Masuk携帯を持つ玲の手が震えた。
玲は空いている手で口元を覆い隠す。 画面に並ぶ文字が、一瞬、現実のものとして脳で処理されない。 実家にいるはずの渚が、予定を切り上げて戻ってきた。それどころか、他の誰でもない『宮原君』に会いたいと、自分から予定を訊ねてきている。 (こんなこと、初めてだ) その事実を理解した瞬間、玲の脳内の回路が、歓喜と衝動で一気にショートしそうだった。 渚の声を、今すぐにでも聴きたかった。 彼女がどんな気持ちでこの文章を打ったのか、何故自分に会いたいのか、理由を今すぐ知りたい。 気付けば玲は、渚に電話していた。 コール音が止まり、渚の声が聞こえるより早く、玲は食い気味に声を張り上げた。「――渚!? 今、もうこっちに戻ってるの!?」
玲が携帯の向こうへ放った叫びは、自分でも驚くほど高揚していた。
背後で「玲? どうしたの急に大声出して……」と怪訝な顔をしている母親の視線など、今の玲には一切届いていなかった。今度は、はっきりと耳に届いた。 けれど、何が「いい」のか、玲にはさっぱり分からない。不安混じりに首を傾げると、渚がゆっくりと顔を上げた。 玲も一緒に視線を戻すと、渚は彼の正面へと一歩踏み出し、玲の着ているコートの袖口を軽く摘まんだ。 そして――小さく息を吸い込み、背伸びをするように爪先を上げる。 ほんの一瞬。 柔らかく温かい渚の唇が、玲の唇に、触れるか触れないかほどの優しさで重なった。 突然のことで、玲の脳は理解するのに時間を要した。 渚の唇がぶつかった。触れた。 柔らかかった。 ――めちゃくちゃ、柔らかかった。 渚からキスをされたのだと理解して、数秒。 残った彼女の感触を噛み締めようと、無意識に舌をちろっと覗かせたその瞬間、口元にハンカチをぐっと押し付けられた。 渚が、玲の唇を必死に拭っている。「ごめんね、汚いよね……っ」 玲の唇をハンカチでゴシゴシと拭く渚の瞳は、今にも崩れ落ちそうなほど傷ついていた。自分のトラウマや「汚い」という呪縛から逃れられず、怯えているのだと、その痛々しい眼差しが物語っていた。 玲は渚の手首をやんわりと掴み、優しく下ろさせた。 そのまま彼女の華奢な身体を自分の方へと軽く引き寄せると、迷うことなく、渚の唇に自分の唇を重ねた。 周囲から「うおっ」と冷やかしの声がまた聞こえたけれど、今の玲にはそんな雑音はどうでもよかった。 目の前で、渚の瞳が驚きで大きく見開かれる。 けれど、動揺を乗り越えるようにしてゆっくりと瞼が閉じていくのを確かめ、玲も静かに目を閉じた。(舌、入れていいかな……) そんな欲望が頭をよぎったけれど、彼女のペースを守るために――実行には移さなかった。 時間にしてはほんの数秒――二人にとっては、何分にも、何十分にも感じるような、深く愛おしい時間だった。 玲は唇を離したものの、渚の腰を抱いた手は離さなかった。 渚が自分を見上げてくる。その瞳の中に映る自分を、玲は食い入る
そう言って渚が差し出したのは、今日会った時からずっと彼女が大切そうに抱えていた小さな紙袋だった。 ランチのとき、玲からはプレゼントを渡したが、渚からは何もなかった。あの袋は自分のためのプレゼントではないのだと理解して、実は少しだけ落ち込んでいたのだ。別に何ももらえないことがショックだったわけではない。ただ、渚から何か形に残るものが欲しかった。彼女と会えない時間、彼女の代わりに触れていられるような何かを。「これ、遅くなったけど……クリスマスプレゼント」「俺に……? 開けてもいい?」「うん……」 渚の許可を得て、玲は紙袋の中からそっと中身を取り出した。 現れたのは、黒と白の縞々模様が編み込まれた毛糸のマフラーだった。丁寧に、けれどどこか素朴な編み目。「あのね、重いと思うんだけど……手作り、なのっ」「えっ……」 驚きのあまり、声が漏れた。(渚が、これを? 俺のために、時間をかけて編んでくれたのか?) 