LOGIN
眩しい光に包まれ、思わず腕で顔を覆った。
(……え?)
さっきまで、狭いワンルームのベッドにいたはずだ。
スマホを握ったまま寝落ちし、通知の来ない画面をぼんやり見つめていた。それなのに、鼻を刺す空気の匂いが違う。
古い石の冷たさ。ざわめく人の気配。
「成功だ……!」
誰かの興奮した声が響く。
恐る恐る目を開いた瞬間、心臓が止まりそうになった。
見知らぬ大広間だった。
高い天井。壁一面に刻まれた巨大な魔法陣。
床には淡い光が流れ、豪奢な衣装をまとった人々が並んでいる。まるでゲームか映画の世界。
けれど――違和感があった。
誰も、私を見ていない。
視線の先は、少し離れた場所。
そこに立っていた人物を見た瞬間、思わず息を呑んだ。
銀髪の女だった。
腰まで流れる髪は月光のように淡く、赤い瞳が妖しく光っている。
美しい。
そう思った直後、背筋に冷たいものが走った。
ただ立っているだけなのに、空気が張り詰めている。
まるで猛獣を前にした時のような、本能的な恐怖。
それなのに、どうしてか目を逸らせなかった。
「……ふふ。久しいわね、人間の王宮は」
低く艶のある声が響く。
その瞬間、周囲がざわめいた。
「ま、魔王ノリス……!」
――魔王。
現実味のない言葉が、耳の中で重く響く。
(え、魔王? 本当に?)
理解が追いつかない。
混乱する私を置き去りにして、玉座の方から一人の青年が立ち上がった。
整った顔立ちだった。
けれど、その目は驚くほど冷たい。
「ようこそ。私の国へ、魔王ノリス」
王族らしい豪奢な衣装。
王だ。
青年は微笑みながら続ける。
「君の力が欲しい。私はこの国を、誰も逆らえない完全な国家にしたい」
「私が魔王だって分かって言ってるの?」
「もちろんだ。美しく、力のあるそなたは妃に相応しい」
(……妃?)
思考が止まる。
何それ。
状況が急すぎて理解が追いつかない。
けれど、周囲の反応を見る限り冗談ではないらしい。
大広間は成功の空気に満ちていた。
そして私は、その輪の外側に立っていた。
「あ、あの……」
小さく声を出す。
誰も振り向かない。
制服姿の私は、この空間にあまりにも不釣り合いだった。
ようやく一部の魔術師がこちらを見る。
だが、その視線に歓迎はなかった。
「……測定を」
白髭の老魔術師が前に出る。
水晶玉に手をかざし、私を値踏みするように見た。
嫌な予感がした。
理由は分からない。
でも、空気が冷たい。
数秒の沈黙の後、老人が口を開いた。
「聖女ヒマリ。魔力反応は確認できません」
一拍。
「肉体能力も低い。ユニークスキルも無し」
ざわり、と空気が変わった。
期待が、失望に変わる音が聞こえた気がした。
玉座の青年――ジギスムントが、静かに問う。
「……つまり?」
「現時点では役に立たないかと」
その答えに、青年は驚くほどあっさり頷いた。
「そうか。じゃあ、いらないね」
軽い声だった。
あまりにも軽すぎて、一瞬意味が理解できなかった。
「……え?」
喉がひくりと鳴る。
聞き間違いだと思いたかった。
「ちょ、ちょっと待ってください!」
気づけば声を張り上げていた。
「急に呼ばれて、まだ力が出てないだけかもしれなくて……!」
必死だった。
だって、何も分からない。
知らない世界に連れてこられて、数分で価値を決められて。
それで終わりなんて、あまりにも勝手だ。
だが――ジギスムントは、もう私を見ていなかった。
「こちらは失敗だ。使えないならゴミだ」
そして、退屈そうに言う。
「処理して」
心臓が止まりそうになった。
「……え?」
兵士たちが無言で近づいてくる。
本能が危険を叫んでいた。
(嘘……でしょ?)
