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last update Tanggal publikasi: 2026-06-10 11:12:39

 翔太が一歩前に出る。

「君はもう十分に働いた。これ以上は役立たずなんだよ。俺は梨沙さんと結婚して、九条不動産の資本でこの店をもっと大きくする。ほら、君だってこのレストランが大きくなれば嬉しいだろう?」

 悪びれる様子もなく告げる翔太に、春菜は言葉を失った。

 必死で厨房を回してきた。新しいメニューの開発も、休んだことはなかった。

 文字通り寝る間も惜しんで働いてきた日々が、「役立たず」という言葉に塗りつぶされていく。

「ちょっと待って、この店は……私が実家を担保にしたお金で、建てたものでしょう」

 ようやく絞り出した春菜の言葉を無視して、翔太はデスクの上にあったノートに手を伸ばした。

「待って、そのノートは私のレシピ……!」

 春菜は身を乗り出すが、翔太はあっさりとノートを取り上げた。

 徹夜で書き上げたばかりの、春菜の努力の結晶を。

「これも店の所有物だ。いいか春菜。裏方しかできない君一人で、料理人として大成するなんて絶対に無理だ」

 翔太の言葉は、鋭い刃物のように春菜に向かって放たれる。

「君の料理は、俺というブランドがあって初めて価値が出る。身の程を知れ」

 反論の余地を与えない事務的な口調で、翔太はさらに言葉を続ける。

「店の立ち上げ資金の件だが、実家を担保にした連帯保証の借金はすべて君が負う法的手続きが済んでいる」

 その言葉に、春菜の目の前が暗くなった。

 春菜の両親はもういない。病気と事故で亡くなっている。

 唯一受け継いだ実家の物件も、今、取り上げられてしまった。しかも借金に変えられて。

「それから、店のレシピを他で使えば秘密保持契約違反で訴えるからな。九条不動産の法務部が相手になる。大人しく引き下がるのが賢明だ」

 周到に用意された言葉の数々が、春菜の退路を完全に断ち切っていく。

(私の料理も、実家も、全部奪う気?)

 怒りや悲しみよりも先に、相手の完璧なまでの準備に絶望感を覚える。

 彼らは法的な手続きを済ませ、逃げ道をなくした上でこの場に来ているのだ。今の春菜に、それを覆す力はない。

(一体いつから? いつから翔太と梨沙は私を追い詰めてようとしていたの……?)

 心の中で問いかけても、答えが返ってくるはずもない。

「さあ、出て行け。荷物をまとめる時間すら惜しい。お前の私物は後で適当に送ってやる」

 翔太は言って、春菜のハンドバッグだけを押し付けた。財布とスマートフォン程度しか入っていない、小さなバッグだった。

 それ以上言葉を交わすことも許されず、有無を言わさずに裏口へと押しやられる。

 重たい金属製のドアが、容赦ない音を立てて閉められた。

 ガシャン。鍵がかかる乾いた音が、冷たく響く。

 春菜は裏路地に取り残された。

 外は灰色の雲が広がり、冷たい雨が降り始めていた。

 頬を打つ雨粒の感覚だけが、今の状況が現実であることを告げている。

 薄手の上着しか着ていない体から、少しずつ熱が奪われていく。

 春菜は閉ざされたドアの前に立ち尽くした。

 たった今まで自分の居場所だった場所が、今は強固な壁となって彼女を拒絶している。

 手元には借金が残り、料理人としてのレシピも奪われ、職場も失った。

 持っているのは、わずかな現金が入った財布とスマートフォンだけだ。

 路地裏のアスファルトが雨に濡れて、土埃のような匂いを漂わせている。

 どこからか車の走行音が聞こえるだけで、誰も彼女に手を差し伸べてはくれない。

 春菜はのろのろと歩き出した。

 雨は次第に強さを増し、彼女の肩を濡らしていく。

 視線を落としたまま、あてもなく歩を進めた。

 今はまだ、何が起こったのか理解しきれていない。

 ただ冷たい雨を避けられる場所を探すという行動だけが、彼女を前へと動かしていた。

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  • 捨てられ料理人は諦めない   5:八方ふさがり

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