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last update Tanggal publikasi: 2026-06-11 21:13:49

 彼らが奪えたのは、レシピと店と資金だけだ。

 春菜は自分の手のひらを見つめた。

 長年の調理を続けた手は、荒れてしまっている。

 これこそが春菜の勲章だ。食材の最適な火入れを見極める感覚や、味を構築する舌の記憶は、誰にも奪えない。

 たとえレシピが翔太の手に渡っても、料理とは繊細なもの。

 その日の食材の鮮度や天候、気温にも影響を受ける。

 春菜だからこそあの味が出せた。

 部下のスタッフや翔太では、レシピを使いこなせるかどうか。

 技術は絶対の財産だ。それさえあれば、どこでだってやり直せる。

 そして春菜は、高い技術を持っている。

 個室の薄い壁越しに、誰かの咳払いが聞こえた。

 春菜はモニターの電源を切り、仮眠を取るためにリクライニングシートを倒した。

 翌日。晴天の空の下、春菜は都内の某フレンチレストランの裏口に立っていた。

 換気扇からは、ニンニクとオリーブオイルを炒める香ばしい匂いが漂っている。仕込みの真っ最中だ。

 ここは、以前の職場で世話になった先輩シェフの店である。

 春菜の技術を高く評価してくれていた1人だった。

(もう一度働いて、一から出直そう。借金を返して、いつか私の店を持ちたい。誰にも奪われない私の店を)

 春菜はそう考えたのだ。

 裏口のドアが開き、白いコックコート姿の先輩が顔を出した。

「春菜ちゃん。急にどうしたんだ?」

「先輩、お忙しいところすみません。実は昨日、一ノ瀬を辞めまして。どこか厨房で人手を探しているところはないかと思いまして」

 春菜が頭を下げると、シェフの顔に困惑の色が浮かんだ。

 彼は辺りを気にするように視線を泳がせる。

「辞めたって……君、店の資金を横領して解雇されたって話じゃないか」

「え?」

 春菜は顔を上げた。

「俺も今朝、同業者から聞いたばかりだけど。九条不動産の令嬢がスポンサーに入って、過去の帳簿を精査したら君の不正が見つかったって」

「そんなの嘘です。私は横領なんてしていません。むしろ実家を担保に入れて、それを取られてしまって……」

 春菜は必死に言い募った。

「俺だって君がそんなことをする人間じゃないと思ってる。でも、噂はもう業界中に回ってるんだ」

 先輩シェフは心苦しそうに眉を下げる。

 九条不動産は都内の飲食ビルも多数手掛けている。逆らえばテナント契約の更新に関わるのだろう。

「悪いが、うちでは君を雇えない。九条不動産を敵に回したくないし、横領の噂がある人間を厨房に入れるわけにはいかないんだ。すまない」

 それだけ言うと、彼は裏口のドアを閉めてしまった。

 金属製のドアがカチャンと音を立てて施錠される。

 春菜はしばらくその場に立ち尽くした。

(……そう。単に追い出すだけじゃなく、私がこの業界で二度と厨房に立てないように、根回ししたのね。ずいぶんと念が入ってること)

 どうしてだろう、と春菜は思った。

 九条梨沙は親友だと思っていたのに。

 こんなにも嫌われていたなんて、まだ信じられない気持ちでいる。

 けれどよく思い出せば、梨沙は確かに嫉妬深い性格だった。

 何事も自分が一番でなければ気が済まない。

 九条不動産の令嬢なのだから、十分に恵まれているのに。梨沙はそれでも満足していなかった。

 高校時代の春菜と仲良くなったのも、春菜が何の変哲もない平凡な少女だったからかもしれない。

 相手に長所がなければ、優越感を隠さずにいられたから。

 ところが春菜は、高校卒業後の調理師学校で才能を芽生えさせた。

 めきめきと料理の腕を伸ばして、料理コンクールで入賞を果たし、脚光を浴びた。

 同じく若手料理人の翔太と恋人になって、レストラン『一ノ瀬』を立ち上げた。

 店の経営は順調で、充実していた。

 それを梨沙はどんな気持ちで眺めていたのだろう。

 かつて平凡だと見下していた相手が光り輝いていくところを、どんな気持ちで。

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