胸がいっぱいになり、言葉を失って固まってしまう玲。 しかし、その静寂を渚はまったく違う意味に受け取ってしまったようだった。青ざめた顔で両手を振る。「す、捨ててっ!」「えっ!?」「でも、私の前で捨てられたらショックだから、家で捨ててっ……!」「捨てるわけないじゃん! 俺、すっげー嬉しいのにっ!」 堪らなくなった玲は、衝動のままに渚の身体をぎゅっと強く抱き締め返していた。「ひゅーっ」と揶揄うような通りすがりの声や、いつもより人が多い駅前で周囲から向けられる温かな視線。初々しいカップルの抱擁に、渚は耳まで真っ赤にして「ちょっと、玲っ」と彼の背中をぽんぽんと叩いた。「ご、ごめんっ! つい、嬉しくなっちゃって……」「嬉しいの……?」「当たり前だろ! 俺、今まで生きてきた中で一番嬉しい」
※ ※ ※ 季節は巡り、街が色鮮やかなイルミネーションと華やかな狂騒に包まれる冬――クリスマスがやってきた。 推薦入試で早々に進路を決めた二人は、無事に希望通りの東京の大学への進学を確定させていた。春からの新生活を数ヶ月後に控え、玲と渚は冬の澄んだ空気のなか、クリスマスデートを楽しんでいた。 街には休日を楽しむ大勢の人々が行き交い、人波が絶えることはない。 玲は人混みを遮るように前を歩き、渚の手を引いた。 かつての渚なら、見知らぬ人々の気配に気後れし、身を縮こませていたはずだった。けれど今の渚は、玲の大きな背中に守られるようにしながら、引かれたその手をしっかりと握り返してきた。 指を絡ませ合うような、繋ぎ方ではなくて。 指先を揃え、お互いの掌の温もりを確かめ合うような繋ぎ方。 ゆっくりと、焦らずに。渚のペースを守りながら重なり合うその手からは、確かな信頼と、玲の深い愛おしさがじんわりと伝わっていた。「玲、見て……すごくきれい」 街灯の光に照らされた渚の頬が、寒さのせいかほんのりと赤く染まっている。 握り返された手の力を感じながら、玲は優しく微笑み返し、彼女の隣で歩調を緩めた。「渚の方がきれい」「もう……馬鹿言わないで」 渚が隣を歩く玲の横腹を、肘でつんと突く。「本気だよ」 玲が真剣な目を向けて、優しく微笑むと、渚は「もう……」と小さく呟いて、赤くなった顔を誤魔化すようにふいっと目を逸らした。 逸らされた横顔の愛おしさに、玲は胸の奥が温かくなるのを感じる。 指先を重ねたままの手に少しだけ力を込めると、渚もまた、その温もりに応えるように小さな手でキュッと握り返してきた。(幸せだな) 渚とクリスマスを過ごせるなんて。 彼女とこうして、手を繋いでクリスマスの夜景を見に行けるなんて夢にも思っていなかった。(これからも、ずっとずっと渚と一緒に過ごしたい) 視線の先には、色とりどりの光を纏った巨大なイルミネーションのクリスマスツリーが、夜空に向かって誇らしげにそびえ立っていた。無数の光が降り注ぎ、周囲の喧騒すらどこか遠い世界の出来事のように思える。 渚はその光を見上げていた。眩しそうに瞳を輝かせ、息をのむ彼女の横顔を、玲は静かに見つめる。 ツリーの光が幾重にも重なり、渚の瞳の中に小さな星のように映り込んでいた。寒さのせいで赤く
家を出て通学路を歩き、最初の角を曲がったところで、見覚えのある人影が立っていた。真央だ。 玲は視線すら合わせず、そのまま横を通り過ぎようとする。「玲」 名前を呼ばれても無視して歩みを進めるが、続く彼女の言葉に足を止めざるを得なかった。「相良さんと、付き合ってるの?」 玲はゆっくりと足を止め、振り向いた。その瞳には一切の温度がなく、まったく笑っていない。「……関係あるか? ないよな、お前に」「最近、男子たちが『玲の付き合いが悪くなった』って言ってるよ」 渚が苦手な男性のタイプは、男らしくてガサツで、騒がしいやつらだ。だから、そういうクラスメイトの男子たちとは学校以外での付き合いをすべて切った。セフレ関係も全員清算し、連絡先も着信拒否にしている。 