嫁入り舟を譲ったあなたへ、さようなら
私・春木宵(はるき よい)の生まれ育った水郷の町には、古くから伝わる風習がある。愛する女性を妻に迎える際、男は自らの手で木舟を造り、「嫁入り舟」として贈るというものだ。
交際7周年の記念日。恋人の周防迅(すおう じん)は、完成したばかりの真新しい舟の進水式を開いてくれた。
集まった友人たちの歓声に包まれながら、胸の奥が早鐘のように鳴りやまない。
たまらずその舟に足を踏み入れようとした瞬間、迅の友人たちが声を潜めて話すのが耳に入った。
「おい、マジでこの舟、ゆのちゃんにあげる気かよ。宵さんにバレたら修羅場になるぞ」
「そうそう、宵さんって結構キツいとこあるし。あんま調子乗ってるとヤバいって」
次の瞬間、聞こえてきたのは、微塵も悪びれる様子のない迅の呆れたような声だった。
「平気だって。宵は適当に機嫌取っとけばチョロいから。俺のことに首ったけだしな。
それに、あいつの地元じゃ28歳なんてとっくに行き遅れだ。今さら俺に愛想尽かせるわけないだろ。
大体さ、籍を入れるのは宵で、嫁入り舟をあげるのはゆの。ちゃんと平等だし……これで俺の未練も晴らせるってわけ」
私と結婚することは、迅にとって「未練」が残るようなことだったの?
チョロい。
行き遅れ。
その言葉の数々が、鋭い棘のように耳の奥を突き刺す。
喉が締め付けられるように苦しかったけれど、涙は出なかった。
ただ静かにスマートフォンを取り出し、画面をタップした。
【お母さん。お母さんの言う通りにするね。私、もう28だもん。これ以上は待たないよ】