LOGINやがて由衣を迎えに来た車が到着した。
まるでこの世の終わりでも訪れたかのように名残惜しげに別れを告げる彼女を見ても、慎一はその場に立ったまま、形だけの笑みを浮かべるだけだった。
そしてそのまま踵を返し、自分専用の駐車スペースへと向かう。
すでに運転手は彼からの連絡を受けて車内で待機しており、まるで時間を計算していたかのように、慎一が後部座席のドアに手をかける寸前、すぐに車を降りて恭しくドアを開けた。
「ありがとう」
運転手の名は久我誠。
二十年以上前、朝倉家に仕える補佐役として働いていた人物で、ここ数年で慎一の専属運転手兼個人秘書となった。長年この家に仕えてきた彼にとって、慎一は幼い頃から見守ってきた存在でもある。だからこそ、つい世話を焼きたくなってしまうのだった。
「社長、昨夜はご自宅でよくお休みになれましたか」
後部座席に腰を下ろした慎一に、久我は穏やかな声で問いかける。
慎一は重度の不眠症を抱えており、多くの場合は薬に頼らなければ眠ることができない。過度のストレスのせいなのか、久我はこれまで一度も、彼が「よく眠れた」と口にするのを聞いたことがなかった。
案の定、慎一は眉間を押さえ、わずかに顔をしかめる。
「いつも通りだ……どこで寝ても変わらない。だが、あの女が家にいると、なおさら気分が悪くなる」
長年仕えてきた者への信頼もあり、また胸の内を打ち明けられる相手がほとんどいないこともあって、慎一はこの結婚の本質について、久我の前では隠そうとしなかった。
久我は小さく息をつき、紗月のことに触れるときは、いっそう言葉を選ぶようにして尋ねる。
「……奥様のことは、やはりお許しになれませんか。私の知る限りでは、奥様は決して――」
「許す?」
慎一は冷笑した。その響きには、嘲りすら滲んでいる。
「そんな滑稽な言葉、二度と口にするな。それと――新しく入った秘書の件だが、俺の居場所を軽々しく他人に売っていたらしいな。久我、知っているか?」
久我はすぐに意図を察した。
「すぐに退職の手続きを取らせます」
「そうしろ」
*
車が会社へと向かって走り出す中、慎一は頬杖をつき、窓の外を流れていく、彼にとっては何の変化もない景色をぼんやりと眺めていた。
そもそも、彼にとって紗月は、最初からここまで疎ましい存在だったわけではない。
かつては、穏やかな時間も確かに存在していた。
家庭の事情で、紗月は慎一の祖父の家に身を寄せていた時期があり、二人は長い間、同じ屋根の下で暮らしていた。
一緒に学校へ通い、並んで帰り、時には無邪気に遊んだこともある。互いにとって、それなりに大切な存在だった。
慎一は彼女を本心から「妹」として見ていた。
もし紗月が分をわきまえ、穏やかに生きていれば、より良い未来を用意してやるつもりでいた。祖父もまた、幼い頃から彼女を気に入り、家族同然に扱っていた。
だが、紗月はあまりにも貪欲で、恥知らずで、満足というものを知らなかった。
二人の関係が歪み始めたのは、いつからだったのか。
おそらく慎一が初めて恋をし、ある一人の女性を心から愛した、そのときからだ。
祖父にその想いを打ち明けようと胸を躍らせていた頃。その前日、紗月はか細い声で彼の恋を祝福していた。
それなのに、翌日には彼女は祖父の腕の中で泣き崩れながら、こう口にしたのだ。
「……慎一と結婚したい」
祖父は慈しむように彼女の頭を撫で、その涙に心を痛めた表情を浮かべていた。
「泣くな、紗月ちゃん。わしがちゃんとしてやる。慎一と結婚させてやるからな」
「でも……慎一には好きな人がいるのに」
「そんなもの、どうでもいい。紗月ちゃんほど慎一にふさわしい者などおらん。わしが決めれば、あいつに逆らえるはずもない」
慎一は生まれて初めて、身近な人間からの裏切りを思い知った。
その後、自分のしたことが露見したと知った紗月は、涙ながらに「どうしても気持ちを抑えきれなかっただけ」と弁明し、彼の想う相手には何一つ手を出していないと、何度も誓ってみせた。
かつて妹のように思っていたその女を、慎一はもう二度と、信じることができなかった。
それに、紗月が彼にしてきた過ちや仕打ちは、たった一度きりで済むようなものではなかった。
