LOGIN第五話
いろはに声をかけられ... リビングに戻ると いろはは、何事もなかったかのように席に座っていた。 「遅いわよ」 味噌汁の湯気が、静かに揺れている。 さっきまで、あの女がいた場所。 テーブルの下を 思わず見てしまう。 何もない。 乾いた畳。 水の跡も もう残っていない。 澪は俺の後ろに立ったまま まだ震えていた。 「……座らないの?」 いろはが首を傾げる。 その仕草は いつも通りの妻だった。 だが。 俺の中で、何かが変わっていた。 この家は―― 普通じゃない。 俺は席に座る。 箸を持つ。 だが 手が震えている。 味噌汁の表面が わずかに揺れた。 ちゃぷん。 一瞬。 湖の水面を思い出した。 「どうしたの?」 いろはが覗き込む。 距離が近い。 近すぎる。 「……いや」 俺は視線を逸らした。 「澪の件だ」 澪がびくっと肩を揺らす。 「警察に連絡する」 「それまで家でうちらで保護しよう。」 いろはは一瞬だけ黙った... ほんの一秒。 それから ゆっくり笑う。 「そうね」 「女の子を一人で外に出すのは危ないわ」 その言葉は 優しい。 だが―― どこか冷たい。 「ねぇ澪ちゃん」 いろはが言う。 「常夜湖について調べてるんだっけ?」 澪の体が 硬直する。 「湖の話よ...」 いろはは くすっと笑った。 「この辺りにはね」 「昔、ある伝説があったのよ」 俺の箸が止まる。 「伝説?」 「ええ」 いろはは 味噌汁を一口飲んだ。 そして言う。 「村で1番可愛い女の子...五人を常夜に 嫁がせるって言う...ね。」 空気が凍った。 澪が小さく息を飲む。 「……え?」 いろはは平然としている。 「昔の話よ。 常夜に繋ぐ満月が湖を照らす夜... 常夜からあちらの住人が、現世に嫁探しに来る。 と言われててね。 その嫁を献上して、常夜に見送るの。」 俺の頭の奥で さっきの映像が蘇る。 松明。 白い着物。 花嫁行列。 そして―― 水の中へ沈む女。 「ば、馬鹿な」 俺は言う。 「そんな話聞いたことない」 いろはは ふっと笑った。 「あなた、この土地の人じゃないもの」 そうだ。 俺は結婚して この家に来た。 元々は いろはの実家だ。 「だから昔の人は、二十歳になった村の女性を 五人...この常夜湖に沈めて、常夜に嫁いでもらっていた。 でもその常夜にいくのも栄誉なことにされていた」 いろはが言う。 「常夜では、歳を取ることがなく永遠の美を 手に入れられる。そう伝えられていたわ。」 その瞬間。 澪の顔が 真っ白になった。 「……永遠の美?」 いろはは 穏やかに続ける。 「ただ、それは明らかな嘘だったのよ。 そんなことあるはずなかったの 本当の理由があったのよ... 罪隠しの......ね...。」 「でもね」 いろはは ゆっくりと俺を見る。 「罪も...恨みも...」 「完全には消えないの」 その時だった。 ――ちゃぷん。 音がした。 俺の足元から。 凍りつく。 ゆっくりと 視線を落とす。 畳。 その上に。 水が滲んでいた。 じわり。 じわり。 まるで 床の下から 水が染み上がってくるように。 「……っ」 澪が後ろで震える。 「孝一さん……」 そして。 畳の中央が ゆっくり膨らんだ。 ぶく。 ぶく。 水泡。 ありえない。 畳の下で 水が動いている。 次の瞬間。 畳の隙間から―― 指が出た。 青白い指。 濡れている。 ゆっくり。 ゆっくり。 這い出てくる。 「……」 俺の呼吸が止まる。 そして。 その指の後ろから 長い髪が現れた。 女の顔が 床の下から ぬるりと現れる。 目が合った。 真っ黒な瞳。 水が滴っている。 口が開いた。 「……返して……」 声は 水の中から響くようだった。 「……わたしの……」 その瞬間。 俺は叫んだ。 「いろは!!」 だが。 いろはは まったく動かなかった。 ただ。 その女を見下ろしていた。 そして。 静かに言った。 「だめよ」 女の動きが止まる。 いろはの声は 優しかった。 でも―― 絶対的だった。 「この人は」 いろはが言う。 