 ここ数ヶ月、春菜は連日睡眠時間3時間で働いていた。 営業中の厨房を仕切りながら、営業時間外は新メニューの開発や食材の選定、原価計算の事務作業に追われている。 婚約者でありオーナーシェフである一ノ瀬翔太(いちのせ・しょうた)は、経営やメディア対応で忙しく、厨房実務はほとんど春菜に任せきりだった。 彼が厨房に立つのは、雑誌の取材用の写真撮影の時くらいだ。(まあ、私が店を守るって決めたんだし。翔太には経営に専念してもらわないと) このレストラン『一ノ瀬』をオープンするにあたり、春菜は両親亡き後の実家を担保に入れた。多額の融資の連帯保証人になっている。 誰よりも大切な婚約者のため、店を成功させたかったのだ。 だから、絶対に失敗はできないという重圧が常に肩に乗っている。 フライパンの中で、ソースが白くなっていく。 次第にとろみを帯び、サフランの黄金色が溶け込んだ。 火から下ろし、塩で味を調える。 小指の先でソースをすくい、味を確認した。 エビの濃厚な旨味と、サフランの香りが口の中に広がる。(うん。バッチリ。これなら梨沙も満足してくれる) 疲労で肩が重く張っているが、料理が形になる瞬間の達成感がそれを忘れさせてくれる。 連日の調理作業で荒れてしまった手も、今は料理人としての誇りのように感じられた。 伊勢海老とホタテの表面を強火でさっと焼き、中心はレアな状態に留める。 温めた皿に黄金色のソースを流し込み、その上に魚介を配置する。 仕上げに色鮮やかなマイクロハーブを散らした。「よし、完璧。ソースの温度もカンペキ」 春菜は手の甲で額の汗を軽く拭った。「特別オーダー、上がりました。VIP席へお願い」 提供口に皿を置いた矢先、厨房の入り口から真っ白なコックコートを着た人物が現れた。 婚約者の翔太だった。 彼は春菜の横を通り抜けて、皿を一瞥した。「ああ、これが梨沙さんの料理か。よくできているな。ちょっと借りるよ」 翔太は無造作に皿を手にした。「え?」 春菜はいぶかしげな顔で翔太を見た。「翔太、ちょっと待って。それは私が梨沙のために作ったんだけど」「だから? 俺が持っていく方が彼女も喜ぶだろう。俺はこの店の店長なんだからな」 春菜が問い返す間もなく、翔太はそのままホールへと歩き出してしまった。(ちょっと借りるって、どういうこ
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3:捨てられた心

 レストラン『一ノ瀬』の定休日の朝。 客席から離れた厨房は、稼働中の騒がしさが嘘のように音がない空間となっていた。 換気扇も火口も眠っている中、春菜はスペースの隅にある小さな事務デスクで大きく伸びをした。 手元のノートには、新しいコースのスペシャリテに関するレシピがびっしりと書き込まれている。 旬の食材をどう組み合わせるか、火入れの温度は何度が最適か。 頭の中で何度も試作と修正を繰り返し、徹夜での作業がようやく完成したのだ。 紙コップのコーヒーは冷めきってしまっていたが、春菜はそれを飲み干した。 徹夜の集中作業で凝り固まった首と肩を、ゆっくりと回す。「ん、右手が痛いなあ」 連日の調理作業のお陰で、手首は腱鞘炎になりかかっていた。 女性の力で重たい鍋を振り続けるのだ。職業病と言っていいだろう。 手首にも全身にも疲労感が漂っている。 けれど今、春菜の心にあるのは達成感だった。(このレシピがあれば、次のシーズンも戦える。翔太も喜んでくれるはず) 完成したレシピをもう一度眺めてから、春菜はノートを閉じた。 表紙に触れる指先は、度重なる水仕事とアルコール消毒で少しカサついていた。 ――と。 その時、店舗の裏口が開く音がした。 足音が2つ、厨房へと近づいてくる。 今日は休日、客ではない。さりとて仕込みのスタッフが来るには早すぎる時間だ。 そうして姿を見せたのは、オーナーシェフであり春菜の婚約者でもある翔太だった。 その後ろから、昨日VIP席に来店したばかりの九条梨沙が続いている。 2人は腕をしっかりと組んだまま、厨房の入り口で足を止めた。