LOGIN休憩時間、各自に弁当が配られ始めた。緊張の糸が緩んだ瑞希は、スタッフに手渡された自分の弁当に、異変を感じた。(……生ぬるい?) いつもは食中毒対策として、弁当はクーラーボックスで厳重に保管されている。それが生ぬるく感じた。弁当を縛る紐も、わずかに歪に結ばれているような気がした。(まさか……ね) 瑞希は考えすぎだと自分に言い聞かせながら、弁当の蓋を開けた。瞬間、ムワッと異臭が鼻をついた。箸で惣菜を避けると、そこにキクラゲが入っていた。瑞希はキクラゲに強いアレルギーがある。スタッフは皆、知っているはずだった。「……これ」 弁当を持つ手が震える。誰かが、弁当に細工をしたのだ。誰が? そんなことは決まりきっていた。 ゆっくりと視線を螢子に向けると、彼女は素知らぬふりで自分の弁当に箸をつけていた。優雅に髪を指で巻きながら、瑞希の方を一瞬だけ見つめ、妖しく微笑んだ。その微笑みは、病床で最後に見せた真希のものと、完全に同じだった。 瑞希の背筋に冷たい汗が伝う。心臓の音が、耳の中で激しく鳴り響く。キクラゲの異臭が、喉の奥まで這い上がってくるようだった。箸を落としそうになり、慌てて弁当をテーブルに置いた。爽子を抱いていた腕に力が入り、娘が小さく身じろぎする。 螢子は遠くから、静かにこちらを観察している。まるで、瑞希の恐怖を味わうように。 瑞希は震える指でスマホを取り出し、智久に連絡しようとしたが、指がうまく動かない。撮影現場の喧騒が、遠くに聞こえる。誰も気づいていない。誰も、助けてくれない。 真希は、死んだはずなのに、確かにここにいる。相馬螢子という美しい殻を借りて、瑞希の人生を、ゆっくりと、確実に蝕み続けている。 瑞希は弁当を押しやり、深く息を吐いた。キクラゲの匂いが、鼻の奥にこびりついて離れない。彼女の精神は、今にも崩れ落ちそうだった。 休憩時間の鐘が、再び鳴り響いた。撮影は、まだ続く。
螢子は車椅子に座り、瑞希役の女優に呪いの言葉を吐きかけた。「瑞希……私を見下ろして満足!? 脚が動かない分、みんなから愛されているのよ! あなたは何も持っていけない……!」 気圧された女優は言葉を失い、目を見開いたまま固まっていた。撮影は何度も撮り直された。監督の「カット!」という声が響くたび、螢子はゆっくりと息を吐く。車椅子に座るたび、「真希」になるたび、瑞希への憎しみが増殖するのを感じた。 それは、女優ではなく、スタジオの袖で撮影を見守る、岡部瑞希本人に向けられていた。 瑞希は愛すべき存在だった。陸斗と結婚し、その結婚生活が破綻したと思えば、次の男性と結婚した。二人の子供にも恵まれ、幸せの絶頂にある瑞希が許せなかった。守られるだけの妹として、死ぬまで瑞希に勝てなかった自分が、許せなかった。 螢子は撮影の合間、スタッフルームに忍び込んだ。冷房の効いていない部屋はむし暑く、汗が背中に張り付く。保冷バックに入っていた撮影用の弁当を取り出した。瑞希の弁当には「岡部瑞希様」と丁寧に名前が貼られている。キクラゲにアレルギーがある彼女のために、特別に調整されたものだ。 螢子はゆっくりと蓋を開け、中身を眺めた。口元が、毒々しく弧を描く。「……食中毒にでもなればいいのにね」 指先でキクラゲを軽くつまみ、別の弁当に移す。瑞希の弁当には、代わりに別の具材を詰め直した。表面上は変わらない。誰にも気づかれない程度の、小さな復讐。 螢子は保冷バックを元に戻し、静かにスタッフルームを後にした。唇の端に浮かぶ微笑みは、死の間際に浮かべたものと同じだった。 スタジオに戻ると、瑞希が心配そうにこちらを見ていた。螢子は優しく微笑み返した。心の中で、静かに呟く。 (お姉ちゃん……これから、ゆっくりと味わってね) 車椅子に戻り、次のカットの準備をする螢子の瞳は、暗く、深く、勝利の喜びに満ちていた。真希の魂は、相馬螢子の体の中で、ますます強く息づいていた。
