LOGIN慎一は紗月と話したいと言った。けれど、彼の口から続く言葉はなかった。 紗月はしばらく待ってみたものの、慎一が何かを話し出す気配はない。 やがて何も言わず、顔を上げることもないまま、その場を離れて自分の部屋へ戻った。 自分では、慎一の前で十分に冷静に振る舞えたと思っていた。 未練など、もう何一つ残っていないのだと。 それなのに、部屋へ戻る足取りは思っていたよりもずっと速く、扉を閉めた途端、胸の鼓動がさっきよりも速くなっていることに気づく。 その夜は、珍しくなかなか寝つけなかった。 理由はいくつも思い浮かぶのに、どれ一つとして答えにはならない。 紗月はベッドへ横になり、闇に溶け込んだ天井をぼんやりと見つめる。 頭の中ではさまざまな思いが渦巻いているのに、自分が何を考えているのかさえ分からなかった。 何度も目を閉じて眠ろうとする。 それでも眠気は一向に訪れず、胸の奥だけが落ち着きなくざわついていく。 このまま横になっていても眠れそうにない。 そう思った紗月は身体を起こし、温かいミルクでも淹れようとキッチンへ向かうことにした。 少しでも気持ちが落ち着けば、眠れるかもしれない。 時刻は、もうかなり遅い。 普段なら祖父はとっくに休んでいる時間だった。 ところが階段を下りかけた紗月は、リビングの灯りがまだ点いていることに気づく。 思わず足を止め、そっと階下を覗き込んだ。 祖父と慎一が、向かい合うようにソファへ腰掛けている。 紗月は階段の途中で立ち止まり、そのまま息を潜めた。 二人の声は決して大きくはなかった。 それでも静まり返った家の中では、途切れ途切れに交わされる会話まで耳に届く。「慎一。紗月はもう十分につらい思いをしたんだ。これ以上、あの子を苦しませるようなことはするな」「……」「流産させてしまったことを後悔して、今さら償いたいと思っておるのかもしれん。だがな、お前がもっと早く紗月を大切にしておれば、あの子が離婚を望むことなどなかった」 祖父の声には、抑えきれない怒りと、長い年月を背負ってきたような深い疲労が滲んでいた。「昔、紗月がお前を好きだと言ったとき、二人を結婚させようと決めたのは、このわしじゃ。だが、お前がわしの前でどれだけ仲睦まじい夫婦を演じたところで、気づかんとでも思っておったのか。わしはまだ、何も見えんよ
祖父のそばにいるだけで、紗月の心は少しずつ落ち着きを取り戻していった。 慎一も同じ家にいるというのに、祖父が隣にいてくれるだけで、不思議と張り詰めていた気持ちがほどけていく。 紗月が来てくれたことがよほど嬉しかったのだろう。 祖父は数日前にもらった手土産のお菓子を嬉しそうに取り出しては、「これも食べなさい」「あれも食べなさい」と次々に勧めてくる。 それだけでは足りないと言わんばかりに、「若い子はこういうのが好きなんだろう」と笑いながら自らキッチンへ立ち、手作りのミルクティーまで淹れてくれた。 少し遅れて、慎一もダイニングへ姿を見せる。 だが、テーブルに並んでいたのは紗月と祖父の分だけ。慎一の分は、当然のように用意されていなかった。 あまりにも露骨な扱いに、慎一は思わず苦笑を漏らす。 それでも気にした様子はなく、何事もなかったかのように椅子を引いて腰を下ろした。 もちろん、祖父がそんな慎一を歓迎するはずもない。 顔を合わせるたび、「さっさと帰れ」と言いたげな視線を向け、隙あらば追い返そうとしていた。 一方の紗月も、ほとんど口を開かなかった。 慎一とはできるだけ目を合わせないようにし、祖父に話しかけられたときだけ穏やかに受け答えをする。 それ以外は静かにカップへ視線を落としたまま、ただゆっくりとミルクティーを口に運んでいた。 三人で囲む食卓はどこか賑やかなのに、不思議とぎこちなさも漂っていた。 そんな時間が十五分ほど過ぎた頃、不意に玄関のチャイムが鳴る。 掃除を担当している家政婦が応対へ向かい、やがてスーツケースを引いた久我を連れて戻ってきた。「旦那様、こんにちは。奥様もこんにちは。社長、ご依頼のお荷物をお持ちしました」 久我の姿を目にした祖父と紗月は、そろって目を丸くする。 対照的に、慎一だけは当然と言わんばかりの顔で久我へ指示を出した。 祖父が紗月へ泊まっていくよう勧めた直後、慎一はすぐに久我へ連絡を入れ、自分の荷物を運ぶよう手配していたのだ。 もう少し時間がかかると思っていたが、久我の仕事は相変わらず早い。「俺の部屋へ運んでくれ」「かしこまりました」 久我は慣れた足取りで二階にある慎一の部屋へ向かっていく。 その背中を見送りながら、祖父はようやく状況を察したのか、何とも言えない顔で慎一を見た。「慎一、お前まで
