LOGIN距離が近づくにつれ、紗月の纏う香水の匂いと、肌から伝わってくる異様な熱が、慎一の眉を思わずひそめさせた。
「……気持ち悪い匂いだな」
彼女が体調を崩しているのか、それとも本当に病気なのか。そんなことは一切気にも留めない。
男の手つきには、微塵の情けもなかった。その触れ方は、欲望によるものですらない。ただ鬱積した感情をぶつけるための、乱暴な接触にすぎない。
紗月は彼の触れた感覚を受け止めながら、ゆっくりと目を開けた。
視線が合った瞬間、胸が締めつけられるように高鳴り、思わず口づけを求めるように身を起こそうとする。その気配はすぐに見抜かれた。
慎一は露骨に嫌悪を滲ませ、顔を背ける。
「言ったはずだろ。お前とキスするなんて、吐き気がするだけだ」
その言葉に、紗月の鼻の奥がつんと痛む。
彼を押しのけようと手を胸に当てるが、それでも、最後まで突き放すことができない。もう……何週間も、彼に会えていなかった。
ニュースでは、何度も彼の姿を見ていた。
会社がまた大規模な買収を成功させたとか。 所属タレントが賞を取ったとか。 あるいは、どこかの女優と親しげに並ぶ姿とか。そんな記事を目にするたび、胸が重く沈み、何度も問いただしたくなった。
それでも、こうして本人が目の前にいると、紗月の視線は自然と彼の顔をなぞってしまう。
冷えきった眼差し、薄く結ばれた辛辣な唇。胸の奥がどうしようもなく疼いてしまう。
悲しいほどに、心が動く。
この人を、二十年も愛してきたのだから。
あまりにも卑屈で、惨めで、彼にとってはただのはけ口に過ぎないこの触れ合いでさえ、どこかで与えられたもののように感じてしまうほどに。
「……慎一、会いたかった」
口を開けば、また情けないほどの想いがこぼれ落ちる。
その上で彼は、嘲るように鼻で笑った。一言たりとも信じていないとでも言うように。
「会いたい? 相変わらず、嘘も下手だな。今のお前のその様子、まるで安い犬みたいだ」
吐き捨てるようなその言葉は、刃のように鋭く、何のためらいもなく紗月の胸の奥へと突き刺さった。
あまりにも容赦のない声音に、紗月は思わず目を閉じる。視界が遮られた瞬間、こらえていた感情が一気に溢れ出しそうになった。
喉の奥がきゅっと締めつけられ、呼吸がうまくできない。胸の内側を、見えない手で掻きむしられているような痛みが広がる。
声を漏らすまいと、唇を強く噛みしめた。
けれど、まぶたの裏に滲んだ熱は、もう止められなかった。
目尻から、透明な涙が一筋、静かに零れ落ちる。それは頬を伝いながら、ぽたり、とラグの上へ落ちていく。
まるで、音もなく壊れていくもののように、その涙さえも彼には届かないとわかっていながら。
案の定、彼から返ってきたのは、一言だけだった。
「……大した演技だ」
*
すべてが終わったあと、慎一がシャワーを終えて浴室から出てきたとき、紗月はまだ同じ姿勢のまま、ソファに倒れていた。
衣服は脱がされておらず、ただ乱れているだけ。そこに、余韻めいたものは何一つ残っていない。
慎一がパジャマではなく、新しいスーツに着替えているのを見て、紗月は身体を起こした。
服を整える余裕もないまま、先に言葉がこぼれる。「……泊まっていかないの?」
その問いに、慎一はちらりと一瞥をくれただけで、答える気配すらない。
淡々と腕時計をはめ、リビングを出ていこうとしたそのとき、背後から、焦ったような声が追いかける。
彼の機嫌を損ねるかもしれないとわかっていても、止められなかった。
「来月……おじいさまの誕生日なの。おじいさまは昔から私のことを可愛がってくださっていて……もし、あなたが結婚してから私にこんなふうに接しているって知ったら――」
言い終わる前に、慎一が振り返る。
その視線は、鋭く、怒気を孕んでいた。
「……脅しているのか?」
祖父は、慎一にとって数少ない弱点だった。
両親は多忙で家を空けることが多く、幼い頃の慎一はほとんど祖父に育てられたようなものだった。
高齢で体も弱く、今年に入ってからも何度も入院している。刺激を与えることはできない。そしてこの結婚を、誰よりも喜んでいるのも祖父だった。
だからこそ、慎一は知られるわけにはいかない。自分と紗月が、こんな関係であることを。
