Chapter: 16.久しぶりに会話とパンツ一丁あの部屋は……いったいなんの部屋なんだろう。掃除をしながら、大雅さんが切ない瞳で女性の写真を見つめていた秘密の部屋に視線を向ける。「もしかしたら大雅さんには好きな人がいて、立場的にその人と別れなきゃならなくなって……それでも忘れられなくて、たまに思い出に浸る……部屋?」……あら?でも、週刊誌にすっぱ抜かれた恋人がいるんじゃないかしら?「あの人は『花園ミミ』って、有名な女優さんらしいわ!」昼過ぎのワイドショーや過去のドラマを観まくって、芸能界というところにはかなり詳しくなった。それによると花園ミミは押しも押されぬトップ女優。そして……「わが家主の大雅さんも、超人気俳優よ〜!」その場でくるりと一回転。覚えたてのVÉLOURSのヒット曲を口ずさみながら、振り付けをまねてステップを踏んでみる。……そこへ、ガチャっと玄関ドアが開き、仏頂面の大雅さんが入ってきた。「あ、」腰をクイッと捻ったポーズをどうしたらいいか迷いながら……「おかえりなさい。お早いお帰りで……」とりあえず声をかけてみたものの、呆れたような視線とため息だけが返ってきた。そうだった……昨夜、権堂さんが来て教えてくれた。大雅さんは撮影が長引き、帰宅は翌日の午前中になると。「あの、大雅さん……今日はもう、お仕事はおしまいで?」開けっ放しだったので、つい寝室を覗いてしまった。するとシャツを脱ぎ、上裸になった大雅が、スラックスも下ろそうとしている場面……チラっと目が合って、とりあえず後ろを向いた。立ち去らないのは返事を待っていたから……「夕方、友人夫婦が春希に会いにくるから。……何か作ってくれ」「……はっ!」ひと言だけしか返ってこない会話が長く続いたので、普通に句読点のある言葉に感動して振り向いてしまった。「……っ?!」大雅さんは黒いピッタリしたパンツ一丁……あ、パンツというのはボトムスのことではなく、下着という意味だ。ムキッとした上裸と共に、そこに立つ姿は美しい……美しいがエロい。仕事としてこんな格好になったなら、いったいいくら稼げるのかしら。「なにジロジロ見てるの?」大雅さんからクエスチョン付きの言葉をかけられるなんて久しぶりで、感動して両手を口元に当て、思わず前に2〜3歩進んでしまった。……いや、いけない。寝室✖裸体✖男女体の付き合い、体のぶつけ合
Last Updated: 2026-07-20
Chapter: 15.結婚の理由2 Side.大雅「俺、家庭があるんですよ。……それなのに歩美、子供を産んじゃったわけで、」「自分に責任はないと?」「そうは言いませんけど、事故で怪我をしたことについては咎めませんから……その、」子供を引き取る気はない、ということ……昨夜、姉の部屋で見つけた婚姻届を見たことが脳裏をよぎり、拳をギュッと固めた。「俺には可愛い子供がいるんです。……もう大きくなっちゃったけど、娘はいまだに可愛くて、」和成は知っていたようなことを言うが、姉は既婚者であることを知らなかったのだろう。だからこそ子供を産み、婚姻届に自分の名前を書いて、そっと保管していた……怒りが溢れ返って言葉が出ない。それでも何か言ってやろうと口を開いた瞬間、病室に看護師と医師が入ってきた。……結局その日はもう面会を許されず、怒りは矛先を失って俺の中にくすぶり続けた。そして翌日、再び病室を訪ねると、ベッドが片付けられているという状況に唖然とする。「……前日に入院費を精算して、夜のうちに病室を抜け出したらしいです」治す気のない患者を追う義務もないわけで……病院には、はるきという子供だけが残った。「俺が連れて帰る」未成年後見人の手続きを取り、春希と一緒に暮らすことになった。母子手帳によると、春希は1歳。すくすくと育つ姿に目を細めながら、認知もせずに逃げ出した香坂和成という男を、俺は許せずにいた。探し出してその責任を取らせ、社会的に抹殺する……そんな思いを抱きながらその行方を追っていたのだ。「……香坂、花?」「和成の娘です。20代で、小さな出版社に勤めていることはわかりましたが……」娘か……和成が可愛いと漏らしていた言葉を思い出した。「ちょっと調べてほしい。俺とつながる何か、ないかな……」「大雅さん、それは……」「話してみたいだけだよ。父親の行方とか知ってるかもしれないしさ」心配そうな権堂に、この時俺は、本心を言わなかった。20代の娘なら、俺を確実に知っている。あのVÉLOURSのボーカルである俺に会ったら、平常心でいられないだろう。「和成が可愛いがっている娘に子供を作って、同じように捨ててやるとか……」姉と同じ目に合わせる。それとも……「結婚して逃げられないようにして、春希に会わせる。……それが父親の子供だと知ったら、さすがに居場所を吐くだろう」胸に渦巻く黒い感情で、あの
Last Updated: 2026-07-19
Chapter: 14.結婚の理由 Side.大雅「……はい、カーットっ!」助監督の声でハッと我に返った。胸ぐらをつかんだ状態で、ヒロイン役の花園ミミを見下ろす。「大雅さん、迫真の演技で素晴らしいんだけど……ミミちゃんが振り回されてるから、少し力を抜いてやって」「あ、すみません」演技に集中できないと、つい力が入ってしまうのは俺の悪い癖だ……胸ぐらを離し、助監督とミミ、両方に向けて謝罪した。「権堂さんに聞いたよ?……探してた人、見つかったんだって?」「本人じゃない。……その娘」「おびき寄せる道具にするつもりでしょ。うまく引っかかるといいけどね」撮影の合間、わずかな休憩時間にミミに話しかけられた。彼女は、2年前の事故を知る数少ないうちの1人。……詳しい事情までを知るのは、彼女と権堂の2人だけだ。「おびき寄せるのは、無理そうだな。今どき携帯を持ってないんだから」2年前、信じられない知らせを受けたのは、こんな風に撮影の合間で休憩をしている時だった。それは後に俺の代表作となる日韓合同映画「境界線のレクイエム」の撮影で海外ロケをしていた時のこと。「……大雅さん、携帯が何度も鳴っています。確認しますか?」権堂が手渡した携帯に表示されたのは、知らない番号からの着信。「……もしもし」「町蔵警察署の松本と申します。鈴里大雅さんの携帯で間違いありませんか?」はい……と返事をすると、信じられない情報が耳に流れてきて言葉を失った。「鈴里歩美さんが運転する車が事故を起こしまして、本人と同乗者2名が救急搬送されました」鈴里歩美は、5歳年上の姉……早くに両親を亡くした俺にとって唯一の家族だ。携帯を取り落とし、呆然とする俺の代わりに権堂が細かい事情を聞き、一旦撮影を離れることになった。たくさんの人間が関わる撮影に穴をあけるなんて、後にも先にもこの時だけ。少々の怪我や体調の異変くらいなら、歯を食いしばってステージをこなし、撮影に挑んできた。だがこの時だけは、ダメだった……「大雅……ごめんね、大事な時に、」病院に到着した時、姉は痛々しく包帯を巻かれた姿で……それは油断ならない状態だと一目でわかった。「子供が、いるの。はるきって、いうの。……好きな人と、結婚の……約束を、」「姉さん、母親になってたのか?なんで教えてくれなかったんだよ、バカだな……」「幸せに、なりたかったよ……」まさに、虫の息…
