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第7話

Author: 白川 露
真帆の背中が、二人の視界から完全に消えた。

龍司は思わず眉を寄せ、何か言うべきだった気がして口を開きかけたが、すでに波に車椅子を押され、反対方向へと進み始めていた。

何だろう、真帆の様子がどこか違う。ただ、どこがどう変わったのかまでは、分からない。

車に乗り込むと、龍司は目を閉じた。ここ数日の出来事が、断片的に頭をよぎる。

波が何度か声をかけたが、彼は反応しなかった。

下唇を強く噛みしめ、涙が滲むのを必死でこらえる。

やがてかすかなすすり泣きが聞こえると、龍司はようやく目を開け、驚いて問いかけた。

「……どうしたんだ?」

「龍司、怒ってるの?」

波は赤くなった目で、いかにも傷ついた様子で見上げた。「湊が、苺を傷つけちゃって……そのせいで、真帆さんまで悲しませたから……」

龍司は少し黙り込み、視線を車窓の外へ向けた。

「……いや」

「じゃあ、どうして真帆さんに子犬を?湊は……」

「ただの犬だ」

龍司はこれ以上の議論を許さない口調で短く呟いた。「波。そこまで神経質になることじゃない」

「龍司?」

波は驚いたように瞬きをする。しかし、龍司は初めて彼女の感情に向き合おうとせず、声を少し低くして続けた。

「どうしても湊が怖がるなら、君たちを別の家に移してもいい」

波の顔色が、さっと変わった。「ち、違うの。私はそんな意味で……」

「ならいい」

龍司は再び目を閉じた。眉間には、はっきりと疲労が刻まれていた。

「真帆は、これまでずっと鷹宮家で我慢してきた。理不尽な思いも、何度もしてきたはずだ。心の拠り所として犬を飼うくらい、何もおかしくない」

一拍置いて、淡々と続けた。「湊は……犬に近づかなければいい」

波は、掌が白くなるほど強く拳を握りしめた。胸の奥では、抑えきれない感情が渦を巻く。

……

一方、真帆は真っ先に私立探偵へ連絡を入れた。波の態度は、どう考えても不自然だったから。

それから寝室へ戻り、静かに荷物をまとめ始めた。必要なものだけを選び、箱に詰め、クローゼットの奥へ押し込む。

最後に、龍司が署名した書類をバッグに入れ、小さなキャリーケースを引いて出ようとしたときだった。

リビングから、小さく澄んだ鳴き声が聞こえた。

真帆は足を止めた。

キャリーの中で、小さな子犬が不安そうにこちらを見ている。

……置いていけなかった。

真帆はためらい、そしてキャリーごと持ち上げた。

一時間後。

タクシーは高級マンションの前で停まった。二年前、知恵の名義で購入した部屋だ。

当時は事務所から近かったこともあり、残業が遅くなったときの仮の寝泊まり先だった。まさか二年後の今日、自分にとって唯一の居場所になるとは思いもしなかった。

指紋認証を済ませると、室内から声が弾む。

「サプラーイズ!」

知恵が大きな百合の花束を抱えて飛び出してきて、子犬を見て、目を輝かせた。

「……苺?」

花束を押し付けるように渡し、冗談めかして言った。

「一緒に連れてきたってことは、完全に覚悟を決めたってことね。本気で戻る気ないんだ?」

「違うわ」

真帆は目を伏せ、キャリーを中へ運ぶ。「この子は苺じゃない……」

脳裏に、長年寄り添ってくれた小さな影がよぎり、真帆は目を伏せ、痛みを隠しながら言った。

「この子は、灯(あかり)だ」

「灯?」

知恵は子犬を抱き上げ、くすぐるように笑った。「どこから拾ってきたの?」

「龍司がくれたの」

知恵は固まった。「……まだ、吹っ切れてないの?」

「違う」

真帆は静かに言った。「向こうに置いておいたら、また苺と同じ目に遭うかもしれないから」

湊という小悪魔がまだあの家にはいる。

それ以上は説明しなかった。苺がもういないことも、あえて言わなかった。

代わりにバッグから書類を取り出し、知恵に渡した。

「これ、見て」

「なに?」

ページをめくった知恵は、息を呑んだ。「……これって……」

それは鷹宮家との顧問契約書だ。

鷹宮家は星嶺市随一の財閥で、そこからの顧問契約が来れば、この小さな事務所は一気に安泰だ。

だが、喜びはすぐに曇り、知恵は心配そうに言った。「真帆……大丈夫?離婚する相手の案件を受けるなんて」

「感情は感情。仕事は仕事よ」

真帆は微笑んだ。「それに、私が担当するとは書いてない」

「……なるほど」

知恵は納得し、表情は明るくなった。「任せて。離婚のこと、なんでも手伝うから。全力でやるから」

「ちょうど、それも」

真帆はもう一枚、委任状を差し出した。

——鷹宮家の離婚手続き一切を、瑞穂坂法律事務所・北川弁護士に委任する。

龍司の署名入りを見た知恵は飛び跳ねそうになった。

「どうやったの?すり替え?それとも誘導尋問?」

真帆は笑うだけだ。方法は問題じゃない。この書類があれば、龍司本人が出てくる必要はないまま離婚を進められる。

相手は行動に不自由がある障害者、という建前なのだから。

「ほんと……宝をゴミのように扱う家だね」

知恵は呆れたように言い、さらに吐き捨てる。

「それに、あなたの実家も最悪。親だなんて名ばかりで、鷹宮家と一緒になってあなたを潰そうとするなんて。まるで、あなたが成功すると自分たちの運を奪われるみたいな顔して。全員、頭おかしい」

真帆は苦笑した。「今さらよ。今に始まったことじゃない」

孤児院の前に置き去りにされたあの日から、彼女に帰る家などなかった。

実の親が名乗り出たのも、鷹宮家という後ろ盾が欲しかっただけ。

期待など、最初からしてない。

……

荷物を整え、真帆は再び別荘へ向かった。まだ持ち出していない物があるから。

一気に動けば、勘づかれる。

離婚を、少しでも楽に進めるために、慎重に行動しなければ。

庭に入ると、灯りが点いていた。龍司たちはもう、戻っているのだろう。

玄関は静かだった。

そのまま二階へ向かおうとすると、客間から甘えた声が漏れ聞こえてきた。

「湊が、今日もパパに会いたいって……」

波の声は、困ったようで、どこか期待を含んでいた。

「龍司……約束したでしょう。離婚しても、湊を父親のいない子にはしないって……」

真帆の足が、止まった。行こうと思えば行けたが、身体が言うことを聞かなかった。

部屋の中から、龍司の沈黙と波のすすり泣きが、交互に聞こえてくる。

どれほど経っただろう。やがて、低い溜息が聞こえた。

「……泣くな。彼女には、俺から話す」

その一言で、すべてが決まった気がした。

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