「……違うの、慎一。ただ……あなたに残ってほしくて。おじいさまの誕生日、どう過ごすか一緒に考えられたらって……」
紗月は声を落とし、必死に柔らかく言葉を紡ぐ。
祖父を引き合いに出すのが卑怯な手段だと、自分でもわかっていた。
慎一がそれを嫌うことも。しかし彼を引き留めるための材料が、もうほとんど残っていなかった。
慎一の表情はさらに険しくなる。
「……これ以上、何も言うな」
吐き捨てるようにそう言い、苛立った様子で腕時計を外し直すと、そのまま大股でリビングを抜け、廊下の奥へと消えていく。
向かった先は、別の寝室。
紗月が眠る部屋とは決して交わることのない、もうひとつの部屋だった。
慎一は、もう長い間紗月に触れていなかった。 その反動だったのか、それとも怒りに身を任せていたからなのか、一度身体を重ねただけでは到底収まらなかった。 ソファで終えても、慎一は乱れた呼吸を整えるようにしばらく紗月を抱き締めていただけだった。 だが、ほどなくして力の抜けきった彼女を横抱きにすると、そのまま寝室へ向かう。 ベッドへ下ろす手つきだけは、先ほどより幾分穏やかだった。 それでも次の瞬間には再び覆いかぶさり、焦燥にも似た激しさで紗月を求める。 同じ熱を帯びた身体が触れ合うたび、その熱は慎一の理性を少しずつ焼き尽くしていった。 何度も容赦なく紗月を追い詰め、その瞳からもっと涙を零させたい。もっと許しを乞わせたい。 そんな歪んだ衝動だけが、慎一を突き動かしていた。 紗月が負けを認め、自分へ縋る姿を見たかった。 けれど、泣き続けたあと、紗月はほとんど声を発しなくなってしまう。 慎一はその顎を指先で持ち上げ、無理やり自分のほうへ向かせた。その瞳はどこまでも昏く、何ひとつ映してはいなかった。 まるで、この世界には誰も存在していないかのように。「紗月。俺を見ろ」 理由も分からないまま胸がざわつき、慎一は思わずその名を呼んだ。 紗月は静かに目を閉じたまま、慎一へ視線を向けようともしなかった。 その拒絶に煽られるように、慎一はさらに乱暴に紗月を追い詰め、無理やり反応を引き出そうとする。 どれほど時間が過ぎたのか、自分でも分からなかった。 悪夢のような苦しみの中、紗月は一度意識を手放し、また浅い眠りから目を覚ます。 全身は汗に濡れ、喉は焼けつくように渇いていた。 岸へ打ち上げられた魚のように、ただ水だけを求める。「……みず……」 かすれたその一言に、慎一はすぐ気づいた。 動きを止めると、慎一はベッドを離れ、水を取りに部屋を出た。 グラスを手に戻ってきたものの、すぐには飲ませようとはしない。 しばらく紗月を見つめたあと、自ら一口だけ水を含むと、片手で紗月の後頭部をそっと支え、そのまま唇を重ねた。 口移しに流し込まれた水を、紗月は夢中で飲み下していく。 喉の渇きはあまりにも激しく、それが口づけであることすら意識する余裕はなかった。 水を含ませるためだけに重なっていた唇は、次の瞬間には慎一の深い口づけへと変わる。 容赦なく唇を
紗月は、こんな形でこの事実を打ち明けることになるなんて、思ってもみなかった。 妊娠。 本来なら、もっと落ち着いた場所で、もっと穏やかな時間の中で伝えたかった。 そう願っていたのに。 その言葉を耳にした瞬間、慎一の動きが止まった。 ただ、それも――ほんの数秒だけだった。 次の瞬間、慎一はあまりにも馬鹿げた話を聞かされたかのように、喉の奥で低く笑った。 室内は暗く、その表情までは見えない。 それでも紗月には分かる。 今、自分へ向けられている視線が、どれほど冷たく、どれほど嘲りに満ちているのか。 ――見えなくてよかった。 あの目を真正面から見てしまえば、それだけで心が折れてしまいそうだったから。「妊娠? 紗月、お前もずいぶん何でも言えるようになったな」 そう言うと、左手を紗月の下腹部へ重ね、その上からゆっくりと押し込むように力を込めた。 その感触に、紗月の心臓が大きく跳ねる。「違う……慎一、本当なの。私、本当に――」「そんな安っぽい嘘を、俺が信じるとでも思ったのか?」 慎一は吐き捨てるように言った。「夢を見るな、紗月。止めさせたいなら、そんなくだらない嘘で俺を試すべきじゃなかったな」 二人の間に、信頼などとうの昔に失われていた。 まして、「妊娠」という言葉が二人の間で交わされたのは、これが初めてだった。 