Last Updated: 2026-07-18
Chapter: 13.入ってはいけない部屋「はなちゃ〜ん!おうまさんのほんよんでぇ」「あ……わかったよ!」週刊誌の表紙にギリギリまで目をやり、笑顔の2人を脳裏に焼き付ける。女性の方が誰なのかわからない……今日からテレビをつけて、少し情報を入れないとダメだわ。私、何も知らなすぎる……子供に絵本を読み聞かせるスペースには、春希と同じくらいの子供とお母さんらしき人が何組かいた。自分も母親に見えるかな、なんて、妙にくすぐったい気持ちを抱えながら春希を膝に乗せる。「……お馬さんのお母さんは『ヒヒィ〜ン』と笑って、赤ちゃん馬を背中に乗せ、パッカパッカと歩き出した」続きを読もうとして、ふと春希を見ると、いつの間にかウトウトしている。昨夜は早めに大雅さんと横になってぐっすり眠ったと思ったのに、まだ眠いのか……「おうまさん、おわっちゃった?」しばらくユラユラしながら寝かせていたが、ハッとして起き出す春希。「昨日春くん眠れなかったの?たいがー、寝相悪かった?」いたずらっぽく聞いてみれば、春希は意外なことを言う。「たいがーずうっとモゾモゾしてたの」よくよく聞いてみれば、何度も寝返りを打っていた、ということらしい。ふと、さっき見てしまった週刊誌が思い浮かんだ。……女優との密会を撮られ、揉み消せなくて事務所に責められたとか。芸能人はスキャンダルが原因でCM契約を打ち切られたり、下手をすれば違約金が発生すると、以前瑠璃に聞いた事がある。「私との結婚だって、もしもバレたら……」世間に公表しないのは私のためなんて言っていたけど、やっぱりどう考えても困るのは大雅の方だ。春希は花の膝から降りて、読み聞かせ用の絵本を自分で開いて覗き込んでいる。その姿を見守りながら、花の思考はまた、さっき目にした週刊誌に戻ってしまう。密会する恋人がいるのに結婚なんかして……大雅さんはいったい何を考えているんだろう。「春希くんのこと、恋人さんは知ってるのかしら」というより、春希のことを公表していないなんて、まるで存在を否定されてるみたいで。「鬼ムカつく……」近いうち意見してやろう。そう心に決めたところで、ハッと思い出した。「そういえば権堂さん、どこにいるんだろう」こういうとき携帯を持っていない不便さを思い知る……大きなショッピングモールの中、権堂さんを見つけるのは大変そうだ。ところが権堂は、車のトラン
Last Updated: 2026-07-17
Chapter: 12.子供の他にも……?!「花さん、お待たせしました……!」「おはようございます、権堂さん。……それではタッチ交代ということでよろしいですか?」「はい!大丈夫です。駅まで送れたら良かったのですが」翌朝、大雅の言葉通り権堂がやってきた。リビングのドアを開けた途端、喜び勇んで駆けつけた春希。早速大きな体によじ登っているところを見ると、相当懐いているのだろう。「いえ、歩けるので大丈夫です!それでは行ってまいります」春希を置いていく罪悪感も薄れ、昨夜丁寧に書いた退職願いを持って家を出た。駅までの道を歩きながら、花は昨夜のとんでもないハプニングを思い出す。バッチリ裸体を見られてしまった……「とんでもなく恥ずかしいけど、驚かせたお詫びで謝ったのにな……」昨夜、ハラリと落ちたバスタオルを慌てて巻き直し、逃げるように寝室を出たものの、どこで寝たらいいか聞き忘れてまたリビングのソファで寝た。翌朝起きてきた大雅に気づいて、すぐに昨夜のことを謝った。「あの、昨夜は変なものを晒してしまい、すみませんでした」悪夢は見ませんでしたか?……と、ちょっとジョークを入れつつ笑いにくるんで忘れて欲しかったのに。「俺は何も見ていない」ハッキリと不機嫌な声、そして表情が、声をかけられた不快を表していた。朝は機嫌が悪い、という人は一定数存在する。……大雅もそういうタイプか。芸能人だし激務だろうしプライベートないし、朝の機嫌が悪いのは仕方がない。「だからぁ、急にこんなものを持ってきて辞めさせてくれって……話が通らないだろ?」「はい。……そこで、私の代わりに入社してくれるスタッフを手配をしました。必要であれば今すぐ紹介しますが」急な退職で社長にごねられたらそう言うように伝えてくれたのは権堂だ。……ということは、きっと大雅さんの指示。「私とまったく同じ条件で働けるスタッフですが、どうしますか?」迅速な対応策を持ってきた花に、文句をつけられなくなって、社長は黙り込む。「……いらないよ花ちゃん。社長はゴネたいだけだから!」苦虫を噛み潰したような表情で拳を握る社長を見かねて、ベテラン社員が口を挟んだ。「そうよ!花ちゃんが抜けても私たちだけで十分回るわ。……先代も少し人件費を見直せってこの前言ってたしね?」「え、父さんが?……そうなの?」「やだ!……社長に言わないで私たちに言うなんて、樹木也
Last Updated: 2026-07-16
Chapter: 11.歪な結婚生活 「君のことは公表しない」 「はぁ。やっぱり日陰の身ってことですね」 「君のためだ。俺の妻だなんて知られたら、外も自由に歩けなくなるからな」 遠慮なくため息をつかせてもらう。 ……そんなこと、婚姻届を出す前からわかりきっていたこと。 そして私自身、予想していなければいけないことだった。 「幸いこの家は、事務所の社長と権堂しか知らない」 ……奈津が知っていると言いかけて、彼女なら秘密を守るだろうと思い直す。 「都内に事務所が借りているマンションがある。今まで、家に帰れない時はそこに寝泊まりしていた。……だから大多数の人間はそこが俺の住まいだと認識している」 「それじゃこれからも、大雅さんはここへはあまり帰ってこないということですね」 「……たいがーっ!これみてっ!」 2人で話していると、庭で遊んでいた春希が、大雅の背中に突っ込んできた。 お昼寝から目覚めた彼が、大雅の姿を見て喜んだのは言うまでもない…… そんな春希の手に、何やらうごめくものが乗せられていることに気づいた。 うぎゃっ、と小さく叫んで離れる花。 「おぉ?!これはウスバカマキリっていう珍しいカマキリだぞ?……どこで見つけた?」 興味を示した大雅に、春希はとても嬉しそうな笑顔を見せながら……大きな手に小さな手を絡ませる。 2人で広い庭の草むらをのぞき込み、そのうち遊びはじめた。花はそんな姿を微笑ましく思う。 ……できたら毎日帰ってきて、夕飯とお風呂だけでも一緒にできたらいいのに。 「でもさすがに……それは難しいのかな」 大雅が帰らない夜、何気なくつけたリビングの大きなテレビに、彼のこれまでの活動が勝手に映し出された。 それは華々しい活躍ぶりで…… 花は映像に吸い込まれるように見入って時間を忘れた。 ……特にVÉLOURSのボーカルとしての歌唱力、表現力には感動して涙が出るほど。 ダンスも歌も、これまで目にしてきたアイドルのそれとは格の違う完成度に魅了され、思わずライブに行けないものかと考えてしまう。 「あのぉ……VÉLOURSというグループの活動はもうなさらないんですか?」 「……は?」 珍しいというカマキリは、なんと鈴里家の庭にはもう2匹生息していたようで、両手にカマキリを捕獲して家に入ってきた大雅に思い切って質問した。 間が悪かったのか、そのままの
