LOGINレストラン『一ノ瀬』の裏口から放り出されて、春菜は冷たい雨の中を歩いていた。
薄手の上着は雨水を吸って重くなり、肌に張り付いて体温を奪っていく。
濡れた前髪から滴る水滴を拭いもせず、翔太と同居していたタワーマンションのエントランスに辿り着いた。(もう翔太とは暮らせない。荷物を引き上げないと)
電子キーを持って、自動ドアを通り抜けようとする。
――ビーッ。
すると、愛想のないエラー音が鳴った。何度か試すが、赤いランプが点滅するだけだ。
ふと視線を横にやると、ガラス張りの掲示板に見慣れない用紙が貼られていた。
『本物件の管理は九条不動産に移管されました』
(なんてこと。セキュリティまですぐ変更するなんて、徹底しているわ)
春菜は皮肉に笑う。
住む場所さえも、レストランでの解雇宣告と同時に奪われていたのだ。手元にあるのは財布とスマートフォンだけ。
両親は数年前に他界している。 2人が遺してくれた実家の土地と建物は、『一ノ瀬』を開業する際、九条不動産に担保として押さえられた。 家土地は奪われ、残ったのは数千万円にのぼる連帯保証の借金だけだ。冷たい雨粒が頬を伝った。
ここは寒くて心細い。 何もかも失った心に、じわじわと絶望が入り込んでくる。それでも春菜は首を振った。
(泣いている暇があったら、まずは雨風をしのげる場所を確保しないと)
このままみじめに終わりたくない。
これからどうやって生きていけばいいのか皆目見当もつかないが、それでも彼女は料理人だ。まだ作りたい料理があった。手にしてみたい食材もあった。
人生を諦めるには、早すぎる。春菜はタワーマンションを後にして、駅前のネットカフェへと向かった。
◇
ネカフェの狭い個室を、パソコンモニターの青白い光が照らしている。
春菜はキーボードの前に座り、紙コップを手に取った。中身は無料ドリンクサーバーで淹れた、インスタントのコーンスープだ。一口すする。強い塩気と、粉末特有の人工的な甘みが鼻に抜けた。
うま味調味料の雑味が舌にまとわりつく。春菜はプロの料理人だ。
普段の彼女であれば、こんなものは絶対に口にしなかった。
(原価は一杯10円未満ってところね。お湯の温度は70度前後。でも、今の私の塩分とエネルギー補給には最適だわ)
事務的に味覚の分析をして、紙コップをデスクに置く。
スマホの画面に表示された銀行口座の残高は数千円。財布の中の現金を合わせても2万円に届かない。
レストランの副店主としての給与は、全て借金返済に充てていた。 翔太と同居していたので、最低限の衣食住の心配はなかったからだ。けれどそれは、全て反故になってしまった。
春菜は文字通り、身一つで放り出されたのだ。(あの2人にやり返す方法はない? せめて借金を取り下げるには……)
法的な対抗手段を検索してみる。
けれど結果は芳しくなかった。九条不動産という巨大な資本と法務部を相手に、資金も証拠もない現状ですぐに打てる手はなかった。
(駄目だ。どうしようもない……。何もかも奪われてしまった。私はこれから借金を背負って生きていかないといけないの?)
