LOGIN紗月は眉を寄せ、目の前の慎一を見つめた。あまりにも理不尽だと思うのに、言い返す言葉は一つも見つからない。 結局、俯いたまま足早に歩き出したものの、急ぎすぎたせいで玄関先の段差に足を取られそうになった。「危ない」 再び慎一に腕を掴まれる。 今度はただ、紗月を転ばせまいと咄嗟に手を伸ばしただけだった。 彼女の身体をしっかりと支え、体勢が整ったのを確かめると、すぐにその手を離す。 先ほど手を引かれたときも、今こうして腕を支えられたときも、慎一の手は昔と変わらず力強かった。 離されたあとも、その温もりだけが肌の上にかすかに残り、まるで彼の存在を忘れることを許さないように紗月の意識へ静かに触れてくる。 紗月は数歩先まで歩いてから玄関の扉に手をかけ、振り返ることなく、小さな声でぽつりと告げた。「……ありがとう」「気にするな」 背を向けたままだったため、慎一がどんな表情を浮かべていたのかは分からない。 それでも、その声は先ほどまでよりどこか柔らかく聞こえた。何をそんなに嬉しく思っているのか、紗月にはまるで理解できない。 これ以上考える気にもなれず、紗月はすぐに扉を開けると、慎一より一足先に家の中へ入った。 昼寝から目を覚ましたばかりの祖父は、機嫌も悪くなさそうだった。 午後は散歩がてら少し身体を動かそうと思っていたらしく、突然姿を見せた紗月と慎一を目にした瞬間、嬉しそうに顔をほころばせた。「紗月ちゃん! じいちゃんに会いに来てくれたのかい? 何かあったんじゃないだろうね。ほら、こっちへおいで。ちょうど数日前、古い友人から手土産をもらったんだ。甘いお菓子だから、紗月ちゃんもきっと気に入るよ。今持ってきてあげよう」 その視線が慎一へ移った途端、祖父の表情は露骨に曇った。「お前までどうして来た。会社はそんなに暇なのか?」 二人が揃って訪ねてきたことに、このときの祖父はまだ深く考えてはいなかった。 それよりも、紗月が顔を見せてくれたことの嬉しさのほうがずっと勝っていたのだ。 ひとしきり喜んだあと、祖父は心配そうに紗月の顔を覗き込み、そのまま身体へ視線を移した。「紗月ちゃん、まだ身体は痛むのかい? 退院したらここで暮らしなさいって言ったのに、どうしても外で暮らすなんて言い張って……。まったく、この子は少しもじいちゃんを頼ろうとしないんだから」
慎一の声は低く、電話越しだからなのか、その問いかけにはどこかためらいと遠慮が滲んでいた。 けれど今の紗月には、そんな慎一の微かな変化に気づく余裕などなかった。 頭の中は祖父のことでいっぱいだった。「おじいさまに何かあったんですか?」「……」 慎一は答えない。 返ってきたのは沈黙だけだった。その静けさがかえって不安を募らせ、紗月の顔からみるみる血の気が引いていく。「私、今すぐ向かいます」「俺が迎えに行く」「大丈夫です。タクシーで向かいますから」 紗月はそう言ってエレベーターの下行きボタンを押し、到着を待ちながら通話を切ろうとする。 数秒の沈黙のあと、慎一が静かに告げた。「もう下にいる。俺が連れて行ったほうが早い」「え……?」 そう言い残すと、慎一は返事を待つことなく電話を切ってしまった。 紗月は呆然とスマートフォンを見つめる。 オーディション会場へ入る前に見かけた、あの黒い車。ただよく似た車だと思っていた。 それが本当に慎一の車だったなんて。 どうして慎一がここにいるのだろう。 最初から、自分がここでオーディションを受けることを知っていたのだろうか。 次々と疑問が胸に浮かび、オーディションの準備に没頭することでようやく落ち着きを取り戻していた心が、再び静かに揺れ始める。 答えを求める思いばかりが募っていった。 それでも車の前まで来る頃には、その感情を胸の奥へ押し込み、紗月はいつものように冷静さを取り戻していた。 久我はすでに車の外で待っていた。 紗月の姿を見つけると、穏やかな笑みを浮かべて後部座席のドアを開く。「奥様、どうぞ」 慎一が相手なら断ることもできた。 けれど、昔から何かと気にかけてくれていた久我にそう言われると、無下にすることはできない。 紗月は困ったように久我を見つめ、小さく息をついて後部座席へ乗り込んだ。 車内へ足を踏み入れた瞬間、慎一と視線が重なる。 慎一はどこかぎこちない表情のまま小さく頷き、すぐに視線を逸らした。 その横顔は、どこか落ち着かない様子にも見えた。「おじいさまは、どうされたんですか」 紗月が尋ねると、慎一は一瞬言葉に詰まり、小さく息をついた。「……着けば分かる」 それ以上は何も語らない。 車は静かに走り出した。 窓の外では見慣れた街並みが一定の速さで流れていく
