Lahat ng Kabanata ng 結婚式の端っこで、君と乾杯を: Kabanata 1 - Kabanata 10

14 Kabanata

1話「婚約破棄の夜」

 瑠衣は今日も仕事で帰りが遅くなった。  "江品"という表札の門をくぐった時に、違和感を感じた。実家なのに、自分が住んでいる家なのに、何か違う感じがした。そしてそれは、玄関に入った時に確信した  玄関に靴が多い。  父のスリッパ、母のパンプス、妹の真衣のスニーカー、それから男物のローファーが二足。 仕事帰り、鍵を回す手が一瞬止まった。いやな予感というより、答えの見えた数式を解く前の感覚に近かった。  リビングのドアを開けると、全員いた。父、母、真衣、婚約者の深内雅之、そして見覚えのある顔が二つ——雅之の両親だ。テーブルを囲んで座っている。誰も笑っていない。誰も瑠衣を見ていない。 「座れ」  父が言った。椅子を引いて座った。 「驚かないで聞いてね」  母が続けた。  驚かないで、と言う前置きを使う人間は、たいてい相手が驚くことを言う。瑠衣はコートも脱がないまま、正面を向いた。 最初に口を開いたのは真衣だった。 「お姉ちゃん、ごめんね」  そう言いながら、無意識に腹に手を置いた。 「赤ちゃん、できたの」 「そうなんだ」 「雅之さんとの」 沈黙。 テーブルの上に湯呑みが並んでいた。全員分の湯呑みが。瑠衣の分はなかった。 雅之が話し始めた。視線をテーブルの一点に固定したまま、用意してきた言葉を読み上げるように。 「本当に申し訳ない。でも責任を取らなきゃいけない」 「子供には罪がない」  父がさらっと告げた。 「まず赤ちゃんを優先しないと」  母も当たり前のように流した。  全員が正しいことを言っていた。 反論できる言葉がひとつもない。それが不思議なほど、反論できる言葉がひとつもなかった。 「私との結婚は」 「ごめん」  雅之はそれだけ言って、また黙った。  真衣が補足した。顔は申し訳なさそうだったが、声は明るかった。 「でも結果的には良かったと思うんだ。だって赤ちゃん来てくれたんだし」  悪意がなかった。  それが一番怖いことだと、瑠衣はこの瞬間に理解した。 「式なんだけど」  母が口を開いた。まったく悪いという意識のない声色だった。 「そのまま使おうと思うの」 「何を」 「式場よ」 「キャンセル料も馬鹿にならないから」  母の声に父が重
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2話「人生最悪の日、乾杯」

 招待メッセージを三回読んで、やっと気づいた。 "披露宴開始 13:00"  式の時刻が書いていない。私は披露宴にしか呼ばれていない。  駅から会場まで、十分ほど歩いた。招待状を持って、一人で歩いた。  歩いて、何度か立ち止まった。 (あれ、なんで私こんなことしてるんだろう)  もっと怒っていいはずなのに、邪魔しようと考えてもいいはずなのに。  それより心にあるのは"無"だった。  感情より足が動くことがあるんだな、と瑠衣は自分自身に感心していた。 (一番バカなのは、私かもしれない) 受付に並んで、順番が来た。 「江品家で招待されている、江品瑠衣です」  スタッフの女性が名簿を確認した。一瞬だけ、表情が固まった。ほんの少しだけ。しかしわかった。 「新婦様より、ご祝儀は不要とのご連絡を承っております」 「……そうですか」  後ろに並んでいた女性が、隣の友人に何か囁いた。  聞こえた。含み笑いまで聞いてしまった。自分の耳の良さが恨めしい。  足は止めなかった。 親族控室の前まで来て、ドアに手をかけようとしたところで、スタッフに呼び止められた。 「申し訳ございません。こちらはご利用いただけません」 「私は親族ですが」 「新郎新婦からのご指示ですので」  スタッフは丁寧に頭を下げた。感情のない、訓練された角度だった。  ちょうどそのとき、ドアが少し開いた。中から笑い声が漏れた。真衣の声だった。母の声だった。  ドアは閉まった。  三十一日後に挙式予定だった人間が、結婚式の親族控室に入れない。我ながら、すごい状況だと思った。 案内された席は、披露宴会場の一番端の円卓だった。  席次表が置いてあった。自分の席を確認して、周りの名前を見た。  大学の友人たちの名前。高校の同期の名前。会社の同僚の名前。  全員、欠席だった。 「行けない」と言ってきた子はいなかった。全員「行かない」という返信だった。みんな、怒っていたのだ。私の代わりに。  胸の奥が少しだけ痛んだ。怒っていてくれた人たちが、この会場にいないことが。 同じ円卓に、初老の男が一人いた。  安物のスーツ。古い革鞄。片耳にイヤホン。スマホの画面を見ている。よく聞くと、電子書籍の読み上げ音声が流れていた。  周りが花とシャンデリアと白いテーブルクロスで埋まっ
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3話「鍵」

