赤い爪の女は、もういませんでした。さっきまで男の隣にいた女です。薔薇のルビーのピアスを受け取り、男の袖に触れ、ホテルの方へ一緒に消えていった女。その赤だけが、今はどこにもありません。雨に濡れた歩道の端を、濃紺の背中だけが横切っていきました。ひとりでした。黒い傘を持つ左手が、少し重そうに揺れています。愛梨沙は白いボトルを握ったまま立っていました。甘い飲み物はもう欲しくありません。喉の奥に残った匂いが、少しずつ重くなっていきます。甘いのに渇くような味でした。(拓哉さん…)名前を呼んだだけで、喉の奥が少し痛みました。声には出しません。出したら、雨の中に落ちてしまいそうでした。届かない名前を呼ぶのは、泣くのと少し似ています。届かなかったら、呼んだことまで恥ずかしくなるからです。男は駅の反対側へ歩いていきます。急いでいるようには見えないのに、足取りは軽くありません。人にぶつからないよう肩を避けながら、帰る場所を決め損ねたような顔で歩いていました。麻里亜はいません。妻もいません。白いニットの女も、ここにはいません。それなのに男の周りには、誰かの気配だけが薄く残っているようでした。赤い爪のあと、青い紫陽花の気配、白い袖の甘さ。そういうものを全部置いてきたような顔で、男はひとりで歩いています。愛梨沙は少し遅れて足を動かしました。違う。追っているわけではありません。ただ同じ方向へ歩いているだけです。駅前の道は誰でも通ります。雨の日の夜に、濃紺の背中を目で追うことくらい誰にでもあるはずです。そういうことにしました。けれど愛梨沙の足は、男が曲がると同じように曲がりました。男が人の流れから外れると、愛梨沙も少しだけ端へ寄りました。白いボトルを持つ手に湿った熱がこもります。甘い匂いが、手袋の内側まで入ってくるようでした。男は駅ビルの脇にある屋根の下で立ち止まりました。雨を避けるためではなさそうです。ただ、そこでいったん足が止まったのです。黒い傘を持ったまま、スマホを取り出します。画面の光が男の顔を下から薄く照らしました。昼間、ジュエリーショップの硝子越しに見た横顔より、ずっと疲れて見えました。目の下に影があります。口元は閉じているのに、何かを言い損ねたように少し硬い。男はしばらく画面を見ていました。誰かに電話をするのかもしれません。妻へでしょうか。
Huling Na-update : 2026-06-26 Magbasa pa