腕を掴まれる、強い力だった。
逃げられない。
魔王ノリスだけが、面白そうにこちらを見ていた。
「ふふ……いいの?」
「問題ない。魔王一人で十分だ」
二人の声が遠く聞こえる。
私は最初から、必要なかったのだ。
巨大な扉が開く。
冷たい風が吹き込んだ。
兵士が、淡々と言う。
「ここから先はゴミ捨て場だ」
一拍。
「聖女なら浄化してみせろ」
次の瞬間――
背中を、強く押された。
身体が宙に投げ出された。
何が起きたのか理解する前に、視界が激しく回転する。
次の瞬間、背中に凄まじい衝撃が走った。
「――っ!」
息が詰まる。
瓦礫の上を転がり、ようやく止まった時には、全身が悲鳴を上げていた。
しばらく呼吸すらまともにできない。
肺が潰れたみたいに苦しい。
制服は泥と埃で汚れ、膝は擦り切れている。
握ったままだったスマホは画面がひび割れ、もう電源すら入らなかった。「……最悪」
ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほど弱かった。
辺りを見回す。
暗い。
いや、暗いだけじゃない。
鼻を突くような腐臭が漂っている。
崩れた木材。砕けた壺。腐りかけた食料。何か分からない黒い染み。
文字通りの――ゴミ捨て場だった。
「……本当に?」
胸の奥が冷えていく。
本当に、捨てられた。
知らない世界に呼び出されて。
力がないと言われて。
数分で価値を決められて。
いらないから処理。
寒さのせいか、恐怖のせいか分からない。
涙が滲んだ。
「私、何もしてないのに……」
責められるようなことなんてしていない。
ただ、突然呼ばれただけだ。
なのに、あの王はまるで壊れた道具でも捨てるみたいに言った。
『使えないならゴミだ』
その言葉が頭の中で何度も響く。
怖かった。
悔しかった。何より――腹が立った。
(あんな言い方……)
何も知らない相手を。
生きている人間を。
あんなふうに簡単に捨てるなんて。
胸の奥に、じわりと熱が滲んだ。
(……ジギスムント)
あの冷たい目。
私を見もしなかった顔。
(絶対、許さない)
その時だった。
闇の奥で、何かが動いた。
ガサリ。
嫌な音だった。
反射的に顔を上げる。
闇の中に、赤い光が浮かんでいた。
一つじゃない。
二つ。
三つ。
ぬるり、と何かが這う音。
重い足音。
低いうなり声。
背筋が凍った。
「……なに……?」
目が慣れてくる。
緑色の肌、鋭い牙。
ゲームでしか見たことのない存在。
「……魔物」
喉が震えた。
逃げなきゃ。
そう思うのに足が動かない。腰が抜けそうだった。
魔物たちは、ゆっくりこちらへ近づいてくる。
餌を見る目だった。
兵士の言葉が蘇る。
『聖女なら浄化してみせろ』
(無理……)
そんなこと、できるはずがない。
力なんて無いと言われた。
役立たずだと言われた。
なのに。
なのに――
「……死にたくない」
声が震える。
それでも、はっきり思った。
私はまだ何もしていない。
こんな場所で終わりたくない。
勝手に呼び出されて、勝手に捨てられて。
それで終わりなんて、絶対に嫌だった。
「……来ないで!」
叫んだ瞬間だった。
手のひらが、熱くなった。
驚くほど温かい熱。白く柔らかな光が、指先から溢れていた。
「……え?」
光はまるで水面に波紋が走るように広がり
魔物たちを包み込んだ。次の瞬間、異変が起きた。
魔物が止まった。
襲ってこない。それどころか――
膝をついた。
濁っていた瞳から、ゆっくり濁りが消えていく。
「なに……これ……」
上手く言葉にできない。
でも確かに。
何か大切なものを奪ったような感覚があった。
優しいのに、怖い。
救ったはずなのに、違和感が残る。
白い光が静かに消えていく。
残された魔物たちは、もう襲ってこなかった。
ただ、ヒマリを見上げている。
まるで――主人を見るように。
ヒマリは、自分の手を見つめる。
(私……何をしたの?)