春菜は歯を食いしばる。
食欲などなかったけれど、紙コップの底に残ったスープを無理に飲み干した。「それでも……奪えないものはある」
彼女は小さく呟いた。
春菜は湯気の立つ皿を、客席に座った礼司の前に置いた。「ああ、いただこう」 礼司はナイフとフォークを手に取った。 ナイフをハンバーグの中心に入れる。力を入れる必要はなかった。刃が沈み込むと同時に、透明な肉汁が堰を切ったようにあふれ出し、ソースと混ざり合う。 礼司は一切れをフォークに刺し、口に運んだ。 春菜は瞬きも忘れて彼の顔を見つめる。 礼司の顎が動き、咀嚼する。 彼の鋭い目元が、わずかに見開かれた。 口の中に広がるのは、粗挽き肉の野性味あふれる旨味。 それを包み込むのは、赤ワインの深いコクと、どこか懐かしさを感じさせるトマトの酸味だ。 複雑な工程を経て作られたソースが、大衆的なハンバーグという料理の次元を一つ上に引き上げている。 決して気取らず気さくな味。 それでいて素人はもちろん、未熟な料理人では絶対に出せない高度な味。 一見すれば矛盾する2つの要素が、高度な次元で見事に融合している。(御堂社長、何も言わない。自信作なんだけど、ダメだったのかな……) 春菜はだんだん不安になった。 礼司のフォークが再び動き、2口目、3口目と連続して口へ運ばれる。カチャ、というナイフと皿が触れる音が響く。 彼は結局、最後まで一言も発することなく、皿の上のハンバーグを完食した。 ナプキンで口元を拭い、正面から春菜を見る。 その瞳の奥には、紛れもない熱が宿っていた。 言葉には出さないが、彼の視線の変化が強く物語っている。 ――春菜の才能への深い感嘆と、彼女の作り出す料理への強い執着を。「これが胃袋を掴まれるという感覚か……」 彼は小さく呟いて、微かに苦笑した。 誰かの強い影響を受けるなど、以前の礼司であれば嫌悪したはずだ。 けれど今は不快ではない。 むしろもっと彼女を知りたい、彼女の作る様々な料理を食べてみたいという欲を抑えるのに苦労した。「何かおっしゃいましたか?」
これまで働いてきた店では、営業後の疲れた体で冷蔵庫の在庫を数え、発注書を手書きする作業が日常だった。 計算ミスがあれば翌日の営業に支障が出る。 その重圧から解放されるのだ。 春菜は思わず微笑んだ。「これなら、私は料理の味を極限まで高めることだけに集中できます」 礼司はしばし春菜の笑顔を眺め、やがて我に返ったように目を逸らした。「その通りだ。さあ、見せてもらおうか。君の理想とする洋食を」 春菜は持参したカバンから、アイロンの掛かった真っ白なコックコートとエプロンを取り出した。 袖を通し、腰の前で紐をきつく結ぶ。「まずは、看板メニューとなるハンバーグの試作を行います」 春菜は冷蔵庫から、あらかじめ用意してもらっていた合い挽き肉のブロックを取り出した。 ボウルに肉を移し、氷水でボウルの底を冷やしながらこね始める。 肉の脂肪を溶かさないように、手早く、かつ全体が均一に粘り気を持つように指先を動かした。「玉ねぎは飴色になるまで炒めたものを、一晩寝かせてあります。それにナツメグ、黒胡椒、少量の岩塩」 春菜は説明しながら材料を混ぜた。 ハンバーグ1つ分を手に取る。 パンパンと、両手でキャッチボールをするようにして肉の空気を抜く音が厨房に響く。 フライパンをコンロに火にかけ、油を引く。 肉種を投入すると、ジューという甲高い音とともに、肉の焼ける香ばしい匂いが立ち上った。「ソースは、フレンチの技法を応用します」 春菜は隣のコンロで小鍋を温める。「牛骨や香味野菜から取ったフォン・ド・ヴォーをベースに、赤ワインを煮詰めて酸味を飛ばし、ケチャップとウスターソースを独自の配合で加えます。高級感のある奥深い味わいと、大衆的な親しみやすさを両立させるソースです」 赤ワインのアルコールが飛ぶ甘い匂いが、肉の脂の匂いと混ざり合う。 礼司は腕を組んだまま、口出しを一切せずに春菜の作業を見つめていた。 手際よく作業する彼女の動きを見逃す