この結果は、紗月もある程度は予想していた。 結果そのものに悔いはなかった。けれど、自分を信じて推薦してくれた立花の期待に応えられなかったことだけは、申し訳なくてならなかった。 会場の外にある人の少ない片隅で立花へ結果を報告しようとスマートフォンを取り出すと、声をかけられた。「すみません」 紗月は顔を上げると、一人の女性が立っていた。「初めてお見かけしますが、オーディションを受けに来られた方ですよね?」 声をかけてきた女性は、カジュアルながらも洗練されたパンツスーツを着こなし、耳にかけたショートヘアはワックスできれいに整えられていた。 仕事のできる人特有の引き締まった空気をまとい、一つひとつの所作にも無駄がない。「あ……はい。オーディションを受けに来ました」 女性はふっと柔らかく微笑む。 紗月の表情を見て何か察したのか、慰めるような口調で続けた。「宇原監督、厳しかったでしょう? 一見すると穏やかそうに見えますけど、役者を見る目は本当に厳しくて、泣きながら出てくる人も少なくありません。でも、あなたはずいぶん落ち着いていたので、もしかしていい結果だったのかなと思ってしまって」 紗月は慌てて首を横に振った。「い、いえ……私も落ちました」「そうだったんですね。でも、あまり落ち込んでいるようには見えませんね」 女性は少し首を傾げると、ふと思い出したように尋ねた。「ちなみに、もうどこか芸能事務所には所属されていますか?」 突然の質問に、紗月は戸惑い、思わず目を瞬かせた。 すると女性は一枚の名刺を取り出し、紗月へ差し出す。 ――永長千尋。 見慣れない芸能事務所の名前と、「芸能マネージャー」という肩書が記されていた。「えっ……永長さん、ですか?」 千尋は穏やかな笑みを浮かべ、小さく頷く。「うちは決して大きな事務所ではありません。でも、所属している俳優やタレントはそれなりに知名度がありますし、待遇も悪くありません。新人向けの育成プログラムも整えています。もしまだ所属先がお決まりでなければ、一度お話ししませんか?」 突然の誘いに、紗月は戸惑うばかりだった。 受け取った名刺を見つめたまま、どう返事をすればいいのか分からない。 千尋が挙げた所属タレントの名前は、どれも紗月も知っている人ばかりだった。 最近人気を集めているアイドル
紗月は、自分の考えに思わず息を呑んだ。 ここからでは車内の様子までは見えない。運転席に誰が乗っているのかも分からない。慎一なのかどうかさえ確認することはできなかった。 それでも、「慎一かもしれない」という考えが頭をよぎった瞬間、紗月は反射的に窓際から身を引き、柱の陰へ身体を隠すように立った。 だがすぐに、自分でもそんな行動が可笑しくなり、小さく苦笑する。 慎一がこんな場所へ来るはずがない。 こんな偶然があるわけない。 ただ車が似ていただけかもしれないのに。 そう自分へ言い聞かせても、気になって仕方がなかった。 視線は何度もあの車へ吸い寄せられ、車内の様子を確かめようと目を凝らす。 もう少し近ければ見えるのに――。 そう考えた矢先だった。 「──○○番の方、お入りください」 スタッフに番号を呼ばれ、紗月ははっと我に返る。 慌てて手元の番号札を確認すると、小さく息を整え、オーディション会場へ足を踏み入れた。 会場は、一面が鏡張りになった、決して狭くはない部屋だった。 宇原監督が俳優選びに一切妥協を許さないことで知られているのは、業界では有名な話だ。 その厳しさは以前からたびたび話題になっており、知名度のわりに選考基準が厳しすぎるとして、役を逃した有名俳優が不満を口にしたという記事が出たこともあった。 オーディションは一人ずつ行われる。 