Masukアスファルトの地面に靴音が響く。
婚約者として愛し合っていたはずの翔太と、親友だったはずの梨沙。
2人の裏切りは信じたくなかった。でももう、信じざるを得ない。
ここまではっきりと悪意をぶつけられては、疑う余地がなかった。◇
その後も、ツテを頼って数軒のレストランやビストロを回った。
結果はすべて同じだった。 面会すら断られる店もあった。巧妙に捏造された横領の悪評は、想像以上に早く業界に浸透していたのである。
午後の日差しがアスファルトを熱し、春菜の体力を奪っていく。
足の裏に豆ができかけているのか、一歩踏み出すごとに小さな痛みが走った。(高級レストランのネットワークは狭い。この噂が回っている以上、まともな店での再就職は絶望的ね)
春菜はできるだけ冷静に、次の一手を考える。
業界の端の方、噂の届かない大衆食堂や弁当屋ならどうだろうか。 いかに巨大資本の九条不動産とはいえ、全ての飲食店を網羅しているわけではない。考えながら歩き回っていると、春菜は気がつけば繁華街の大きな交差点に辿り着いていた。
行き交う人々の波に紛れ、赤信号で足を止める。
周囲の喧騒の中、頭上の大型街頭ビジョンから、やけに明るいアナウンサーの声が降ってきた。『続いてのニュースです。若き天才シェフ・一ノ瀬翔太氏が、九条不動産の令嬢・九条梨沙さんと婚約したことを発表しました!』
春菜は顔を上げた。
ビジョンの巨大な画面には、記者会見のフラッシュを浴びる翔太と梨沙の姿が映し出されている。
翔太は仕立ての良いスーツを着こなし、梨沙は彼にぴったりと寄り添って幸せそうな笑みを浮かべていた。『さらに一ノ瀬シェフは、自身がオーナーを務めるレストランの拡大移転を発表。同時に、待望の新作コースのスペシャリテを公開しました』
画面が切り替わり、一皿の料理が大写しになる。
伊勢海老とホタテのポワレ。
サフランの黄金色が溶け込んだソースの照りが、照明を反射して艶やかに光っている。それは紛れもなく、昨日春菜が梨沙の特別オーダーのために即興で作り上げたものだった。
さらにテロップには「幻の新作・真鯛のポワレ 柑橘のソース」と出ている。皮目をパリッと焼き上げるための温度指定から、白ワインとバターのコクを出すタイミングまで、春菜が徹夜でレシピノートに書き綴っていたものだ。
『一ノ瀬シェフはインタビューに対し、「彼女の愛と資本が、私の料理をさらに高みへと引き上げてくれた」と語っています』
(あれは私が徹夜で書いたレシピなのに。私の技術も、両親が残してくれた実家を担保にした資金も、全部あいつらの踏み台として消費されたのね)
映像の中の2人は、春菜から奪い取ったものの上に立って喝采を浴びている。
いかにも幸せそうに。知らん顔をして。春菜は胃が鉛のように重く沈んでいく感覚を覚えた。
街頭ビジョンの明るい光が、彼女の顔を照らす。
周囲の通行人たちは、ニュースの映像をちらりと見るだけで、春菜の存在には誰も気づかずに通り過ぎていく。春菜は自分が透明な存在になったかのような錯覚に陥った。
住む場所を失い、仕事を奪われ、名誉まで地に落とされた。
どこにも行き場はなく、退路は完全に断たれている。信号が青に変わる。
春菜の横を、人々が足早に通り抜けていく。
彼女は手を強く握りしめた。
長年の料理の経験が詰まった、大事な手を。(翔太と梨沙は私から全てを奪った。それなのに知らん顔をして、ああして脚光を浴びている……)
春菜の心に湧き上がったのは、悔しさだ。
怒りももちろんあるが、無念さとやるせなさが先に立った。
力を注いで作り上げたレシピは、彼女のもののはずだったのに。あのレシピは春菜が料理してこそ完成するのに。
(私は負けない。このままでは終わらないわ)
春菜は前を向く。
人ごみの中へと一歩を踏み出した。
それから数日後。 春菜はビストロ『シエル』の仕事を退職して、新しいスタートを切っていた。 真壁は別れを惜しんでくれて、感謝と激励の気持ちを伝えてくれた。『春菜さんほどの料理の腕と経営のセンスがあれば、どこへ行っても大丈夫。ましてや御堂ホールディングスという大企業がスポンサーなんだ。大成功間違いなしだよ。お店がオープンしたら、僕も食べに行かせてくれ』『ええ、もちろんです。正式にオープンしたら、ご招待しますよ』『それは嬉しいな。僕も負けていられないね。デリの販売とディナー営業、どちらも頑張るよ』 別れ際の言葉は、今でも春菜の耳と心に残っている。 シエルで彼女は、小さいお店ならではの経営と仕込みを学んだ。 