Masuk神崎グループの中核企業の一つである「神崎グローバルトレーディング」の最上階では、神崎壮真がご機嫌な様子でコーヒーを飲んでいた。最上階に設けられた社長室は、床から天井まで一面ガラス張りになっており、眼下には都心の高層ビル群が広がっている。重厚な木目調のデスクや革張りのソファ、壁に飾られた海外の現代絵画が、この部屋の主の地位を物語っていた。壮真は大きな革張りのチェアにもたれかかり、香り高いコーヒーを一口飲む。昨夜のことを思い返しながら、満足そうに口元を緩めていた。静かな社長室に、コンコンと控えめなノックの音が響く。「どうぞ」壮真が短く答えると、ドアがゆっくりと開き、玲子が静かに顔を覗かせた。玲子は長年の壮真の愛人だったが、壮真の愛人は玲子一人ではなかった。美玲と婚姻関係を続けながら、愛人として玲子を傍らに置き、その関係が続いている中で、またほかの女と関係を築いてしまう。そのたびに騒動になり、別れ話になり、金銭問題や秘密保持の交渉にまで発展することも少なくなかった。妻の美玲は目くじらを立てて怒り狂い、事あるごとにそのことで壮真を責め立てるが、愛人の玲子だけは違っていた。壮真が他の女と関係を持ち、いざ別れようとする段になれば、いつも玲子があとくされの無いように話をつけてくれていた。相手女性への慰謝料の調整から住居の手配、秘密保持契約に至るまで、玲子は感情を表に出すことなく淡々と処理してきた。嫉妬を抱えながらも、それを仕事として割り切る姿勢に、壮真は次第に絶対的な信頼を寄せるようになった。いつしか壮真は、社内でも玲子を第一秘書として置き、マンションを買い与え、絶大なる信頼を置いている。仕事でも私生活でも、壮真の隣にはいつも玲子がいる。そんな関係が何年も続いていた。玲子はドアを閉めると、社長秘書としての表情を浮かべ、壮真へ向かって軽く頭を下げる。「社長、おはようございます」会社では節度を保った挨拶を交わす玲子だったが、男性秘書が書類を置いて部屋を出て行き、ドアが静かに閉まる音を確認した瞬間、その表情は柔らかく変わった。玲子は壮真のもとへ歩み寄ると、そのまま壮真の膝に座って甘えだした。「ねぇ、昨夜は美玲さんと……寝たの?」どこか拗ねたような口調だった。壮真は苦笑しながら玲子の太ももを優しく撫でる。「お前と頑張ってから帰ったのに、美
「おはようございます」柔らかな朝の光が差し込む食堂ホールに、心春と和真の声が重なった。先ほど温泉に入ったばかりの和真と心春は、まだ浴衣姿だった。二人とも朝風呂上がりで頬がほんのり赤く染まり、昨夜までの張り詰めた空気は感じられない。特に心春の表情は明るく、昨日まで泣き腫らしていた姿が嘘のようだった。その様子を見た綾乃は、ほっと胸をなで下ろす。綾乃は自分の椅子を少し横へずらし、自分の横へ心春と和真を座らせた。「ほら、ここに座りなさい」そう優しく促され、心春と和真は並んで腰を下ろす。二人の距離は自然と近く、寄り添うような雰囲気だった。綾乃はそんな二人の顔を見比べると、何の遠慮もなく尋ねた。「二人とも、仲直りはしたの?」あまりにも率直な質問だった。それを聞き、熱いスープを飲んでいた叶翔が思わず吹き出した。「母さん……」口元を押さえながら咳き込み、慌ててテーブルへ顔を向ける。――そんなことを朝一番で聞くか?そう思いながらも言葉にならない。吹き出して飛び散ったスープを、櫻羅が慌てる様子もなくナプキンで丁寧に拭いてくれている。「大丈夫?」