悠人は一歩近づき、声を潜めた。「1時間だけ俺に時間をくれ。たったの1時間でいい」私が言い返そうとすると、後ろでエレベーターの開く音がした。拓也が降りてきた。ファイルを持っていて、私と悠人を見ると動きを止めた。拓也は悠人を見つめ、それから私に視線を向けた。「大丈夫ですか?」拓也は私に尋ねる。私は首を振った。悠人は拓也を凝視した。私の隣の拓也を見て、表情を曇らせる。「こいつは誰だ?」「職場の同僚」と答える。拓也は特に気に留めた様子もなく、小さく頷くとファイルを持ってその場を去った。それでも悠人の視線は、拓也が廊下の先へ消えるまでずっと追っていた。「お前のこと、好きなのか?」悠人の声が冷ややかなものに変わる。私は顔を上げて悠人を直視した。「悠人。私たちはもう別れたの。私が誰を好きで、私が誰に好かれるか、あなたには関係ないでしょ?」「別れてからまだ4ヶ月も経ってないんだぞ」「だから何?」悠人は歯を食いしばり、言葉を飲み込んだ。なんだか滑稽に思えてくる。「悠人、よく聞いて」私は一言ずつ噛みしめるように告げた。「私たちが別れた理由に第三者は関係ない。鈴蘭さんの件はどうでもいいわ。そもそもあなたの人間性に問題があるの。根本的に、私を対等に扱う気なんてないでしょ」悠人の顔色が瞬時に青ざめた。彼は杖に体重を預けたまま、指の関節が白くなるほど力を込めて立っている。ロビーに数秒間、重苦しい静寂が漂い、エアコンの稼働音だけが響いていた。私は背を向け、エレベーターの方へと歩き出す。今度は悠人が追いかけてこなかった。けれど、悠人という男は一度貼り付いたら取れないガムのようにしつこかった。会社には現れなくなったが、別のやり方で私の日常に入り込んできた。例えば、遥からの連絡だ。遥によると、悠人から電話があったそうだ。私が最近誰と会っているか聞かれたという。「どう答えたの?」片付けをしながら私は尋ねる。「『あなたには関係ないでしょう?』って言って切ったよ」「その後もかかってきた?」「しつこいから着信拒否したわ」遥がお菓子をサクサクと食べる音が聞こえていた。「ただね、吉野さん、森下さんのところにまで行ったみたいよ」私の手が止まった。「今、なんて?」
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