もちろん、目の前にいる真央だって例外ではない。「俺たち受験生なんだから、遊んでる場合じゃないだろ」 冷淡に言い放ち、玲は真央の元から立ち去ろうとした。 しかし、不意に腕を引っ張られ、真央に手を掴まれた。「なにすんだよ」 玲は底冷えするような眼差しで彼女を睨みつけ、その手を強引に払い除ける。けれど真央は怯む様子もなく、玲を絶対に逃さないと言わんばかりに、再び力任せに手首を掴んできた。「なに?」 苛立ちを隠さず低く問い詰める玲に対し、真央は伏し目がちに、ボソッと何かを呟いた。 蝉の鳴き声に掻き消されて聞き取れず、玲は不快そうに眉間に皺を寄せる。 すると真央はゆっくりと顔を上げ、今度ははっきりとした、どこか狂気すら孕んだ声で言った。「玲には無理だよ」 一瞬、言われた意味が理解できず、玲の思考が凍りつく。 真央はゆっくりと口元を歪めた。「玲は、宮原さんで満足できない」「玲は、私に戻ってくる」 胸の奥にドス黒い毒を注ぎ込まれるような、気味の悪い呪いのような言霊。「……は?」 ゾッとするような寒気が背筋を走り、玲は吐き気を催しながら今度こそ激しくその手を振
※ ※ ※「父さん、夏休みに車の免許取りたいんだけど」 朝食のテーブル。新聞を開いていた父親が、パラリと紙面を下げて顔を上げた。「大学は東京なんだろ? なら、わざわざ車なんて乗らんだろ。免許なんて取る必要ないじゃないか」「あっても困らないって。それに、あったら身分証にもなるし……お願い」 向かいのキッチンで味噌汁をよそっていた母親が、呆れたように振り返る。「ちょっと玲、まだ受験すら終わってないのよ? 受かってから言いなさい受かってから」「……俺が大学落ちると思う?」 不敵に口角を上げてみせると、父親は「ははっ!」と痛快そうに声を上げて笑い、新聞をパタンと畳んだ。「だな! よし、いいぞ。費用は出してやるから受講の手続きしてこい」「あなたったら、甘いんだから……」 呆れる母親を横目に、玲は「サンキュー」と言ってトーストをかじった。――東京の大学に進学する理由はただ一つ。 渚が東京のデザイン科がある女子大を志望しているからだ。 渚の両親からは県外の大学へ進学することを最初は心配されたらしいが、「このままでは前に進めないから」と必死に説得し、合格したら一人暮らしを許されたと聞いていた。引っ越し先も女子専用マンションにするつもりだと言っていた。 渚が県外へ行くなら、俺も行く。 大学は違っても、東京にいればいつだって会える。渚の近くのマンションに部屋を借りよう。 そして、夏休みに車の免許を取る本当の理由。それも渚が同じタイミングで教習所に通うからだ。同じ教習所を選べば、一緒に講義や技能教習を受けられる。 それに、免許を取れば人混みを避けて渚をどこにでも連れて行ってあげられる。「教習所は、うちの近くのところで申し込むのよね?」 台所で片付けをしながら母親が聞いてくる。玲は指定の教習所の名前を口にした。「えっ……そこ、うちからだとかなり遠いわよ」 母親が渋い顔をする。
「ごめんなさい。私は玲とは付き合えません」 渚の声は震えておらず、はっきりとしていた。「私は汚い、ずっとそれが頭から離れないの。私は汚い」 その口から壊れたように零れ落ちる「汚い」という自虐の言葉。玲は衝動的に渚の両手を強く掴み取っていた。 渚が驚いて目を見開き、恐怖に身体を強張らせて怯む。けれど、今の玲にはそんな恐怖の視線すらどうでもよかった。 玲にとって、今この瞬間に何よりも重要なのは、ただ一つだけだった。「汚くない! そんなはずないだろ!」 玲は張り裂けんばかりの声で叫んだ。「俺は思わない!」 そのまま、渚の華奢な身体を強く抱き寄せた。 腕の中で、渚の身体がビクッと大きく強張るのが分かった。男性への恐怖からくる拒絶の反応。けれど、今の玲にはどうしても腕の力を緩めることができなかった。渚が自分自身を否定する言葉が、責める言葉が、どうしても許せなかった。