「ご、ごめん……」叶翔は櫻羅に任せきりで、自分はまだ咳き込んでいた。その様子に瑛士は苦笑し、玲司も小さく肩を揺らしている。叶翔の失態に心春は一瞬だけ顔を歪めたものの、すぐに綾乃の方へ向き直り、嬉しそうに話し始めた。「昨夜、ちょっと酔って寝ちゃったんだけど、目が覚めたら櫻羅ちゃんじゃなくて和真がいたの」その言葉には、昨夜の出来事を思い出した嬉しさが滲んでいる。話しながら、心春は自然と和真の手へ自分の手を重ねた。和真もその手を優しく包み込み、何も言わず微笑む。その様子は、昨夜二人がしっかりと向き合い、互いの気持ちを確かめ合えたことを物語っていた。横目でその姿を見た叶翔は、渋い顔をして心春を睨んだ。妹が幸せそうなのは嬉しい。だが、兄としては複雑だった。しかし心春は、そんな叶翔のことなど見向きもしなかった。和真と繋いだ手を離そうともせず、穏やかな笑顔を浮かべている。その時だった。瑛士がタイミングよく立ち上がり、バイキングコーナーからトーストとコーヒーを二つずつ持って戻ってきた。「心春、和真さん、これ」そう言いながら、二人の前へ丁寧に置いてくれる。「ありがとう」心春が笑顔で礼を
昨夜と同じ食堂ホールへ行くと、すでに身支度を整えた玲司と綾乃がテーブルの前に座っていた。朝の食堂は大きな窓から差し込む陽光に包まれ、昨夜とはまた違った穏やかな雰囲気が漂っている。焼きたてのパンの香りやコーヒーの香ばしい匂いが広がり、宿泊客たちも思い思いに朝食を楽しんでいた。朝食は夕食と違い、バイキング方式だった。色とりどりのサラダ、新鮮な果物、和食のおかず、焼き魚、スクランブルエッグ、ソーセージ、焼きたてのパンなどがずらりと並び、どれも温泉旅館自慢の品ばかりである。綾乃は玲司の前にトーストとコーヒーを用意していた。玲司も新聞代わりにスマートフォンで朝のニュースを眺めながら、淹れたてのコーヒーを一口飲む。その姿は長年連れ添った夫婦ならではの自然な光景だった。そこへ叶翔と櫻羅もやって来て席へ座る。二人は軽く挨拶をすると、自然と周りを見回した。「母さん、瑛士見た?」叶翔が尋ねる。結局のところ、昨夜は叶翔と櫻羅、そして瑛士は三人で一部屋に泊まった。叶翔は最後まで「二人部屋がいい」と文句を言い続けていたが、瑛士は笑いながら、「修学旅行みたいなもんだろ」と言い放ち、櫻羅は首を傾げながら、「修学旅行ってなぁに?」と興味津々で瑛士に質問していた。瑛士は学生時代の思い出を交えながら説明し、櫻羅も楽しそうに聞き入っていた。そのやり取りを見ていた叶翔はますます機嫌が悪くなり、「もう知らん!!」と言わんばかりに頭から布団へ潜り込み、そのままふて寝をしてしまったのだった。朝になり、櫻羅を温泉へ誘おうと目を覚ました時には、瑛士はまだ気持ちよさそうに眠っていた。その寝顔を見て「よく寝るな……」と呆れたのを思い出し、叶翔は苦笑する。綾乃が顔を上げ、食堂ホールの入り口へ視線を向けた。ちょうどその時、瑛士が入ってくるところだった。「瑛士も来たわよ」綾乃の視線を追って入り口を見ると、豪快にあくびをしながら瑛士がこちらへ向かって歩いてくるところだった。寝癖を軽く直しただけのような髪型で、いかにも今起きたばかりという様子である。テーブルまで来ると、眠そうな笑顔を浮かべて言った。「おはようございます」そう言い、瑛士も椅子に座る。綾乃は優しく微笑みながら尋ねた。「コーヒー飲む?」すると瑛士はすぐに立ち上がり、「自分で取ってくる!」と言って、