会場には五人の審査員が並び、その視線が一斉に紗月へ向けられた。 胸が緊張で大きく高鳴る。 それでも表情だけは崩さず、部屋の中央まで歩み出ると、丁寧に一礼し、自分の名前とこれまでの経歴を簡潔に伝えた。 宇原は立花と大学時代の同期で、年齢もほとんど変わらない。若くして才能を認められ、監督として成功を収めた人物だった。 自己紹介を聞き終えても、宇原の表情はほとんど変わらない。 ただ静かに紗月を見つめ、そのままオーディションの開始を促した。 今回渡された台本は、映画の一場面だけを切り取った内容だった。 誰が主人公で、誰が脇役なのかさえ分からない。 登場人物の設定も最低限しか書かれておらず、おそらくは俳優自身がどこまで役を理解し、表現できるかを見るためなのだろう。 紗月は台本を受け取ってから、この一週間、何度も何度も読み返した。 人物の心情を考え、台詞を繰り返し口にし、身体へ染み込ませ
立花には、宇原真之という大学時代からの友人がいた。 立花ほどの知名度こそないものの、若くして頭角を現し、いくつもの映画賞を受賞してきた実力派の映画監督だ。手がけた作品も高く評価されている。 その宇原が今、新作映画のキャストを探していた。 だが、何度オーディションを重ねても、理想にかなう役者が見つからない。そんな折、立花と会う機会があり、何気ない雑談の中でその話になった。 「誰か、いい人はいないか」 宇原は気軽にそう尋ねた。 立花自身も新作映画の準備に追われており、その場では思い当たる人物はいなかった。 だが、紗月と出会ってから考えが変わった。 彼女なら、一度挑戦してみる価値がある。 自然と、そう思えた。 紗月が自分の撮影現場で事故に遭ったことは、立花も聞いていた。 現場へ戻るなり、副監督を厳しく叱責する。 勝手にシーンを書き換え、配役まで増やしていたからだ。たとえエキストラであっても、一つひとつのシーンには意味がある。 脚本は何度も検討を重ねた末に完成したものだ。 立花は撮影に関して妥協を許さない。 一度決めた脚本を、その場の判断だけで変えられることを何より嫌っていた。 長年ともに仕事をしてきた副監督なら、それを知らないはずがない。それでも独断で変更したことが、立花には許せなかった。 同時に、紗月への申し訳なさも募っていく。 どう償えばいいのか分からない。 連絡先を手に入れてからもしばらく迷った末、せめてこのオーディションだけは彼女へ伝えようと決めた。 立花から電話がかかってくるとは、紗月も思っていなかった。 ましてや、オーディションの話だとは夢にも思わない。「ただ……彼はかなり厳しい人です。ですから、必ず受かるとは言えません。それでも、僕は紗月さんなら可能性はあると思っています。もし挑戦してみたいと思われるなら、資料を送ります」 紗月はスマートフォンを握ったまま、小さく息を呑んだ。泣き続けたせいで熱を帯びた目元へ、そっと指先を添える。 窓の外では、車のヘッドライトが途切れることなく流れていた。 自分がどれほど深く悲しんでも、世界は変わらない。 時間は止まることなく流れ、人も街も、何事もなかったように動き続けている。 この数日間の自分を思い返し、紗月は思わず唇を噛んだ。 離婚したというのに、まだ慎一の影から
離婚にあたり、慎一が紗月へ渡した財産は、あまりにも多かった。 この先、一生働かなくても何不自由なく暮らしていけるほどの額だった。 紗月は思わず苦笑する。 三年間の結婚生活で、愛情も、望んでいた幸せも、何一つ手にすることはできなかった。 それなのに、離婚した途端、皮肉にも経済的な自由だけは手に入れてしまったのだから。 離婚協議書の内容は、祖父が自ら細かく確認していた。 最初に慎一がどのような条件を提示していたのか、紗月は知らない。 だが祖父はその内容に納得せず、朝倉グループの株式や複数の不動産まで財産分与へ加えるよう求めた。 慎一も異を唱えることはなく、祖父の言葉どおり、弁護士へすべてを書き加えさせていた。 その迷いのない態度を見ても、紗月はそこに愛情や未練を見いだすことはできなかった。 きっとこれは、慎一なりの償いなのだろう。 