「ブーケトスのお時間です!」 司会の声が会場に響いた。テーブルから立ち上がる女性たちの気配。瑠衣も立ちかけた。「お客様はご着席でお待ちください」 スタッフが笑顔で近づいてきた。丁寧な声だった。意味は一秒で理解できた。「……わかりました」 ブーケが空中を飛んだ。歓声が上がった。拍手が起きた。瑠衣の円卓だけが、切り取られたように静かだった。 しばらくして、真衣側の友人席から男が一人やってきた。グラスを持ったまま、ふらついた足取りで。酔っていた。「ねえ、君いくつ?」 瑠衣を見て、気さくに話しかけてきた。「二十九です」 男は数秒、止まった。「え」「二十九歳です」「おばさんじゃん」 笑いながら去っていった。完全に悪意のない顔だった。傷つけようとしていなかった。だから余計に言葉が変なところに刺さった。 怒る気力もなかった。 少し間を置いてから、隣で灯が口を開いた。「二十九歳でしたか」「はい」「私から見ると学生です」 それだけだった。フォローをしようとしているわけでも、怒っているわけでもなかった。四十八歳から見れば事実そうだというだけの話を、ただそのまま言っていた。なのに、少し楽になった。 キャンドルサービスが始まった。 新郎新婦がテーブルを順番に回っていた。真衣のドレスが遠くに見えた。雅之のスーツが見えた。二人が少しずつ近づいてくるのを、瑠衣はグラスを持ったまま眺めていた。 やがて、こちらの円卓へ来た。 スタッフがキャンドルに火を灯した。真衣が笑った。雅之がキャンドルを見たまま、小さな声で言った。「……ごめん。幸せになって」誰に言っているのかわからなかった。少なくとも、瑠衣の目を見ていなかった。 真衣が続けた。「これから頑張ってねー」 お姉ちゃん、ではなかった。廊下で会った知人に声をかけるような言い方だった。 二人は次のテーブルへ移っていった。 沈黙が戻った。 隣で、ふっという音がした。 キャンドルの火が消えていた。灯が吹き消していた。「熱いので」 顔は真剣だった。理由は絶対に違う。しかしそれ以上は何も言わなかった。 遠くのテーブルから真衣の声が聞こえた。「なにあのおじさん」という声が風に乗ってきた。 灯は聞こえていないのか、気にしていないのか、すでに本の続きを聞いていた。ページが変わる電子音が、かす
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4話「書庫の家」

駅前のベンチに座った。 キャリーケースを足元に置いて、スマホでホテルを検索した。最寄り駅周辺、今夜から、一名。画面に価格が並んだ。一泊八千円。一週間で五万六千円。一か月で……計算したところで閉じた。 ネカフェでもいい。足さえ伸ばせれば。いや、足を伸ばしたい。今日一日立ったり座ったり、笑い声を聞いたり無視されたり、それだけで体が限界に近かった。 ポケットから鍵を出した。 メモを見た。相沢灯。住所。知らない地名。 今日初めて会った人間の家の鍵が、手の中にある。状況だけ取り出すと相当おかしい。しかし今夜の選択肢を並べると、これが一番まともだった。「……行くか」 独り言が出た。誰もいなかった。 電車を二回乗り換えて、最寄り駅から地図を頼りに歩いた。住宅街に入ると街灯が減った。十分ほど歩いたところで、地図が止まった。 見上げた。 門があった。 鉄製の、重そうな門だった。その奥に、建物があった。三階建て。灯りは全部消えているが、外から見ても広さがわかった。 違う場所かと思った。メモをもう一度確認した。番地が合っている。もう一度建物を見た。「いや違う」 声に出たが、地図は正しかった。何度見ても住所は一致していた。 高級住宅街という言葉が頭に浮かんだ。この道を歩いてくる間にも、それなりの家は並んでいた。しかし目の前の建物は、それとも違った。豪邸、という言葉以外が出てこなかった。 今日初めて会った、安物スーツの叔父の家が、豪邸だった。 鍵を差し込んだ。回った。本物だった。 玄関を開けた。広かった。 電気をつけた。廊下が長かった。リビングのドアを開けた。広かった。天井が高かった。ソファがあった。テーブルがあった。そして本があった。 壁一面、床から天井まで、本棚だった。リビングの壁が全部本棚だった。廊下に戻って改めて見ると、廊下の壁にも棚があって、本が並んでいた。 奥に扉があった。開けると階段があって、下に続いていた。降りた。 地下だった。 広い部屋があった。壁どころか、部屋の中心にも棚が並んでいた。本棚が島を作っていた。図書館の参考書コーナーのような配置で、本が詰まっていた。背表紙を眺めた。文学、歴史、自然科学、哲学、経済、児童書、洋書。ジャンルが混在していた。数えられる量ではなかった。「図書館……?」 声が壁に吸い込まれた。
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5話「広すぎる静寂」