「大衆的な洋食店に合うよう、外装と内装を急ピッチで手配した。中を見てくれ」 礼司が鍵を開けて中に入る。 客席は温かみのあるオレンジ色のペンダントライトが吊るされて、木目を活かしたテーブルがゆったりと配置されていた。 春菜はテーブルに手を置いてみた。 木の温もりが感じられる、質の良い木材が使われている。(私が思い描いていた通りの、誰もが気軽に入れるお店だ)「奥が厨房だ」 礼司の後に続き、ホールの奥へ進む。 スイングドアを押し開けると、そこは客席の温かな雰囲気とは打って変わり、ステンレスが銀色に光る空間が広がっていた。「すごい……」 春菜は思わず感嘆の声を漏らした。 ピカピカに磨き上げられたステンレスの調理台が鎮座している。 壁面には最新型のスチームコンベクションオーブンが2台並んで、その横には大型の真空包装機が設置されている。 食材を保管する業務用冷蔵庫には、デジタルで温度がミリ単位で表示されていた。「客席は大衆的だが、厨房の機能は一流店以上のものを揃えた。動線も君の身長と歩幅に合わせて設計し直してある」 春菜は調理台の前に立ってみた。 右手を伸ばせばコンロの火力調整ダイヤルに届き、振り返ればすぐに冷蔵庫の取っ手がある。(無駄な動きが一切必要ない。ここでなら、自分のベストのパフォーマンスが出せる) 深い満足感と興奮が、足元から湧き上がってくるのを感じた。「こっちへ来てくれ」 礼司は厨房の壁面に埋め込まれた、薄型の大型タブレット端末の前に春菜を呼んだ。「これが、我が社が開発したAI店舗管理システムだ」 画面には、カレンダー、天気予報、さらにはグラフが表示されている。「AIが過去のデータ、本日の天候、近隣のイベント情報を分析し、来店予測客数を算出する」 画面をタップすると、数字が瞬時に切り替わった。「例えば今日は晴れで、近隣の公園でフリーマーケットがある。ファミリー層の来店が増えると予
それから数日後。 春菜はビストロ『シエル』の仕事を退職して、新しいスタートを切っていた。 真壁は別れを惜しんでくれて、感謝と激励の気持ちを伝えてくれた。『春菜さんほどの料理の腕と経営のセンスがあれば、どこへ行っても大丈夫。ましてや御堂ホールディングスという大企業がスポンサーなんだ。大成功間違いなしだよ。お店がオープンしたら、僕も食べに行かせてくれ』『ええ、もちろんです。正式にオープンしたら、ご招待しますよ』『それは嬉しいな。僕も負けていられないね。デリの販売とディナー営業、どちらも頑張るよ』 別れ際の言葉は、今でも春菜の耳と心に残っている。 シエルで彼女は、小さいお店ならではの経営と仕込みを学んだ。 客席が少ないとは言え、オーナーシェフ1人で店を回すためには効率的に動かなければならない。 限られた予算で納得できる食材を見つけ出し、妥協せずに料理の腕を振るう。 また、接客もオーナーシェフの仕事だ。 少ない客席だからこそ客との距離が近く、人間同士の付き合いができる。 真壁はただ料理を提供するシェフではなく、店主として心から客をもてなしていた。 かつて春菜が働いていたレストラン『一ノ瀬』では、行われていなかったことだ。(みやこ食堂も、赤狸も、シエルも。どれも素敵なお店だった。たくさん教えてもらったわ) これまでの経験を思い出すと、心が温かくなる。 そして今、春菜が地下鉄の駅から地上に出ると、夏の風が頬を撫でた。 駅から徒歩10分程度。 高層ビルが立ち並ぶオフィス街と、生活感のある住宅街のちょうど境界線。 アーケードが続く商店街の入り口に、春菜は立っていた。「へいらっしゃい! 今日のトマトは甘いよ!」 八百屋の店主が威勢のいい声を張り上げている。「お肉屋さんのコロッケ、2つちょうだい」「はいよ、揚げたてだから気をつけてね」 買い物袋を提げた主婦と肉屋の店主が、笑顔でやり取りをしている。 周
佐伯春菜。その名前にギクリとしながら、梨沙は拾い上げた書類に目を落とした。 見覚えのある書類の債務者は、確かに『佐伯春菜』になっている。 間違いない。翔太と組んで春菜に借金を押し付けた時の書類だ。 それがどうして、御堂ホールディングスの名前で送られてきたのか。(春菜は御堂ホールディングスをスポンサーにつけたの? 確かにあの会社は、レストランポータルサイトを運営している……!) 梨沙の頭の中で最悪の予想が組み上がった。(そんな馬鹿な。春菜の悪評を流して業界から追い出してやったのに、一体どうやって?) 冷や汗が流れる中、彼女は父親に向かって必死に言い訳を始めた。「誤解です。私はただ、あの女に少し痛い目を見せようと……」「言い訳は聞かん。御堂のトップ弁護士チームが動いているんだ。お前が個人的な感情でグレーな契約を主導した証拠も完全に揃っている。会社にどれほどの損害と信用の失墜をもたらすか、分かっているのか」 父親の目は完全に冷え切っていた。「お前は関連プロジェクトの責任者から即刻外す。あのレストランへの資金援助も今日限りで凍結だ。自宅で頭を冷やせ」「お父様、お待ちください! 資金援助を止めたら、あのお店は……」 インフルエンサーを使った強引なテコ入れで客足を戻したが、その効果も切れつつある。 放置すれば最悪、倒産まで転がり落ちるかもしれなかった。 しかし九条社長は怒りの表情のまま続けた。「下がれ」 もはや取り付く島もない。 梨沙は唇を噛み、社長室を退出した。 廊下に出た途端、手元のスマートフォンが振動する。翔太からだ。 梨沙は苛立ちに任せて応答ボタンを押した。『梨沙! 大変だ、業者が俺のところに1千万払えって言ってきた!』「うるさいわね。あなたのせいで私はお父様に叱られたのよ。資金援助もストップよ。もう私に連絡してこないで」 梨沙は一方的に通話を切り、スマートフォンの電源を落とした。 保身で手一