朝倉グループは、今回の映画の最大出資会社だった。 慎一が撮影現場へ姿を現した途端、その姿をいち早く見つけたプロデューサーが満面の笑みで駆け寄ってくる。 大げさなほど愛想よく頭を下げながら、この大口スポンサーを相手に終始機嫌をうかがうような口調で話しかけた。「朝倉社長、お待ちしておりました。本日も進捗のご確認でしょうか? 綾瀬さんの撮影は午後からの予定ですが、その前にこれまで撮影したシーンをご覧になりますか?」 慎一の意識は、そんな話にはまるで向いていなかった。 ただ紗月の姿を探して、視線だけが現場のあちこちをさまよう。 目に入るのは慌ただしく行き交うスタッフや出演者ばかりで、肝心の紗月の姿はどこにも見当たらない。 しかもプロデューサーに捕まってしまえば、無下に振り払うわけにもいかなかった。 慎一は適当に相槌を打ちながら話を合わせていたが、そのうち由衣まで懲りずにまとわりつき、気づけばその場を離れることもできなくなっていた。 それでも視線だけは無意識のうちに紗月を追い続けてしまう。 どこにも見つからない。その事実が、なぜか胸の奥をひどく苛立たせた。 ――何をしている。 そう思った途端、自分でも馬鹿らしくなった。 紗月を探してどうする。 気に掛ける理由など、もう何一つない。 慎一は胸に浮かんだその感情を無理やり押し込めるように、由衣やプロデューサーとともに数日前の撮影映像へ視線を落とした。* 紗月は今日も大道具チームの手伝いを任されていた。 美咲から直接指示された仕事だ。 由衣が紗月の顔を見たくないと言い出したため、付き人としての仕事は美咲が引き継ぎ、紗月は大道具チームの補助へ回されていた。 美咲としては、撮影現場で一番きついのは大道具の仕事だと思っていたのだろう。だからこそ、わざと紗月をこちらへ回したのだ。 けれど実際は違った。 大道具会社のスタッフたちは皆気さくで親切で、足を引きずりながら現れた紗月を見るなり、すぐに椅子を運んできてくれた。 篤司は資料を手に何かを確認していたが、紗月に気づくと一度だけ顔を上げ、いつもと変わらない淡々とした口調で声を掛ける。「おはようございます、朝倉さん」 それだけ言うと、また資料へ視線を落とした。 すると隣にいた年上のスタッフが、勢いよく篤司の背中を叩く。「篤司、お前も朝倉さ
慎一の口調はどこか妙だった。まるで紗月の反応を探るような響きが滲んでいる。 紗月は静かにコップを置き、しばらく黙り込んだあと、小さく口を開いた。「……あなたが約束を守ってくれることだけを願っている」 その言葉を聞いた瞬間、慎一の口元がわずかに吊り上がる。 瞳の奥にも、一瞬だけ何かを思いついたような光がよぎったが、それはすぐに消え、何事もなかったかのように短く言い放った。「当然だ」 足首の痛みはまだひどかった。 それでも紗月は助けを求めようとはしない。慎一もそんな彼女の意思など意に介さず、半ば強引に車へ乗せた。 昨夜の出来事があまりにも激しかったせいで、今は足首よりも全身の痛みのほうが勝っている。 それでも朝目を覚まして足首へ視線を落とすと、腫れた患部には厚く湿布薬が塗られていた。 眠っている間に慎一が手当てをしたのだろう。 けれど、そんな優しさは今の紗月には何の意味もなかった。 撮影現場までの車内は、息が詰まるほど静まり返っていた。 今日は久我を呼ばず、慎一自身がハンドルを握っている。しかも紗月は助手席へ座らされていたが、その理由は分からない。 紗月は一度も慎一へ視線を向けることなく、ただ窓の外だけを見つめ続けた。 やがて車がスタジオの駐車場へ滑り込むと、紗月は慎一より先にドアを開け、そのまま何も言わず立ち去ろうとする。 しかし車を降りたその瞬間、スタジオの入口で待っていた由衣と目が合った。 由衣の手にはテイクアウトのコーヒーが二つ。誰かを待っていたことは、一目で分かる。 紗月を見つけた途端、由衣の笑顔は一瞬で消え失せた。さらに、紗月が慎一の車から降りてきたと気づいた瞬間、その瞳には隠そうともしない怒りが燃え上がる。 大股でこちらへ歩いてくる由衣を見て、紗月は反射的に下腹部を庇うように一歩後ずさった。 だが、由衣の視線はすぐに紗月から外れ、車を降りてきた慎一へ向けられる。「社長~!」 満面の笑みを浮かべて駆け寄る。「今日いらっしゃるって聞いてたので、ずっとお待ちしてたんですよ! 本当はこんなに早く来る予定じゃなかったんですけど、社長にお会いしたくて……昨日なんてほとんど眠れなかったんです。褒めてくれませんか?」 慎一は由衣を見るなり、露骨に眉をひそめた。 その声にも、隠そうともしない苛立ちが滲んでいる。