慎一は、自分と紗月の間に子どもができる未来など、一度たりとも考えたことがない。 避妊は完璧だった――そう信じて疑わなかった。 だからこそ、慎一は紗月の言葉を信じるどころか、最初から嘘だと決めつけていた。 その言葉を聞いても、父親になる実感はもちろん、喜びが胸をよぎることすらない。 紗月と子どもを育てる未来など、一度たりとも考えたことがなかった。「それとも、そこまで必死だったのか?」 慎一は口元を歪める。「妊娠まで利用して男を繋ぎ止めようとするなんて……いかにも、お前らしいな」 紗月はもう何も言い返せなかった。 何を言っても、この人は信じない。 慎一は紗月の言葉も想いも、すべて卑劣な企みだと決めつけ、一切ためらうことなく彼女を押さえつけ続ける。 下腹部へ重ねられた手には、先ほどよりもさらに強い力が込められた。 痛みが走るほど乱暴なその手つきは、まるで罰でも与えるかのようだった。 お腹を守ろうと伸ばした紗
慎一は、この時ばかりは珍しく冷静さを失っていた。 少し前、由衣から電話がかかってきたのだ。 紗月は撮影現場でも男へ色目を使っていること、仕事もろくにできず、もっとまともな付き人へ替えてほしいこと――そんな不満を次々と訴えてきた。 もっとも、慎一本人は最初から本気にはしていなかった。 由衣が紗月を目の敵にしていることも、幼稚な嫌がらせを繰り返していることも知っていた。 だからこそ、あえて紗月を由衣のそばへ置いた。 由衣のやり方など、せいぜい紗月を精神的に追い詰める程度だ。 命に関わるような真似まではしない――慎一はそう高を括っていた。 それどころか、紗月が耐えきれなくなり、自分へ頭を下げて助けを求めてくることさえ期待していた。 電話を受けた時も、慎一は鼻で笑って取り合わなかった。 だが、由衣から「奥様が見知らぬ男と一緒に帰りましたよ」と聞かされた途端、半信半疑のままマンションへ急いで戻った。 そして実際に目にした。 紗月が見知らぬ男の車から降り、その男に支えられながら歩いてくる姿を。 しかも、あんな穏やかな笑顔まで浮かべて。 自分の前ではいつも眉を寄せ、疲れ切った顔しか見せなかった女が、他の男にはあんな表情を向ける。 その光景が、胸の奥で燻り続けていた得体の知れない苛立ちに、さらに火をつけた。 だから今は、その苛立ちを目の前の女へぶつけずにはいられなかった。 それなのに、紗月は言い訳ひとつしない。 ただ、静かで冷えた眼差しを慎一へ向けてくる。「慎一、一度ちゃんと話をしましょう」「俺とお前で、何を話すって?」 慎一は鼻で笑った。「ああ、男が欲しくて仕方ないって話か。……いいだろう、聞いてやる」 わざと紗月の言葉を歪めると、そのまま彼女の手首を乱暴に掴み、エレベーターへ向かって歩き出した。「きゃっ……!」 足首はまだひどく腫れたままだ。 無理やり引っ張られた紗月はたちまち体勢を崩し、そのまま床へ倒れ込んでしまう。 手に伝わる重みで慎一は足を止めた。 足元へ冷たい視線を落としたまま、数秒だけ黙り込む。「……ちっ」 小さく舌打ちすると、次の瞬間には紗月を横抱きに抱え上げ、そのまま大股でエレベーターへ向かった。 紗月は腕の中でもがき、必死に慎一の肩や胸を叩いた。「下ろして……! 慎一、お願い……下ろして!」
車内では、沈黙の時間のほうが長かった。 もともと篤司は口数の多い人ではないし、紗月も決して社交的な性格ではない。そのせいか、互いに無理に会話を探すこともなく、静かな時間が流れるまま、気づけば思っていたよりずっと早く目的地へ到着していた。 篤司が車を停めると、紗月はシートベルトに手を掛け、彼のほうへ向き直った。「今日は本当にありがとうございました、篤司さん」「いえ。……お手伝いしましょうか」 そう言って篤司も車を降りると、紗月が返事をする間もなく助手席のドアを開けた。 足をかばいながら降りようとする紗月をひと目見ると、何も言わず腕を差し出し、その身体を支えるように促す。「ありがとうございます……篤司さんって、本当にお優しいんですね」 申し訳なさそうに彼の腕へそっと手を添えながら、紗月はもう一度礼を口にした。 篤司は何度感謝されても照れた様子ひとつ見せず、相変わらず淡々とした表情のままだった。「大したことではありません。