Last Updated: 2026-07-15
Chapter: 45.引っ越し先はここ「ご飯とおみそ汁です」差し出されたものを呆然と見つめ、キスをされた頬に手を当てた神楽は、ぼんやりと紅を見上げた。「召し上がれ?」「……いただきます」何か言い返そうとしたようだが、言葉を失ったかのように、素直に箸を取る。たかが頬のキスだけで、遊び慣れているはずの神楽もこんな顔をするのだと新鮮な気持ちになった。「実家へ行ったんですか?」「あぁ。トオキ屋本社で社長らしき人と少し言葉を交わして、紅の育った環境がどんなところだったのか気になってな」朝食を食べ終わった神楽をもう一度寝室に押し込め、ゆっくり休んでもらってから、写真の真相を聞くことになった。「父と、話したんですか」「あぁ。客がいるのに大名行列みたいにスタッフが一斉に並び始めて、まだ閉店時間じゃないのに追い出されそうになったからちょっとゴネてやった」「あの人に向かっていったんですか?」ギョロリとした冷酷な目、身長が高くて威圧感のあるあんな男、関わりたくないと思う人が大半だろうに。「もの好きですね……」「紅の父親じゃないとしたら、俺だって近づかないよ」さっきからなんだろう……私の育った環境とか私の父親とか。まるで私に関心があるように聞こえてしまう。「悪いが、感じは良くなかった。……だからこそ、君の幼少時代が心配になったというか」「まぁ、取り繕っても仕方ないですよね。……私の子供の頃は、父の執拗な母への暴言と暴力、それに必死で耐えながら私を守って働きづめの母と、何もできない弱い自分……恐怖と嫌悪と不安と、自分自身の不甲斐なさで埋め尽くされてました」告白を聞いて、神楽の手がこちらに向かって伸びてきたように見えた。でもそれは、紅に触れることなく下に下ろされる。「家政婦らしき人がこの写真を捨てたのを見て、拾ってきた。……あちこちに飾ったのは、その、」「そうなんですよ。どうして部屋のあちこちに貼ったりしたんですか?私の子供時代なんて神楽さんにはまったく……」「可愛いから」言い終わらないうちにそんなひと言を言われたら……どうしたらいいの?「子供時代は皆、可愛いですよね。小さくて……」「いや、紅だから可愛いと思った」「……なに言ってるんですか?神楽さんらしくないですよ?」昨夜から、本当に神楽らしくない。全部は脱いでないけど、お互いにシャツを脱いで抱き合って、優しく抱きしめるだ
Last Updated: 2026-07-20
Chapter: 44.変わっていく関係……?「怖いか……」「いいえ。自分から誘ったんですから」「それにしては手が冷たい。……唇も、そんなに噛むな」横たわって紅を抱きしめるも、その手はそっと背中を撫でるだけ。「人肌って、あったかいだろ」はじめて触れる神楽の胸は陶器のようにすべらかで、そして本当に温かい。「腕の中から逃げ出したら襲いかかるからな?」「え、だって……」「弱ってる紅がほしいのは、快感じゃなくて安心できるぬくもりだろ」「なんですかそれ、カッコつけちゃって……」「これでも一応、元夫だって自覚はあるわけだ。深く触れさせなかった妻におおいに未練はあるが、今じゃないってことくらいわかる」ちゃんと……私の様子を見てくれた。それが嬉しい反面、経験がない自分にはつきまとう心配があった……私、女として魅力がないのかな。簡単に理性を捨て去る男に軽蔑を向けるくせに、理性を捨てない男には不安を抱く……女も、いや……私も、勝手な生き物だと認めよう。この頑丈な胸に甘えていいと言われたんだ。意地も過去も何もかも、今は全部かなぐり捨て、ぬくもりで安心したい。唇が触れる胸元にキスをして、紅はそっと目を閉じた。……瞬間、早まる鼓動には気づかないまま。『お前は、跡継ぎも生めないのかっ?!』ドサッっと倒れる衣擦れの音……『ご、ごめんなさい……あなた』また、襖の向こうで怖い音がし始めた。バチンっと肌を叩く音、ドンっと何かがぶつかる音、何度か繰り返し聞こえる音が怖くて、幼い私は耳を塞いだ。静けさを取り戻して、私は慌てて襖を開ける。瞬間、顔を背けてハンカチで口元を隠す母。『お母さん、大丈夫……』『大丈夫よ、紅……怖がらせてごめんね』目元に笑みを浮かべるのに、ハンカチが赤に染まっていく……血だ……母は、血が出るほど殴られていた……「お母さんっ!死なないでっお母さんっ!」……ふと、体を揺すられていることに気づいて目を開ける。「紅、大丈夫か?」すぐ近くで顔を覗き込む神楽に、とっさに抱きついた。「お母さんが、殴られて……何度も、何度もそういうのを見て……悲しかった、怖かった……」誰にも見せたことのない、嘘のない涙を、まさか神楽に見せることになるなんて。「そうか、怖かったな……でも大丈夫だから」隙間がないほどぴったり抱きしめられ、その力強さにこわばった体がほどけていく。「……いいか
Last Updated: 2026-07-19
Chapter: 43.紅の涙……どうして自分の子供の頃の写真がここにあるのか不思議に思いながら……「これは……幼稚園の入園式」紺色の制服を着た小さな自分の写真に苦しいような気持ちになる。「こっちは、小学校の時だ」体操着を着て走っているところを撮られたもの。……両親が揃って観に来たことを覚えている。「お母さんがすごく気を使ってたのに、友達の前で怒鳴りつけて……本当に嫌だった」思い出すのは幼い頃の暗い思い出ばかり。「あ、これ……」貼り付けられた写真を順に見ていくと、若い頃の母が私の肩に手を回し、柔らかく微笑む写真があった。「お母さん……」写真に触れた瞬間、ハラリと床に落ちてしまった。紅はそれを拾い上げ、胸に抱いて涙を流す。父はどうして母と離婚しないのか……世間体?嫌がらせ?「まさか、愛してるなんて言わないわよね?」分院で見た防犯カメラの映像を思い出した。神楽によれば、映っていたのは『さつき』というトオキ屋の社員……「父が社員を名前で呼ぶ?」さつき、というのは名字の可能性もある。思い立ってトオキ屋のホームページを覗いてみた。『さつき』とつく名前の社員……紅が見たのは役員紹介のページだった。そこに、確かにさつきという人はいた。「常務執行役 山木さつき」という名前は頭にこびりつき、紅の心臓は早鐘のようにドクドクと脈打つ。どうして父は役員を名前呼びしたの?そして、母に声をかけた人がその人なら、なんの用があって声をかけたの……紅の頭の中には、父の黒い思惑しか浮かばない。もし本当に、父がさつきという人を使って母に何かしたのなら、私は絶対に許さない。涙を浮かべた母の寝顔を思い出し、紅は声を上げて泣いた。……どうしてこんなに苦しまなければならないんだろう。父の本当の狙いはいったいなに?ふと……頭を撫でる手の感触で目を覚ました。「あ、ごめんなさい。私……勝手に」父の思惑を予想しながら泣いて、泣きつかれて眠ってしまった。1度起きてシャワーを浴びて、今度は少し寂しくなって……神楽の部屋のベッドに横たわったところまで覚えている。起き上がろうとした紅の肩を、神楽は優しく押した。疲れの見える表情……分院で聞いた話の続きを喋らせるわけにはいきそうにない。「いいから寝てなさい」「でも、」「うちにはリビングに立派なソファがあるからな?」「……そんなの、らしくないですね