わからない。
この力が救いか、何かを奪う力であるのか。
第一話をお読みいただきありがとうございます。 聖女の力は救いか、それとも災いか。 ブックマークや感想をいただけると励みになります。
王都の鐘が鳴った。 ――敗者ではなく、王を迎える音として。 夜明けの光が、戦火の名残を引きずる街に、 ゆっくりと差し込んでいく。 傷ついた将兵。不安げに物陰から様子を伺う住民。 その中で王城だけは、異様なほど整えられ、静まり返っていた。 まるで、この瞬間のためだけに。 玉座の間には、貴族、将軍、文官、神官、そして兵士たちが、 身分も派閥も越えて、厳粛な沈黙の中に並んでいる。 その中央、赤い絨毯の先。 玉座の前で、ヒマリは立ち尽くしていた。 白と深紅を基調とした聖女王の装束。 ひどく綺麗で――ひどく、自分に似合っていない気がした。(……なんで、こうなったんだっけ) ほんの数か月前まで。 自分は、ゴミ捨て場に捨てられた女子高生だった。 聖女として召喚され、役に立たないと切り捨てられ、 魔物の巣に放り込まれ、生き延びるために必死に戦った。 あの頃、頭にあったのは、 ただ「生きたい」という気持ちだけ。 それがどうして今、 こんな場所に立っているのか。「――聖女ヒマリ」 大司祭の声が、天井に反響しながら静かに響く。「汝は王都を解放し、民を救い、 この国を圧制から引き戻した」「ここに、錫杖と王冠を授ける」 差し出された王冠を見た瞬間、 ヒマリの喉が、かすかに鳴った。(……重そう) 場違いな感想が、ふと浮かぶ。 けれどその奥で、もっと重い何かが沈んでいた。 復讐。 最初は、それだけだった。 ジギスムント王を殺す。 この理不尽な世界を、ぶち壊す。 それだけが、生きる理由だった。 でも―― 最前列で、フェルマーがこちらを見ていた。 責めるでもなく、縋るでもなく、 ただ、覚悟を問う視線。『君は、もう楽になる道を選べない』 クルスの声が、脳裏に蘇る。(……知ってるよ) 復讐者でいる方が、ずっと楽だった。 怒って、壊して、殺して、終わり。 そこには未来も、責任もなかった。 でも―― 王になるということは、 間違え続ける役目を引き受けるということだ。 誰かを救えば、 誰かを見捨てる。 正しい選択なんて、どこにもない。 それでも。 ヒマリは、王冠に手を伸ばした。 頭に載せられた瞬間、 その重みが首から背骨を通り、心の奥へ沈み込む。(……逃げられない、
魔王城の最上層。 結界と演算陣に囲まれた制御室は、 戦場よりも遥かに静まり返っていた。 無数の魔導スクリーンには、 各国の外交動向―― そして、ヒマリの心拍が、 リアルタイムで映し出されている。 一番手前に。 一番大きく。「……第二軍、王都防衛中核配置。 合理性評価、七十八点」 冷たい声が、誰もいない制御室に落ちる。「情緒的判断、二十二点。 だが、その誤差が、この国の人間的安定を 飛躍的に高める」 無数の演算式が、空中で解体と再構築を繰り返す。「理解はできる。 だが――納得は、しない」 スクリーンの中で、ヒマリが立ち上がった。 クルスは、彼女の行く先を、無意識に目で追っていた。 かつて女性の形をしていた身体は、今は違う。 肩幅が広くなった。 顎の輪郭が鋭くなった。 声帯の周波数が、わずかに低くなった。 理由は、演算済みだ。 ヒマリの視線が、無意識に追う顔の輪郭。 ヒマリの心拍が、安定する声の周波数。 ヒマリが、信頼できると判断する身体的特徴。 すべて、データがある。(最適化は、完了した) だが、クルスは今日も、 自分の手の輪郭を、一度だけ確認した。 ヒマリが、好む形かどうか。 彼女は、人を信じることで、 王都を統治しようとしている。 聖女としては美しい。 だが、ノリスに裏切られたクルスにとって、 最も不確実で、 最も危険な統治手法だった。「信頼とは」 クルスは、一拍置いた。「再現性のない、奇跡だ」 スクリーンの数値が、静かに流れる。「奇跡を制度化しようとした瞬間、 それは必ず、破綻する」 スクリーンの中で、 シュルツが深く頭を下げている。 その姿を、クルスは、 観測対象としてしか見ていない。「なるほど、彼は裏切らない可能性が高い。 だが、それは裏切れない状況に 置かれているからに過ぎない」「人は、環境が変われば、必ず変質する」 その前提を、前魔王であるクルスは 一度たりとも、疑ったことがなかった。 だからこそ、彼は魔王城を管理した。「支配とは、自由を奪うことではない。 選択肢を削ぎ、最適解しか見えなくさせることだ」「恐怖も、忠誠も、愛情でさえ、