客席が少ないとは言え、オーナーシェフ1人で店を回すためには効率的に動かなければならない。 限られた予算で納得できる食材を見つけ出し、妥協せずに料理の腕を振るう。 また、接客もオーナーシェフの仕事だ。 少ない客席だからこそ客との距離が近く、人間同士の付き合いができる。 真壁はただ料理を提供するシェフではなく、店主として心から客をもてなしていた。 かつて春菜が働いていたレストラン『一ノ瀬』では、行われていなかったことだ。(みやこ食堂も、赤狸も、シエルも。どれも素敵なお店だった。たくさん教えてもらったわ) これまでの経験を思い出すと、心が温かくなる。 そして今、春菜が地下鉄の駅から地上に出ると、夏の風が頬を撫でた。 駅から徒歩10分程度。 高層ビルが立ち並ぶオフィス街と、生活感のある住宅街のちょうど境界線。 アーケードが続く商店街の入り口に、春菜は立っていた。「へいらっしゃい! 今日のトマトは甘いよ!」 八百屋の店主が威勢のいい声を張り上げている。「お肉屋さんのコロッケ、2つちょうだい」「はいよ、揚げたてだから気をつけてね」 買い物袋を提げた主婦と肉屋の店主が、笑顔でやり取りをしている。 周
佐伯春菜。その名前にギクリとしながら、梨沙は拾い上げた書類に目を落とした。 見覚えのある書類の債務者は、確かに『佐伯春菜』になっている。 間違いない。翔太と組んで春菜に借金を押し付けた時の書類だ。 それがどうして、御堂ホールディングスの名前で送られてきたのか。(春菜は御堂ホールディングスをスポンサーにつけたの? 確かにあの会社は、レストランポータルサイトを運営している……!) 梨沙の頭の中で最悪の予想が組み上がった。(そんな馬鹿な。春菜の悪評を流して業界から追い出してやったのに、一体どうやって?) 冷や汗が流れる中、彼女は父親に向かって必死に言い訳を始めた。「誤解です。私はただ、あの女に少し痛い目を見せようと……」「言い訳は聞かん。御堂のトップ弁護士チームが動いているんだ。お前が個人的な感情でグレーな契約を主導した証拠も完全に揃っている。会社にどれほどの損害と信用の失墜をもたらすか、分かっているのか」 父親の目は完全に冷え切っていた。「お前は関連プロジェクトの責任者から即刻外す。あのレストランへの資金援助も今日限りで凍結だ。自宅で頭を冷やせ」「お父様、お待ちください! 資金援助を止めたら、あのお店は……」 インフルエンサーを使った強引なテコ入れで客足を戻したが、その効果も切れつつある。 放置すれば最悪、倒産まで転がり落ちるかもしれなかった。 しかし九条社長は怒りの表情のまま続けた。「下がれ」 もはや取り付く島もない。 梨沙は唇を噛み、社長室を退出した。 廊下に出た途端、手元のスマートフォンが振動する。翔太からだ。 梨沙は苛立ちに任せて応答ボタンを押した。『梨沙! 大変だ、業者が俺のところに1千万払えって言ってきた!』「うるさいわね。あなたのせいで私はお父様に叱られたのよ。資金援助もストップよ。もう私に連絡してこないで」 梨沙は一方的に通話を切り、スマートフォンの電源を落とした。 保身で手一
翔太は舌をもつれさせそうになりながら、言い返した。「えっ、ちょっと待ってください。あれは佐伯春菜が払う約束で、契約書でもそうなってるはず……」「そんなもん通用しねえんだよ。御堂ホールディングスの法務部から直接連絡が来てんだ。こっちもあんなバカでかい企業相手に揉め事はごめんだよ。あんたが借りた金だ、あんたが払え。明日までに1千万、まずは指定の口座に振り込むんだ」 一方的に通話が切れる。ツー、ツーという電子音が、無慈悲に響いた。(ど、どういうことだよ! あの借金は春菜名義で間違いないだろうが。梨沙がそういう書類を作ったのに! 1千万なんて大金、あるわけない!) 翔太はパニックに陥って、慌ててスマホの連絡先を開く。 何度も間違えながら、ようやく梨沙の番号をタップした。 コール音が長く続いた後に、ようやく繋がる。「梨沙! 大変だ、業者が明日までに1千万払えって……」「うるさいわね。今、それどころじゃないのよ」 電話の向こうの梨沙の声は、かつてないほど冷え切っていた。 翔太の言葉を聞かず、電話はすぐに切れた。 後には呆然とした翔太だけが残された。◇ 同じ頃、九条不動産本社ビルで。 最上階にある社長室の重たげな扉の前で、梨沙は息を整えていた。 今日は父親である九条社長に呼び出された。 父はプライベートでは娘に甘いが、仕事上の線引きははっきりとしている。 その父が社長として梨沙を呼び出した。(何事かしら) 梨沙は少々の緊張とともに、ドアを開けた。 中に入ると、広大なデスクの奥で九条社長が鋭い視線を投げかけてくる。「お父様、お呼びでしょうか」 社長は無言のまま、デスクの上にあった数枚の書類を荒々しく放り投げた。 バサッと音を立てて紙が散らばる。「梨沙、これを見ろ。御堂ホールディングスの法