Last Updated: 2026-07-18
Chapter: 42.母と意外な接点「どういうことですか?」「心療内科で、似た人を見た気がするんだよ」ふと思っただけだと言葉を濁す神楽と共に、やがて病院に到着した。「朝まで目は覚めないと思うわ」神楽と2人でやってきたのを見て、京香が病室まで歩きながら説明してくれた。「片桐さん、誰かと携帯で話したみたいなの。ホールにいた患者さんが、携帯を持った女の人と部屋に入ったのを見たって言ってて」「女の人……」父には多分、何人か女性がいたと思う。だが母は、そういう人よりずっと格上の女として扱われてきた。正妻だから当然と言えば当然だが……紅には、母をいたぶれるのは自分だけ、という父の傲慢さが加わっていると思えてならない。「防犯カメラとか、映像は残ってないのか?」「あるわよ。ホールの様子は事故防止と不審者の侵入対策として設置してあるから」京香が指さす先に「防犯カメラ作動中」の張り紙がしてある。あとで映像を確認することにして、何があったのかは後回しにする。紅は2人に伴われ、母の病室の中へと足を踏み入れた。「……お母さん、」白いシーツのベッドに横たわる母は、夕方見舞った時よりやつれて見える。涙の後が残る頬を見てやるせない気持ちになりながら、紅は母の手にそっと自分の手を重ねてから病室を出た。2人とも病院関係者ということで、防犯カメラの閲覧を許された。そこに映る人々を見て、はじめに声を上げたのは紅。「え……?これ、どういうこと、」そこには、母と和やかに歓談する神楽の姿がある。「休憩時間、ゆっくりできそうな場所としてよく来てたんだよ。……京香に心療内科のスタッフ不足を訴えられてから、それを補うために患者の見守りも兼ねてた」「それでさっき、母と親しいかもしれないって?」「あぁ。どことなく誰かに似てると思ってた。……紅のお母さんだったんだな」神楽は笑顔になるものの、紅は驚きを隠せない。「まさか私の母と、和やかに話してたなんて……」「そうだよな。俺も今、驚いてる」先ほど入った病室で見た患者の寝顔と、居酒屋に閉じ込められた時に飽きずに見つめた紅の寝顔が、神楽の中でうっすら重なっていた。「……すごい偶然ね?!」「はい。お母さん、ホールで話す友達ができたって喜んでた……」「友達は嬉しいね。威圧感を与えないように白衣を脱いでたのが良かったんだな」3人はそんな話をしながら、その後も
Last Updated: 2026-07-17
Chapter: 41.颯真と神楽、神楽と……母?「颯真、お前……」 「居酒屋で一緒に取り残されたから、もしかしてデキちゃったかと思った!でもすでに別れた2人なんだ?なら問題ないね?」 「なんの問題がないって言うんだよ」 颯真は少し意地悪そうな笑みを浮かべ、神楽と紅の間に自分の座る椅子をねじ込む。 「紅ちゃんに俺の専任も務めてほしいなぁって。……それから」 何を言い出すのか予想した神楽。深いため息を吐く。 「部屋ならうちも空いてるよ?良かったらいつでも利用して!?」 「いえ……選ばなければ、すぐに部屋を借りることはできますから」 それを躊躇したのは、引っ越したばかりのアパートで火事にあったからなのだが……神楽も同じことを思ったらしい。 「慌てて住まいを決めないで、一旦実家に帰るとか、方法はあるだろう」 その言い方が妙に慎重に聞こえ、思わず神楽を見る。 「間借りさせるのはもちろん構わない。……京香にもそうしてやったんだから」 後半は明らかに颯真に言ったように聞こえ、紅は無意識に颯真を見た。 突然神妙な表情になり、深く眉間にシワを寄せる颯真。その不機嫌そうな顔つきに、そこにいる誰もが一触即発を予想した。 「それなら、そのまま嫁にもらえば良かったんじゃない?」 「は?……お前本気で言ってるのか?」 「だって、父さんが言ってたよ。結婚を遊びととらえる神楽には、京香を当てがうのが一番だって」 ……京香さんは、院長が決めた神楽の婚約者だった……?! でも以前神楽の家で鉢合わせたとき、気の置けない幼なじみだって言ってた。 「俺はそんなこと承諾してない。……だいたい、お前こそどうなってるんだよ?」 颯真は返事をしないが、やり取りを聞く限り、京香との間に颯真も何かあったようだと紅は思う。 神楽と颯真、そして京香の3人には、自分の知らない過去や思惑がありそうだ。 「……皆、何の話してるんだかわからなくて困っちゃうよね?」 うまく話を変え、颯真は人懐っこい笑顔を見せる。 「皆さんの関係性は?……そちらは、カップルかな?」 「……私たちは全員、高校時代の先輩後輩なんです」 「えーっ!そうなの?……それじゃあ、神楽の一番の暗黒時代を知ってるんだ?!」 何やら話が良くない方に向くのを感じた神楽。面白くなさそうに頬杖をついた。 「あの
Last Updated: 2026-07-16
Chapter: 40.バレた……「……今ICUに入った牧田さん、呼吸と心拍、特に注意して」ナースステーションでパソコンに向かう背後で、神楽が看護師に指示を出す声がする。何気なく振り返ると、紫色の上下を着てマスクをした神楽と目が合った。……オペだったのかな、少し疲れが見える。そんな風思いながら、紅は正面に向き直り、作業の続きで手を動かす。雨の中、芹沢専務のマンションを出てホテルまで帰る途中、意外な人に出くわしてから数日……今日はあの日、三田洋平に約束を取り付けられていた。今日はその約束の日だ。「二階堂総合病院の近く?それならいいところ知ってるよ!?」短い時間で巧みにホテル住まいだと白状させられ、住まいを探しているならいい物件を紹介すると、改めて食事に誘われた。「……そこに車停めてるから」使わないからどうぞと傘まで渡されて、返さないわけにいかない……巧みにおびき出された気がしながら、紅は定時に仕事を終えて病院を出る。「お母さん、体調はどう?」時間の許す限り顔だけでも見たくて、洋平との約束の前に訪れた母の病室。担当の看護師によると、最近また、ホールには出ていけなくなったらしい。「……大丈夫よ。少し薬を変えてもらって、何とか夜は眠れるから」きちんと受け答えができることにホッとして、紅は明るい話題を出す。「そういえばみっくん、結婚するみたいよ!」みっくんこと、片桐光世は、紅の父方の従兄弟だ。父のあとにトオキ屋を継ぐ跡取りで、紅とは子供の頃から仲がいい。「……やめて、」「……え?お母さん、」そこへ看護師が入ってきて、面会は一旦終わりとなる。また来ると声をかけ、紅は病室を後にしながら……久しぶりに見る母の不穏に心がざわめいた。洋平が待ち合わせに指定したのは、おしゃれな雰囲気のイタリアンバル。約束の時間を少し過ぎて入ってきた紅をめざとく見つけ、満面の笑みで手招きをする。「もう、気づいてるんですよね?」「ん?神楽の3番目の契約妻以外の正体のこと?」返事の代わりにジッと見つめれば、少し体を仰け反らせ、洋平は大げさに怖がってみせた。運ばれてきたグラスワインをひとくち飲み、紅は観念したように白状する。「高校時代の2年後輩です。……三田さん、当時の神楽さんの取り巻きにいました?」「あー……傷つくなぁ。いたよ?!これでも結構告られたんだから、神楽目当てで!」言い方