(定休日の朝から2人揃って、どうしたというの? しかも腕まで組んで、どういう状況?) 徹夜明けでうまく回らない頭のまま、春菜は目の前の光景をぼんやりと眺めた。 梨沙の高級な香水の匂いが、業務用の洗剤の匂いと混ざり合って鼻をついた。「翔太、おはよう。それに梨沙も。こんな朝早くにどうしたの?」 春菜が当たり障りのない挨拶を口にすると、翔太は腕を組んだまま冷ややかな視線を向けてきた。「春菜、単刀直入に言う。君との婚約は破棄する。そして今日付けで、この店を辞めてもらう」「……え?」 春菜は自分の耳を疑った。 翔太が何を言っているのか、よく理解できない。「翔太、冗談よね?」 戸惑う春菜を
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 翔太が一歩前に出る。「君はもう十分に働いた。これ以上は役立たずなんだよ。俺は梨沙さんと結婚して、九条不動産の資本でこの店をもっと大きくする。ほら、君だってこのレストランが大きくなれば嬉しいだろう?」 悪びれる様子もなく告げる翔太に、春菜は言葉を失った。 必死で厨房を回してきた。新しいメニューの開発も、休んだことはなかった。 文字通り寝る間も惜しんで働いてきた日々が、「役立たず」という言葉に塗りつぶされていく。「ちょっと待って、この店は……私が実家を担保にしたお金で、建てたものでしょう」 ようやく絞り出した春菜の言葉を無視して、翔太はデスクの上にあったノートに手を伸ばした。「待って、そのノートは私のレシピ……!」 春菜は身を乗り出すが、翔太はあっさりとノートを取り上げた。 徹夜で書き上げたばかりの、春菜の努力の結晶を。「これも店の所有物だ。いいか春菜。裏方しかできない君一人で、料理人として大成するなんて絶対に無理だ」 翔太の言葉は、鋭い刃物のように春菜に向かって放たれる。「君の料理は、俺というブランドがあって初めて価値が出る。身の程を知れ」 反論の余地を与えない事務的な口調で、翔太はさらに言葉を続ける。「店の立ち上げ資金の件だが、実家を担保にした連帯保証の借金はすべて君が負う法的手続きが済んでいる」 その言葉に、春菜の目の前が暗くなった。 春菜の両親はもういない。病気と事故で亡くなっている。 唯一受け継いだ実家の物件も、今、取り上げられてしまった。しかも借金に変えられて。 「それから、店のレシピを他で使えば秘密保持契約違反で訴えるからな。九条不動産の法務部が相手になる。大人しく引き下がるのが賢明だ」 周到に用意された言葉の数々が、春菜の退路を完全に断ち切っていく。(私の料理も、実家も、全部奪う気?) 怒りや悲しみよりも先に、相手の完璧なまでの準備に絶望感を覚える。 彼らは法的な手続きを済ませ、逃げ道をなくした上でこの場に来ているのだ。今の春菜に、それを覆す力はない。(一体いつから? いつから翔太と梨沙は私を追い詰めてようとしていたの……?) 心の中で問いかけても、答えが返ってくるはずもない。「さあ、出て行け。荷物をまとめる時間すら惜しい。お前の私物は後で適当に送ってやる」 翔太は言って、春菜のハンドバッグだけを
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5:八方ふさがり

 レストラン『一ノ瀬』の裏口から放り出されて、春菜は冷たい雨の中を歩いていた。 薄手の上着は雨水を吸って重くなり、肌に張り付いて体温を奪っていく。  濡れた前髪から滴る水滴を拭いもせず、翔太と同居していたタワーマンションのエントランスに辿り着いた。(もう翔太とは暮らせない。荷物を引き上げないと) 電子キーを持って、自動ドアを通り抜けようとする。 ――ビーッ。 すると、愛想のないエラー音が鳴った。何度か試すが、赤いランプが点滅するだけだ。 ふと視線を横にやると、ガラス張りの掲示板に見慣れない用紙が貼られていた。『本物件の管理は九条不動産に移管されました』(なるほど、そういうことね。セキュリティまで即座に変更するとは、完璧な仕事ぶりだわ) 春菜は皮肉に笑う。  