LOGIN亡命した将軍シュルツ。 彼の目に映ったのは、 統制も規律もない異常な日常だった。
王都ブリュードは、完璧だった。 夜半の回廊に人影はなく、 灯火だけが等間隔に揺れている。 完璧だ。 自分が作った秩序が、今夜も機能している。 ――だから、この胸の違和感が、 どこから来るのか分からなかった。 ジギスムントは自室の執務机に座り、書類を閉じた。 羊皮紙の束は整然と並び、記載内容にも不備はない。 署名も揃っている。 それなのに、胸の奥に小さな棘のような違和感が刺さったまま抜けない。「……静かすぎる」 独り言が、やけに大きく響いた。 扉の外には近衛が配置されているはずだ。 だが足音も、鎧の擦れる音も聞こえない。 彼は立ち上がり、扉を開けた。 廊下には、確かに兵がいた。 姿勢正しく、微動だにせず立っている。「……ご苦労」 声をかけると、兵は即座に頭を下げた。「はっ。陛下」 だが。 ――温度がない。 以前なら感じていたはずの、緊張、畏怖、あるいは忠誠の熱。 それらが、妙に均されている。「不審な人影はみなかったか?」「異常ございません」 即答。 早すぎる。 考える間がないほど、整いすぎている。 ジギスムントは視線を逸らし、歩き出した。 回廊を進むにつれ、同じ感覚が積み重なっていく。 誰もが礼儀正しく、静かで、よく働く。 質問には即答し、判断に迷いがない。 ――まるで、訓練された人形だ。 胸の奥が、じわりと冷えた。「……最近、皆よく働くな」 試すように、文官の一人に声をかける。「はい。陛下のお役に立てることが、我々の喜びです」 笑顔で、完璧な受け答え。 だが、その目の奥に、個人的な感情が見えない。 その瞬間、ジギスムントの脳裏に、ひとつの言葉が浮かんだ。 ――管理されている。 誰に? 彼は足を止めた。「……最近、誰が婚姻準備を調整している?」 文官は一瞬だけ、ほんのわずかに間を置いた。「補佐官会議の決定です。複数名による合議で――」「具体的には?」「……ええと」 その沈黙は、ほんの二拍。 だが、ジギスムントには十分だった。(誰の名前も、出てこない) いや、いるのに――誰もその名を口にしない。 頭の奥で、歯車が噛み合う音がした。(これは……) 彼はゆっくりと自室へ戻り、扉を閉め、結界を張る。 魔力の流れを確認するが、
王城・東翼の婚礼準備室。 私はネイ、サンドランド王女付きの侍女として、 王都に入ったが、三日目になってもこの城に慣れない。 豪華さには慣れた。 広い廊下も、煌めくシャンデリアも、もう驚かない。 慣れないのは――静けさだ。 整いすぎている。 陶磁器の壺には埃ひとつなく、 廊下のシャンデリアは常に一定の明るさを保ち、 使用人たちは静かで、効率的で、よく働く。 ……あまりにも。 サンドランドと違い過ぎる。「次の布地はこちらを」 指示を出す宰相補佐の声は穏やかで、丁寧で、非の打ち所がない。 それなのに、背筋が冷える。 商人と交渉しているとは思えない ――感情の凹凸が削ぎ落とされているようだった。 私は王女付き侍女として、婚礼衣装の準備と進行確認を任されている。 本来なら華やぎと緊張が入り混じるはずの仕事だ。 だがこの城では、違った。「次の工程に移ります」 そう告げられるたび、背筋が伸びる。 一斉に視線が向けられる。 寸分の狂いもなく、同時に。 ……気味が悪い。 アリシア様は控え室で、窓の外を眺めていた。「ネイ……ここ、静かすぎない?」 小さな声だった。 私は思わず頷きそうになり、慌てて姿勢を正す。「は、はい。ですが王都ブリュードは治安が良いと聞いております」 王女アリシアは微笑んだが、その目は笑っていなかった。「治安、ね。 何だか気味悪いわ」 私はアリシア様の髪を梳かしながら囁いた。「私も同じように思っていました。 「もうすぐ婚姻だというのに、 生活のざわめきのようなものが、どこか欠けている気がして」 そのとき、扉が静かに開いた。「失礼いたします。進捗の確認に参りました」 現れたのは、ジギスムント王の側近。 丁寧な口調、柔らかな笑み。 だが私は、思わず息を詰めた。 ――目が、笑っていない。 いや、それだけではない。 視線が、合わないのだ。 こちらを見ているのに、焦点が合っていない。 まるで必要な位置情報だけを取得しているような目。「式場は、予定通り戦勝記念広場で整えます」 王女が小さく眉をひそめる。「……聖堂ではないのですか?」 側近は一瞬だけ間を置いた。「陛下のご意向です。 祝福は勝利によって与えられる