Last Updated: 2026-07-15
Chapter: 110.永遠の1枚「桜……」 覗き込む鏡の向こうに、愛しい人の姿。 「龍之介さん……」 振り向いた桜に、目を細める龍之介。視線を横に流し、らしくもなく、下を向く。 「綺麗すぎて、直視できねぇな。ホント……こんなに綺麗な女、初めて見る」 顔立ちから、黒いタキシードが似合うと言われたのだろう。 背中に特徴的なデザインが描かれたスーツがよく似合う。 「そっちへ行ってもいいですか?」 「あ、そりゃ……もちろん」 龍之介は両手をスラックスのポケットに入れ、落ち着かない様子だ。 彼に近づこうと方向転換するため、長い裾を持ち上げる桜に気づいたらしい。 龍之介は慌てて自分から桜に近づいた。 「あぁ、そばにいると緊張する。……ほら」 桜の手を自分の胸元に当て、龍之介は困ったような視線を送る。 「……龍之介さんだって、カッコよすぎて、私もですよ?」 彼の両手を自分の鎖骨の下あたりに持ってくると……龍之介はニヤリと笑う。 「ほんとだ……!」 笑い合う2人に、撮影スタッフが声をかける。 「風もなくてちょうどいいので、撮影を始めましょうか!」 「「はい、よろしくお願いします」」 偶然、ハーモニーを奏でる2人の声…… 窓の向こうで桜の花びらが揺れた。 ホテルの前は、見事に満開の桜が咲き誇り、チラチラと雪が舞うように花びらが散り始めている。 「……綺麗」 ほんのりピンク色の桜と青空……そして葉の緑が、美しい自然の色を描いていて、桜の心に忘れられない思い出を積み重ねていく。 「あ…!いたいた!」 遠く、真理と美紀の声が聞こえて、桜は振り返った。 そこには、蔵之介や昭仁、斎藤や義母の姿も見える。 「まま、ぱぁぱ……」 真理に抱かれた龍桜。ちゃんとタキシードを着せてもらったようだ。 2人に向け、手を伸ばす龍桜を、そっとしゃがんだ真理が手放す。すると龍桜は、おぼつかない足取りながら、よたよたと走り出した。 「……龍桜!」 ドレスやタキシードが汚れるのも構わず、2人は龍桜に視線を合わせるようにその場にひざますき、手を広げた。 よたよたした足取りが、やがて小走りになる。手を前に出して、危なっかしい足取りに、桜も龍之介もハラハラと目が離せない…… 「キャッ…!」 龍桜が転んでしまった。
Last Updated: 2026-06-16
Chapter: 109.蝶になった桜「龍之介さん……もう起きたんですか」「うん……嬉しくて、よく眠れなかった」メンズスーツブランドMatusiro.Hommeのプレ公開ショーから日を置かず、桜と龍之介は東京から少し離れた場所のシティホテルに宿泊している。今日は、ウェディングフォトの撮影会。結婚式をしたい、という桜のひとことで、龍之介があっという間に決めてしまったプランのテーマは「桜」「桜の花びらが舞う中で結婚式の写真を撮ろう」と、桜前線を追いかけ、この町にやってきたのだ。「お天気はどうだろう……」ベッドから降りてカーテンを開けてみれば、見事なまでの青空……「龍之介さん……持ってますね?」「ん?何をだ?」「今日はいいお天気だから、運を持ってるな、って!」良いことは全部、龍之介さんのおかげ。悪い事が起こったら、それは半分こ。いつの間にかそんな考え方になっていた。「そういうの、持ってるっていうのか……」はてな顔がキュートで、桜は自分から龍之介に抱きついた。キスをねだり、熱くなる龍之介を受け入れようとして……「ダメです、龍之介さん!カメラマンさんを待たせちゃう」スッと離れ、お先に……とシャワー室へ向かう桜。いつもなら龍之介に先を譲るが、今朝の私にはやることがたくさんあるのだ。「……煽っといて、放置?」熱っぽいまなざしで桜を追うも、シャワー室には鍵がかけられて開かない……「もぅ………っ!今夜覚えとけよっ!」髪をかきむしる龍之介だった。入れ替わりに龍之介をシャワー室へ押し込み、桜は大きな鏡の前に座る。この日のために龍之介が通わせてくれたエステサロンから、たくさん受け取った化粧品の数々……今日使い切っておしまいだ。「化粧水は……たっぷりと、手のひらにとって、なじませる。その後、コットンに浸してはり付けて、しばし時間を置く……」担当のエステティシャンに基礎化粧品の使い方を教わって実行している。普段も同じようにやるといいですよ、と言われたけれど、龍桜の世話が忙しくてそれどころじゃない……!シャワーを終えて、龍之介がやってきた。桜は顔に乗せていたコットンを慌てて取る。「……なに焦ってんの?」「だって、コットン顔に乗せて……変でしょ?」「全然。桜なら、キュウリとか梅干しとか、何をはり付けてても可愛いわ」そんなものはり付けません……と言いながら、腰のあたりをバシっ
Last Updated: 2026-06-14
Chapter: 108.桜舞う幸せ始まりこそ派手な演出だったものの、その後は大人の男をイメージしたブランドだからか、比較的静かにショーは進んでいく。龍桜が座っていてくれないので、後ろに人がいない事を確認して立って見ていた。それは、すごいとか圧巻とか……言葉を超えたステージだった。こんなに心臓が高鳴ったのは生まれて初めてで、なんとかなだめようと自然に胸元に手を置いてしまう。「落ち着いて……私……あの人は龍之介さんで、私の、旦那さんなんだから」コソコソ、自分にだけ聞こえるようにつぶやいた言葉の先に、龍之介が見える。片側に長めの前髪を垂らし、もう片側はピッタリと撫でつけたヘアスタイルは、誰もが似合うものじゃない。西門龍之介という強烈な個性がそれを可能にしていると理解できる。中央に堂々と立つ、ひときわ背の高い人……少しメイクもしているのだろう。いつも以上に目力が強く、妖しい雰囲気で……私の夫だなんて、信じられない。惚れ直す、というのはこういう事をいうんだと思う。ステージを踊るように歩く龍之介を瞬きも忘れて見ていた。やがてステージ裏に引っ込み、やっと少し、心臓の高鳴りから解放されてホッとする……他のモデルたちも下がり、しばらくの暗転のあと、照明と音楽の雰囲気が明らかに変わったステージ。……またも息を呑む。柔らかい照明に照らされたステージに、白いスーツを着た龍之介がゆっくりと歩いてくる。髪は前髪を幾筋かハラリとおろしたヘアスタイルに変わっていて、手には大きな花束……白いスーツ、いや……あれは、結婚式で新郎が着るような、タキシード?中のベストはグレーで、ジャケットは少し長めのデザインで、とてもよく似合う。龍之介が結婚式を挙げたいと言っていたことを思い出した。あんな姿で私の隣に立ってくれるとしたら……「……素敵」見惚れているうちに、ショーはすべて終わったらしい。スタッフが呼びに来て、龍之介の楽屋に向かった。以前の麗香の一件以来、桜がステージを見に来ると、龍之介はこうして必ず楽屋に呼ぶようになった。その上、誰からの差し入れも食べず、桜に手渡される弁当を待っているのだから可愛らしい。そうなれば、桜も腕によりをかけて作り、張り切って持ってくる。この日は鮭とたらこのおにぎり。そして卵焼きとソーセージと、手作りのピクルスだ。「……2人とも、ホールの中暑かったろ?気持ち悪くな
Last Updated: 2026-06-13