紗月は眉を寄せ、目の前の慎一を見つめた。あまりにも理不尽だと思うのに、言い返す言葉は一つも見つからない。 結局、俯いたまま足早に歩き出したものの、急ぎすぎたせいで玄関先の段差に足を取られそうになった。「危ない」 再び慎一に腕を掴まれる。 今度はただ、紗月を転ばせまいと咄嗟に手を伸ばしただけだった。 彼女の身体をしっかりと支え、体勢が整ったのを確かめると、すぐにその手を離す。 先ほど手を引かれたときも、今こうして腕を支えられたときも、慎一の手は昔と変わらず力強かった。 離されたあとも、その温もりだけが肌の上にかすかに残り、まるで彼の存在を忘れることを許さないように紗月の意識へ静かに触れてくる。 紗月は数歩先まで歩いてから玄関の扉に手をかけ、振り返ることなく、小さな声でぽつりと告げた。「……ありがとう」「気にするな」 背を向けたままだったため、慎一がどんな表情を浮かべていたのかは分からない。 それでも、その声は先ほどまでよりどこか柔らかく聞こえた。何をそんなに嬉しく思っているのか、紗月にはまるで理解できない。 これ以上考える気にもなれず、紗月はすぐに扉を開けると、慎一より一足先に家の中へ入った。 昼寝から目を覚ましたばかりの祖父は、機嫌も悪くなさそうだった。 午後は散歩がてら少し身体を動かそうと思っていたらしく、突然姿を見せた紗月と慎一を目にした瞬間、嬉しそうに顔をほころばせた。「紗月ちゃん! じいちゃんに会いに来てくれたのかい? 何かあったんじゃないだろうね。ほら、こっちへおいで。ちょうど数日前、古い友人から手土産をもらったんだ。甘いお菓子だから、紗月ちゃんもきっと気に入るよ。今持ってきてあげよう」 その視線が慎一へ移った途端、祖父の表情は露骨に曇った。「お前までどうして来た。会社はそんなに暇なのか?」 二人が揃って訪ねてきたことに、このときの祖父はまだ深く考えてはいなかった。 それよりも、紗月が顔を見せてくれたことの嬉しさのほうがずっと勝っていたのだ。 ひとしきり喜んだあと、祖父は心配そうに紗月の顔を覗き込み、そのまま身体へ視線を移した。「紗月ちゃん、まだ身体は痛むのかい? 退院したらここで暮らしなさいって言ったのに、どうしても外で暮らすなんて言い張って……。まったく、この子は少しもじいちゃんを頼ろうとしないんだから」
慎一の声は低く、電話越しだからなのか、その問いかけにはどこかためらいと遠慮が滲んでいた。 けれど今の紗月には、そんな慎一の微かな変化に気づく余裕などなかった。 頭の中は祖父のことでいっぱいだった。「おじいさまに何かあったんですか?」「……」 慎一は答えない。 返ってきたのは沈黙だけだった。その静けさがかえって不安を募らせ、紗月の顔からみるみる血の気が引いていく。「私、今すぐ向かいます」「俺が迎えに行く」「大丈夫です。タクシーで向かいますから」 紗月はそう言ってエレベーターの下行きボタンを押し、到着を待ちながら通話を切ろうとする。 数秒の沈黙のあと、慎一が静かに告げた。「もう下にいる。俺が連れて行ったほうが早い」「え……?」 そう言い残すと、慎一は返事を待つことなく電話を切ってしまった。 紗月は呆然とスマートフォンを見つめる。 オーディション会場へ入る前に見かけた、あの黒い車。ただよく似た車だと思っていた。 それが本当に慎一の車だったなんて。 どうして慎一がここにいるのだろう。 最初から、自分がここでオーディションを受けることを知っていたのだろうか。 次々と疑問が胸に浮かび、オーディションの準備に没頭することでようやく落ち着きを取り戻していた心が、再び静かに揺れ始める。 答えを求める思いばかりが募っていった。 