All Chapters of 偽の妻は辞める。本物の令嬢は超大物に嫁ぐ: Chapter 21 - Chapter 30

30 Chapters

第21話

何といっても明里はトップ女優なのだ。きらびやかな世界で生きてきた彼女が、今や自分だけのために控えめに暮らしてくれようとしている。それに、今日こうして明里の前で、唯に高いスポーツカーを買ってやったばかりだ。さぞかし嫌な思いをしただろう。そう思うと、やさしい彼の目に、ほんの少しいたわりの色がにじんだ。彼のほうから提案した。「大丈夫だ。唯のことばかりを優先して、明里を粗末にはしないよ。前に落札しためずらしい原石があって、あげようと思っていたんだ。ジュエリーデザイナーのアトリエで、明里のためにオーダーメイドのジュエリーを作らせようと思うんだが、どうだ?」明里の瞳が輝き、心の中に積もっていたもやもやが、一瞬にして消え去った。「本当に?雅人、本当に優しい」明里は嬉しそうに顔を上げた。すぐに雅人の唇に身を任せ、落ち着かない手つきで体に触れながら、甘く囁いた。「雅人……今夜は帰らないで。私が満足させてあげる」だが、雅人の心は、先ほど唯が見せた妖艶な姿にすっかり奪われていた。彼は明里の手を押さえ、詫びるように断った。「いや、ずっとここにいたら、唯がいろいろ考えて拗ねてしまいそうでな」そう言うと、服を整えて背を向けた。雅人は高まる期待を抑え、寝室のドアへ足早に向かった。外見は紳士であっても、唯のように魅力的な妻がいれば、愛がなくても自然と情欲に溺れるものだ。雅人は頭の中でシナリオまで考えていた。しかし、寝室のドアは閉ざされていた。ドアノブを回しても、びくともしない。中から鍵がかけられていた。雅人はぽかんとした。すぐに手をあげてノックし、中に呼びかけた。「唯?戻ったよ、開けてくれ」返事はない。強めに叩いてみた。「唯?寝ているのか?」応えるのは、凍りつくような沈黙だけだった。冷たい廊下に立ち尽くす雅人の頭の中にあった、熱い抱擁の想像は跡形もなく消え去った。その夜、唯はとてもよく眠れた。翌朝、スッキリした気分で寝室を出ると、書斎のドアが開き、雅人が充血した目で出てくるのと鉢合わせした。唯はわざとらしく口元を押さえ、純粋そうな目で見つめた。「雅人。陽太くんはぐずっていたの?一晩中戻ってこないから心配して……」雅人の溜まった怒りはやり場がなかった。眩しいほどに晴れやかな顔の唯を見て、書斎のソフ
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第22話

朝食の席で。雅人が唯のためにスポーツカーを買ったことが、両親の耳に入っていた。隆平は険しい表情で唯を叱責した。「唯、家のガレージにはまだ車があるだろう?なぜそんな高価な車が必要なんだ?雅人のためを少しは考えろ。最近の振る舞いは度が過ぎる!」一方、椿は上品ぶった顔で、唯をちらりと見て、鼻で冷たく笑った。「少しばかり嫌なことがあったからって、数億円で機嫌をとらせるなんて。まあ、ずいぶんお姫さま扱いね。事情を知らない人が見たら、孤児じゃなくて、どこかの大金持ちの令嬢だと勘違いしそうよ!」唯は怒りもしなかった。彼女は淡々と席を立つと、バッグから車の鍵を取り出し、テーブルの中央に置いた。「お二人の仰る通りです。この車はあまりに高価すぎて、私には分不相応ですね」少しの間を置き、唯はゆっくりと続けた。「今日の午後は恵美さんに誘われているので、ガレージにある適当な車を借りていきます」雅人には、高級車を集める趣味がなかった。家のガレージにある車といえば、せいぜい数百万円の平凡な実用車ばかりだ。本当のお金持ちの奥さま方の中では、そんな車では格好がつかない。案の定、雅人はその言葉を聞いて顔色をがらりと変えた。マダム会の効果は、思った以上によかった。雅人は唯を恵美たちの輪に入れ、松尾グループの事業への投資を引き出そうとしていたからだ。「父さん、母さん。もういいじゃないか?」と、雅人は慌てて優しく割って入った。「今回の車は、唯が長年この家のために苦労してきたことへのご褒美として贈ったんだ。どのみち会社に行くわけじゃないし、いろんな人たちと交流するのはいいことだろう?」隣で陽太に食事をさせていた明里は、それを聞くと、伏せた目の中に激しい嫉妬を光らせた。しかし、雅人が約束してくれた宝石のことを思い出し、必死に感情を押し殺した。明里はすぐに表情を整え、従順で控えめな微笑みを浮かべながら、何も聞こえなかったかのように、優しく陽太の世話を続けた。引き下がる理由ができて、隆平の顔色も少しやわらいだ。彼は咳払いを一つし、年長者としての立場から自分を正当化した。「無駄遣いするなと言っているわけじゃない。唯のような若い子が、贅沢を覚えるのが心配なだけだ」そう言うと、彼は話の向きを変え、含みのある目で唯を見た。「そうだ、
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第23話