レストラン『一ノ瀬』のバックヤード、スタッフルームにて。 ディナータイム前の休憩中、一ノ瀬翔太はパイプ椅子に腰掛けて缶コーヒーを飲んでいた。(最近、どうも客足が鈍いな。インフルエンサーの宣伝効果が落ちたか) 彼は活気を失った厨房を眺めた。 多くのスタッフが辞めていった後、穴埋めでアルバイトを雇ったが、やはり経験が浅い者たちの動きは悪い。 何度もクレームになって、翔太はその度にスタッフへ怒鳴り散らしていた。 おかげでスタッフたちは萎縮してしまい、さらに動きが悪くなる。 怒鳴られるのが怖くて、ちょっとしたことも自分たちで判断できない。 いちいち翔太にお伺いを立てるので仕事が進まない。 まさに悪循環だった。 だが、翔太はどうして悪循環が発生しているのか理解していない。 だから何も改善しないどころか、時間が経つほどに事態は悪くなっていく。(これも新人たちの動きが悪いせいだ。あとでもう一度、叱ってやらないと。それに……春菜がいた頃の常連はすっかり来なくなったし) 昔の常連はいつの間にか、姿を見せなくなっていた。 以前は月に一度は必ず来ていた客も、今では全く顔を見せない。 純粋に料理を楽しんでいた上客、良客ほど先に消えたのに、翔太はやはり気づいていない。 だからインフルエンサーという即時的な手段を取って、後は放置していた。 けれどインフルエンサーの宣伝で呼び込んだ客は、リピーターになる率が非常に低かった。 彼らは一度来ただけで、二度と『一ノ瀬』に来ようとしない。 当然だった。 宣伝に釣られて来た客は、料理の味に無関心だ。 彼らは一時の「画面映え」だけを求めて、すぐに飽きてしまう。 そんな客層がリピーターになるはずがない。 少し考えれば、誰でも分かることだ。 だが翔太と梨沙はその失敗を認めたくなくて、あえて意識の外に押しやっていた。 と。 小さな振動音が鳴る。テーブルの上に置いて
「大衆的な洋食店だと? 我が社の次世代AIシステムのショーケースだぞ。そんな地味なコンセプトで、世間の注目を集められると思っているのか」「集められます」 春菜は即答した。「AIによる自動化の真価は、人手不足に悩む大衆店でこそ発揮されるはずです。高級店は元々スタッフの人数が多く、手厚いサービスが売りです。システムを導入しても、その恩恵は伝わりにくい。ですが、薄利多売の大衆店がAIの力で効率化されて、その分料理の質を高められたらどうでしょう」 春菜は言葉を続ける。「仕入れや予約管理のコストを限界まで削り、浮いた予算をすべて食材に回す。そうして手間暇をかけた極上の洋食を、大衆店の価格で提供する。そのコストパフォーマンスの高さこそが、最大の宣伝になります」 礼司は黙り込んだ。 彼の頭の中で、春菜の提示したモデルが急速に計算されて評価されているのが分かる。(お願い。分かってほしい。ただの高級店を作っても、意味がないんだって) 数秒の沈黙の後、礼司は小さく息を吐いた。「……AIの真価は、人手不足に悩む大衆店でこそ発揮される、か。確かに、システムの普及を考えるなら、高級店限定のシステムと思われるよりも、大衆店での成功例を見せる方が市場へのインパクトは大きい」 礼司はモニターの電源を切り、春菜を見つめた。「分かった。君の理想とするコンセプトで進めよう。銀座の物件はキャンセルする。もっと親しみやすく、かつ集客の見込める土地を探し直そう」「ありがとうございます!」 春菜は顔を輝かせた。「ただし、条件がある」 礼司は人差し指を立てた。「君の言う『極上の洋食』が、本当に私のシステムに見合うだけの集客力を持つのか。それを証明してもらう。メニューの完成度には一切の妥協を許さない」「望むところです。最高のハンバーグとオムライスを作ってみせます」 春菜の力強い宣言に、礼司は満足げに頷いた。 年配弁護士へ向かって指示をする。「物件探しの条件を変