魔王城の地下、最下層。 かつては、ゴミと一緒に人間が捨てられていた場所。 泣き声も、怒号も、ここでは意味を持たなかった。 今は違う。 壁一面に張られた魔導図。 脈打つ情報結晶。 作戦用召喚陣と記録水晶。 ここは―― 魔王城の思考中枢だった。 その中央で、ヒマリは机に肘をつき、静かに報告を聞いている。「――以上だ。 王都ブリュード、婚姻準備が正式に開始された」 フェルマーの声が落ちる。「式典は三か月後。 招待はサンドランド使節団と有力貴族のみ。 警備は親衛隊主体……だが」 彼は一拍置いた。「裏方の実務が、かなり外注化されているな。 ロンデル公国に人手を取られているのだろう。 書記官、物資管理、式典進行 ……その多くが外部協力者名義だ」 ヒマリは頷いた。「うん、そこが穴ね」 その声に、どこか人知を超えた滑らかさが混じる。「人を信用しない王ほど、 仕組みには無防備になる」 フェルマーが、わずかに眉を上げた。 今のは――ヒマリの声ではなかった。「規則に委ねた瞬間、 人は監視を止めるからね」 机の水晶が光り、王都の倉庫や役所の映像が浮かぶ。 どれにも、わずかな歪み。「接触は三段階。 ――まず情報を、ほんの少しだけ遅らせる」 ヒマリは人差し指を立てた。「遅らせるだけ。嘘はつかない。 でも王は、古い情報で判断することになる」「次に――その判断を、急かす」 中指が加わる。「焦った人間は、確認を省く。 自分の判断を信じたくなるから」「そうして最後に」 三本目の指が、静かに立った。「選択肢を一つ、消しておく」 誰も気づかないような間が、あった。「王は、自分の頭で考えて、自分で決める。 ――私が用意した答えを」 フェルマーが小さく息を吐いた。「心理誘導か。強制じゃないから気づきにくい」「強制は反発を生むもの。 だから都合のいい偶然を積み重ねるの」 フェルマーはまた眉をひそめたが、何も言わない。「人は、自分で決めたと思った瞬間に、一番深く縛られる」 作戦卓の端で、黒い影が揺れた。 ノリスだった。 以前の傲慢さは薄れ、今は静かな集中をまとっている。 だが、その瞳の奥には、燃えるような執念が宿ってい
王都ブリュード。 今日の朝は、 いつにも増して整いすぎていた。 メイドに磨き抜かれた回廊。 衛兵の寸分の狂いもない儀礼。 揃った足音で進む文官たち。 それらは秩序の証であり、 同時に――支配が正しく機能している証拠でもある。 ジギスムントは玉座の肘掛けで綺麗に磨かれた爪を一瞥し、 報告書を流し読む。「サンドランドより正式な返書です。 婚姻の件、前向きに検討すると」 宰相の声に、王は小さく頷いた。 予定通りだ。 砂漠国家は弱い。 だが、資源は豊富。 正妃として王女を迎えれば、 軍を動かすことなく服属させられる。 ロンデル公国の兵は第四軍として吸収した。 今は軍備を整える時。 兵を動かさず、 金も出さず、 制度と縁で縛る。 ――それがフェルマーに教え込まれた、 彼の統治法だった。「式典準備は急げ。半年も要らん。三か月でいい」「はっ」 命令は淀みなく伝達される。 だが、その完璧な流れの底で、 ジギスムントは小さな違和感を覚えていた。 ――静かすぎる。 ロンデル陥落で、ジギスムントの人気はうなぎ登りだ。 国内は安定している。 反乱の兆しもない。 それ自体は、 本来なら喜ばしいことのはずだった。 だが。