「わたしの旦那さんだもの」 次の瞬間。 女の体が 水に崩れた。 ばしゃ。 畳が一瞬で乾く。 何もない。 最初から 何もなかったように。 静寂。 澪は腰を抜かしていた。 俺も動けない。 だが。 いろはだけが 静かに笑っていた。 「ほら」 味噌汁を差し出す。 「冷めちゃうわ」 澪が叫んだ。 「もう嫌だ!!なんですか!?今の! いろはさんは何をしたんですか!? もうこんなとこに居れません!!!」 澪は怯えて混乱している。 そして...俺も目の前に起きている現状を もう...理解ができない。 澪の問いに、いろはは落ち着きながら... 「あなたは、もう思い出したかしら…」 いろはの声は 静かだった。 だがその言葉は 氷の針のように 俺の頭の奥に突き刺さった。 「……何をだ」 声が掠れる。 いろはは ゆっくり首を傾げた。 「常夜流しよ」 その名前を聞いた瞬間―― ズキン。 頭の奥が、激しく痛んだ。 「っ……」 視界が揺れる。 何かが、脳の奥で軋む。 まるで 閉じられていた扉が 無理やりこじ開けられるように。 「……思い出して」 いろはが、優しく言う。 「あなたは――」 その時だった。 澪が叫ぶ。 「やめてください!!」 澪は、俺の腕を掴んだ。 「孝一さん苦しんでるじゃないですか!」 いろはは 少しだけ驚いた顔をした。 それから くすっと笑う。 「優しいのね。」 だが その目は 笑っていない。 「でもね」 いろはは、静かに言った。 「これは必要なことなの」 その瞬間。 頭の奥で、何かが弾けた。 ――満月。 夜の湖。 松明の列。 白い着物。 花嫁行列。 俺は その列の中にいた。 いや... 違う。 俺は―― 見ていた。 岸の上から。 村の男たちと一緒に。 「……やれ。」 誰かが言った。 水面が揺れる。 五人の花嫁が 湖へと押し出される。 「やめて……」 女の声。 涙。 叫び。 だが 誰も止めない。 そして。 その中に―― いろはがいた。 白無垢。 長い黒髪。 泣いている。 俺を見ている。 「孝一……」 その声。 震えている。 「助けて……」 俺は。 動かなかった。 いや。 動けなかった。 村長が言った。 「これで村は守られる」 松明の光が 水面に揺れる。 いろはの体が 湖に沈んでいく。 腕が伸びる。 必死に 水面を掴もうとする。 「孝一!!」 その叫び。 だが。 俺は。 ――目を逸らした。 次の瞬間。 水面が閉じた。 静寂。 そして。 水の中から 無数の手が 現れた。 沈められた 女たちの手。 青白い腕。 恨み。 怒り。 絶望。 そのすべてが 湖の底で 渦巻いていた。 ――思い出した。 「……俺は……」 声が震える。 「俺は……」 澪が 震えながら言う。 「孝一さん……?」 俺は ゆっくり いろはを見る。 彼女は 微笑んでいた。 とても 優しく。 「思い出した?」 俺の喉が 乾く。 「……お前を」 声が震える。 「俺は……」 いろはは 静かに頷いた。 「ええ」 そして ゆっくり言った。 「あなたは」 「わたしを」 「湖に沈めた人だもの」 空気が凍る。 澪の顔から 血の気が引く。 「……え.?..」 俺の心臓が 狂ったように打つ。 「嘘だ……」 だが いろはは 首を振る。 「嘘じゃない。」 その声は とても静かだった。 「三百年前...あなたは... この村の男だったの... 優しくて...笑顔が素敵でね...」 いろはの目が ゆっくり細くなる。 「その人は、わたしの――」 「婚約者だったのよ」 沈黙。 重い。 重すぎる沈黙。 やがて いろはが 立ち上がった。 足音が 畳に響く。 ゆっくり 俺の後ろに回る。 耳元で 囁く。 「でもね」 息が 首筋に触れる。 冷たい。 「大丈夫」 いろはは 微笑んだ。 「怒ってないわ」 その瞬間。 湖の映像が 脳裏に蘇る。 沈んでいく いろはの顔。 涙。 絶望。 そして 最後に浮かんだ 笑顔。 「だって」 いろはが言う。 「わたし」 「あなたを迎えに来ただけだから」 その時。 ――ちゃぷん。 また 足元から音がした。 