住む場所さえも、レストランでの解雇宣告と同時に奪われていたのだ。 手元にあるのは財布とスマートフォンだけ。  両親は数年前に他界している。  2人が遺してくれた実家の土地と建物は、『一ノ瀬』を開業する際、九条不動産に担保として押さえられた。  家土地は奪われ、残ったのは数千万円にのぼる連帯保証の借金だけだ。 冷たい雨粒が頬を伝った。  ここは寒くて心細い。  何もかも失った心に、じわじわと絶望が入り込んでくる。 それでも春菜は首を振った。(嘆いている暇があったら、まずは雨風をしのげる場所を確保しないと) このままみじめに終わりたくない。  これからどうやって生きていけばいいのか皆目見当もつかないが、それでも彼女は料理人だ。 まだ作りたい料理があった。手にしてみたい食材もあった。  人生を諦めるには、早すぎる。 春菜はタワーマンションを後にして、駅前のネットカフェへと向かった。 ◇  ネカフェの狭い個室を、パソコンモニターの青白い光が照らしている。  春菜はキーボードの前に座り
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 彼らが奪えたのは、レシピと店と資金だけだ。 春菜は自分の手のひらを見つめた。  長年の調理を続けた手は、荒れてしまっている。  これこそが春菜の勲章だ。食材の最適な火入れを見極める感覚や、味を構築する舌の記憶は、誰にも奪えない。 たとえレシピが翔太の手に渡っても、料理とは繊細なもの。  その日の食材の鮮度や天候、気温にも影響を受ける。  春菜だからこそあの味が出せた。  部下のスタッフや翔太では、レシピを使いこなせるかどうか。 技術は絶対の財産だ。それさえあれば、どこでだってやり直せる。  そして春菜は、高い技術を持っている。 個室の薄い壁越しに、誰かの咳払いが聞こえた。  春菜はモニターの電源を切り、仮眠を取るためにリクライニングシートを倒した。 ◇    翌日。晴天の空の下、春菜は都内の某フレンチレストランの裏口に立っていた。 換気扇からは、ニンニクとオリーブオイルを炒める香ばしい匂いが漂っている。仕込みの真っ最中だ。 ここは、以前の職場で世話になった先輩シェフの店である。  春菜の技術を高く評価してくれていた1人だった。(もう一度働いて、一から出直そう。借金を返して、いつか私の店を持ちたい。誰にも奪われない私の店を) 春菜はそう考えたのだ。 裏口のドアが開き、白いコックコート姿の先輩が顔を出した。「春菜ちゃん。急にどうしたんだ?」「先輩、お忙しいところすみません。実は昨日、一ノ瀬を辞めまして。どこか厨房で人手を探しているところはないかと思いまして」 春菜が頭を下げると、シェフの顔に困惑の色が浮かんだ。  彼は辺りを気にするように視線を泳がせる。「辞めたって……君、店の資金を横領して解雇されたって話じゃないか」「え?」 春菜は顔を上げた。「俺も今朝、同業者から聞いたばかりだけど。九条不動産の令嬢がスポンサーに入って、過去の帳簿を精査したら
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 アスファルトの地面に靴音が響く。 婚約者として愛し合っていたはずの翔太と、親友だったはずの梨沙。  2人の裏切りは信じたくなかった。 でももう、信じざるを得ない。  ここまではっきりと悪意をぶつけられては、疑う余地がなかった。 ◇  その後も、ツテを頼って数軒のレストランやビストロを回った。  結果はすべて同じだった。  面会すら断られる店もあった。 巧妙に捏造された横領の悪評は、想像以上に早く業界に浸透していたのである。 午後の日差しがアスファルトを熱し、春菜の体力を奪っていく。  足の裏に豆ができかけているのか、一歩踏み出すごとに小さな痛みが走った。(高級レストランのネットワークは狭い。この噂が回っている以上、まともな店での再就職は絶望的ね) 春菜はできるだけ冷静に、次の一手を考える。  