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last update publish date: 2026-06-10 11:08:18

 ここ数ヶ月、春菜は連日睡眠時間3時間で働いていた。

 営業中の厨房を仕切りながら、営業時間外は新メニューの開発や食材の選定、原価計算の事務作業に追われている。

 婚約者でありオーナーシェフである一ノ瀬翔太(いちのせ・しょうた)は、経営やメディア対応で忙しく、厨房実務はほとんど春菜に任せきりだった。

 彼が厨房に立つのは、雑誌の取材用の写真撮影の時くらいだ。

(まあ、私が店を守るって決めたんだし。翔太には経営に専念してもらわないと)

 このレストラン『一ノ瀬』をオープンするにあたり、春菜は両親亡き後の実家を担保に入れた。多額の融資の連帯保証人になっている。

 誰よりも大切な婚約者のため、店を成功させたかったのだ。

 だから、絶対に失敗はできないという重圧が常に肩に乗っている。

 フライパンの中で、ソースが白くなっていく。

 次第にとろみを帯び、サフランの黄金色が溶け込んだ。

 火から下ろし、塩で味を調える。

 小指の先でソースをすくい、味を確認した。

 エビの濃厚な旨味と、サフランの香りが口の中に広がる。

(うん。バッチリ。これなら梨沙も満足してくれる)

 疲労で肩が重く張っているが、料理が形になる瞬間の達成感がそれを忘れさせてくれる。

 連日の調理作業で荒れてしまった手も、今は料理人としての誇りのように感じられた。

 伊勢海老とホタテの表面を強火でさっと焼き、中心はレアな状態に留める。

 温めた皿に黄金色のソースを流し込み、その上に魚介を配置する。

 仕上げに色鮮やかなマイクロハーブを散らした。

「よし、完璧。ソースの温度もカンペキ」

 春菜は手の甲で額の汗を軽く拭った。

「特別オーダー、上がりました。VIP席へお願い」

 提供口に皿を置いた矢先、厨房の入り口から真っ白なコックコートを着た人物が現れた。

 婚約者の翔太だった。

 彼は春菜の横を通り抜けて、皿を一瞥した。

「ああ、これが梨沙さんの料理か。よくできているな。ちょっと借りるよ」

 翔太は無造作に皿を手にした。

「え?」

 春菜はいぶかしげな顔で翔太を見た。

「翔太、ちょっと待って。それは私が梨沙のために作ったんだけど」

「だから? 俺が持っていく方が彼女も喜ぶだろう。俺はこの店の店長なんだからな」

 春菜が問い返す間もなく、翔太はそのままホールへと歩き出してしまった。

(ちょっと借りるって、どういうこと?)

 春菜はシンクで手を洗いながら、ホールに通じる小窓から外の様子をうかがった。

 ホールの柔らかな間接照明の下、VIP席には華やかなドレスを着た梨沙が座っている。

 翔太は恭しく皿をテーブルに置いた。

 小窓からは彼らの声が遠く聞こえてくる。

「私が特別にご用意しました」

 翔太は皿を指し示して、そう言った。

(そんな。あの料理は私が作ったものなのに)

 呆然とする春菜の視線に気づいているのかどうか、梨沙は嬉しそうに微笑み、フォークを取って料理を口に運ぶ。

 一口食べた瞬間、彼女は目を丸くした。

「すごい! 予想以上の味よ。さすがオーナーシェフの翔太さんね」

「恐縮です。気に入っていただけて何よりです」

 翔太は厨房では絶対に見せないような、愛想の良い完璧な笑顔を浮かべて応えている。

 ふと、会話の合間に梨沙の視線が翔太の肩越しを抜け、厨房の小窓へと向いた。

 一瞬だけ、春菜と梨沙の目が合った。

 梨沙の目は、その料理の真の作り手が誰であるかを知っている者の視線だった。

 しかし彼女はすぐに視線を戻し、再び翔太に向かって楽しげに笑いかけた。

 親しげに手を取って、肩先が触れ合うほどに近づいている。

 2人の笑い声が、奇妙に大きく響いている気がする。

(どうして翔太が自分で作ったことに? それに、あの2人の距離感はおかしい)

 春菜は喉の奥が急にカラカラに乾いていくのを感じた。

 親友と婚約者。

 2人の親密すぎるやり取りを見ていると、胸の奥に冷たい異物が入り込んだような鈍い違和感が広がる。

 厨房の蛍光灯の下で、春菜は蛇口から出る冷水で手を洗い続ける。

(単なるサービスの一環よ。オーナーシェフが顔を売るのは、経営戦略として間違っていない。VIP客の対応は彼の仕事だもの)

 そう自分に言い聞かせる。

 けれど喉の渇きは、水を一口飲んでも癒えなかった。

「副料理長、次の肉料理、上がります!」

 スタッフの声で春菜は我に返った。

「……すぐ行きます。ソースの仕上げ、私がやりますから」

 春菜は小さく息を吐き、再び熱気のある厨房の中心へと戻っていった。

 今はディナーのピークだ。

 たとえ心が乱れていようとも、目の前の仕事に集中しなければならなかった。

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