今度は 一つじゃない。 ちゃぷん。 ちゃぷん。 ちゃぷん。 畳の下から 無数の水音が 響き始めた。 澪が震える。 「……なに……これ」 俺は ゆっくり 床を見る。 畳が 波打っていた。 まるで 湖の水面のように。 そして。 いろはが 静かに言う。 「三百年よ」 その目は もう 人間じゃなかった。 「わたし」 「ずっと待ってたの」常夜には、朝が来ない。来るのは、灰色の薄明かりだけだ。 夜でもなく、昼でもない。 境界を失ったまま、時間だけが止まっている。孝一は、その光の中を一人で歩いていた。足音が、やけに響く。 生きている者の音だと、この世界そのものが忘れてしまったかのように。——澪。名前を思い浮かべるだけで、胸の奥が締めつけられる。さっき、自分が澪に言った言葉を、何度も反芻していた。「澪を現世に返してくれ。」あの瞬間、澪がどんな顔をしていたか。 孝一は、正直、見ていなかった。 見る勇気が、なかった。もし目を合わせていたら。 もし澪の表情を見てしまっていたら。 自分は、決意を貫けなかったかもしれない。「……これでよかったんだ。」声に出してみる。 誰もいない常夜に、その言葉は虚しく吸い込まれていくだけだった。これでよかった。 澪を、こんな場所に縛りつけるわけにはいかない。 澪には、現世で生きる時間がある。 自分のような者に付き合わせて、消えていく時間ではない。そう、自分に言い聞かせる。 何度も、何度も。言い聞かせなければ、立っていられなかったからだ。灰色の空を見上げる。 太陽もなく、月もない。 それでもどこかに、光の気配だけはある。その光の向こうに、何があるのか。 孝之助の記憶が、答えを知っていた。——お前は、まだ何も知らない。頭の奥で、そんな声がした気がした。今回、俺は孝之助の記憶を鮮明に脳内に受け入れた。自分のものではない記憶。 孝之助という男が、生涯をかけて見てきたものだ。それは、300年前から始まっていた。分かっているのは、ひとつだけだ。この忌まわしき呪いはヒルコの存在ではなく人が人を想う感情が拗れて生んだ悲劇だと...そして悲劇を過去に収めた存在がいたこと。御影。孝之助の記憶の中で、その名前は、常に畏怖と共に語られていた。黄泉の国に、王はいない。いるのは、ただ一人の女王だけだ。死者すら、その前では言葉を失うという。 生者が足を踏み入れることさえ許されない領域を、たった一人で統べている存在。御影は、気まぐれだと言われている。 気に入らない者には、一瞬で永遠の閉塞を与える。 気に入った者には、時に驚くほどの寛容さを見せる。そのどちらに転ぶかは、誰にも分からない。孝之助の記憶の中には、御
「神主さん、忠告ありがとうございます。でも……私は、孝一さんを迎えに行きます」「いろはさんとの約束だから……」自分でも驚くほど、その決意は揺らがなかった。神主は、わずかに目を伏せる。「……桐野さんの気持ちは、わかる」低く、静かな声。「だが――あちらへもう一度行くなど、それは……叶わぬ話である」「どうして……!?」思わず声が強くなる。その瞬間、私は――気づいてしまった。常夜流し。村長も、孝之助も……そして、ヒルコも――すべては、“常夜”へ――“黄泉”へと繋がるための儀式。「……お気づきになられましたかな」神主の声色が、わずかに変わる。「そう。常夜へ行くには――再び“常夜流し”を行う他、術はない」その言葉が、胸の奥に、重く沈む。「桐野さん……」神主は、静かに私を見据えた。「――再び、惨劇を起こすおつもりか?」「そっ……それは……」神主の視線に射抜かれ、胸の奥で固めていた覚悟が――揺らぐ。「そう、それでよい」静かな声が、逆に残酷だった。「せっかく与えられた命を、無碍にする必要はない」私は、うつむく。言葉が、出ない。「……ごめん……」ぽつりと、零れた。――孝一さんの、あの時の表情が浮かぶ。伸ばしかけた手。何かを伝えようとしていた、あの目。「でもっ……」顔を上げる。「でもっ……!」喉が焼けるように痛い。「私は……孝一さんに、もう一度……会いたいんです」震える拳を握りしめる。