慎一は、もう長い間紗月に触れていなかった。 その反動だったのか、それとも怒りに身を任せていたからなのか、一度身体を重ねただけでは到底収まらなかった。 ソファで終えても、慎一は乱れた呼吸を整えるようにしばらく紗月を抱き締めていただけだった。 だが、ほどなくして力の抜けきった彼女を横抱きにすると、そのまま寝室へ向かう。 ベッドへ下ろす手つきだけは、先ほどより幾分穏やかだった。 それでも次の瞬間には再び覆いかぶさり、焦燥にも似た激しさで紗月を求める。 同じ熱を帯びた身体が触れ合うたび、その熱は慎一の理性を少しずつ焼き尽くしていった。 何度も容赦なく紗月を追い詰め、その瞳からもっと涙を零させたい。もっと許しを乞わせたい。 そんな歪んだ衝動だけが、慎一を突き動かしていた。 紗月が負けを認め、自分へ縋る姿を見たかった。 けれど、泣き続けたあと、紗月はほとんど声を発しなくなってしまう。 慎一はその顎を指先で持ち上げ、無理やり自分のほうへ向かせた。その瞳はどこまでも昏く、何ひとつ映してはいなかった。 まるで、この世界には誰も存在していないかのように。「紗月。俺を見ろ」 理由も分からないまま胸がざわつき、慎一は思わずその名を呼んだ。 紗月は静かに目を閉じたまま、慎一へ視線を向けようともしなかった。 その拒絶に煽られるように、慎一はさらに乱暴に紗月を追い詰め、無理やり反応を引き出そうとする。 どれほど時間が過ぎたのか、自分でも分からなかった。 悪夢のような苦しみの中、紗月は一度意識を手放し、また浅い眠りから目を覚ます。 全身は汗に濡れ、喉は焼けつくように渇いていた。 岸へ打ち上げられた魚のように、ただ水だけを求める。「……みず……」 かすれたその一言に、慎一はすぐ気づいた。 動きを止めると、慎一はベッドを離れ、水を取りに部屋を出た。 グラスを手に戻ってきたものの、すぐには飲ませようとはしない。 しばらく紗月を見つめたあと、自ら一口だけ水を含むと、片手で紗月の後頭部をそっと支え、そのまま唇を重ねた。 口移しに流し込まれた水を、紗月は夢中で飲み下していく。 喉の渇きはあまりにも激しく、それが口づけであることすら意識する余裕はなかった。 水を含ませるためだけに重なっていた唇は、次の瞬間には慎一の深い口づけへと変わる。 容赦なく唇を
紗月は、こんな形でこの事実を打ち明けることになるなんて、思ってもみなかった。 妊娠。 本来なら、もっと落ち着いた場所で、もっと穏やかな時間の中で伝えたかった。 そう願っていたのに。 その言葉を耳にした瞬間、慎一の動きが止まった。 ただ、それも――ほんの数秒だけだった。 次の瞬間、慎一はあまりにも馬鹿げた話を聞かされたかのように、喉の奥で低く笑った。 室内は暗く、その表情までは見えない。 それでも紗月には分かる。 今、自分へ向けられている視線が、どれほど冷たく、どれほど嘲りに満ちているのか。 ――見えなくてよかった。 あの目を真正面から見てしまえば、それだけで心が折れてしまいそうだったから。「妊娠? 紗月、お前もずいぶん何でも言えるようになったな」 そう言うと、左手を紗月の下腹部へ重ね、その上からゆっくりと押し込むように力を込めた。 その感触に、紗月の心臓が大きく跳ねる。「違う……慎一、本当なの。私、本当に――」「そんな安っぽい嘘を、俺が信じるとでも思ったのか?」 慎一は吐き捨てるように言った。「夢を見るな、紗月。止めさせたいなら、そんなくだらない嘘で俺を試すべきじゃなかったな」 二人の間に、信頼などとうの昔に失われていた。 まして、「妊娠」という言葉が二人の間で交わされたのは、これが初めてだった。 