僕じゃなくても、きっと誰かが助けていました」 その口ぶりには、気負いも恩着せがましさもない。 本気でそう思っているのだと、紗月には分かった。 篤司はそのままマンションのエントランスまで付き添うと、それ以上中へ入ろうとはしなかった。「それでは」 短く別れを告げると、篤司は迷うことなく踵を返し、車へ戻っていく。 数秒後にはエンジン音が静かに響き、そのまま車は走り去っていった。 紗月はしばらくその場に立ち尽くしたまま、車の姿が完全に見えなくなるまで見送る。 ようやくマンションへ入ろうと振り返った。「……!」 冷え切った瞳と、真正面からぶつかる。 怒りを押し殺したような眼差しが、真っ直ぐ紗月を射抜いていた。 慎一だった。 いつからそこに立っていたのか分からない。 まるで最初からそこにいたかのように、静かに紗月を見つめている。 思わず息を呑んだ。 そういえば、もう何日も顔を合わせていなかった。 本当は一度、慎一ときちんと話をしなければと思っていた。 それなのに、いざ本人を前にすると頭の中は真っ白になり、何から話せばいいのか何ひとつ思い浮かばなかった。「慎一……」「はっ。紗月、お前も大したものだな」 慎一は皮肉げに口元を歪める。「たった数日会わなかっただけで、もう次の男を見つけたのか」 少し前まで
篤司の言葉を聞いた瞬間、由衣は信じられないものを見るように目を見開いた。 みるみるうちに顔から血の気が引き、傷ついたように唇を震わせる。まるで、自分こそが理不尽な言葉を浴びせられた被害者であるかのように。 しかし、篤司は眉一つ動かさなかった。 冷えた眼差しは少しも揺らぐことなく、由衣の芝居がかった反応にも、一切心を動かされる様子はない。「私は……ただ親切にしただけなのに……」「もういいよ、由衣。こんな相手にこれ以上話す必要ない」 周囲にいたスタッフの一人が口を挟む。 その言葉に、由衣はすぐさま柔らかな笑みを浮かべ直した。 篤司へ向ける眼差しだけは、先ほど紗月へ向けていたものと同じように冷え切っている。「もう結構です。善意で手を貸しただけなのに、そんなふうに言われるなんて……私がお節介だったみたいですね」 穏やかな笑みを崩さないまま口にしたその声は、奥歯を噛み締めるような冷たさを帯びていた。 そう言い残すと、由衣は周囲のスタッフたちを連れてその場を後にする。 数歩進んだところで、不意に足を止めた。 ゆっくりと振り返ると、その視線が意味ありげに紗月の下腹部へと落ちる。「紗月さん。次は気をつけたほうがいいよ」 そう言うと、由衣は意味ありげに喉の奥でくすりと笑った。「……ふふっ。いえ、何でもない」 その含み笑いだけを残し、由衣たちの姿は遠ざかっていった。 ようやく辺りが静かになると、篤司はわずかに眉を寄せ、紗月のもとへ歩み寄る。 余計なことは何も言わず、まずしゃがみ込んで腫れがさらにひどくなった足首を確認し、それから静かに立ち上がった。「朝倉さん。この状態では歩けませんよね。送ります」 そう言って差し出されたのは、先ほど飛ばされた紗月のスマートフォンだった。「……ありがとうございます」 受け取った瞬間、画面に大きなひびが入っていることに気づく。 あの勢いで地面へ叩きつけられたのだから、無事では済まなかったのだろう。 紗月は小さく礼を言いながらスマートフォンを胸元へ抱えた。 心臓はまだ激しく脈打っている。 無意識に片手を下腹部へ添えた。 もう疑いようがなかった。 由衣は何度も自分へ危害を加え、この子を流産させようとしている。 そう思った瞬間、全身が小刻みに震え始める。 今はもう、一刻も早くこの場所を離れたい。
まさか紗月が言い返してくるとは思ってもいなかった。 周囲にほとんどスタッフはいないとはいえ、由衣にとっては面子を潰されたも同然だった。 自分より下だと見下していた紗月に反論されるなど、これ以上ない屈辱だった。その怒りは、簡単には飲み込めそうになかった。「あんたっ――!」「綾瀬さん。私の今日の仕事はもう終わっています。汗を拭いてほしいのでしたら、ほかの方に頼んでください」 怒りが胸いっぱいに込み上げていたからこそ、紗月も珍しく一歩も引かなかった。 たとえこの子を無事に産めない未来が待っていたとしても、その命をどうするかを由衣のような人間に口出しされる筋合いはない。 