朝食が終わった。唯はバッグを手に取り、出かける準備をした。雅人が後ろをついてきた。車のキーを持つ唯を見て、不思議そうに尋ねた。「もう出るのか?片岡グループの社長夫人たちとの約束は午後だっただろ?」唯は振り返り、耳元の髪を直した。「ええ、でもその前に髪型を変えたくて。仕事ばかりで美容室にも行けていなかったから。これからはマダム会に参加するんだし、話についていけないと困るでしょ?」唯の気遣いに雅人は満足したようだ。財布からブラックカードを出し、彼女に渡した。「そうだな、オシャレも大事だ。さあ、行ってこい。新しい服やアクセサリーも買うといいよ。お金は気にしなくていい」「ありがとう」唯は甘く微笑み、そのカードを受け取った。しかし、真っ赤なマクラーレンが松尾家の本邸から走り出したあと、唯が向かったのは美容室でもショッピングモールでもなかった。ハンドルを切ると、迷いなく中央通りへと車を進めた。スポーツカーは、盛沢市で最も有名なオフィスビル前で止まった。ここには、吉野グループ盛沢支社がある。吉野家が盛沢市で新たに立ち上げたプロジェクトだ。奇妙な縁だが、これは唯が以前、松尾グループの社員として深津市に出張した際に苦労して勝ち取った案件そのものだった。その仕事がきっかけで、唯は自分の家族と再会できたのだ。今、彼女は松尾家によってうまく権力の中心から外されていた。そこで慎は、このプロジェクトの責任者の座をそのまま唯に与えた。一晩にして、唯は松尾グループのプロジェクトマネージャーから、逆に松尾グループを仕切る側の責任者へと昇進したのだ。慎は側近の秘書の長谷川照史(はせがわ あきと)を盛沢市に送り込み、唯のサポート役につけた。唯が吉野グループ盛沢支社の扉を開けると、すでに照史が待ち構えていた。唯にとって、照史のことは鮮明な記憶として残っている。以前このプロジェクトを勝ち取ろうとしていた頃、照史にはさんざん手こずらされたからだ。この男は評判通りの手ごわい策士で、独自の厳しい基準であらゆるものを選り分けていた。ただの初期案にすぎず、正式に決まったわけでもないのに、彼は容赦なく数回も企画書を書き直させた。彼女はもう少しで胃に穴が開くところだった。「唯様」照史は唯の姿を見ると立ち上がり、軽く頭を下げた。敬意は表している
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第24話