 目が覚めた瞬間、ここが自分の家ではないことを思い出した。  天井が違う。染みがない。高い。白い。  ソファで寝ていた。ベッドは二階にあったが、昨夜は上がる気力がなかった。体を起こすと、リビングの壁一面の本が目に入った。昨日からそこにあった本が、今朝もそこにあった。当たり前だった。  スマホを見た。会社からの着信が二件入っていた。上司の番号だった。折り返した。 「無理して来なくていいぞ」 「出ます」  少し間があった。 「そうか」  それだけだった。電話が切れた。シャワーを浴びて、スーツに着替えた。 株式会社オルビット・コミュニケーションズ。広告代理店。勤続六年。  オフィスに入ると、いくつかの視線が来た。気づかないふりをして席へ向かった。 「大丈夫?」  隣の席の同僚が声をかけてきた。三十二歳、既婚、去年子供が生まれた。いい人だった。 「聞いたよ……ひどいよね、本当に」 「ありがとうございます」  後輩も来た。入社三年目の女性で、普段は仕事の話しかしない子だった。 「ひどすぎますよね。信じられないです」 「ありがとうございます」  全員が知っていた。結婚式のことを、婚約破棄のことを、妹のことを。誰から聞いたのかはわからなかったが、オフィスの中でその話が広まっていることは、席についた瞬間にわかった。  優しかった。本当に優しかった。だからこそ、今日一日ずっとこの顔で過ごさなければいけないことがわかって、少しだけ疲れた。  営業スマイルは得意だった。六年で鍛えた。 午前中は電話が続いた。  メーカーの担当者から素材の修正依頼が来た。入稿データの形式が変わったという連絡が来た。別の案件で納期の確認をした。予算の調整で先方と三十分話した。  仕事は待ってくれなかった。  ありがたかった。画面を見ている間は、結婚式のことを考えなくて済んだ。数字は正直だった。修正依頼は明確だった。納期は動かなかった。裏切り方がわかっている分、人間より扱いやすかった。  午前中に三件片付けた。上司が通りがかりに「無理するなよ」と声をかけた。「大丈夫です」と返した。嘘ではなかった。仕事は本当に大丈夫だった。 昼休み、スマホを開いた。  雅之からメッセージが来ていた。 『慰謝料は勘弁してくれ。
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6話「不意の来訪」

 金曜日だった。 仕事帰りの電車の中で、今週を振り返った。同情された。気を遣われた。案件は三件動いた。雅之からまた意味のわからないメッセージが来た。無視した。上司に「本当に大丈夫か」と四回聞かれた。四回とも大丈夫だと答えた。 豪邸に帰るのが、少し当たり前になってきていた。 それが嫌だった。当たり前にしていい場所ではない気がした。でも帰る場所はここしかなかった。 最寄り駅で降りて、いつもの道を歩いた。コンビニに寄ろうか迷って、今日は食材を買おうと思って、駅前のスーパーに入った。何を作るか決めていなかったが、野菜と豆腐と卵を買った。それだけあれば何かになる。 門を開けて、玄関の鍵を差した。 扉を開けた瞬間、止まった。 靴があった。 知らない革靴が、玄関に揃えて置いてあった。いや、違う。知っている。見たことがある。結婚式の日、隣に座っていた男の靴だった。安物のスーツに対して、靴だけ妙に状態が良かった。あの靴だった。「こんばんは」 声をかけた。 廊下の奥、地下に続く扉が開いていた。そちらから気配がした。しばらくして、灯が階段を上がってきた。瑠衣を見た。「こんばんは」 それだけだった。挨拶を返してから、また地下へ向かおうとした。「あの、何か探し物ですか」「はい」「お邪魔でしたか」「いいえ」 それだけ言って、地下に消えた。 瑠衣は玄関に立ったまま、しばらくそこにいた。スーパーの袋を持ったまま、靴を脱ぐのを忘れていた。 台所に食材を置いてから、地下書庫の扉のところまで来た。完全に入るわけでもなく、半分だけ扉を開けて中を覗いた。 灯は棚の奥にいた。梯子を使って、天井近くの段に手を伸ばしていた。背表紙を一冊ずつ確認して、違うと判断したらまた次を見た。その繰り返しだった。数万冊ある書庫の中で、梯子に乗って一冊ずつ確かめていた。「見つかりましたか」「まだです」 梯子から降りて、別の棚に移動した。完全に別の世界にいた。瑠衣がいることを忘れているわけではないと思うが、意識の外にはあるらしかった。
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7話「変な人」