彼女は何一つ、責められることはない。責められるべきなのは渚を傷つけた変質者であり、そいつに会わせてしまった自分だと玲は思った。あの日、この公園に約束通りに行っていれば、砂場で上級生に歯向かったように渚を守ることが出来ていたはずだから。「俺が好きな渚を、渚自身が自分のことをそんなふうに言うなよ! 傷つけるな!」 玲の胸に顔を押し付けられたまま、渚が短く喉を鳴らした。 直後、「うわーん」と、堰を切ったような大きな泣き声が公園の空気に響き渡った。 それは、かつてこの場所の砂場でお城を壊されたときに聞いた、幼い渚の泣き声よりもずっと不格好で、まるで泣き方を忘れてしまったかのように歪んでいた。 あの日から今まで、渚が声すら出さずに一人で涙を流し続けてきた孤独な時間を想像して、玲の胸は引き裂かれるように苦しくなる。 玲は渚の後頭部に手を回し、さらに強く自分の胸へと引き寄せた。コートの肩口が、見る見るうちに彼女の熱い涙で濡れていく。そんなことは少しも気に留めなかった。 だらりと力なく落ちていた渚の両手が、ぎゅっと玲の背中の生地を掴んだ。まるで唯一の命綱に縋り付くように、激しくしがみついてくる。(―
「……え?」 顔を上げる。 思考が止まる。 「パートナーいるし、女性に何かする気はないから安心して」 あっさりと言われた。 あまりにも自然で、冗談にすら聞こえない。 暫くして、橘が携帯を取り出した。何かを操作して、それを渚の方に向けた。 画面には、二人の男性が並んで笑っている写真があった。 (二人とも、幸せそう……) いい写真だった。 「俺のパートナー。十年になる」 渚は、その写真をじっと見た。 「だから」と橘は言った。「怖がらなくていい」 渚はまだ写真を見ていた。 胸の中で何かがゆっくりと解けていくのを、渚は感じていた。 「それと」と橘が小声で、教
※ドアをノックすると、「どうぞ」という低い声が返ってきた。一歩踏み出せば胸に圧がかかる。渚は息を浅くしたまま、ドアを開けた。橘 涼は書類から顔を上げた。 「相良さん、座って」 手で示された椅子に、渚は背筋を伸ばして腰を下ろした。渚は、目の前のガタイがいい男――橘の放つ威圧感に圧されていた。――やっぱり、苦手なタイプの男だった。背が高い。肩幅が広い。腕も太い。スーツの上からでも分かる体格の良さ。「楽にしていいから」と橘は手元の書類を捲った。(楽に……無理……)橘の声は近くで聞くと余計に低く、男らしさを感じさせるものだった。唯一の救
(あぁ……嫌だ。どうしよ……)職場のトイレで相良 渚は手洗い場の鏡の前から動けずにいた。鏡に映るのは、薄化粧を施した顔。肩にかかるくらいのミディアムストレート。丁寧に整えれば、綺麗に見える筈なのに、どこか少しだけ不揃いで、自分のために髪を整えることに、まだ慣れていない。 そんな渚の表情は両眉が情なく下がり、胸の前で指をずっと弄っている。 「どうしよ……」 一週間前、渚が働く化粧品会社に事業部長が海外本社から異動してきた。本社で実績を残し、日本支部も盛り上げるため、という理由での異動。 異動自体は珍しくない。渚が新卒で入社した時の事業部長は半年後に海外に転勤になったくらいだ。よくある
「してないよ」 すぐに返ってきた。でも一瞬の間があった。 渚は何も言わなかった。 「……何か、あった?」 不安そうに訊ねた玲に、「なんでもない」と答えて首を振る。そして、玲の胸に顔を埋めた。 髪を撫でる手が、また動き始める。 (してる) 渚には分かった。 玲が渚のペースに合わせていること。怖がらせないように、壊さないように、触れていること。 それが嬉しくないわけじゃない。 でも。 (玲に、ずっと我慢させてる) 渚のせいで。渚が怖がるから。渚が、普通じゃないから。 玲は優しい。 怖がれば止まってくれる。 無理をさせない。 急かさない。 渚が泣きそうになれば、