「承知いたしました」照史はそう言うと、手元に用意してあった書類をすぐさま差し出した。「唯様、こちらが現在、ご確認いただきたい2つのプロジェクトの資料でございます」唯はその書類を受け取り、ざっと目を通した。松尾グループが吉野グループからようやく勝ち取ったプロジェクトの他に、桐生グループと共同開発するAIロボットの案件も、進捗を確認する必要があった。桐生グループ……禮。唯の指先が資料の上を軽く叩き、その瞳が微かに揺れた。唯はお昼まで会社に残ってから席を立った。その後、近くの美容室へ向かった。唯は長年腰まで伸ばしていた黒髪のストレートヘアを、ウェーブヘアに変えた。もともと目鼻立ちがはっきりとしていて大人びた顔立ちの唯は、仕事上、いつも知的でキビキビとしたスタイルでその鋭さを抑えていた。ヘアスタイルを変えた途端、隠していた唯本来の美しさが露わになった。美容師が仕上げを終え、唯は鏡に映る新しい自分を見て満足げに頷いた。そのまま車を走らせ、郊外にある隠れ家レストランへ向かった。予約した個室で待っていると、10分もしないうちに禮が現れた。今日の禮はカジュアルな服装だが、生まれつきの気ままで冷たい雰囲気は、少しも隠せない。唯を見つめると、普段は無表情なその瞳に、明らかに熱がこもった。「新しい髪型、似合ってるな」禮は椅子を引いて座り、素っ気なく褒めたが、目線は唯の髪先に長く留まっていた。言葉が終わるやいなや、ポケットからベルベットの小箱を取り出し、唯の前に差し出した。唯が開けてみると、中には小さなダイヤをちりばめた椿のブローチが、静かにおさまっていた。唯は眉を上げ、冗談めかして尋ねた。「桐生さん、これはどういう意味ですか?ただ食事をするだけなのに、こんな高価な贈り物とは」禮は当たり前のように頷いた。「母が、婚約者と初めて二人で食事に行く時は、手ぶらじゃいけないと言っていたから」唯は驚きを隠せなかった。政略結婚の相手が、まさかの「超金持ちマザコン」だったということか?しかし、禮から漂うあの「他人を寄せ付けないオーラ」とはどうにも合致しない。だが、唯はそれ以上深入りしなかった。彼女はお茶を注ぎ、真っ直ぐ本題へ入った。「桐生さん……私たちは1ヶ月後に籍を入れることになるはずだし、盛沢市の
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第25話

禮は目線を上げると、ふふんと鼻で笑った。「それに、俺はどこをとっても雅人より上だ。俺を選んでも、損はしない」唯は少し戸惑い、目の前の男をまじまじと見つめた。目を見張るような彫りの深い顔立ちで、鋭い視線を持ち、ただ座っているだけで重圧を感じさせる男だ。尊大だが……間違いではないかもしれない。店員が料理を運んできて、二人の間の張り詰めた空気を打ち破った。唯が箸に手を伸ばすと、スマホが震えた。雅人からの電話だった。通話ボタンを押すと、声をすぐに品のある妻の口調に切り替える。「唯、お茶会はどうだった?あの奥さんたちと、話ははずんだ?」「まあね」唯は適当に返した。「初めて会う人たちだし、まだ打ち解けられなくて」「いいよ、無理しなくて」雅人は優しく慰めた。「そういう世界だからね。何度か会えば馴染めるよ」その偽りの優しさに、唯は思わず笑いそうになる。適当に話を切り上げ、電話を置いた。食事の途中、唯はお手洗いに行った。お手洗いから出て、静かな廊下を個室に戻る時、ふと、雅人が明里を連れて、隣の個室に入っていくのが見えた。唯の顔が、すっと曇った。思わず息をひそめる。そして音もなく、あとをつけた。二人が入った個室のドアは、まだ完全に閉まっていなかった。中から明里の甘い声をもらす。雅人の首に腕をまわし、待ちきれないように口づけた。雅人は一瞬、予想外だったのか驚きを浮かべ、反射的に突き放そうとする。でも、明里はもっと強くしがみついた。両腕を彼の首にまわし、たっぷり甘えた声で言う。「雅人……家では唯さんがいるから、私に触れられないでしょ。せっかく外に出て、ほかに誰もいないのに。どうして押しのけるの?」その不満げな声が甘い罠となり、雅人の理性を壊した。昨晩、唯に触れることができなかったことの苛立ちも加わったのかもしれない。雅人はもう抵抗せず、明里の腰を引き寄せ、口づけを返した。唇と唇が重なり合う卑猥な音が、わずかに開いた隙間から唯の耳へと流れ込んできた。胸が悪くて、唯は吐き気が込み上げてきた。ここ数年、目に見えないところで、どれほどこうした不倫劇が繰り返されていたのか……そんなことは考えたくもなかった。自分は利口で自立しているつもりだったが、結局のところ、3年間もずっと馬鹿を見ていただけだ
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第26話