唇を、強く噛む。それでも――私は、神主に縋るように叫んだ。「どうにか……手段はないんですか……!?」神主は――すぐには答えなかった。沈黙。重く、張り詰めた空気が、部屋を満たしていく。やがて、ゆっくりと口を開いた。「……ないわけでは、ない」「……え?」思わず顔を上げる。神主の目は、先ほどまでとは違う色を帯びていた。「ただし――」低く、釘を打つような声。「それは、“人が踏み入れてはならぬ領域”だ」胸が、大きく脈打つ。「それを行えば、あちらへ辿り着くことはできよう」「ただし……」神主は一歩、私に近づく。「今度は――戻れる保証はない」言葉が、理解に追いつかない。「それって……」喉が、ひどく乾く。神主は、はっきりと言い切った。「“迎えに行く”のではない」「――桐野
神主は、わずかに目を伏せた。 「……ここから先は」 静かに、言葉を選ぶ。 「確たる記録ではなく――あくまで、私の推測となりますが」 蝋燭の火が、小さく揺れる。 「その男――澪様のお父上は」 「ヒルコ様に“触れられた”のでしょう」 「いえ……あるいは」 わずかに、間を置く。 「“選ばれた”のかもしれませぬ」 喉の奥が、乾く。 「その結果として起きたのが――」 「先ほどの日誌に記されていた、あの惨劇」 神主の声は、あくまで静かだった。 だからこそ、逃げ場がない。 「意思を侵されたのか」 「それとも、自ら受け入れたのか」 「そこまでは、分かりませぬ」 「ですが――」 神主は、ゆっくりと顔を上げた。 「ヒルコ様は、“媒介”を得た」 「人の世界へ干渉するための――足掛かりを」 空気が、重く沈む。 「そして……」 その視線が、まっすぐに向けられる。 「澪様」 名前を呼ばれた瞬間、心臓が跳ねる。 「あなたは――その先におられる方だ」 蝋燭の火が、大きく揺れた。 「血の繋がりか」 「あるいは、より強い“適性”か」 「理由は定かではありませぬが……」 ほんのわずかに、声が低くなる。 「ヒルコ様は」 「あなたを、“器”にしようとしたのでしょう」 沈黙。 息が、うまく吸えない。 「――いえ」 神主は、小さく首を振る。 「“しようとしている”のかもしれませぬな」 火が、じり、と鳴った。 神主は、ふと口を閉ざした。 そして―― 何かに引っかかったように、わずかに眉を寄せる。 「……ですが」 ゆっくりと、視線を落とした。 「先ほどの桐野さんのお話……」 「少々、気がかりでしてな」 蝋燭の火が、小さく揺れる。 「その……孝一という御方と」 「いろは殿に“化けた”ヒルコ様が」 「共に日常を過ごしていた、と仰いましたな」 わずかな沈黙。 「……だとすれば」 神主の声が、わずかに低くなる。 「ヒルコ様は――すでに」 「“愛”に触れていたはずだ」 空気が、ぴたりと止まる。 「求め続けていたものを」 「手にしていた、はず……」 その言葉は、自分に言い聞かせるようで
神主は、静かに目を細めた。 「では――」 ゆっくりと、口を開く。 「この社に伝わる話を、いたしましょうか」 その声音は、どこまでも穏やかで―― 「桐野さんがお知りになりたいことも、 その中に含まれておるでしょう」 そして、神主は語り始めた。 社の奥は、ひどく静まり返っていた。 揺れる蝋燭の火だけが、かすかに空間を照らしている。 「――昔の昔、この地には“最初の神”が居られたと伝えられております」 神主は、ゆっくりと語り始めた。 「しかし、その御子は……不完全であられた」 「形は崩れ、感情も持たず……ただ、空腹だけを宿しておられた」 外で風が鳴る。 「そのため、海へと流されたのです」 「流れ着いた先で、その御子は――人に拾われました」 「食を与えられ、体を拭われ、声をかけられる」 「理由など、分からなかったでしょう」 「なぜ、自分のようなものに」 「なぜ、見知らぬ存在に」 「なぜ、施しを与えるのか――と」 蝋燭の火が、揺れる。 「けれど、その施しは……温かかった」 「やがて、その疑問は形を持ちます」 「そして――知るのです」 「それが、“愛”であると」 わずかな沈黙。 