慎一は、自分と紗月の間に子どもができる未来など、一度たりとも考えたことがない。 避妊は完璧だった――そう信じて疑わなかった。 だからこそ、慎一は紗月の言葉を信じるどころか、最初から嘘だと決めつけていた。 その言葉を聞いても、父親になる実感はもちろん、喜びが胸をよぎることすらない。 紗月と子どもを育てる未来など、一度たりとも考えたことがなかった。「それとも、そこまで必死だったのか?」 慎一は口元を歪める。「妊娠まで利用して男を繋ぎ止めようとするなんて……いかにも、お前らしいな」 紗月はもう何も言い返せなかった。 何を言っても、この人は信じない。 慎一は紗月の言葉も想いも、すべて卑劣な企みだと決めつけ、一切ためらうことなく彼女を押さえつけ続ける。 下腹部へ重ねられた手には、先ほどよりもさらに強い力が込められた。 痛みが走るほど乱暴なその手つきは、まるで罰でも与えるかのようだった。 お腹を守ろうと伸ばした紗
慎一は、この時ばかりは珍しく冷静さを失っていた。 少し前、由衣から電話がかかってきたのだ。 紗月は撮影現場でも男へ色目を使っていること、仕事もろくにできず、もっとまともな付き人へ替えてほしいこと――そんな不満を次々と訴えてきた。 もっとも、慎一本人は最初から本気にはしていなかった。 由衣が紗月を目の敵にしていることも、幼稚な嫌がらせを繰り返していることも知っていた。 だからこそ、あえて紗月を由衣のそばへ置いた。 由衣のやり方など、せいぜい紗月を精神的に追い詰める程度だ。 命に関わるような真似まではしない――慎一はそう高を括っていた。 それどころか、紗月が耐えきれなくなり、自分へ頭を下げて助けを求めてくることさえ期待していた。 電話を受けた時も、慎一は鼻で笑って取り合わなかった。 だが、由衣から「奥様が見知らぬ男と一緒に帰りましたよ」と聞かされた途端、半信半疑のままマンションへ急いで戻った。 そして実際に目にした。 紗月が見知らぬ男の車から降り、その男に支えられながら歩いてくる姿を。 しかも、あんな穏やかな笑顔まで浮かべて。 自分の前ではいつも眉を寄せ、疲れ切った顔しか見せなかった女が、他の男にはあんな表情を向ける。 その光景が、胸の奥で燻り続けていた得体の知れない苛立ちに、さらに火をつけた。 だから今は、その苛立ちを目の前の女へぶつけずにはいられなかった。 それなのに、紗月は言い訳ひとつしない。 ただ、静かで冷えた眼差しを慎一へ向けてくる。「慎一、一度ちゃんと話をしましょう」「俺とお前で、何を話すって?」 慎一は鼻で笑った。「ああ、男が欲しくて仕方ないって話か。……いいだろう、聞いてやる」 わざと紗月の言葉を歪めると、そのまま彼女の手首を乱暴に掴み、エレベーターへ向かって歩き出した。「きゃっ……!」 足首はまだひどく腫れたままだ。 無理やり引っ張られた紗月はたちまち体勢を崩し、そのまま床へ倒れ込んでしまう。 手に伝わる重みで慎一は足を止めた。 足元へ冷たい視線を落としたまま、数秒だけ黙り込む。「……ちっ」 小さく舌打ちすると、次の瞬間には紗月を横抱きに抱え上げ、そのまま大股でエレベーターへ向かった。 紗月は腕の中でもがき、必死に慎一の肩や胸を叩いた。「下ろして……! 慎一、お願い……下ろして!」
車内では、沈黙の時間のほうが長かった。 もともと篤司は口数の多い人ではないし、紗月も決して社交的な性格ではない。そのせいか、互いに無理に会話を探すこともなく、静かな時間が流れるまま、気づけば思っていたよりずっと早く目的地へ到着していた。 篤司が車を停めると、紗月はシートベルトに手を掛け、彼のほうへ向き直った。「今日は本当にありがとうございました、篤司さん」「いえ。……お手伝いしましょうか」 そう言って篤司も車を降りると、紗月が返事をする間もなく助手席のドアを開けた。 足をかばいながら降りようとする紗月をひと目見ると、何も言わず腕を差し出し、その身体を支えるように促す。「ありがとうございます……篤司さんって、本当にお優しいんですね」 申し訳なさそうに彼の腕へそっと手を添えながら、紗月はもう一度礼を口にした。 篤司は何度感謝されても照れた様子ひとつ見せず、相変わらず淡々とした表情のままだった。