けれど、その気持ちも時が経てば少しずつ薄れていく。 いつか何も感じなくなれば、慎一はまた昔のように、自分を疎ましく思うようになるだけだ――紗月はそう思っていた。 離婚が成立する前日、紗月は一日かけて荷物をまとめ、家を出た。 新しく暮らすことにしたのは、財産分与で譲り受けた別のマンションだった。 結婚後に暮らしていた家も、そのまま紗月の名義になっている。 あの家には二人で過ごした時間の痕跡が、あまりにも多く残っていた。 慎一が帰ってくることはほとんどなかった。 それでも、家具も、食器も、何気ない景色も、そのすべてが慎一を思い出させた。 もうこれから先の人生で、彼を思い出すきっかけなど、一つも残したくなかった。 そう思った紗月は、迷うことなく引っ越しを選んだ。 引っ越しの日、慎一も家にいた。 梱包された段ボールが次々と運び出されていく様子を黙って見つめながら、長い沈黙の末、慎一はようやく小さく口を開いた。「……無理に引っ越さなくてもいい。この家に住み続けても構わない。お前が嫌なら、俺はもうここへ帰らない」 紗月は一瞬だけ手を止めた。 振り返ることはせず、荷物を整理する手を動かしたまま、静かに首を横へ振る。「大丈夫です。この家は広すぎますし、一人で住むにはもったいないので。……この三年間、私のせいであなたはずっとホテル暮らしでした。これからは、ちゃんと家へ帰ってください。そのほうが、お互
翌朝、紗月が目を覚ますと、昨日よりもさらに体調が悪かった。 全身に力が入らず、めまいがして、手足は冷えきっている。歩くだけでも、身体が小刻みに震えているような感覚さえあった。 キッチンで薬を飲んでいると、ちょうど慎一も部屋から出てきた。アイランドキッチンに置かれた薬をちらりと目にしたが、彼はほんの一瞬視線を流しただけで、気にかける様子はまるでない。 紗月は彼がすでに出勤用の服に着替えていることに気づく。 まだ時間は早いのに、彼は今すぐにでも出ていきたいというように、どこか落ち着かない様子だった。この家に一秒でも長くいたくな
距離が近づくにつれ、紗月の纏う香水の匂いと、肌から伝わってくる異様な熱が、慎一の眉を思わずひそめさせた。「……気持ち悪い匂いだな」 彼女が体調を崩しているのか、それとも本当に病気なのか。そんなことは一切気にも留めない。 男の手つきには、微塵の情けもなかった。その触れ方は、欲望によるものですらない。ただ鬱積した感情をぶつけるための、乱暴な接触にすぎない。 紗月は彼の触れた感覚を受け止めながら、ゆっくりと目を開けた。 視線が合った瞬間、胸が締めつけられるように高鳴り、思わず口づけを求めるように身を起こそうとする。 その気配はすぐに見抜かれた。 慎一は露骨に嫌悪を滲ませ、顔を背ける
電話を切ってから四時間後、ようやく慎一は酒席を切り上げ、家へ戻る気になった。 すでに時刻は深夜十二時に近い。 それでも席に残っていた者たちは、立ち上がった慎一を見て、忘れたようにおべっかを並べる。「社長、もうお帰りですか? 奥さまのところへ急いで戻られるんですか?」 その一言をきっかけに、周囲も次々と追従し、慎一の“良き夫”ぶりを持ち上げ始めた。 今がどれほど遅い時間かなど、誰も気にしていない。「さすがは社長ご夫妻、相変わらず仲睦まじいですね。奥さまが羨ましいですよ、こんなに有能で、しかも奥さまを大切にされている男性と結婚できて」「本当ですよ。社長は毎月、奥さまのためにサプラ
朝倉紗月が玄関の扉を開け、部屋の中がこれまで幾度となく迎えてきた夜と同じように、がらんとして冷え切っているのを目にした瞬間、その瞳に濃い失望がよぎった。 今日もまた、彼は帰ってきていない。 紗月の顔色は病的なほど赤く、目尻は熱を帯びたようにじんと痛み、そこには気づかれないほどかすかな赤みも滲んでいた。 まるで次の瞬間には涙がこぼれ落ちてしまいそうなのに、それでも必死に強がって堪えているかのようだった。 数歩進んだだけで足元から力が抜け、彼女はそのままソファへと崩れ落ちた。戸籍上の夫がまた家に帰ろうともしない――その事実だけではない。 身体にこもる異様な熱もまた