玉座の間は、嵐のあとの砂漠のように静まり返っていた。 ジギスムント王に仕えていた貴族たちは、 誰一人として無関係ではなく、 次の犠牲者が自分になる可能性を、肌で理解していた。 王都を去ったジギスムントの代わりに、ヒマリが玉座に座る。 決戦時、無断で離反した上に、第二軍を率いて王都を目指したシュルツ。 一歩間違えば、王座に座っていたのは、この男だった。 貴族たちの視線が、一斉に一人へと集まる。 シュルツ・フォン・ライヒベルク。 第二軍団長。 彼は逃げなかった。 背中に、死の予感が張り付いているにもかかわらず、 ゆっくりと、玉座の前へと進み出る。「何故、第二軍を連れ戦場を離れた?」 フェルマーの冷徹な声が、静寂を切り裂いた。「――まず、ジギスムント王から戦力を削ぐこと。 その後、王都防衛に充てるためです」「そのまま離反し、漁夫の利を得ようとしたのでは?」 ざわめきが走る。 ここにいる誰もが胸に抱いていた疑念を、 フェルマーは、何のためらいもなく言葉にした。 だが、シュルツは目を伏せなかった。 まっすぐに、ヒマリを見つめる。「亡命して日が浅い身ながら、 断じてそのようなことはございません!」 彼は、右膝を床に突いた。「第二軍をもって、王都の全防衛を引き受けさせてください。 この命に代えても、必ず守り抜きます」 重たい沈黙。 処罰を待つ姿勢でありながら、 その言葉は、願いではなく、命令を待つ覚悟を帯びていた。 ヒマリは、玉座で指を組み、彼を見つめる。「……ずいぶん、都合のいい申し出ね」「承知しています」 シュルツは、わずかに口元を緩めた。「ですが、私は―― ヒマリ様に亡命した日のことを、今も忘れられません」 場の空気が、わずかに揺れる。「警戒して、何も口にしなかった私を、 ただの兵士として迎え、温いお茶を差し出してくださった」 ヒマリの目が、かすかに揺れた。「『選び直すことは嫌いじゃない』と、 笑っておられた」 彼は、静かに視線を落とす。「その時、私は決めたのです。 この方に、命を預けようと」 沈黙が、柔らかく、しかし確かに場を包み込む。 ヒマリは、ゆっくりと立ち上がった。「……あなたは、自分が処刑されるかもしれない場
砂は、血を吸わない。 どれほど兵が死に、どれほど王国が崩れようと、 サンドランドの大地は何事もなかったかのように乾いている。 王都ブリュードから南へ。 敗走と呼ぶにはあまりに整然とした軍列が、砂の都《ラグナ》へ流れ込んでいた。 ジギスムントは、その先頭に立つ。 顔色は変わらない。 敗北の影もない。 ――撤退ではない。 これは、戦場の移動だ。 そう信じているからだ。 ラグナ王宮、砂岩の玉座の間。 サンドランド王族と重臣たちが、ジギスムント王を迎えていた。 彼らの目には、警戒と欲望が同時に宿っている。 北方最大国家の王。 だが今は、魔王に追われて逃げ込んできた男。「……歓迎しよう、ジギスムント殿」 サンドランド王が、慎重な笑みで言う。「我が国は中立を重んじる。 だが、婚姻はお忘れなきよう」 ジギスムントは、一礼する。「はい。国を追われた身となりましたが、 改めて貴国の王女を正妃に迎えたい」 場が、わずかにざわめく。 ジギスムントは続ける。「見返りとして、北方四万の軍事力。 そして――魔王軍を排した後の交易独占権を」 王族たちの目が、光った。 これは、救済ではない。 投資だ。 