翌朝。温泉旅館の窓から差し込む柔らかな朝日が、静かな和室を優しく照らしていた。障子越しに入る淡い光は部屋全体を温かく包み込み、昨夜までの張り詰めた空気が嘘だったかのような穏やかな朝を迎えている。ホテルの部屋で目を覚ました心春は、隣で静かに眠る和真の顔を見ていた。規則正しい寝息を立てる和真は、昨夜までの疲れが一気に押し寄せたのか、珍しく深く眠っている。その寝顔には何の警戒もなく、心春だけに見せる安心しきった表情が浮かんでいた。そんな和真の顔を見ていると、昨日まで胸を締めつけていた不安や恐怖が、少しずつ溶けていくような気がした。――和真はちゃんと来てくれた。――逃げずに、私のところへ来てくれた。その事実だけで十分だった。心春はそっと微笑むと、起こさないように静かに布団から抜け出そうと身体を起こした。しかし、そのわずかな動きで目を覚ました和真は、薄く目を開けると何も言わず心春の腕をつかみ、そのままグッと腕の中に引き戻した。突然抱き寄せられた心春は、小さく声を漏らす。「わっ……」心春が身をよじって抜け出そうとすると、和真はそれでも心春を離さなかった。眠そうな表情のまま、さらに腕へ力を込める。そして耳元で優しく囁いた。「心春、愛してる」その一言とともに、もっと強く抱きしめたのだった。心春は照れくさそうに笑いながらも抵抗をやめ、和真の胸へそっと頬を寄せる。昨日流した涙が嘘のように、今はその腕の中が何より安心できる場所だった。部屋には二人だけの穏やかな時間が静かに流れていた。一方その頃。大浴場から出てきた叶翔は、髪をタオルで軽く拭きながら廊下へ出た。朝風呂で身体はすっかり温まり、火照った頬にはまだ温泉の余韻が残っている。叶翔は廊下の長椅子へ腰を下ろし、一人ポツンと座って櫻羅が出てくるのを待っていた。朝の旅館は静かで、遠くから仲居たちの足音や食事の準備をする音だけが聞こえてくる。そんな中、浴衣姿の和真が向こうから歩いてくるのが目に入る。昨夜とは違い、その表情にはどこか落ち着きが戻っていた。和真も叶翔の姿を確認すると、自然な足取りで近寄ってきて声を掛けた。「おはよう」その声に叶翔も立ち上がり、和真の顔を見て言う。「おはようございます。心春と仲直りできましたか?」その問い掛けには心配だけでなく、兄として相手を見極めよう
その頃、「八〇七号室」では、心春が和真の胸に顔を突っ伏して泣きじゃくっていた。静かな和室には、心春の嗚咽だけが途切れることなく響いている。部屋の隅では間接照明が柔らかな明かりを灯し、窓の外からは虫の鳴き声がかすかに聞こえてきた。そんな穏やかな夜とは対照的に、心春の心は激しく揺れ続けていた。和真は優しく心春を抱きしめ、心春が泣くに任せていた。無理に言葉を掛けることも、涙を止めようとすることもしない。今はただ、心春が安心して泣ける場所になろうと決めていた。心春の背中を優しくなで、和真は何も言わずに心春を抱きしめる。その手は一定のリズムでゆっくりと背中をさすり続け、幼い子どもをあやすような温かさがあった。心春は止まることのない涙を拭いもせず、和真の腕の中で安心感を求めていた。怖かった。信じたいのに、不安だった。和真を失うことだけは考えたくない。そんな思いが胸の中で渦巻き、涙となってあふれ続ける。しばらく泣いたあと。心春はやっと顔を上げた。目元は真っ赤に腫れ、頬には涙の跡が残っている。和真はそんな心春の顔を見て、フッと笑った。