それでも車の前まで来る頃には、その感情を胸の奥へ押し込み、紗月はいつものように冷静さを取り戻していた。 久我はすでに車の外で待っていた。 紗月の姿を見つけると、穏やかな笑みを浮かべて後部座席のドアを開く。「奥様、どうぞ」 慎一が相手なら断ることもできた。 けれど、昔から何かと気にかけてくれていた久我にそう言われると、無下にすることはできない。 紗月は困ったように久我を見つめ、小さく息をついて後部座席へ乗り込んだ。 車内へ足を踏み入れた瞬間、慎一と視線が重なる。 慎一はどこかぎこちない表情のまま小さく頷き、すぐに視線を逸らした。 その横顔は、どこか落ち着かない様子にも見えた。「おじいさまは、どうされたんですか」 紗月が尋ねると、慎一は一瞬言葉に詰まり、小さく息をついた。「……着けば分かる」 それ以上は何も語らない。 車は静かに走り出した。 窓の外では見慣れた街並みが一定の速さで流れていく
この結果は、紗月もある程度は予想していた。 結果そのものに悔いはなかった。けれど、自分を信じて推薦してくれた立花の期待に応えられなかったことだけは、申し訳なくてならなかった。 会場の外にある人の少ない片隅で立花へ結果を報告しようとスマートフォンを取り出すと、声をかけられた。「すみません」 紗月は顔を上げると、一人の女性が立っていた。「初めてお見かけしますが、オーディションを受けに来られた方ですよね?」 声をかけてきた女性は、カジュアルながらも洗練されたパンツスーツを着こなし、耳にかけたショートヘアはワックスできれいに整えられていた。 仕事のできる人特有の引き締まった空気をまとい、一つひとつの所作にも無駄がない。「あ……はい。オーディションを受けに来ました」 女性はふっと柔らかく微笑む。 紗月の表情を見て何か察したのか、慰めるような口調で続けた。「宇原監督、厳しかったでしょう? 一見すると穏やかそうに見えますけど、役者を見る目は本当に厳しくて、泣きながら出てくる人も少なくありません。でも、あなたはずいぶん落ち着いていたので、もしかしていい結果だったのかなと思ってしまって」 紗月は慌てて首を横に振った。「い、いえ……私も落ちました」「そうだったんですね。でも、あまり落ち込んでいるようには見えませんね」 女性は少し首を傾げると、ふと思い出したように尋ねた。「ちなみに、もうどこか芸能事務所には所属されていますか?」 突然の質問に、紗月は戸惑い、思わず目を瞬かせた。 すると女性は一枚の名刺を取り出し、紗月へ差し出す。 ――永長千尋。 見慣れない芸能事務所の名前と、「芸能マネージャー」という肩書が記されていた。「えっ……永長さん、ですか?」 千尋は穏やかな笑みを浮かべ、小さく頷く。「うちは決して大きな事務所ではありません。でも、所属している俳優やタレントはそれなりに知名度がありますし、待遇も悪くありません。新人向けの育成プログラムも整えています。もしまだ所属先がお決まりでなければ、一度お話ししませんか?」 突然の誘いに、紗月は戸惑うばかりだった。 受け取った名刺を見つめたまま、どう返事をすればいいのか分からない。 千尋が挙げた所属タレントの名前は、どれも紗月も知っている人ばかりだった。 最近人気を集めているアイドル
紗月は、自分の考えに思わず息を呑んだ。 ここからでは車内の様子までは見えない。運転席に誰が乗っているのかも分からない。慎一なのかどうかさえ確認することはできなかった。 それでも、「慎一かもしれない」という考えが頭をよぎった瞬間、紗月は反射的に窓際から身を引き、柱の陰へ身体を隠すように立った。 だがすぐに、自分でもそんな行動が可笑しくなり、小さく苦笑する。 慎一がこんな場所へ来るはずがない。 こんな偶然があるわけない。 ただ車が似ていただけかもしれないのに。 そう自分へ言い聞かせても、気になって仕方がなかった。 視線は何度もあの車へ吸い寄せられ、車内の様子を確かめようと目を凝らす。 もう少し近ければ見えるのに――。 そう考えた矢先だった。 「──○○番の方、お入りください」 スタッフに番号を呼ばれ、紗月ははっと我に返る。 慌てて手元の番号札を確認すると、小さく息を整え、オーディション会場へ足を踏み入れた。 