ドラマの撮影が始まった。 螢子の書いた「真希」のセリフやシーンを取り入れた台本は、瑞希の書いた自叙伝とは全く異なっていた。これまでは瑞希一人の「私」だった光景が、「群像劇」のように視点が入れ替わる。真希の内なる独白、陸斗の葛藤、両親の無自覚な偏愛——すべてが、赤裸々に、残酷に描き出されていた。連続ドラマに書き下ろしたとはいえ、瑞希にとっては屈辱的な出来事だった。 撮影現場に立ち会った瑞希は、肌が粟立つ感覚を抑えきれなかった。そこにいるのは、まさに双子の妹の「真希」だった。顔貌は全く異なるのに、彼女が生き返ったかのような錯覚を覚えた。車椅子に座り、右足を引きずりながらセリフを吐く螢子。鬼気迫る表情、勝ち誇ったような視線、指先で髪を巻く癖——すべてが、真希そのものだった。 そして螢子は、演技に熱が入ると更にセリフや解釈を変え、監督と激しく口論した。「……真希、真希だわ」 螢子に真希が重なる。瑞希は足元から這い上がる怖気に思わず体を抱きしめた。死んだはずの妹が、別の体を借りて、瑞希の物語を奪い取ろうとしている。 それから程なくして事件が起きた。スタッフと思われる人物がSNSでこの事実を呟いたのだ。「素人の女優が台本を書き換えた」 瞬く間に拡散され、瑞希の脚本家としての評価は失落した。次に入っていたショートムービーの依頼が立ち消えになり、出版社からも連絡が途絶えた。ネットのコメント欄は、冷たい言葉で埋め尽くされた。 そして、陽翔の言葉は瑞希のプライドをズタズタに引き裂いた。「まーま、おはなしかくのヘタなの?」 それは、保育園に迎えに来ていた保護者たちが瑞希の台本がゴーストライターのもので、面白くないと噂しているのを息子が耳にしたのだという。陽翔は無邪気に首を傾げ、瑞希の顔を見つめていた。 瑞希は膝から崩れ落ち、息子を抱きしめながら嗚咽を漏らした。爽子が隣で小さな手を伸ばすが、その手さえ今は恐ろしい。 相馬螢子——いや、真希は、瑞希の人生を静かに、しかし確実に壊し続けていた。夜、瑞希は鏡の前に立ち、青白い自分の顔を見つめた。死んだ妹の影が、笑っている気がした。
相馬螢子は煌めく夜景を見下ろしながら、ソファーに深く身を沈めていた。高層マンションの最上階、リビングの大きな窓ガラスに、東京の灯りが宝石のように散らばっている。手には赤ワインのグラスが光を弾き、深紅の液体がゆっくりと揺れていた。 螢子はグラスを傾け、口元を妖しげに弧を描かせた。「螢子、飲み過ぎだぞ」 マネージャーの佐々木公彦がミネラルウォーターのコップを手に、彼女の肩を軽く叩いた。眼鏡の奥に心配の色が浮かんでいる。「お祝いなの」「お祝い? なんのだ? 映画は深夜枠のドラマになって大損だぞ。予算もスケジュールも大幅カットされた」 螢子は赤ワインを一気に飲み干し、空になったグラスをテーブルに置いた。唇に残った赤い雫を舌で拭う仕草が、どこか艶めかしい。「私のセリフが採用されたんだもの。お祝いよ。真っ白な台本の原稿を前にした瑞希さんの顔が目に浮かぶわ……きっと、震える手でページをめくっていたでしょうね」 螢子の瞳には、暗く沈んだ色が横たわっていた。勝利の喜びと、底知れぬ憎悪が混じり合った、複雑な光。佐々木は戸惑った表情で彼女を見つめた。「どうしたんだ。これまでこんなことは一度もなかったじゃないか。なんでそんなにこの作品に固執するんだ?」螢子はゆっくりとグラスにワインを注ぎ直し、低く笑った。「固執? これは復讐よ」「……復讐?」「私を蔑ろにした全てのものへの復讐よ。