 金曜日の夜、玄関を開けたら革靴があった。  なぜか少し安心した。その事実に気づいて、すぐ気づかないふりをした。スーパーの袋を台所に置いて、地下書庫に向かった。灯は先週と同じ場所にいた。棚の前に立って、背表紙を眺めていた。「こんばんは」「こんばんは」 それだけだった。いつも通りだった。 夕食を作りながら、考えた。 先週来た。今週も来た。偶然が二回続くと、習慣に近い。灯が「普段は別の場所に住んでいて、本が読みたいときだけ来る」と言っていたのを思い出した。本が読みたい頻度が、週一ということなのか。 食事の準備ができた頃、地下から灯が上がってきた。手ぶらだった。今日は探し物が見つからなかったらしい。 テーブルについて、食べ始めてから聞いた。「毎週来るんですか」「本が読みたいので」 家に来るのではなく、本に来る。即答だった。迷いがなかった。「そうですか」「はい」 それ以上の説明はなかった。灯は味噌汁を一口飲んで、特に何も言わなかった。 食後、灯は地下に戻った。 手伝えることもないので、瑠衣は台所を片付けてから地下書庫の扉を開けた。完全に入るつもりはなかったが、先週より少し踏み込んだ。 灯は別の棚の前にいた。背表紙を一冊ずつ指でなぞっていた。「全部読んだんですか、ここにある本」「覚えていません」「覚えていない」「昔読んだ本は、内容よりどこに置いたかの方を忘れます」 意味がわからなかった。内容を覚えていてどこに置いたか忘れるなら理解できる。どこに置いたかを忘れるのに内容は覚えているということか。それとも両方忘れるということか。「内容は覚えているんですか」「だいたいは」「じゃあ何が問題なんですか」「場所です」 数万冊あって、場所がわからない。それで毎週来て梯子に乗って探している。
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8話「ちぐはぐ」

灯が来る日に規則性はなかった。 三日続けて来ることもあれば、十日以上来ないこともあった。本人は「本が読みたい時に来ます」と言っていた。どうやら本当らしかった。来る理由が本で、来ない理由は本が読みたくないから、それだけだった。 今日は玄関に革靴があった。それだけでわかるようになっていた。- 夕食の支度を始めると、灯がスーパーの袋を台所に置いた。珍しかった。持ってきたのは初めてだった。 受け取って中を確認した。 値引きシールの貼られた総菜が一つ。豆腐が一丁。卵が六個入り。全部特売か見切り品だった。 豪邸の主が持ってきた買い物袋の中身とは思えなかった。服も同じだった。くたびれたスーツ。長く使い込まれた革鞄。ブランド品は何一つ見当たらなかった。財布も先週チラリと見えたが、量販店で売っているような黒い二つ折りだった。 三階建ての豪邸に数万冊の本を持っている人間が、見切り品の総菜を買ってくる。 噛み合わなかった。 食事中、灯が箸を置く動きが目に入った。 静かだった。音がしなかった。グラスを持つ指先も、食器を扱う所作も、妙に整っていた。意識してやっているようには見えなかった。むしろ無意識だった。だから余計に目についた。安物のスーツを着ていて、見切り品を買ってきて、それなのに所作だけが場違いなほど洗練されていた。 「叔父さんって、昔お金持ちだったんですか」 「違います」 即答だった。 「じゃあどこで覚えたんですか、そういうの」 灯は少し考えた。 「忘れました」 本当に覚えていないらしかった。 どこで身につけたかを忘れるくらい、長い間そうしてきたということなのか。それとも本当に記憶にないのか。どちらなのか判断できなかった。 「忘れるものですか、そういうのって」 「そうでもないですか」 「普通は覚えてると思います」
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9話「家族からの連絡」