会場は、一面が鏡張りになった、決して狭くはない部屋だった。 宇原監督が俳優選びに一切妥協を許さないことで知られているのは、業界では有名な話だ。 その厳しさは以前からたびたび話題になっており、知名度のわりに選考基準が厳しすぎるとして、役を逃した有名俳優が不満を口にしたという記事が出たこともあった。 オーディションは一人ずつ行われる。 会場には五人の審査員が並び、その視線が一斉に紗月へ向けられた。 胸が緊張で大きく高鳴る。 それでも表情だけは崩さず、部屋の中央まで歩み出ると、丁寧に一礼し、自分の名前とこれまでの経歴を簡潔に伝えた。 宇原は立花と大学時代の同期で、年齢もほとんど変わらない。若くして才能を認められ、監督として成功を収めた人物だった。 自己紹介を聞き終えても、宇原の表情はほとんど変わらない。 ただ静かに紗月を見つめ、そのままオーディションの開始を促した。 今回渡された台本は、映画の一場面だけを切り取った内容だった。 誰が主人公で、誰が脇役なのかさえ分からない。 登場人物の設定も最低限しか書かれておらず、おそらくは俳優自身がどこまで役を理解し、表現できるかを見るためなのだろう。 紗月は台本を受け取ってから、この一週間、何度も何度も読み返した。 人物の心情を考え、台詞を繰り返し口にし、身体へ染み込ませ
距離が近づくにつれ、紗月の纏う香水の匂いと、肌から伝わってくる異様な熱が、慎一の眉を思わずひそめさせた。「……気持ち悪い匂いだな」 彼女が体調を崩しているのか、それとも本当に病気なのか。そんなことは一切気にも留めない。 男の手つきには、微塵の情けもなかった。その触れ方は、欲望によるものですらない。ただ鬱積した感情をぶつけるための、乱暴な接触にすぎない。 紗月は彼の触れた感覚を受け止めながら、ゆっくりと目を開けた。 視線が合った瞬間、胸が締めつけられるように高鳴り、思わず口づけを求めるように身を起こそうとする。 その気配はすぐに見抜かれた。 慎一は露骨に嫌悪を滲ませ、顔を背ける
電話を切ってから四時間後、ようやく慎一は酒席を切り上げ、家へ戻る気になった。 すでに時刻は深夜十二時に近い。 それでも席に残っていた者たちは、立ち上がった慎一を見て、忘れたようにおべっかを並べる。「社長、もうお帰りですか? 奥さまのところへ急いで戻られるんですか?」 その一言をきっかけに、周囲も次々と追従し、慎一の“良き夫”ぶりを持ち上げ始めた。 今がどれほど遅い時間かなど、誰も気にしていない。「さすがは社長ご夫妻、相変わらず仲睦まじいですね。奥さまが羨ましいですよ、こんなに有能で、しかも奥さまを大切にされている男性と結婚できて」「本当ですよ。社長は毎月、奥さまのためにサプラ
朝倉紗月が玄関の扉を開け、部屋の中がこれまで幾度となく迎えてきた夜と同じように、がらんとして冷え切っているのを目にした瞬間、その瞳に濃い失望がよぎった。 今日もまた、彼は帰ってきていない。 紗月の顔色は病的なほど赤く、目尻は熱を帯びたようにじんと痛み、そこには気づかれないほどかすかな赤みも滲んでいた。 まるで次の瞬間には涙がこぼれ落ちてしまいそうなのに、それでも必死に強がって堪えているかのようだった。 数歩進んだだけで足元から力が抜け、彼女はそのままソファへと崩れ落ちた。戸籍上の夫がまた家に帰ろうともしない――その事実だけではない。 身体にこもる異様な熱もまた
家。 二度目のアラームが鳴り響いて、玄関でぼんやり立ち尽くしていた紗月は、ようやく我に返った。 目の奥がじんと痛み出し、手の甲で押さえて和らげようとする。だが触れた肌は熱く、熱はまったく引いていなかった。 この体調では休んだほうがいいのではないかと、そう思いかける。 けれど、部下の体調など一切気にも留めず、ただ頭ごなしに怒鳴りつける部長の性格を思い出し、結局は考えるのをやめた。 そのまま部屋へ戻り、出勤の支度を始める。 結婚してから、紗月はようやく契約を結んだばかりだった芸能事務所を辞め、ほぼ話がまとまっていたドラマ出演の契約も断った。 すべては慎一の「妻が外で目立つのは好