サンドランドにとって、 敗走中の王に賭けるのは、あまりにも危険で―― あまりにも、甘い話だった。「魔王ノリスと、聖女ヒマリ」 ジギスムントは、二人の名を出す。「彼女たちは、強い。 だが、国家運営を知らない」 砂の都の空気が、わずかに変わる。「私が負けたのではない。 私は、次の戦場を選んだだけだ」 その言葉に、サンドランド王は目を細めた。「……その次の戦場が、この国だと?」「いいえ」 ジギスムントは、静かに首を振る。「貴国は、私の背後になる」「魔王軍の主力は魔物だ。 魔物では、国は治められない」 一拍。「それが――彼女たちの、唯一の弱点だ」 沈黙。「私は、その裏側で、 兵站と外交と婚姻で包囲する」「勝つのは、いつも――」 ジギスムントは、断言する。「剣ではなく、制度だ」 その夜。 ジギスムントに会いに扉を開けた瞬間、 王女アリシアは思わず息を止めた。 薄橙色の流れるような髪に、翠の瞳。 美しいと言われながら育った。
炎と死臭が、平原を覆っていた。 第四軍の陣列は、すでに軍と呼べる形を失っている。 燃え、砕け、散り、 ――それでもなお前へ進もうとする残骸。 それを見下ろす王都軍本陣で、 ジギスムントは、ただ黙って立っていた。 ――計算外だ。 第四軍は捨て石。 魔王軍の前衛を削り、 ヒマリとノリスに躊躇を生じさせるための犠牲。 だが―― ノリスは、魔力消耗を度外視して火球を撃ち続けた。 ヒマリも、決断を止めなかった。 想定よりも早く、 想定よりも深く、 王の盤面が削られていく。「……次の報告を」 ジギスムントの声は、まだ落ち着いていた。 想定の外側にある事象を 失敗と呼ばない。 伝令が駆け寄る。「第、第四軍――八割以上が壊滅。 残存部隊も、戦闘能力を喪失しました。 その際、魔王城結界は消失」 伝令の声が、わずかに震えていた。「ああ、光の幕が崩壊する様が見えた」 王は、目を細めた。 その声に、喜びも悲しみもない。 ――将来の反乱分子を、魔王軍の仕業として処分できた。 それで、十分だった。「目的は達した。魔王軍の魔力消耗率は?」「結界を失い……想定の一・三倍です」 わずかに、王の口角が上がる。 ――使える。 第四軍は無駄死にではない。 魔王軍の弱体化という形で、確実に価値を残している。 だが、その瞬間。「……陛下」 別の伝令が、青ざめた顔で割り込んできた。「第二軍が――陣を離脱しました」 空気が、止まった。「……何?」「行方不明であった第二軍・シュルツ将軍が、部隊を率いて戦線から後退。 現在、王都方面へ進路を――」「……理由は」「不明です。伝令も拒否されています」 一拍。 二拍。 ジギスムントの思考が、超高速で回転する。 第二軍。 主力。 魔王軍を抑え、第四軍の犠牲を意味のあるものに変えるための要。 それが――消えた。 この瞬間、王の戦場は未定義になる。 どれほど兵が残っていようと、 どれほど王都が堅牢であろうと、 勝利条件が崩れた戦争は、すでに負けている。「……シュルツめ」 怒りはない。 あるのは、冷たい納得だけ。 ――やはり、あの男も役立たずだ。 理屈よりも、信義や縁を貫く男。 王にとっ
夕暮れの戦場。 王都平原に、低い角笛の音が響いた。 それは進軍の合図ではない。 死兵を前へ押し出すための、強制の号令だった。 第四軍が、動き出す。 ロンデル公国の兵で編成された部隊。 王国に降った敗残兵たちだ。 だが彼らの背後には、すでに退路はない。 逃げれば―― 家族が死ぬ。 ジギスムントは、裏切りを計算に入れていた。 兵たちは知っている。 この突撃は、勝つためのものではない。 生き残るための唯一の選択肢なのだと。 鎧は古く、剣は欠け、補給は途切れている。 指揮系統も、フェルマーの策で半壊していた。 それでも――進む。 血走った目で。 歯を食いしばり。 誰かを恨む余裕すら失って。 ただ、前だけを見て。 【魔王軍本陣】 ヒマリは、その光景を見下ろしていた。 第四軍の隊列が、乱れながらも前進してくる。 