Chapter: 107.Side.龍之介 桜の話「……しっ!」「な、なんですか、こんなところで?!」今日、美紀がカフェにやってくることは、桜に昨日のうちに聞いていた。プレショーの本番を来週に控え、今日も舞台装置の確認と衣装、立ち位置などの決定をして……椎名社長に送ってもらった。カフェの近くで降りたところで……美紀が生垣を曲がってこちらにやってくるのが見えたのだ。そこで、とっさに思いついたこと……「驚かせてごめんな。今日桜と、どんな話をしたのか教えてくれよ」何か言いたそうで、言い出せない桜が心配で聞いたこと。けれど美紀は、眉間にシワを寄せ、険しい表情になる。「……そんなの、いくら旦那さんでも、第三者にホイホイ言うわけないじゃないですか。……私達の結束は、鉄より硬いんですから」両手を握り合わせ、美紀は俺に向かって笑顔を見せる。「俺たち夫婦の絆はダイヤモンドより硬いぜぇ……なぁ、教えてくれよ。桜、なんか言ってたろ?結婚式の話ばっかりして、龍之介がうぜぇとか」「あぁ…!言ってましたね!」「……………え、まじ?」軽くショックを受ける俺を、楽しそうに手を叩いて笑う美紀。ダメだこりゃ……と、聞き出すのを諦めかけた時だ。「帰ったら話をしてくれると思いますよ?……意外な話だとしても、ちゃんと最後まで聞いてあげてくださいね?」「……意外な話って、?」「例えば、その……」うまい例えが出なかったらしく、美紀はジリジリと後ずさっていき、気づけばかなり離れてしまっていた。「龍之介さん…!頑張ってくださいね」……気になりすぎるんだが。美紀を捕まえたものの、結局、何の情報も得られなかった。結婚式はしなくていいという本音がどこにあるのか、探りたかったのだが。美紀に手を振り返して、カフェの裏から家に入った。「おかーしゃぁい!」ドアが開く音で、部屋から龍桜が飛び出してきた。帰ってくるだけで毎回ものすごい喜びようでとても嬉しい。「ただいま、龍桜!」パッと抱き上げ、ぐるんと一回転してやって、部屋に入る。ダイナミックな動きが楽しかったのか、もう一回とねだられた。「おかえりなさい。……龍之介さん」「ただいま」桜が顔を出し、すぐにその顔を見つめた。……何か言いたいことがあるか、自然と表情から探ってしまう。「あの、龍之介さん……後でちょっと、いいですか?」「あん?あぁ…もちろん!」良かっ
Last Updated: 2026-06-12
Chapter: 106.今だに言えない本音「綺麗でしたね。真理さん……」「あぁ。母さんも物持ちがいいな。自分の婚礼衣装を持ってるなんてさ」真理と蔵之介の結婚式は、龍之介家族と母に見守られ、厳かに行われた。「私、西門蔵之介は、真理だけを一生守り抜くと、ここに誓います」「私も……誓います」義母によって酒が注がれる盃。三々九度の作法に則り、2人は口をつける。自分の婚礼衣装を身につけた真理を、義母が眩しそうに見つめていることに気付いた。きっと、自分と組長の結婚の儀を思い出しているのだろう。家族の前で婚姻届を記入した2人の表情は晴れやかだ。きっとここまで来るのに、この2人にも、いくつもの眠れない夜と涙があったのだろうと想像した。「おめでとうございます……どうか、幸せになってください」つい、涙がこみ上げてしまった。自分とは違う形で、きっと真理さんはたくさん悩んで苦しんで、蔵之介さんの手を取る決意をしたと思う。まだ自分の家族には認められてもらえない中で、西門の名前を名乗る道を選んだことが、どれほど勇気がいることだったかと思うと泣けてくる。「桜ちゃん……これからはお義姉さんとして、改めてよろしくね」「はい……姉妹ができて、嬉しい」「私も、娘が2人もできて……なんだか泣けちゃうわね」龍之介と蔵之介が、そっと視線を交わした。義母の家には蔵之介夫婦だけが泊まることになり、龍桜を連れ、私達は帰路につくことになった。「桜、本当に結婚式、挙げないか?」龍桜をチャイルドシートに乗せながら、龍之介が何気なく言った言葉に、桜は反射的に下を向く。それは、自分の生い立ちがかけた呪いだと感じていた。龍之介さんと再会できて籍を入れ、家族になれたのに……これ以上の幸せが訪れたら、すべてを失ってしまいそうで、怖い。「いえ、私は……」「どうしてだ?俺が桜の花嫁姿を見たいんだが」「それは……」龍之介には、今だに暗い心を抱える自分を、知られたくなかった。表面的には、私は幸せな主婦だ。カフェの経営という夢まで叶えた幸せな主婦だから、明るい自分だけを見ていてほしい。そして……実は龍之介に打ち明けられずにいることがあった。結婚式というより、先にその話をしなければならない。「蔵之介たちが、日本にいる間に挙げたい。……そう頻繁に帰ってくることもないだろうからな」「あ……」先日、真理の実家に行った帰り道
Last Updated: 2026-06-11
Chapter: 105.Side龍之介 仕事と結婚「いや、俺はもうステージは……」「どうしてです?この前のショーも、龍之介さんキッチリ目立って、さすがの迫力でしたよ?」松白屋、会議室。メンズスーツブランド「Matusiro.Homme」の社内向けに発表するショーが終わり、いよいよブランド公開の運びとなった。メインモデルは龍之介。そして10人ほどのモデルが集められ、会議とショーの打ち合わせが重ねられる日々。先に到着した斎藤と話しながら、椎名社長とモデル達、その他関係者を待っているところだ。「定期的にやっていきたいんですよね。ショーって楽しいじゃないですか!……なんか華やかで、ワクワクするし!」「わかりますけどねぇ……俺は嫁も子供もいるし、あんまり目立って隠れるような生活はしたくねぇし」やはり極道時代は、太陽より夜、日なたより日陰や裏通りが似合う毎日だった。「これから龍桜もどんどんわんぱくになっていきますからね!?そしたら全力で付き合ってやりたいんですよ。野球とかサッカーとか……」「なるほど!そこまで言われたら、無理強いはできませんね」モデルを断る龍之介の理由を、斎藤はそれはそれで嬉しそうに聞いてくれる。「ありがとうございます!……その代わり、初めてのブランド公開のショーは、絶対にキメてみせますから!」「そうですね、皆で頑張りましょう!」やがて続々と関係者が集まってきた。挨拶を交わしながら、ふと自分の目線の先に立った斎藤を見て、龍之介は思った。斎藤さん……背ぇ高ぇな。肩幅が広くて、手足も長い。頭も小さいし……何より全体のバランスがよくてスーツが似合う……!2回目以降のメインモデル……斎藤さんがやればいいんじゃねぇの?話し合いは進み、大事なことが次々に決まっていく。そんな様子を見ながら、龍之介は頃合いを見計らって発言した。「ブランド公開のショー以降も、定期的に開催していくってのは、アリなんですかね?」「2回目以降もぜひやっていきたいと思います。プレショーの段階で連絡してきたバイヤーもかなり多かったし」「SNSでも拡散されてましたよね。あの松白屋がメンズスーツブランドを展開した、って……」関係者の話を聞く限り、ショーはやって損はない。むしろ積極的にやったほうがいいという意見が多数だ。加えて……担当役員の斎藤専務のGOがあるのだから……できないはずがない。「それなら、俺の後釜
Last Updated: 2026-06-10