翔太は舌をもつれさせそうになりながら、言い返した。「えっ、ちょっと待ってください。あれは佐伯春菜が払う約束で、契約書でもそうなってるはず……」「そんなもん通用しねえんだよ。御堂ホールディングスの法務部から直接連絡が来てんだ。こっちもあんなバカでかい企業相手に揉め事はごめんだよ。あんたが借りた金だ、あんたが払え。明日までに1千万、まずは指定の口座に振り込むんだ」 一方的に通話が切れる。ツー、ツーという電子音が、無慈悲に響いた。(ど、どういうことだよ! あの借金は春菜名義で間違いないだろうが。梨沙がそういう書類を作ったのに! 1千万なんて大金、あるわけない!) 翔太はパニックに陥って、慌ててスマホの連絡先を開く。 何度も間違えながら、ようやく梨沙の番号をタップした。 コール音が長く続いた後に、ようやく繋がる。「梨沙! 大変だ、業者が明日までに1千万払えって……」「うるさいわね。今、それどころじゃないのよ」 電話の向こうの梨沙の声は、かつてないほど冷え切っていた。 翔太の言葉を聞かず、電話はすぐに切れた。 後には呆然とした翔太だけが残された。◇ 同じ頃、九条不動産本社ビルで。 最上階にある社長室の重たげな扉の前で、梨沙は息を整えていた。 今日は父親である九条社長に呼び出された。 父はプライベートでは娘に甘いが、仕事上の線引きははっきりとしている。 その父が社長として梨沙を呼び出した。(何事かしら) 梨沙は少々の緊張とともに、ドアを開けた。 中に入ると、広大なデスクの奥で九条社長が鋭い視線を投げかけてくる。「お父様、お呼びでしょうか」 社長は無言のまま、デスクの上にあった数枚の書類を荒々しく放り投げた。 バサッと音を立てて紙が散らばる。「梨沙、これを見ろ。御堂ホールディングスの法
高級レストラン『一ノ瀬』のディナータイムは、いつも通りの賑わいを見せている。 そんな中、厨房はまさに戦場と化していた。 換気扇が回る低い音が響く中、四基のコンロからは青い炎が絶え間なく上がる。 フライパンの中で油が弾ける音が絶えず鳴り響いていた。「前菜、3番テーブルと5番テーブル、同時にアップして!」 佐伯春菜(さえき・はるな)はテキパキとした動作で、部下たちに指示を飛ばしていた。「はい、すぐに出せます!」「メインの肉、火入れはあと1分。ソースの仕上げ急いでください。付け合わせの野菜は上がってる?」「上がってます! アスパラガスのソテー、少し色がついちゃいましたけど大丈夫で
アスファルトの地面に靴音が響く。 婚約者として愛し合っていたはずの翔太と、親友だったはずの梨沙。 2人の裏切りは信じたくなかった。 でももう、信じざるを得ない。 ここまではっきりと悪意をぶつけられては、疑う余地がなかった。◇ その後も、ツテを頼って数軒のレストランやビストロを回った。 結果はすべて同じだった。 面会すら断られる店もあった。 巧妙に捏造された横領の悪評は、想像以上に早く業界に浸透していたので
彼らが奪えたのは、レシピと店と資金だけだ。 春菜は自分の手のひらを見つめた。 長年の調理を続けた手は、荒れてしまっている。 これこそが春菜の勲章だ。食材の最適な火入れを見極める感覚や、味を構築する舌の記憶は、誰にも奪えない。 たとえレシピが翔太の手に渡っても、料理とは繊細なもの。 その日の食材の鮮度や天候、気温にも影響を受ける。 春菜だからこそあの味が出せた。 部下のスタッフや翔太では、レシピを使いこなせるかどうか。 技術は絶対の財産だ。それさえあれば、どこでだってやり直せる。
翔太が一歩前に出る。「君はもう十分に働いた。これ以上は役立たずなんだよ。俺は梨沙さんと結婚して、九条不動産の資本でこの店をもっと大きくする。ほら、君だってこのレストランが大きくなれば嬉しいだろう?」 悪びれる様子もなく告げる翔太に、春菜は言葉を失った。 必死で厨房を回してきた。新しいメニューの開発も、休んだことはなかった。 文字通り寝る間も惜しんで働いてきた日々が、「役立たず」という言葉に塗りつぶされていく。「ちょっと待って、この店は……私が実家を担保にしたお金で、建てたものでしょう」 ようやく絞り出した春菜の言葉を無視して、翔太はデスクの上にあったノートに手を伸ばした。「待