そのすべてが、死を覚悟した顔をしていた。 「……止まらないわね、ロンデル公国軍」 ヒマリは、唇を噛む。 本来なら、ここで――寝返るはずだった。 フェルマーが仕込んだ瓦解策は機能している。 ジギスムントに恨みも持っていたはず。 ――条件は、揃っていたのに。「……おかしいわ」 ヒマリの声が、震える。 第四軍の先頭に立つ兵士たちの顔が、投影越しにも分かる。 血走った目。 逃げ道を探す者の顔じゃない。 覚悟を決めた死兵の顔だ。「人質だな」 フェルマーが、歯を食いしばる。「家族を王都に拘束している。 前線で功を立てれば解放――そう条件を突きつけた」 低く、絞り出すような声だった。「……私が仕込んだ離反工作を、 人質で上書きしたか」 自分の策が潰された悔しさより、 その方法への怒りが、滲んでいた。 ヒマリの胸が、ひくりと跳ねた。 ――それで、進んでいる。 家族は、裏切れない。 だから、進む。「……っ」 「補給なし。援軍なし。 突撃させて、魔王軍の戦力を削るための捨て石となった」 淡々とした声。 だが、冷静さの裏に憐れみが滲んでいた。 ヒマリは、指を握りしめた。 (寝返るかもしれないって……思ってた) どこかで、信じてしまっていた。 兵たちが剣を捨て、投降する未来を。【第四軍、死の行進】 旗
王都ブリュード、王城最上階。 重厚な扉の向こう、執務室には静かな緊張が満ちていた。 机いっぱいに広げられた地図。 その前に座る男は、 まるで大理石から削り出された彫像のようだった。 長い睫毛の影が白い頬に落ち、 整いすぎた輪郭は感情を拒む刃のように鋭い。 淡い銀の髪が光を受け、静かに揺れる。「……遅いな」 ぽつりと漏れた声には、苛立ちが滲んでいる。 本来なら、とっくに報告が届いているはずだった。 ゴミ捨て場――処分したはずの異世界人の痕跡について。「フェルマーめ……」 蒼い瞳がゆるやかに細まる。 あの男は有能だ。 天才で、合理的で、感情に左右されない。
魔王城の玉座は、今も空いている。 かつて、この場所に座っていた者の名は ――前魔王クルス。 中層から撤退したヒマリに魔物達の失望が広がる。 クルスの治世は冷酷で無慈悲だったが、 均衡は保たれ、争いは最小限に抑えられていた。「……あの方なら、こうはならなかった」 誰かの呟きが、静まり返った広間に溶ける。 その言葉は祈りであり、同時に今を否定する呪いでもあった。 だが、玉座の前に立つ少女 ――ヒマリは、その名に縛られない。「知らないよ。その魔王がどれだけ立派だったかなんて」 そう言って、ヒマリは小さく息を吸い、一歩だけ前へ出た。 玉座に落ちた影が、ゆっく
魔王城の最下層を制したヒマリは、 浄化された魔物たちを率いて、さらに上を目指していた。 ゴブリンたちが先行して索敵し、骸骨兵が重い扉を押し開く。 ゴーストたちは地図を広げ、進路や危険箇所を静かに分析していた。「ヒマリ様。中層はこれまでと違います」 一体の骸骨兵が告げる。「ここには、現魔王ノリス様に仕えている 上位の配下が出てまいります。 悪魔族と呼ばれるサキュバスや、デーモンたち…」 ヒマリは小さく頷いた。「これまで通り下層で配下を集めた方がよろしいのでは?」「後戻りは出来ないのよ」 魔物達には言えてないが、ここでの食事は劣悪だ。 ゴミ捨て場からゴーストが拾
王都ブリューテ。 王城最奥、ジギスムント王の執務室。 重厚な机の上には、広げられた一枚の地図。 他国の国境線に、赤い矢印が何本も引かれている。「西方ロンデル公国は、抵抗が激しい」 ジギスムントは淡々と告げた。「だが、魔王ノリスの軍を先鋒に出せば、一週間で落ちる」 周囲に控える貴族たちは、揃って恭しく頷く。 その表情の裏にあるのは忠誠ではない。 戦後の領地、褒賞、利権―― 誰もが腹の中で計算していた。「初戦を魔導士の結界ごと吹き飛ばしたとか、 さすがは魔王ノリス様ですな」 先月まで若い王に陰口を叩いていた 老臣が媚びるように笑う。「かつて大陸を震え上が