「……ですが」 「その神には、“愛”を感じることができなかった」 「持っていなかったのです」 火が、じり、と鳴る。 「だからこそ――その神は、“愛”を欲した」 「理解ではなく」 「模倣でもなく」 「――本物を」 空気が、重く沈む。 「その歪みは、やがて“出来事”として現れました」 「人が一人、また一人と消える」 「そして、共通していたのです」 神主の目が、こちらを射抜く。 「深く愛されていた者ばかりが、消えていった」 喉が詰まる。 「ヒルコ様は、“知ってしまった”のです」 「愛というものの温度を」 「けれど、自らは生み出せない」 「だから――求めた」 「“自分で感じる”ために」 神主は、はっきりと告げる。 「器を」 背筋が冷える。 「感情を持つための器」 「――人の、体を」 「強く愛されている者ほど、その器として相応しい」 「だから、選ばれたのです」 「愛されすぎた者たちが」 長い沈黙。 「……しかし」 神主の声が、わずかに変わった。 「その所業を、見過ごさぬ存在がおりました」 蝋
第34話。私は、その社へと足を運んだ。これまで何度も調査に訪れていたはずなのに――どうして、今まで気づかなかったのだろう。「……すいません」静まり返った境内に、声を落とす。「どなたか、いらっしゃいませんか」しばらくの沈黙――「……はい、今参りますよ」戸の奥から、年配の男性の声が返ってきた。ゆっくりと、扉が開く。現れたのは、神主と思しき人物だった。その目が、私を捉えた瞬間――わずかに、空気が張り詰める。「あの、突然お伺いして申し訳ありません。私、桐野澪と申します。旧久遠村の調査をしていて……」名乗った、その時だった。神主の表情が、はっきりと変わる。驚きとも、困惑ともつかない顔で、じっと私を見つめていた。「……まさか……このようなことが……」小さく呟いたあと、静かに言う。「お嬢さん。どうぞ、中へ」促されるまま、私は社の中へと足を踏み入れた。通されたのは、奥の座敷だった。「ここで、少しお待ちくだされ」そう言い残し、神主は奥へと引っ込む。取り残された静寂の中、私は無意識に息を潜めていた。やがて――「すまん、すまん……書物を探しておってな」神主が戻ってくる。その手には、古びた冊子が握られていた。「桐野さんは……こちら側の人、ですかな?」「……え?」思わず聞き返す。こちら側――?神主は、私をじっと見据えたまま続けた。「いや……常夜の気配を纏っておる。屍人が訪ねてきたのかと思ったが……」その言葉に、背筋が冷える。「……常夜を、ご存じなんですか?」思わず身を乗り出すと、神主はゆっくりと頷いた。「無論。だがまずは……あなたの話を聞かせてくだされ」神主は、私の正面に腰を下ろす。私はノートを開き、これまでの出来事を語り始めた。孝一さんのこと。いろはさんのこと。常夜のこと。ヒルコのこと。そして――孝一さんの存在が、少しずつ消えていること。神主は穏やかな笑みを浮かべながら、何度も頷き、相槌を打っていた。だが――ヒルコの名を口にした瞬間だけ、その表情が、わずかに歪んだ。すべてを話し終えたあと。神主は、静かに一冊の書物を差し出した。「これは……?」受け取ると、それはかなり古い日誌のようだった。紙は黄ばみ、端は擦り切れている。「旧久遠村の村長の娘が記したものだ。……奇妙な
「.......取り返しに、行く.....」そう決意を固めた私は、それから今まで調べた旧久遠村の歴史と孝一さん宅であった怪奇現象...そして、常夜流しについて...情報を照らし合わせることにした。いろはさんが話してくれた常夜についても...ノートにひとつ、ひとつ書き出していく。旧久遠村では、ヒルコのせいで...記録に残っていた壊滅的水害。これがヒルコが起こした事?常夜流しの記録違い...孝一さん宅でヒルコが話していた「罪隠し」それは村長が起こしたって。その罪が常夜流しだった?だとしたら理由はなんだったんだろう。いろはさんとの会話が頭に浮かぶ...「あの人と私は愛し合っていたの。その私をここに迎えに行くと聞かずに...」