 休日の昼、スマホが鳴った。 母からだった。しばらく画面を見てから出た。「元気?」「まあ、そこそこは」「今どこに住んでるの」「知り合いのところです」 少し間が空いた。「そう」 住所は聞いてこなかった。聞かれても答えるつもりはなかったので、ちょうどよかった。「そろそろ帰ってきなさい」 真衣の出産準備が始まった。手伝いが必要だ。家族なんだから。家族は助け合うべきだ。 母の言い方はいつも同じだった。同じフレーズが何度も続く。瑠衣が口を挟む余地は与えない。 父に代わった。「いつまでも意地張るな」「意地を張っているつもりはないんですが。それに出て行ってくれと言ったのはそちらですよね?」「お前の部屋も空いてる」 (駄目だ、こいつら人の話を聞いちゃいねぇ) 瑠衣は聞こえないように軽く息を吐いた。「赤ちゃんの部屋じゃなかったんですか」 沈黙があった。「なんとかなる」 本気の声だった。なんとかなる、と言いながら、なんとかするのが瑠衣だという前提がすでにあった。「考えておきます」 電話を切った。 ソファに座って、天井を見た。染みのない、均一に白い天井。見慣れてきていた。 帰るかどうか。答えは電話を切った瞬間にはもう出ていた。 別のことを思い出していた。あの夜、父に呼ばれてリビングに行ったら、父の顔が妙に真剣だった。「しばらく家を出てくれ」と言った。理由を聞く前に、自分でわかった。怒りより先に、妙に冷静だった。出ていったのは自分だった。頼まれたから出たのか、自分で決めたのか、今でもよくわからなかった。 本を開いて、読まなかった。灯が地下書庫に置いていった植物学者の随筆だった。ページの上に視線を置いたまま、一行も進まなかった。窓の外で風が木を揺らして、影が床を横切った。それだけ見ていた。母の声でも父の声でもなく、あの夜のリビングの静けさだけが、ずっと耳の奥に残っていた。 夕方、玄関に革靴があった。 珍しく早い時間だった。台所に向かうと
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10話「実家へ」

 電車の窓の外に、見慣れた景色が流れていた。 子供のころから何百回と見てきた風景だった。駅のホーム、踏切、団地、川。昔は実家に帰るたびに、この景色が見え始めると少し安心した。もうすぐ帰れる、という感覚があった。 今は何も感じなかった。 それでも電車に乗っていた。本当は来たくなかった。ただもう一度だけ確認したかった。自分の目で見て、肌で感じて、それでも同じ答えが出るなら、次からは迷わなくて済む。そのために来た。 乗り換えが一回あった。乗り換えのホームで、学生のころよく買っていたパン屋が閉まっているのに気づいた。シャッターが降りていた。跡地に別の店が入っていた。 何年前に閉まったのか、知らなかった。 実家の前に立った。 インターホンを押す前に、鍵を持っていることを思い出した。ただ勝手に開けて入る気にはなれなかった。ボタンを押した。「はーい」 母の声がして、ドアが開いた。「久しぶり」「そうですね」「元気そうじゃないか」 父が廊下の奥から顔を出した。 まるで何事もなかったような空気だった。少し拍子抜けした。怒鳴られるとも思っていなかったし、責められるとも思っていなかったが、もう少し何かあるかと思っていた。ただの久しぶりの帰宅として処理されていた。 リビングに通された。 テーブルの上に、カタログが何冊も広げてあった。ベビーベッド、ベビーカー、チャイルドシート。付箋が貼ってあって、母の字でメモが書き込んであった。テレビ台の横にベビー用品の箱が積んであった。部屋の中心が変わっていた。 真衣がソファから立ち上がった。「お姉ちゃん久しぶりー」 いつも通りだった。何も変わっていなかった。声のトーンも、笑い方も、こちらに近づいてくる足取りも、全部あの頃のままだった。「久しぶり」「どこに住んでるの、ちゃんとした家?」「ちゃんとしてます」「良かった。心配してたんだよ」 本当に心配していたらしかった。その顔で分かった。悪意がなかった。何かを演じているわけでもなかった。ただ、心配の中身が少し違う
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