業界の端の方、噂の届かない大衆食堂や弁当屋ならどうだろうか。  いかに巨大資本の九条不動産とはいえ、全ての飲食店を網羅しているわけではない。 考えながら歩き回っていると、春菜は気がつけば繁華街の大きな交差点に辿り着いていた。 行き交う人々の波に紛れ、赤信号で足を止める。  周囲の喧騒の中、頭上の大型街頭ビジョンから、やけに明るいアナウンサーの声が降ってきた。『続いてのニュースです。若き天才シェフ・一ノ瀬翔太氏が、九条不動産の令嬢・九条梨沙さんと婚約したことを発表しました!』 春菜は顔を上げた。 ビジョンの巨大な画面には、記者会見のフラッシュを浴びる翔太と梨沙の姿が映し出されている。   翔太は仕立ての良いスーツを着こなし、梨沙は彼にぴったりと寄り添って幸せそうな笑みを浮かべていた。『さらに一ノ瀬シェフは、自身がオーナーを務めるレストランの拡大移転を発表。同時に、待望の新作コースのスペシャリテを公開しました』 画面が切り替わり、一皿の料理が大写しになる。 伊勢海老とホタテのポワレ。
last updateปรับปรุงล่าสุด : 2026-06-12
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8:新しい一歩

 街頭ビジョンの明るい光を背に、春菜は夕暮れの繁華街を歩き出した。 目指すのは、九条不動産の資本が入っていなさそうな個人経営の飲食店や、大衆居酒屋だ。 表通りから一本裏に入り、赤提灯や手書きのメニューボードを出している店を片っ端から当たっていく。「すいません、求人の張り紙を見たんですけど。調理師です」 ある居酒屋で、春菜は店主に声を掛けた。「あー、お姉さん。ちょっとうちの雰囲気とは合わないかな。ごめんね」 けれど恰幅の良い店長に苦笑いされて、春菜は頭を下げて店を出る。(雰囲気、ね。フレンチの立ち振舞いが染み付いてるせいかしら。それとも、単に疲れた顔をしているから?) 次の店はカウンターだけの小さなビストロだった。「働かせてほしいって? うちは今、ホールしか募集してないよ。厨房は俺一人で十分だ」 春菜は食い下がる。「ホールでも構いません。料理の勉強にもなりますし」「いや、いいよ。君みたいなちゃんとした経歴の人が来ると、逆にやりづらい。それに、なんかワケありっぽいしね」 鋭い視線で見定められて、春菜は返す言葉を持たなかった。 実際にワケありの身だ。事情を深く聞かれれば、嘘をつくか口をつぐむしかない。 結局、5軒の店を回ってすべて断られてしまった。 夜が深まるにつれ、飲食店の活気は増していく。 美味しそうな肉を焼く匂いや、酒とニンニクの混ざった香りが鼻をくすぐる。 昨日の昼過ぎにまかないを食べて以来、ろくに食事をとっていない。夕食を食べるタイミングも逃してしまった。 空腹はそろそろ限界で、足がふらつく。 靴の中で足の指がじんじんと痛む。歩き回った疲労がピークに達していた。 街灯の光の下で財布を開いた。小銭と1万円札が1枚、1000円札が数枚だけ。(ビジネスホテルに泊まるだけのお金はないわ。カプセルホテルも厳しい。となると、選択肢は1つだけ) 春菜はため息をつき、駅前の雑居ビルにあるネットカフェの看板を見上げた。
last updateปรับปรุงล่าสุด : 2026-06-12
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 ディスプレイには、見知らぬ市外局番が表示されている。  通話ボタンを押す前に切れてしまった。画面上部に留守番電話のアイコンが点灯する。  イヤホンを耳に押し込み、再生ボタンをタップした。『もしもし。こちら、中央債権回収センターのヤマダと申します。山岡春菜様のお電話でよろしいでしょうか』 抑揚のない、事務的な男の声だった。『ご実家の家屋と土地を担保とされましたご融資の件で、ご連絡いたしました。主債務者である株式会社一ノ瀬からの支払いが滞っておりまして、連帯保証人である春菜様に返済の義務が生じております。