守られるだけの壊れやすい妹として、車椅子に縛られ、愛を奪われ、死ぬ間際まで『勝った』と呟きながら消えたあの私への——そして、今、再びこの美しい体を手に入れた私による、瑞希への復讐」 螢子の声は静かだったが、部屋の空気を震わせるほどの重みがあった。夜景の灯りが、彼女の横顔を妖しく照らす。右足がわずかに引き摺る癖が、ワインを飲む動作の合間に見え隠れする。 佐々木は言葉を失い、ただ黙って彼女を見つめた。事故以前の相馬螢子とは、明らかに違う女がそこにいた。 螢子はグラスを掲げ、夜景に向かって静かに微笑んだ。「瑞希……お姉ちゃん。これから、ゆっくりと楽しませてあげるわ」 深紅の液体が、グラスの中で揺れ、まるで血のように輝いていた。
瑞希は「真希」の存在に押しつぶされそうになりながらも、台本の案を一から練り直した。自分からの視点と、「真希」からの視点。原作本にはなかった場面が大幅に追加され、姉妹の確執、陸斗を巡る歪んだ三角関係、真希の内なる憎悪と孤独が、赤裸々に描き出されていった。映画のスケジュールにも無理が生じ、撮影日程が次々とずれ始めた。 プロデューサーから連絡があったのは、そんな矢先だった。「出資していた銀行から、ドラマへの変更が打診されました」 これまでは映画化で進んでいたプロジェクト自体が縮小され、深夜帯のドラマ枠への変更を余儀なくされた。予算も規模も大幅に削られ、瑞希の書いた新たなシーンもいくつかカットされることになった。 相馬螢子との出会いは、瑞希の人生の歯車を大きく変えていった。それは小説家としての瑞希のプライドも、「私のすべて」の受賞作としての評価も、地に叩き落とされたも同然だった。自分が守ろうとしてきた美しい物語は、螢子という女優によって暴かれ、塗り替えられ、別の形へと変貌を遂げていた。 そして——。「まーま、だっこ」 爽子の存在。日に日に彼女は「真希」に似てくる。漆黒の髪の艶、薄茶の瞳の深み、顎の下のホクロ、そして時折見せる大人びた微笑み。幼い頃のアルバムをめくりながら、母親は涙を拭いながら言った。「真希とそっくり。真希が帰ってきてくれたみたいで嬉しいわ」 瑞希は心の均衡を失いつつあった。爽子を抱きしめようとすると、手が震え、思わず押し返してしまう。夜中、娘の寝息を聞きながら、瑞希は天井を見つめ続けた。死んだはずの真希は、爽子という新しい命を通じて、そして相馬螢子という女優を通じて、瑞希の人生に深く、深く入り込んできていた。 カウンセリングで吐き出したはずの感情は、再び渦を巻き、瑞希の精神をゆっくりと蝕んでいく。智久の優しい言葉も、陽翔の笑顔も、今はただ遠い。 瑞希は母子手帳を閉じ、静かに震えた。この物語は、まだ終わっていない。真希の影は、瑞希の人生から決して離れない。 ガラス細工のように脆く、美しかった「真希」は、今や瑞希の心の中で、黒く、濃密に、生き続けていた。
瑞希にとって、真希は壊れやすいガラス細工のように守るべき存在だった。幼馴染の陸斗も、真希を庇護することで「愛情」を感じていた。幼い頃、両親は瑞希に何度も言いつけた。「真希を守りなさい」健康で活発な瑞希は、車椅子に縛られた妹の影に耐えながら、時折、心の奥で疎ましさを感じることもあった。 そして、陸斗との結婚式の夜。彼は新婚のベッドではなく、真希のベッドにいた。あの夜の記憶は、今も瑞希の胸を鋭く抉る。瑞希の中で「真希」は、憐れみの存在から、静かな憎しみの存在へと姿を変えていった。 しかし「私のすべて」には、その負の感情はほとんど描かれていなかった。薄いオブラートに包み、美しい言葉で双子の姉妹の確執を表現しただけだった。それが、相馬螢子によって残酷に暴かれた。憎しみ合う双子の姉妹の物語——それは原作本とも台本とも大きく異なり、瑞希は頭を抱えた。自分の書いた物語が、別の誰かによって、より真実味を帯びて塗り替えられていく。