通話が終わっても、唯の中で湧き上がる怒りは冷めやらなかった。禮との食事など、とても喉を通るはずもなかった。唯が禮に、少し気分が悪いので別日にしようかと謝ろうとした時、ふと見ると、禮がじっとこちらを見つめていた。しかも、視線を向けた瞬間、禮の深い瞳を何か言い知れぬ感情が掠めた気がした。禮が自分が食事中に余計な処理をしたことに苛立っているのだと思い、唯は説明した。「申し訳ありません、お見苦しいところをお見せしました。私、少し根に持つタイプでして……ああいうことがあって、その場で何かやり返さないと気が済まないんです」禮は肯定も否定もせず、だらりと頬杖をついて、興味深げに言った。「それで、連絡した相手はたった一人?」唯は驚き、その意図がわからず思わず言い返した。「じゃあ……どれくらいならいいのでしょうか?」「やれやれ」禮は小さく笑った。「随分とおしとやかなんだな」そう言うと彼は落ち着いた動作でスマホを取り出し、長い指を軽やかに走らせ、どこかへメッセージを送った。そしてスマホを机の上に放り投げると、少し悪戯っぽい笑みを浮かべて唯を見た。「俺は昔から、理屈より身内の味方だ」彼は気だるそうに言った。「だから、ついでに盛沢市のパパラッチを半分くらい呼んでおいた。やりすぎだなんて思わないよな、俺の婚約者さん?」最後のひとことだけ、彼はわざと間をのばして、からかうように言った。唯はそこでようやく理解した。彼は自分に味方してくれているのだ。傲慢で好き勝手な男の様子を見て、唯の口もとに笑みが浮かんだ。「もちろん思いません。さすが桐生さん、気がきいてます。これで、外はずいぶん賑やかになるはずですね」言った通り、10分もしないうちに、隠れ家レストランの周囲は無数のパパラッチに包囲された。同じ頃、隣の個室で雅人と明里は我を忘れて愛を囁き合い、服も乱れ、理性のタガが外れかかっていた。しかしこの絶妙な瞬間に、明里のスマホがけたたましく鳴り響いたのだ。それはマネージャーからの、激しい着信の嵐だった。「今どこにいます!?」通話に出るやいなや、怒号が響いた。「男と外で遊んでるんじゃないでしょうね!?盛沢市中のパパラッチが全部その店に集まってるんですよ!あんた、明日のトップニュースでも飾りたいんですか?今すぐ隠れてください!」
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第27話

一瞬で、雅人は唯のことを思い浮かべた。その目を鋭く光らせ、努めて冷静に言った。「慌てるな!俺の言うことを聞け。先に隠れろ。俺は今から唯を呼んで、ここで一緒に食事をする。そのあとで君も出てきて同席しろ。パパラッチたちだって、俺たち3人で食事をしているところを見れば、余計な疑いは抱かなくなるだろ!」明里はまだ動揺していた。あたりを見回して不安そうに聞く。「どこに隠れればいいの?」雅人の視線が個室を素早く巡り、角にあったコートや手荷物を入れる木製のクローゼットで止まった。「あのクローゼットの中だ」クローゼットに?明里の表情が凍りついた。みんなが憧れるトップ女優の自分が、どうして人目に触れてはいけない愛人のように、暗くて狭い場所に隠れなければいけないのだろう。心の中では嫌でたまらなかった。それでも理性が、込み上げてくる感情を必死に抑え込む。もしここで二人の関係がバレたら、自分の仕事がだめになるだけではない。松尾家における雅人の評判も落ちて、最悪の場合、跡継ぎになれなくなる可能性もあった。そうなれば、これまで耐えてきた苦労も水の泡だ。じっくりと考えた後、明里は悔しそうにくちびるを噛んでうなずいた。「……分かったわ。あなたの言う通りにする」同じ頃、唯は窓の外の騒ぎを面白そうに眺めていた。店側も警備員を動員して押し寄せるパパラッチを追い返そうとしていたが、次から次へとパパラッチが詰めかけ、誰もが今夜のスクープを狙っている。辺りはまさに騒然としていた。唯はうまくいったと満足げに笑みを浮かべ、向かいに座る禮に楽しそうに賭けを持ちかけた。「桐生さん、予想してみませんか?外のパパラッチが強行突破してスクープを撮るか、隣の部屋の二人が諦めずにパパラッチが帰るのを待つか、どちらだと思いますか?」禮は、唯の綺麗な横顔から何気なく視線を外し、淡々と言った。「俺の予想では、まもなく唯さんに呼び出しの電話がかかってくると思う」彼の言葉が終わるか終わらないかのうちに、雅人から本当に電話がかかってきた。唯の口元に嘲笑が浮かぶ。通話ボタンを押すと、声色を完璧に切り替えた。「どうかした?」「唯、いまどこ?」雅人はいつも通りに優しく問いかけてきた。「今夜は外で食べないか?郊外のレストランを予約したんだ。美味しい店だから、ず
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第28話