つきましては、至急折り返しのご連絡を……』 春菜はスマートフォンの画面を伏せた。 背筋に鳥肌が立つ感覚がする。(こんなに早い時間から、電話を掛けてよこすなんて) 両親が遺してくれた、思い出の詰まった実家。家族の温かな記憶が残る場所だ。 それを、翔太の店のために担保に入れた。  あの時は婚約したばかりの翔太を信じ切っていた。『この店を必ず大きくして、2人で栄光を掴もう』 彼の言葉を信じて、2人の未来のために実家を抵当に入れた。 現在の負債額は数千万円にのぼる。(数千万円……。順当にどこかの厨房で雇われて、キャリアを積んだところで、一生かかって返せるかどうか) 途方もない金額に、胃が重くなる。  薄暗い個室の中で、翔太の冷たい声が脳裏に蘇った。『君一人で大成するなんて絶対に無理だ』『君の料理は、僕というブランドがあって初めて価値が出る。身の程を知れ』 あの見下すような目は、今でも春菜の心に突き刺さっている。  梨沙の勝ち誇った笑みは、目に焼き付いている。 心細さが、じわじわと胸の奥に広がっていく。頼る人は誰もいない。  家も、仕事も、肩書きも何もない。奪われてしまった。  残っているのは借金だけだ。 春菜はブランケットを握りしめ、顔をうつむかせた。  視界に入ったのは、自分の両手だった。 長年の仕込みでついた小さなタコがある。  オーブンで火傷した痕もある。  包丁を握り続けたことで、皮膚は厚くなっている。 お世辞にも美しいとは言えない手だ。  梨沙の社長令嬢として整えられた指先と比べれば、いっそ笑ってしまうほどの違いがある。 しかし、これこそが春菜の勲章だった。  この手は、ミリ単位の厚さで食材を切り分け
last updateปรับปรุงล่าสุด : 2026-06-13
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 翌日の午前10時。春菜は都心から電車で数駅離れた、下町の商店街を歩いていた。 駅前のロータリーを抜けると道幅が狭くなり、個人経営の八百屋や精肉店が並んでいる。 アスファルトは舗装のひび割れて、その上を自転車がベルを鳴らしながら通り過ぎていく。 九条不動産のような巨大資本が入り込む隙間のない、昔ながらの生活の場だ。 ぐぅぅ、と春菜のお腹が遠慮のない音を立てた。 一昨日の昼のまかないから、口にしたのはおにぎり1個とネットカフェのコーンスープだけだ。夕食も朝食も抜いている。(エネルギー不足で頭の回転が落ちてきたわ。でも、お金は節約しないと) 空腹で足元がふらついた。 春菜は意識を逸らすため、両側の店に注意を向けた。 ショーウィンドウには、庶民的な惣菜が並んでいる。 魚屋の店先に並ぶアジの目のは、思いの外輝いていた。(キャビアやトリュフなんて高級食材がなくても、料理の本質は変わらない。温度の緻密な管理と、塩分濃度の正確な計算。食材の良さを最大限に引き出す腕があれば、人は笑顔にできる) 商店街の店からは、コロッケを揚げるラードの匂いや、醤油の焦げる香ばしい匂いが漂ってくる。 春菜は五感をフルに使って街の空気を感じ取った。 やがて商店街の中心を抜けて、少し外れたエリアに足を踏み入れた。 シャッターの閉まった店舗が目立ち始め、人通りもまばらになる。 その一角に、一軒の古びた定食屋があった。 店の上部にあるプラスチックの看板には、『みやこ食堂』と色褪せた文字が書かれている。 入り口には紺色の暖簾がかかっているが、端が少しほつれていた。 ガラス張りの引き戸に、セロハンテープで無造作に貼られた紙がある。『スタッフ募集・委細面談』 時給も、労働時間も書かれていない、あまりにも大雑把な求人票だ。 外から店内を覗き込んでみる。 壁に沿ってカウンター席があり、中央にパイプ椅子のテーブル席がいくつか配置されている。 時刻はもうすぐお昼時だとい
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