ましてや、堕ろす薬などという言葉を平然と口にできる神経など、紗月には到底理解できなかった。 胸の奥で渦巻く怒りだけを支えに、紗月はその場を離れるように撮影スタジオの出口へ向かう。 しかし、ようやく建物の外へ出たところで、足首に鋭い痛みが走り、思わずその場で足を止めた。 視線を落とすと、腫れは朝よりもさらにひどくなっている。 それに気づいた途端、一歩踏み出すだけで先ほどまでとは比べものにならないほどの痛みが足首を貫き、前へ進むことも、引き返すこともできず、その場に立ち尽くしてしまった。 スタジオは人里離れた場所にあり、最寄り駅まで歩くだけでもかなりの距離がある。 今の足でそこまで歩けるとは、とても思えなかった。 紗月はスマートフォンを取り出し、タクシーを呼ぼうと配車アプリを開く。だが、画面に触れようとした、その瞬間――不意に背中へ強い衝撃が走った。「っ……!」 受け身を取る間もなく地面へ倒れ込み、手から離れたスマートフォンは勢いよく弾かれ、何度も地面を跳ねながら遠くまで転がっていく。 一瞬、何が起きたのか理解できなかった。 次の瞬間、足首を貫く激痛が紗月の意識を現実へと引き戻す。 誰かが、足を踏みつけていた。 幸い、一番ひどく腫れている場所は外れていたものの、それでも息が詰まるほどの痛みが全身を駆け巡る。「きゃっ、ごめんなさぁい、紗月さん。外に立ってるなんて気づかなくて。大丈夫かぁ?」 わざとらしく甘ったるい由衣の声が頭上から降ってくる。 その直後、手首を誰かに乱暴に掴まれた。 容赦ない力でぐいっと引き上げられ、紗月は痛む足などお構いなしに無理やり立たされた
やがて由衣を迎えに来た車が到着した。 まるでこの世の終わりでも訪れたかのように名残惜しげに別れを告げる彼女を見ても、慎一はその場に立ったまま、形だけの笑みを浮かべるだけだった。 そしてそのまま踵を返し、自分専用の駐車スペースへと向かう。 すでに運転手は彼からの連絡を受けて車内で待機しており、まるで時間を計算していたかのように、慎一が後部座席のドアに手をかける寸前、すぐに車を降りて恭しくドアを開けた。「ありがとう」 運転手の名は久我誠。 二十年以上前、朝倉家に仕える補佐役として働いていた人物で、ここ数年で慎一の専属運転手兼個人秘書となった。 長年この家に仕えてきた彼にとって、慎
翌朝、紗月が目を覚ますと、昨日よりもさらに体調が悪かった。 全身に力が入らず、めまいがして、手足は冷えきっている。歩くだけでも、身体が小刻みに震えているような感覚さえあった。 キッチンで薬を飲んでいると、ちょうど慎一も部屋から出てきた。アイランドキッチンに置かれた薬をちらりと目にしたが、彼はほんの一瞬視線を流しただけで、気にかける様子はまるでない。 紗月は彼がすでに出勤用の服に着替えていることに気づく。 まだ時間は早いのに、彼は今すぐにでも出ていきたいというように、どこか落ち着かない様子だった。この家に一秒でも長くいたくな
家。 二度目のアラームが鳴り響いて、玄関でぼんやり立ち尽くしていた紗月は、ようやく我に返った。 目の奥がじんと痛み出し、手の甲で押さえて和らげようとする。だが触れた肌は熱く、熱はまったく引いていなかった。 この体調では休んだほうがいいのではないかと、そう思いかける。 けれど、部下の体調など一切気にも留めず、ただ頭ごなしに怒鳴りつける部長の性格を思い出し、結局は考えるのをやめた。 そのまま部屋へ戻り、出勤の支度を始める。 結婚してから、紗月はようやく契約を結んだばかりだった芸能事務所を辞め、ほぼ話がまとまっていたドラマ出演の契約も断った。 すべては慎一の「妻が外で目立つのは好
由衣を連れて地下駐車場まで下りると、慎一はようやく、自分にぴたりと寄り添っていた彼女を少し強めに引き離した。 今度ははっきりと力を込めており、由衣がこれ以上まとわりつくことは許さない。「次からは、断りもなく来るな」「えー、社長ってひどい。利用したらそれで終わりなんて。奥様、顔色すごく悪かったですよ? 今ごろ上でこっそり泣いてるかも」 由衣はにこにこと笑いながら、両手で慎一の腕を掴み、甘えるように揺らした。 だがその言葉には、どこか底の見えない悪意が滲んでいる。 慎一はそんな彼女を見つめ、ふっと笑