真面目な顔をして言い訳する姿を見て、唯は思わず吹き出しそうになった。禮がこんなに純情な人だったなんて、まったく思ってもみなかった。このギャップは、いくらなんでも大きすぎる。「私のひがみだったみたいですね。どうせ待つなら、時間をつぶすのに付き合って、ゲームしませんか?」唯は珍しく上機嫌でからかい、自分から誘ってみた。どっちにしろ、雅人から連絡が来て彩葉通りから駆けつけたのだから、それらしく時間を潰す必要があった。禮はそれを断らなかった。唯はスマホのゲームに興じながら、時間を計算していた。1時間半ほど経った頃、スマホを置き、隣の部屋で繰り広げられる芝居へ加勢しに向かった。唯は立ち上がって服の裾を整えると、真剣な面持ちで禮に向き合った。「今日の食事は、あまり気もちよくなかったですね。次は私がおごります。おわびのしるしに」禮も立ち上がり、あっけらかんと言い返した。「次はって言うなら、これで合計三回分、奢ってもらうことになるぞ」「え。それって、弱みに付け込んでるって言わないのでしょうか?」唯は呆れて禮を見上げた。まだ二度目の顔合わせだというのに、妙に気が置けない空気が流れている。唯自身でも少し不思議だった。「そんなことはないさ。ただ俺のルールとして、借りがあるなら3倍返しにしてもらうことにしている」唯はそのへりくつに笑ってしまい、言い返すのも面倒になって頷いた。「分かりました、みとめます。じゃあ、つけにしておいてください。でも高い店ばかり選んで、ふんだくらないでくださいね」「その時の気分だね」禮は表情を崩さず言った。唯は個室を出て、完璧な笑顔を張り付けると、雅人のいる部屋の前に向かった。そして、ゆっくりとドアをノックした。部屋の中にいた雅人は、明里をクローゼットへ隠したことをもう一度確認し、急いでドアを開けた。「唯、ようやく来てくれたんだね」甘い笑みを浮かべ、雅人は自然な動作で唯の手を引こうとする。そして、今夜の唯の姿をしっかりと見た瞬間、彼は動きを止めた。その瞳に、一瞬で魅了されたような光が宿る。彼は昔から、唯が美人であることを知っていた。凛とした冷たさの中に上品さを秘めた、独特の美しさだ。それなのに、髪型を少し変えただけで、唯の醸し出す雰囲気がここまで別物になるとは。ちょっとした表情の
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第29話