Chapter: 60.蓮との暮らし「あの男たち2人に、触れさせたな」「え?」じっと見下ろす目が、怒りと悲しみに揺れている。そこで思い出した。……栗田医師、そして伊藤課長のことを。「……あれは、その……ごめんなさい。どうしてか蓮さんに似ていると感じて」「……どす黒いものが心に広がっていくのを感じたよ」全部見られていたことを知り、何とも言えない気持ちになる。「蓮さんが今どんな状態か深く考えられなかった……ただ、早く会いたくて、それだけで。軽率だったと反省してます」「単純にヤキモチを妬いて面白くない気持ちになった。だが、それも必要な経験だったと今なら思う」それはどういう意味なのかと、次の言葉を待つ。「死神なら持たないはずの感情に揺さぶられて苦しみ、狼になって君の前に現れたものの事故に遭わせる結果になった。……おまけにカマも触れなかった」少しずつ表情が明るくなる蓮の表情を、凛花もつられて笑顔になりながら見つめる。「だからこそ、俺は死神を追放され、狼の中にその存在を移すことができた。……そしてキスだ。凛花のキスで、俺は元の体を手に入れた」「……不思議です。こんなにうまくいくなんて」「凛花が起こした奇跡だ」そう言われて思い出す、母の柔らかい笑顔。「お母さん……聖なる人だったお母さんが、全部教えてくれた」「そうか。お母さんは、聖なる人だったな。凛花にも奇跡を起こせる力があったんだ」「きっと、私だけじゃないです」蓮が私を見ていてくれたから。あきらめないでいてくれたからこその奇跡。言葉にすれば泣きそうで、凛花は蓮の胸に頬を寄せた。その夜、父が帰宅して人間の姿を取り戻した蓮に再会した。「なんとまぁ……前よりずっと男前なんじゃない?」凛花と手を繋ぐ蓮に、少しだけジェラシーの視線を向け、父はそれでも安心した様子で笑ってくれた。「ささやかだけど、お祝いにね!」蓮と2人で用意した夕食のあと、父が生クリームがたっぷり入ったロールケーキを出してくれた。カットされたそれを見て、笑う凛花に父が言う。「いちごクリームのさ、ハート型のロールケーキなんて珍しいでしょ?」「初めて見る……!可愛いね!」それはきっと、私たちが結ばれるのを認めたサインだと思った。感謝の気持を伝えながら、2人で話し合ったことを聞いてもらうことにする。「当たり前なんだけど、これからは2人で働いてやっていく
Last Updated: 2026-07-19
Chapter: 59.再び出会った2人「2本足は久しぶりだ……」テーブルを降り、言葉の通りその場に立つ蓮。感動しながらも、ハッとして後ろを向く。「あの……今何か、着るものを、」レオから蓮になった姿は全裸だ。「あぁ、頼むよ」さり気なく凛花に背を向けるも、全裸だ。窓の向こうにこの瞬間誰かがやってきたら大変だ。「そうだ!まずはシャワーを浴びたら?」目をそらしながら蓮の手を取り、バスルームに案内する凛花の足取りは軽い。触れた手はあったかい……そして何より、背中にあの、大きなカマが見当たらないのだ。「シャワーはこの栓をひねると出てくるから。シャンプーはこっちで、ボディソープは……」「わかる。レオ時代、凛花に洗ってもらうとき、何回もシャワーとソープ間違えたって叫んでたからな」「あ……聞かれてたんだ?!」笑い合う声は、これまでの人生で一番明るいと思う。「それじゃ、ゆっくり入ってね」「凛花も……」「え?」出ていこうとする凛花の腕を取り、熱い視線を向ける蓮……そりゃ、今すぐ抱きしめ合いたいけど……目にはいるソレも、準備万端のようだけど……「ちょっと、落ち着く時間が必要だから。今はまだ……」背伸びをして蓮の頬に口づけ、バスルームを出た。父の部屋で新品の下着とリラックスウェアを見つけ、脱衣室へと運ぼうと歩き出す。……すると、さっきまで聞こえていたシャワーの音がやんで、妙に静かになっていることに気づく。「……もしかしたら、まだ安全じゃないんじゃ、」病室に訪ねてきた見知らぬ男のことを思い出した。死神最高幹部との戦いに負け、蓮は死神という役割をなくし、その存在を完全に失って二度と戻らないと。なのに戻った。多分死神ではなく、人間として。……生まれ変わった?どうしてそんな奇跡が起きたのかはわからないけど。「蓮さんっ!」静かになったバスルームの扉を勢いよく開けた凛花。「……ん、どうした?」ソープにまみれた蓮は確かにそこにいた。なんだ。シャワーを止めて洗っていただけか……シャワーが終わるまで、結局心配でその場を離れられなかった凛花。ウロウロと廊下を行ったり来たりしながら、ようやく父の服を着た蓮が脱衣室の扉を開ける。「……どうした?待たせたか?」濡れた髪の蓮がひどくカッコよくて色っぽくて……触れられる喜びと今までの寂しさと不安で、抱きついて泣き出した。「これで安
Last Updated: 2026-07-09
Chapter: 58.母からのヒント「……っ?!」凛花のきっぱりした言い方に言葉を失い、男性はそのまま部屋を出ていった。途端に体から力が抜け、崩れ落ちるようにベッドに横になる。「蓮が、その存在を失ったなんて……」どんな姿であれ、目に見えるものですらなくなったという言葉に、今さらショックを受ける。復活させるなんて言ったけど……私に本当にそんなことができるだろうか。聖なる人……私はその娘だって強気で言ったけど、おぼろげな記憶の中の母は光に溶け込んでいて、思い出そうとしても詳細がわからなくなっている。それでも、心に浮かぶ光の母に届くようにと願いながら思った。どうか、蓮を復活させる手段を教えてください。……弱音を吐かず、どんなことでもしてみせるからと心に誓い、いつの間にか凛花は眠ったようだ。『こんなに、大きくなって……』『あぁ、ママに似て美人になったろ?』『あら、鼻筋が通っているところはパパにそっくりよ?』『そうか……?』楽しげに会話する男女の声が聞こえる。それは……水の中で聞こえるような、明瞭に聞こえる声ではなかった。けれど、温かくてふんわりと包んでくれるような、今すぐに目を開けてすがりたくなるような声。『凛花……お母さんは、いつもあなたを見守っているのよ』頭に優しい手のぬくもりを感じた。『……お、母さん』必死で重たいまぶたを持ち上げ、すくそばにいる人を目に映す。それは、長い金色の髪をなびかせた美しい人。そうだ……私の母はこんな人だった。いつも笑顔で、叱られた記憶がない優しい母。『お母さん……』『凛花、成長して……やっとこうして会えたわね』喉元からこみ上げそうになる嗚咽。……ずっと会いたかった母が今ここにいて、私の頭を撫でてくれているのが嬉しかった。けれど、確かに泣いているのに、涙は頬を伝っていかない。それがどうしてなのか……自分が水の中にいるからだとわかった。『お母さん……蓮さんを助けて』その人がどういう人かなんて、説明は不要だと思った。母にはすべてが見えている。子供の頃別れたあの日から、母はこの日が来ることをずっと待っていた……『凛花、助けるのはあなたよ』切羽詰まった状況だというのに、母はどこか嬉しそうで……私はギュッと母の手を握り、繰り返す。『もう!ちゃんと答えてよぅ……』母は私のおでこにそっと口づけ、首を傾げながら笑顔になり…
Last Updated: 2026-07-05