(……ノリスが、帰ってこない) あの女は、力を失ってもなお策を巡らす存在だ。 捨てられるよりは側室を選ぶ―― それくらいの計算は、すぐにできる女のはず。 それなのに、 彼女の名は誰の口からも出ない。 それが、かえって不気味だった。 報告も気に入らない。 第二軍・シュルツ将軍の失踪。 地下ゴミ捨て場での魔力不明瞭化。 そして、魔物被害の沈静化。「……老将軍にしては、消え方が綺麗すぎるな」 シュルツは現役を引退予定だった。 領地も欲しがらず、権力にも執着しない。 だが、縁を重んじる男だったはず。 いなくなり方が、あまりにも整理されすぎている。 胸の奥で、 見えない歯車が、わずかに軋む。 それは計算では測れない、 微細なずれ。「……考えすぎだ」 ジギスムントは自分に言い聞かせる。 今は婚姻だ。 王としての正統性を固め、諸侯を沈黙させる儀式。 それが終われば、制
王都ブリュード。 玉座の間。 ロンデル公国から戻ったジギスムント王は 地図の上に赤い旗を一本、打ち込んだ。「――ロンデル公国、陥落だ」 満足げにそう告げ、ゆっくりと背筋を伸ばす。 側近たちは一斉に頭を垂れた。「お見事です、陛下。 ノリス様も初戦の大戦果、今後も期待したいものですな」 その言葉に、ジギスムントは小さく頷いた。 玉座の脇では、ノリスがワイングラスを傾けている。 艶やかな笑み――しかし、どこか張りがない。 その違和感に、王は気づいた。「どうした、ノリス。勝利の酒だぞ」 彼女はゆっくりと立ち上がる。「……おめでとう、ジギスムント」 祝福の言葉は丁寧だったが、声音は冷えていた。「ただ、少しね。力が弱くなった気がするの」 ジギスムントの眉が、わずかに動く。「弱くなった?」「ええ。昨日話した通り、城との接続が切れた。 私の魔力は、あの城を基点に循環していたから」 王は地図から視線を離し、ノリスを見つめた。 確かに―― ロンデル攻略戦終盤での彼女の力は、 かつてほど圧倒的ではなかった。 裏でこそこそノリスが魔王城に出入りしていたのは把握している。 それでも城を奪われたのか――。「……あの役立たずに?」 低く呟く。 顔も思い出せない小娘。 ただ、処分済みの失敗作が、ここまで影響するとは思っていなかった。 ノリスの戦力低下は、彼の独裁計画にとって看過できない問題だ。 だがジギスムントは、動揺を表に出さなかった。「問題ない」 淡々と告げる。「次はサンドランドだ。 軍事力は低いが、資源が豊富」 彼は地図の別の地点を指す。「今回は力押しではない――婚姻による併合を行う。 サンドランド王女を正妃に迎え、内部から掌握する」 ノリスの瞳が、細くなる。「……婚姻?」「そうだ」 ジギスムントは微笑んだ。 冷たく、計算だけで作られた笑み。「もう、君は側室でいいだろう。 今後も力は借りるが、正妻には不要だ」 一瞬、空気が凍る。「負けた魔王には過ぎた扱いだが――。 ロンデル攻略には役立ったからな」 沈黙。 次の瞬間―― ノリスの表情が、ゆっくりと歪んだ。 怒りでも悲しみでもない。 もっと深い、冷えた感情。「……そ
魔王城の炉心室は、白い光に満たされていた。 かつて城を満たしていた濃密な闇は、すでに影も形もない。 ノリスの魔力は完全に押し出され、 循環はヒマリの浄化光によって安定した流れを取り戻していた。 城そのものが、深く息を吐くように静かに脈打っている。 最上階のバルコニー。 ノリスは膝をつき、悔しげに唇を噛んだ。「……完全に、切り離されたわね」 魔王の力そのものが失われたわけではない。 だが、魔力の供給は完全に失われた。「私がやったのは……封じることだけ」 黒い霧が、ゆっくりと彼女の身体を包む。「でも、あの子は……」 ノリスは、遠くの炉心を見つめた。「城の使い方を、知識として知っていた」 笑みが、ほんの少しだけ歪む。「……あの子、魔王になったのね。 私より、ずっと、ちゃんと」 黒い霧が風に溶ける。 ノリスの姿は、王都の方角へと流れ去った。 ◆ ヒマリは壁にもたれ、肩で息をしていた。 炉心を満たす白い光は、穏やかで、優しくて―― けれど、そのはずなのに。(……静かすぎる) 城が、息をしている。 そう感じた瞬間、ヒマリの背筋を、 ひやりとしたものが走った。「……やった。城は、私たちのものになった」 口にした言葉は、間違っていない。 勝利だ。計画は成功した。 魔物たちは一斉に膝をついた。「主に栄光を!」 声が重なり、炉心室に反響する。 その光景を見下ろしながら、 ヒマリは、胸の奥が、すうっと冷えるのを感じた。(……あれ?) 自分は、こんな形を望んでいたのだろうか。 恐怖ではなく、秩序。 暴力ではなく、合理性。 そう決めたはずなのに―― 跪くという行為そのものが、 もう「前提」になっていることに、今さら気づく。(……まあ、いいか) ヒマリは、そう思うことで、違和感を押し流した。 今は忙しい。 考えるのは、後でいい。 フェルマーは結界水晶を仕舞い、珍しく口元を緩めた。「成功だ。ノリスとの接続は九十九・八パーセント遮断」 ヒマリは彼を見て、くすりと笑った。「ありがとう、フェルマー。 あなたがいなかったら、たぶん崩壊してた」「言ったはずだ。君は最高傑作だと」 肩をすくめつつ、少しだけ視線を逸らす。「ただ、想定以上にやってくれた
王都ブリュード、王城最上階。 重厚な扉の向こう、執務室には静かな緊張が満ちていた。 机いっぱいに広げられた地図。 その前に座る男は、 まるで大理石から削り出された彫像のようだった。 長い睫毛の影が白い頬に落ち、 整いすぎた輪郭は感情を拒む刃のように鋭い。 淡い銀の髪が光を受け、静かに揺れる。「……遅いな」 ぽつりと漏れた声には、苛立ちが滲んでいる。 本来なら、とっくに報告が届いているはずだった。 ゴミ捨て場――処分したはずの異世界人の痕跡について。「フェルマーめ……」 蒼い瞳がゆるやかに細まる。 あの男は有能だ。 天才で、合理的で、感情に左右されない。
通路は、思っていた以上に広かった。 崩れた石壁の向こうへと続く回廊は、 かつての城の名残を感じさせる造りで、 ところどころに装飾の欠片が残っている。「ここが……魔王城……」 ヒマリは、足元を確かめながら歩いた。 湿った石床。 天井の高い空間には、かつての威厳が微かに残っている。「昔は、もっと栄えておりました」 先導するゴブリンが、静かに言った。「魔王クルス様が在りし頃は、 この城一帯が闇の都と呼ばれておりました」「……今は?」「主を失い、統制を失い ……強き魔物が弱き者を喰らう場所になりました」 淡々とした口調だった。 だが、その奥には、わずかな苦さ
ゴブリンが突然動きを止めた。 その理由を、ヒマリはすぐに理解したわけではない。 ただ、闇の奥で何かが目を覚ました気配だけが、肌を刺した。 ガサリ。 複数の足音。 赤い光が、闇に点る。 一つ、二つ……十を超える。 腐った息。 低い唸り声。(……来ないで……) 後ずさった背中が瓦礫にぶつかり、逃げ場が消える。 闇から現れたのは、歪な影たちだった。 骨だけの骸骨。 粘液の塊。 腐臭を放つ死体のような魔物。 魔王城の最下層に巣食う、最底辺の存在。「来るなっ!」 反射的に手を突き出した瞬間―― 白い光が、ふわりと指先から溢れた。 眩しくはない。
眩しい光に包まれ、思わず腕で顔を覆った。(……え?) さっきまで、狭いワンルームのベッドにいたはずだ。 スマホを握ったまま寝落ちし、通知の来ない画面をぼんやり見つめていた。 それなのに、鼻を刺す空気の匂いが違う。 古い石の冷たさ。ざわめく人の気配。「成功だ……!」 誰かの興奮した声が響く。 恐る恐る目を開いた瞬間、心臓が止まりそうになった。 見知らぬ大広間だった。 高い天井。壁一面に刻まれた巨大な魔法陣。 床には淡い光が流れ、豪奢な衣装をまとった人々が並んでいる。 まるでゲームか映画の世界。 けれど――違和感があった。 誰も、私を見ていない。 視線の先は、少