そうだ。いろはさんは私と出会った常夜にいた...「常夜流しを続けたの...」孝之助は常夜に迎えにいくために...常夜流しが必要だった。黄泉帰りのための供物...そのために...孝之助は人を生贄にしていた!?点と点が繋がっていく。村長は一度、黄泉帰りをしていてそのタイミングが水害と合っている。と言うことは代償的なことだとして...その代償でいろはさんは、常夜にそしていろはさんを迎えに行こうとした孝之助は、村長と同じ事をしようと常夜流しを続けていた。「そして、仕舞いにはヒルコとの約束の縛りを設けてヒルコの力を手に入れたとたんに、騙されて...」約束の縛り...ヒルコの力っていうのは...そして、いろはさんがいたあの常夜...うぅーん......やっぱり、色々と繋がらない部分がある...「もっと調べなきゃ...」私は、久遠市の資料館に向かおうとタクシーを呼ぶため携帯を取り出し、画面をスクロールする。ん?...あれ?...携帯の中、どの履歴を見ても「白瀬 孝一」の名前がない!?アドレス帳を開くも...トーク履歴を見ても...えっ?...えっ?...なんで?......何が起きたのわからずに、焦る私は、白瀬孝一宅に向かうことにした。「確か、孝一さん宅は常夜湖の近くで...」近づくにつれて...私は目の前の現実に戸惑いを隠せなかった。「孝一さん宅が...」「ない...」タクシーを迂回してもらい孝一さんの職場に向かう...。「すいませ
「はやく食べよ?」いろはが微笑む。まるで何事もなかったかのように。ついさっきまでこの部屋は――水で満ちていたはずだった。床を覆う冷たい水。そして。無数の女の手。青白い腕が水の中から伸びてきて――俺の体を掴んでいた。確かに。確かに、あった。なのに。床は乾いている。畳も。家具も。濡れた形跡は、どこにもない。澪が震えた声で言った。「いまの……」喉が張り付く。俺は、ゆっくり頷いた。「……見た。」夢じゃない。絶対に。あの水の冷たさはまだ足に残っている。骨の奥に染み込んだような冷たさだ。いろはは味噌汁をよそいながら首を小さく傾げた。「どうしたの
「ほら」いろはが、にこりと笑った。その笑顔は相変わらず柔らかい。優しくて、穏やかで――けれど。その奥に、底の見えないものが潜んでいる気がした。まるで深い湖の底を覗き込んだような、不気味さ。俺は思わず視線を逸らした。「きた」ぽつりと、いろはが呟いた。「……え?」聞き返そうとした、その瞬間だった。「きゃあぁぁぁ!!!!」リビングから澪の絶叫が響いた。「どうした!?……澪!!」俺は廊下を駆け抜け、リビングへ飛び込んだ。「水が!?……水が流れ込んできます!!」澪はソファの上に立ち、震えながら叫んでいた。視線を落とす。俺の足元。床の上を――水が広がっていた。
「三人分、いるかしら?」 その声は、笑っている。 いろはの声が不気味に感じた...。 澪をリビングに案内する。 ソファに腰を下ろしながら、何度も頭を下げる。 「帰る途中から、誰かにつけられてて……」 「気にするな。落ち着くまでいればいい。 警察にも連絡しておこう。」 そう言ったものの、俺の視線は無意識にキッチンへ向いていた。 いろはが魚を捌いている。 トン。 トン。 トン。 包丁の音が、妙に規則正しい。 まるで、秒針みたいだ。 澪もその音を気にしているのか、ちらりとキッチンを見る。 「……奥さん、料理上手そうですね」 「まあ、
「……ハァ……ハァ……」 夜の森を、荒い呼吸が裂いた。 「助けて……お願い……誰か……」 足をもつらせ、少女は振り返る。 月明かりの下、白い影が立っていた。 「良い子だから……さぁ、こっちへおいで」 優しい声だった。 逃げ場は、もうない。 「いやよ……来ないで……!」 悲鳴は途中で途切れた。 水面が、静かに揺れる。 そして、何もなかったかのように——夜は閉じた。 常夜湖の朝。 死体が見つかったのは、午前五時だった。 若い女が、水面に浮いていたらしい。 俺がその連絡を受けたのは、朝食の席だ。 「また……女子大生だって」 そう言