「大したことではありません。僕じゃなくても、きっと誰かが助けていました」 その口ぶりには、気負いも恩着せがましさもない。 本気でそう思っているのだと、紗月には分かった。 篤司はそのままマンションのエントランスまで付き添うと、それ以上中へ入ろうとはしなかった。「それでは」 短く別れを告げると、篤司は迷うことなく踵を返し、車へ戻っていく。 数秒後にはエンジン音が静かに響き、そのまま車は走り去っていった。 紗月はしばらくその場に立ち尽くしたまま、車の姿が完全に見えなくなるまで見送る。 ようやくマンションへ入ろうと振り返った。「……!」 冷え切った瞳と、真正面からぶつかる。 怒りを押し殺したような眼差しが、真っ直ぐ紗月を射抜いていた。 慎一だった。 いつからそこに立っていたのか分からない。 まるで最初からそこにいたかのように、静かに紗月を見つめている。 思わず息を呑んだ。 そういえば、もう何日も顔を合わせていなかった。 本当は一度、慎一ときちんと話をしなければと思っていた。 それなのに、いざ本人を前にすると頭の中は真っ白になり、何から話せばいいのか何ひとつ思い浮かばなかった。「慎一……」「はっ。紗月、お前も大したものだな」 慎一は皮肉げに口元を歪める。「たった数日会わなかっただけで、もう次の男を見つけたのか」 少し前まで
距離が近づくにつれ、紗月の纏う香水の匂いと、肌から伝わってくる異様な熱が、慎一の眉を思わずひそめさせた。「……気持ち悪い匂いだな」 彼女が体調を崩しているのか、それとも本当に病気なのか。そんなことは一切気にも留めない。 男の手つきには、微塵の情けもなかった。その触れ方は、欲望によるものですらない。ただ鬱積した感情をぶつけるための、乱暴な接触にすぎない。 紗月は彼の触れた感覚を受け止めながら、ゆっくりと目を開けた。 視線が合った瞬間、胸が締めつけられるように高鳴り、思わず口づけを求めるように身を起こそうとする。 その気配はすぐに見抜かれた。 慎一は露骨に嫌悪を滲ませ、顔を背ける
電話を切ってから四時間後、ようやく慎一は酒席を切り上げ、家へ戻る気になった。 すでに時刻は深夜十二時に近い。 それでも席に残っていた者たちは、立ち上がった慎一を見て、忘れたようにおべっかを並べる。「社長、もうお帰りですか? 奥さまのところへ急いで戻られるんですか?」 その一言をきっかけに、周囲も次々と追従し、慎一の“良き夫”ぶりを持ち上げ始めた。 今がどれほど遅い時間かなど、誰も気にしていない。「さすがは社長ご夫妻、相変わらず仲睦まじいですね。奥さまが羨ましいですよ、こんなに有能で、しかも奥さまを大切にされている男性と結婚できて」「本当ですよ。社長は毎月、奥さまのためにサプラ
朝倉紗月が玄関の扉を開け、部屋の中がこれまで幾度となく迎えてきた夜と同じように、がらんとして冷え切っているのを目にした瞬間、その瞳に濃い失望がよぎった。 今日もまた、彼は帰ってきていない。 紗月の顔色は病的なほど赤く、目尻は熱を帯びたようにじんと痛み、そこには気づかれないほどかすかな赤みも滲んでいた。 まるで次の瞬間には涙がこぼれ落ちてしまいそうなのに、それでも必死に強がって堪えているかのようだった。 数歩進んだだけで足元から力が抜け、彼女はそのままソファへと崩れ落ちた。戸籍上の夫がまた家に帰ろうともしない――その事実だけではない。 身体にこもる異様な熱もまた
家。 二度目のアラームが鳴り響いて、玄関でぼんやり立ち尽くしていた紗月は、ようやく我に返った。 目の奥がじんと痛み出し、手の甲で押さえて和らげようとする。だが触れた肌は熱く、熱はまったく引いていなかった。 この体調では休んだほうがいいのではないかと、そう思いかける。 けれど、部下の体調など一切気にも留めず、ただ頭ごなしに怒鳴りつける部長の性格を思い出し、結局は考えるのをやめた。 そのまま部屋へ戻り、出勤の支度を始める。 結婚してから、紗月はようやく契約を結んだばかりだった芸能事務所を辞め、ほぼ話がまとまっていたドラマ出演の契約も断った。 すべては慎一の「妻が外で目立つのは好