Chapter: 57.不思議な男性「いいですよ」死神に恋をして突然別れ、さまざまなつらい気持ちを味わって事故に遭い、体の自由が効かない今の私に怖いものなんてない。「……私が誰か、気にならないんですか?」「この世の人間ではないですよね」「正解です。……さすが、何度も立ち上がった方だ」立ち上がった……?蓮が消えた後のことを言っているのだろうか。「立ち上がったのは、父や友達がいてくれたからです。皆、私が生きることを望んでくれました。それに……蓮さんのことも諦めてませんから」「いまだに、ということですか」「……はい」自分の決意に自分で驚いた。あんなに泣いたのに、私はまだ彼を諦められない。けれど、意外な自分の本音を自覚したことで、凛花にはある種の強さが備わっていた。ここまで来て、もう何も失うものはない。凛花は突然現れた目の前の男を見て思う。この人は……冥界からの使い、それとも、死神最高幹部が仕向けた者……?「私が誰か、教えましょうか?」「私になんの用ですか?」薄ら笑う男に見下されても、凛花は怯まなかった。「あなたは……戦いに敗れました」もはや自分の正体を明かすだけ無駄だと悟ったのか、男は話を続ける。「戦いって、死神最高幹部との……」いったいいつ始まっていたというのか、見上げる凛花の視線をかわし、窓の方へ歩きながら男が言う。「誘惑に負け、蓮と似た人物に心を惹かれましたね。口づけて触れ合って……本当なら相手に蓮の正体が知られるところだったのに、それを免れたのは、運が良かったとしか言えません」「あの2人は蓮さんに似ていたから、もしかしたら本人なんじゃないかって思いました。心が弱っていて、似た人に惹かれたのは認めますけど」脳裏をよぎるのは、栗田医師、そして伊藤課長……まさか、あの2人をスルーできたら、私は死神最高幹部に勝てたの?「問題はそこじゃないんです」窓際に立ち、こちらを向く男性。逆光なのか、表情がわかりにくい。とっさに枕元のライトをつけようとして、男性が言った意外な言葉に手が止まる。「狼になって助けるとは……」「狼って……まさかあの時の、」栗田医師に迫られて困っていた時、突然現れた闇に浮かび上がる狼。あれが蓮だったというのか。ふと、交通事故に遭う直前にも見えたことを思い出した。本当に、動物に姿を変えていたんだ……「あなたはそんな狼を追ってこんな
Last Updated: 2026-07-02
Chapter: 56.連れて行ってほしい「ありがとうございます。それでは早速来週から、よろしくお願いします」面接は呆気なく採用となり、足取りも軽く事務所を出る凛花。エレベーターで1階に降りる。事務所が入るビルは決して綺麗とはいい難いけれど、素朴で落ち着きがあり、病み上がりの凛花にはちょうどいい安心感を与えてくれた。歩道に出てふと立ち止まったのは、右に行けば最寄り駅で、左にいけばちょっと素敵なカフェが見えたから。「……あれ」左右を見渡す凛花の目に、意外なものが映った。……大型犬、いや、狼?そこだけ浮かび上がる静止画ような光景に目が離せなくなる。「……待って」歩き出した途端、こちらを見ていた狼が、さっと走り出した。街の雑踏のなか、人にぶつかることなく走り抜ける狼を追って、凛花の足も、自然と早まっていく……危ないっ……!という誰かの声と、キャーっ……という叫び声、急ブレーキの音は、ほとんど同時だったと思う。次の瞬間、ドンッと何かにぶつかり、硬いアスファルトに自分が叩きつけられた時には、まだ意識があった。痛みはないのに、自分が濡れていく感覚……「事故だっ!救急車っ……!」体が、血の海に沈められていくような感覚の中……私は意識を手放した。「……まだ、ダメだ。凛花、生きろ」懐かしい声に涙が出た。「……もういい。連れて行ってください」真っ白な空間のなかに、横たわった私は体を起こす。少し先に……会いたいと願い続けた蓮が見える。後ろ姿……お願い、こちらを向いて。「急にあなたがいなくなったから、私は病気になったんです」顔だけがこちらを向いて、横顔を見せてくれる。「……会社も辞めて、でも命が続くから生きていた。いろんな人の助けがあったから」こちらを向いてくれないなら、自分から行く。せっかく会えたのに、顔も見れないなんて絶対にいや。両手を床につけ、腰をあげようとした。足を踏ん張ろうとするのに、力が入らない……「蓮さん、私……立てない。立てないです」床につけた両手に体重をかけ、動かない下半身を引きずって移動する。「お願い、行かないで……待ってて、私が、行きますから」こちらに向けていた横顔が、一瞬下を向いた。まさか……消えてしまうの?また?……どこに行くかもどこにいるかも教えないままで?「蓮……さん、」ポキっと、何かが折れた音がした。見下ろすと、体重をかけていた右手に
Last Updated: 2026-07-01
Chapter: 55.凛花を救ったのは……「お父さん、朝食準備できたよ。あと、お弁当も」「あぁ!こりゃ美味そうだな!いつもありがとうな、凛花」仕事を辞めて家にいるようになって、初めはそっとしておいてくれた父だったが、1週間が過ぎてこう言われた。「再就職を急げとは言わない。家事も無理にとは言わない。けどな、朝になったらリビングへ出てきなさい。顔を洗って髪をとかして、服を着替える。それだけでいいから……な?」つらそうな表情を見て、どれほど父に心配をかけていたのかと思う。それからは進んで朝食の準備と父に持たせるお弁当を用意するようになった。「たいしたものじゃないよ。朝食なんて目玉焼きとトーストだし、お弁当もウインナーと野菜を炒めたのと冷凍コロッケだし……」父はそれでも嬉しいと言ってくれた。父に心配をかけないために始めたことではあるものの、料理をするようになれば自然と買い物に出るようになり、そうなればうまい具合に外の空気を吸える。それがやがて自分を少しずつ癒していき、やっと、ぼんやりした時間をもてあますようになった頃、父が意外なことを言った。「……犬?」「あぁ。もう成犬なんだが、海外に引っ越しをする先生が預け先を探していたんだ。凛花は大の犬好きだし、相談もなく名乗りを上げてしまったよ」「それは別にいいけど……」聞けば大型犬の部類に入る精悍な顔立ちのあの犬だと知らされる。ジャーマンシェパード。警察犬として活躍することも多い賢い犬だ。「シェパードくん……はじめまして」我が家にやって来た、まだ名前も知らない犬。ひざまずいて迎える凛花に落ち着いた様子で近づき、そっと前足を膝に乗せてきた。「君は、なんていう名前?」後からついてきた父が答える。「レオ、って名前だそうだ。成犬だし、名前を変えたら戸惑わせるだろうから、そのままレオでいこうか」「レオ……」簡単に頭をよぎる似た名前。……蓮。呼び間違えたりしたら、恥ずかしいな。リビングの端にケージが設置されるのを見て、少し意外に思った。我が家にはそれなりに広い庭がある。レオのようないかにも運動が必要そうな犬なら、いつでも走りまわれる庭で飼うのかと思った。「室内で買われていたそうなんだ。マンション育ちらしい」「なるほど!お坊ちゃん育ちってわけね?」それからは、レオの世話が凛花の生活のほとんどになった。朝と夕方の散歩、食事、水浴びな
Last Updated: 2026-06-25