「まーま、だっこ」 そして、「真希」に瓜二つの娘、爽子の存在。その小さな手が触れるたびに、かつての真希を連想し、瑞希は思わず「触らないで!」と振り払ってしまう。爽子が泣き出す声が、胸に突き刺さる。罪悪感と恐怖が交錯し、瑞希の精神のバランスは綱渡りのように、弥次郎兵衛のようにゆらゆらと危うく揺れていた。 夜になると、爽子の寝顔を見つめながら、瑞希は震える指で母子手帳をめくる。娘の成長記録の横に、螢子の演技を思い浮かべるたび、冷たい汗が背中を伝う。死んだはずの真希は、爽子という新しい命を通じて、そして相馬螢子という女優を通じて、瑞希の人生に再び深く入り込もうとしている。 智久が優しく肩を抱いてくれても、瑞希の心は静まらない。カウンセリングで吐き出したはずの感情が、再び渦を巻き始めていた。 この物語は、まだ終わっていない。瑞希は、爽子の温もりを抱きながら、静かに震え続けた。
瑞希は妊娠を、家族にも、真希にも、陸斗にも、誰にも明かさなかった。母子手帳は、寝室のチェストの奥深くに仕舞い込んだ。表紙の優しいピンク色が目に入るだけで胸がざわつくので、わざと一番奥の暗がりに押し込んだ。誰にも知らされず、誰にも祝われない子供。この子はまだ、私だけの秘密だった。夜、誰もいないマンションのベッドで、私はゆっくりとお腹を撫でた。まだ胎動は感じられない。けれど、確かにそこに命が宿っているという「確かな胎動」を、心の中で感じていた。私は静かに微笑んだ。冷たく、しかし確かに——自分の意志で浮かべた微笑みだった。その瞬間、胃の奥が激しく痙攣した。熱いものが込み上げて
「おめでとうございます。三ヶ月です」マタニティクリニックの診察台で、私は凍りついた。医師の明るい声が、遠くから聞こえるように響く。呼吸が止まり、耳鳴りが激しくなって、思考回路が現実に追い付かなかった。……三ヶ月?元々、生理周期が定まらず、遅れがちな体だった。「また遅れているのか」程度にしか考えていなかった。まさか、こんなタイミングで——。私は診察台の上で体を起こし、ゆっくりと息を吐いた。白い紙のガウンが、かすかに震える。陸斗に抱かれたのは、二度だけだった。一度目は、結婚が正式に決まった夜。彼の部屋で、ぎこちないキスから始まり、義務のような抱擁だった。「これで家族が喜ぶ
真希のベッドサイドで、陸斗は膝をつくように座っていた。彼の長い指が、真希の細く冷たい足首を、まるで壊れやすいガラスのように優しく包み込んでいる。その指先が、わずかに震えていた。「真希……今日のデータ、思ったより悪化してる」「そう......」陸斗の声は低く、掠れていた。彼はカルテを握りしめ、目を伏せた。白衣の肩が、まるで重い荷物を背負ったように落ちている。「余命宣告を更新した。……3年以内だ。最長で5年。治療を続けても、この進行を完全に止めるのは……俺にはもう、限界かもしれない」真希が弱々しく微笑むと、陸斗の目尻に、うっすらと涙が浮かんだ。医師として何百人もの患者を見て
病院を後にした私は、タクシーに乗り、実家へと向かった。窓の外を流れる街並みが、ぼんやりと過ぎていく。白い芍薬の残り香が、まだ指先にまとわりついている気がした。腫れた頬は化粧で隠したものの、鏡で見るたび、昨夜の平手打ちの感触が蘇る。実家——暖かく優しい思い出のかけらなど、最初からなかった家。玄関の鍵を回す音が、妙に大きく響いた。中に入ると、いつものように母の声が飛んできた。「あら、瑞希? どうしたの、こんな朝早くに。……陸斗くんは?」母はキッチンから顔を出し、いつもの柔らかい笑みを浮かべていた。父はリビングのソファに座ったまま、新聞を広げていた。二人とも、結婚披露パーティー