「そういえばさ、外にいたパパラッチが明里さんの噂をしてたわよ?彼女を狙ってる人たちがいっぱい来てるみたいで、ずいぶん騒がしいのね。ひょっとして、陽太くんの父親と食事でもしてるんじゃない?」雅人の仮面がわずかにひび割れ、目元に一瞬の狼狽が走った。彼はすぐさま視線を落とし、カトラリーを揃えるふりをして顔を隠した。「さあ、知らないな」彼はすぐに否定したが、その声は少し強張っていた。「でも昼間、会社で彼女が話しているのを耳にしたよ。マネージャーとご飯を食べて、契約解除について相談するとか何とか」彼は言葉を濁しながら、バツが悪そうにメニューを唯の前に差し出した。何とかして話題を変えたい様子だ。「とりあえず注文しよう。彩葉通りからここまで来たんだし、お腹が空いたでしょう」唯はそれ以上追及せず、メニューを受け取って、適当にいくつか注文した。視線の端で、雅人が注文した料理が見えた時、彼女は心の中で冷たく笑った。昔から辛いものが一切食べられないはずの彼が、味の濃い激辛料理を頼んでいたのだ。料理を待つ間、雅人はやけに気を遣い、ひっきりなしに唯のグラスに飲み物を注いでいた。澄んだ飲み物がグラスに揺れるのを見て、唯は雅人の魂胆をすぐに見抜いた。自分に飲み物を多めに飲ませ、席を立たせようというわけだ。もし自分が席を立てば、隠しておいた明里をこっそりクローゼットから出し、別の席から合流する芝居を打てるはずだ。あいにくだが、そんな手には乗らない。30分が過ぎた。雅人は落ち着きなく唯を窺っているが、彼女は平然とした様子だった。席を立つ気配すら微塵も見せない。わずか30分という時間が、密閉されたクローゼットの中にいる明里には、永遠にも等しい苦痛だった。明里は暗くて狭い空間で身をすくめ、音一つ立てることもできない。手足は完全にしびれきっていた。扉のわずかな隙間から、雅人が懸命に唯の取り皿に料理を取り分けているのが見える。胸の奥で、猛烈な悔しさが渦巻いた。どうして唯は雅人の優しさを当たり前のように受けていて、自分は泥棒のように隠れて苦痛に耐えなければならないのか?時間が経つほど明里が見つかるリスクが増すと、雅人も気づいている。彼は唯の整った顔を見つめながら、必死に口実を考えた。そして突然、唯の口元を指さし、優
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第30話

その時、唯もタイミングを見計らったように立ち上がった。「それならちょうどいいわ。私もお手洗いに行こうかしら」雅人はほっとして、支配人とともに足早に個室を後にした。クローゼットの中に隠れていた明里は、遠ざかる足音を聞き、またとない好機が訪れたと直感した。暗くて窮屈な場所にこれ以上耐えられず、一刻も早くクローゼットの扉を開けようとした。しかしその時、個室の外から突然、こちらへ向かってくる足音が響いた。唯の足音のようだ。明里は胸が張り裂けそうな緊張を感じ、恐怖で慌てて身を縮めた。事実は明里の直感通りだった。個室のドアが開き、唯がすぐに戻ってきた。雅人はまだ戻っておらず、絶妙なタイミングだった。唯は平然とクローゼットの前まで歩み寄り、周囲を何気ない様子で見回した。そして、クローゼットの中から外が見えない位置を正確に見極めた。次の瞬間、唯は小さな竹串をクローゼットのドアの鍵穴の隙間に音もなく差し込んだ。事を終えると、唯は何食わぬ顔でテーブルに戻り、夫の帰りを待つ優しい妻を演じ続けた。それから間もなく、雅人が車を移動させて戻ってきた。彼がドアを開けると、唯が元の場所に何事もなく座っているのが目に入った。「戻ったの?」唯は手でこめかみを押さえ、程よく疲れたような様子で言った。「どうも今日はやけに疲れてしまって……頭も痛いの。そろそろ帰って休まない?」雅人は拍子抜けした。唯がこんなに早く帰りたがるとは思わなかったからだ。まだ明里を外に出して、偶然出くわしたように装うチャンスを作れていなかったのに。だが雅人はすぐに考え直した。それでもいい、と。今、唯と一緒に帰れば堂々としたものだ。たとえその後で明里がレストランから出てくるところをパパラッチに撮られたとしても、自分に火の粉が降りかかることはない。明里には申し訳ないが、これで自分の名誉は保てる。そう思った雅人はすぐに気遣うような表情を作り、唯の側に歩み寄って優しく言った。「疲れているのか。こんな遠い店を選んで行ったり来たりさせてごめん。すぐに帰ろう」雅人は唯に丁寧に上着を着せ、レストランを後にした。二人が家に戻ったのは、夜も深い時刻だった。リビングでは陽太がまだ起きて待っていた。「ママ、まだなの?」雅人が入ってくるのを見て、陽
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