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5:八方ふさがり

last update 公開日: 2026-06-11 11:15:34

 レストラン『一ノ瀬』の裏口から放り出されて、春菜は冷たい雨の中を歩いていた。

 薄手の上着は雨水を吸って重くなり、肌に張り付いて体温を奪っていく。

 濡れた前髪から滴る水滴を拭いもせず、翔太と同居していたタワーマンションのエントランスに辿り着いた。

(もう翔太とは暮らせない。荷物を引き上げないと)

 電子キーを持って、自動ドアを通り抜けようとする。

 ――ビーッ。

 すると、愛想のないエラー音が鳴った。何度か試すが、赤いランプが点滅するだけだ。

 ふと視線を横にやると、ガラス張りの掲示板に見慣れない用紙が貼られていた。

『本物件の管理は九条不動産に移管されました』

(なんてこと。セキュリティまですぐ変更するなんて、徹底しているわ)

 春菜は皮肉に笑う。

 住む場所さえも、レストランでの解雇宣告と同時に奪われていたのだ。

 手元にあるのは財布とスマートフォンだけ。

 両親は数年前に他界している。

 2人が遺してくれた実家の土地と建物は、『一ノ瀬』を開業する際、九条不動産に担保として押さえられた。

 家土地は奪われ、残ったのは数千万円にのぼる連帯保証の借金だけだ。

 冷たい雨粒が頬を伝った。

 ここは寒くて心細い。

 何もかも失った心に、じわじわと絶望が入り込んでくる。

 それでも春菜は首を振った。

(泣いている暇があったら、まずは雨風をしのげる場所を確保しないと)

 このままみじめに終わりたくない。

 これからどうやって生きていけばいいのか皆目見当もつかないが、それでも彼女は料理人だ。

 まだ作りたい料理があった。手にしてみたい食材もあった。

 人生を諦めるには、早すぎる。

 春菜はタワーマンションを後にして、駅前のネットカフェへと向かった。

 ネカフェの狭い個室を、パソコンモニターの青白い光が照らしている。

 春菜はキーボードの前に座り、紙コップを手に取った。中身は無料ドリンクサーバーで淹れた、インスタントのコーンスープだ。

 一口すする。強い塩気と、粉末特有の人工的な甘みが鼻に抜けた。

 うま味調味料の雑味が舌にまとわりつく。

 春菜はプロの料理人だ。

 普段の彼女であれば、こんなものは絶対に口にしなかった。

(原価は一杯10円未満ってところね。お湯の温度は70度前後。でも、今の私の塩分とエネルギー補給には最適だわ)

 事務的に味覚の分析をして、紙コップをデスクに置く。

 スマホの画面に表示された銀行口座の残高は数千円。財布の中の現金を合わせても2万円に届かない。

 レストランの副店主としての給与は、全て借金返済に充てていた。

 翔太と同居していたので、最低限の衣食住の心配はなかったからだ。

 けれどそれは、全て反故になってしまった。

 春菜は文字通り、身一つで放り出されたのだ。

(あの2人にやり返す方法はない? せめて借金を取り下げるには……)

 法的な対抗手段を検索してみる。

 けれど結果は芳しくなかった。

 九条不動産という巨大な資本と法務部を相手に、資金も証拠もない現状ですぐに打てる手はなかった。

(駄目だ。どうしようもない……。何もかも奪われてしまった。私はこれから借金を背負って生きていかないといけないの?)

 春菜は歯を食いしばる。

 食欲などなかったけれど、紙コップの底に残ったスープを無理に飲み干した。

「それでも……奪えないものはある」

 彼女は小さく呟いた。

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  • 捨てられ料理人は諦めない   93

     春菜は湯気の立つ皿を、客席に座った礼司の前に置いた。「ああ、いただこう」 礼司はナイフとフォークを手に取った。 ナイフをハンバーグの中心に入れる。力を入れる必要はなかった。刃が沈み込むと同時に、透明な肉汁が堰を切ったようにあふれ出し、ソースと混ざり合う。 礼司は一切れをフォークに刺し、口に運んだ。  春菜は瞬きも忘れて彼の顔を見つめる。 礼司の顎が動き、咀嚼する。  彼の鋭い目元が、わずかに見開かれた。 口の中に広がるのは、粗挽き肉の野性味あふれる旨味。  それを包み込むのは、赤ワインの深いコクと、どこか懐かしさを感じさせるトマトの酸味だ。  複雑な工程を経て作られたソースが、大衆的なハンバーグという料理の次元を一つ上に引き上げている。 決して気取らず気さくな味。  それでいて素人はもちろん、未熟な料理人では絶対に出せない高度な味。 一見すれば矛盾する2つの要素が、高度な次元で見事に融合している。(御堂社長、何も言わない。自信作なんだけど、ダメだったのかな……) 春菜はだんだん不安になった。 礼司のフォークが再び動き、2口目、3口目と連続して口へ運ばれる。カチャ、というナイフと皿が触れる音が響く。  彼は結局、最後まで一言も発することなく、皿の上のハンバーグを完食した。 ナプキンで口元を拭い、正面から春菜を見る。 その瞳の奥には、紛れもない熱が宿っていた。  言葉には出さないが、彼の視線の変化が強く物語っている。 ――春菜の才能への深い感嘆と、彼女の作り出す料理への強い執着を。「これが胃袋を掴まれるという感覚か……」 彼は小さく呟いて、微かに苦笑した。 誰かの強い影響を受けるなど、以前の礼司であれば嫌悪したはずだ。  けれど今は不快ではない。  むしろもっと彼女を知りたい、彼女の作る様々な料理を食べてみたいという欲を抑えるのに苦労した。「何かおっしゃいましたか?」

  • 捨てられ料理人は諦めない   92

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  • 捨てられ料理人は諦めない   90

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  • 捨てられ料理人は諦めない   88

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  • 捨てられ料理人は諦めない   4

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  • 捨てられ料理人は諦めない   3:捨てられた心

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