「心春、鼻水と涙で顔がぐちゃぐちゃだよ」その言葉に心春はハッとし、慌てて顔を隠そうと手で顔を覆おうとした。こんな顔を見られたくない。恥ずかしさでいっぱいだった。しかし和真は、その手をギュッと握りしめ、心春の顔を覗き込む。心春が顔を背けても、和真は心春を離そうとしなかった。逃げ場をなくすためではない。ちゃんと目を見て、自分の気持ちを伝えたかったからだ。和真は心春の耳元に顔を寄せ、そっとつぶやいた。「ごめんね、心春を泣かせるつもりはないんだ。ただ、全く覚えがないから、心春が怯える必要はないよ。俺が愛しているのは心春だけだから、心春は堂々としていて」一言一言を噛み締めるように話す和真の声は、とても穏やかだった。その言葉には嘘も取り繕いもなく、ただ心春への愛情だけが込められている。心春は涙と鼻水でぐちゃぐちゃの顔で和真の顔を見た。その瞳には、まだ不安は残っている。それでも、和真の真っ直ぐな眼差しを見ているうちに、少しずつ心が落ち着いていくのを感じていた。すると和真が、テーブルの上にあったティッシュを一枚取り、優しく心春の顔を拭ってくれる。頬を伝う涙を丁寧に拭き取り、目元をそっと押さえる。「
櫻羅は飲んでいたお茶の湯飲みをそっとテーブルに置いた。湯飲みが卓上に触れる小さな音だけが、その場の静けさの中に響く。食堂ホールには他の宿泊客の談笑も聞こえていたが、このテーブルだけは重い空気に包まれていた。玲司も綾乃も、瑛士も叶翔も、誰一人として軽々しく口を開こうとはしない。櫻羅はそんな空気を感じながら、小さく息を吸い込む。そして、その席に集まった全員の顔をゆっくり見回しながら言った。「さっき廊下で会ったんです。慌てて来たみたいで、言葉も交わさずに部屋を探しに行こうとしていたみたいで……思わず部屋のキーカードを渡してしまいました」言い終えると、櫻羅は少し照れ笑いを浮かべた。あの時は深く考える余裕などなかった。心春を探して焦る和真の姿を見た瞬間、この人は本当に心春のことだけを考えてここまで来たのだと感じた。だからこそ、自然と体が動いていたのである。しかし、その言葉を聞いた叶翔は、少し怒ったような口調で櫻羅に向かって言う。「渡してしまったって、櫻羅……心春は今、和真さんに会いたくないんじゃないのか?」叶翔の表情には心春を案じる気持ちがそのまま表れていた。妹が傷ついている姿を見ているからこそ、和真を簡単に会わせることに納得できない。櫻羅はそんな叶翔の言葉を受け止めながら、和真の顔を思い出していた。廊下で見たあの切羽詰まった表情。焦りと後悔、そして心春を心配する気持ちが入り混じっていた和真の姿が脳裏に浮かぶ。しばらく黙ったまま視線を落とすと、静かに俯いて首を横に振る。言葉ではうまく説明できない。そんな複雑な思いが表情ににじんでいた。櫻羅が口を開かないことに業を煮やした叶翔が、勢いよく立ち上がった。椅子が床を擦る音が静かな食堂に響く。どこへ行こうとしているかは、その場に居る全員にわかっていた。和真を止めるため。あるいは心春の様子を確かめるため。叶翔自身も、その衝動を抑え切れなくなっていた。だが、その瞬間。「座れ、叶翔」玲司の低く落ち着いた一言が飛んだ。決して大きな声ではない。しかし逆らうことのできない重みがあった。叶翔は玲司を見つめたあと、不満そうに唇を噛みしめながら再び椅子へ腰を下ろした。そして悔しそうな顔で言う。「疑惑の渦中の和真さんが来たって、心春の心が晴れるわけでもないだろう。なんで……」妹を守り