春菜は、みやこ食堂で定食を食べる主婦や学生、サラリーマンの笑顔を思い浮かべた。 赤狸でジョッキを傾けながら串焼きをつまむ、サラリーマンたちの笑い声が耳に蘇る。 シエルでテイクアウトの惣菜を受け取り、嬉しそうに帰っていく母親と子供の姿も思い出した。 下町を転々としながら学んだのは、高級食材を使って技巧を凝らした料理だけが人を幸せにするわけではないということだ。 みやこ食堂や赤狸で使っていた食材は、決して高級ではなかった。 それでも仕入れの工夫とソースのクオリティアップで、お客を笑顔にできた。 シエルは良い食材を使っていたが、最高級ではない。客が満足する味に仕上げたのは、シェフの努力の結果だ。 人の温かさと、真心のこもった接客。 手の届く価格で、本物の美味しい料理を味わえる空間。 それこそが、春菜のたどり着いた理想の店だった。 裏切りと喪失から始まった旅だったけれど、春菜は大切なものを手に入れていた。(この思いは、譲れない) 春菜は姿勢を正し、礼司に向かってはっきりと口を開いた。「御堂社長。申し訳ありませんが、その立地とコンセプトでは、私にはお受けできません」 会議室の空気がピタリと止まった。 タブレットを操作していた若手弁護士の手が止まり、他の2人も驚いた顔で春菜を見た。 礼司は眉を寄せて、鋭い視線を春菜に向けた。「……どういう意味だ。銀座の一等地だぞ。料理人として最高の舞台を用意したというのに、不満があると言うのか」「舞台が立派すぎるんです。それに、私の目指す方向性とは違います」 春菜はモニターに映る豪華なパース図を指差した。「私がこの数ヶ月、下町の店を回って学んだのは、料理は日々の生活に寄り添うべきだということです。高級フレンチの技術は素晴らしいですが、それを5万円も払える一部の人たちだけに向けて提供するのは、私のやりたいことではありません」 そういう路線は、レストラン『一ノ瀬』で経験済みだ。 高級店そのものが悪いわけではない。だ
レストラン『一ノ瀬』の定休日の朝。 客席から離れた厨房は、稼働中の騒がしさが嘘のように音がない空間となっていた。 換気扇も火口も眠っている中、春菜はスペースの隅にある小さな事務デスクで大きく伸びをした。 手元のノートには、新しいコースのスペシャリテに関するレシピがびっしりと書き込まれている。 旬の食材をどう組み合わせるか、火入れの温度は何度が最適か。 頭の中で何度も試作と修正を繰り返し、徹夜での作業がようやく完成したのだ。 紙コップのコーヒーは冷めきってしまっていたが、春菜はそれを飲み干した。 徹夜の集中作業で凝り固まった首と肩を、ゆっくりと回す。「ん、右手が痛いなあ」
彼らが奪えたのは、レシピと店と資金だけだ。 春菜は自分の手のひらを見つめた。 長年の調理を続けた手は、荒れてしまっている。 これこそが春菜の勲章だ。食材の最適な火入れを見極める感覚や、味を構築する舌の記憶は、誰にも奪えない。 たとえレシピが翔太の手に渡っても、料理とは繊細なもの。 その日の食材の鮮度や天候、気温にも影響を受ける。 春菜だからこそあの味が出せた。 部下のスタッフや翔太では、レシピを使いこなせるかどうか。 技術は絶対の財産だ。それさえあれば、どこでだってやり直せる。
ここ数ヶ月、春菜は連日睡眠時間3時間で働いていた。 営業中の厨房を仕切りながら、営業時間外は新メニューの開発や食材の選定、原価計算の事務作業に追われている。 婚約者でありオーナーシェフである一ノ瀬翔太(いちのせ・しょうた)は、経営やメディア対応で忙しく、厨房実務はほとんど春菜に任せきりだった。 彼が厨房に立つのは、雑誌の取材用の写真撮影の時くらいだ。(まあ、私が店を守るって決めたんだし。翔太には経営に専念してもらわないと) このレストラン『一ノ瀬』をオープンするにあたり、春菜は両親亡き後の実家を担保に入れた。多額の融資の連帯保証人になっている。 誰よりも大切な婚約者のため、店を
高級レストラン『一ノ瀬』のディナータイムは、いつも通りの賑わいを見せている。 そんな中、厨房はまさに戦場と化していた。 換気扇が回る低い音が響く中、四基のコンロからは青い炎が絶え間なく上がる。 フライパンの中で油が弾ける音が絶えず鳴り響いていた。「前菜、3番テーブルと5番テーブル、同時にアップして!」 佐伯春菜(さえき・はるな)はテキパキとした動作で、部下たちに指示を飛ばしていた。「はい、すぐに出せます!」「メインの肉、火入れはあと1分。ソースの仕上げ急いでください。付け合わせの野菜は上がってる?」「上がってます! アスパラガスのソテー、少し色がついちゃいましたけど大丈夫で







