로그인「お線香あげてきなさい」母に言われ向日葵は静かに頷いた。毬が亡くなって一年。今日は本家で一周忌が行われていた。親戚たちの話し声が居間から聞こえてくる。笑い声も混じっている。きっと毬おばあちゃんは、そんな賑やかな空気を喜んでいるだろう。向日葵は仏間へ入った。祭壇には優しく微笑む毬おばあちゃんの遺影。その隣には白い軍服姿の若い玄太郎の写真。二人は今も並んでいた。向日葵は線香をあげ、小さく手を合わせる。「久しぶり」自然と笑みがこぼれる。あの日から一年。高校三年生になった向日葵は、受験勉強に追われる毎日を送っていた。友達と進路の話をして将来のことを考え時々、恋の話もする。竹中先輩に憧れていた頃もあった。格好いいなと思う人もいた。…でも…。「まだ分かんないんだよね」向日葵は遺影を見ながら呟く。「私、まだ玄ちゃんや毬おばあちゃんみたいになれそうにないよ」好きという気持ち。一緒に時間を重ねること。誰かを想い続けること。その意味を、二人は教えてくれた。玄太郎が教えてくれた、「想いを重ねること」毬おばあちゃんが教えてくれた、「想い続けること」それは向日葵にとって、大切な宝物になっていた。「二人からの贈り物だったんだよね」そう呟いて、向日葵は持ってきた紙袋を開いた。「そうそう」「今日、お土産買ってきたんだ」まず取り出したのはシベリア。「毬おばあちゃん、大好きだったでしょ?」「玄ちゃんも、羊羮好きだったもんね」そして、もう一つ。向日葵は少し悪戯っぽく笑った。「玄ちゃんにはこれ!」照り焼きチーズのチョコバナナホイップ増し増しクレープ。「どう?」そしてすぐに笑いながら言った。「でも毬おばあちゃんは食べちゃ駄目だからね!」「絶対まずいって言うもん!」一人で笑って、一人で話して。…そして…。ふいに笑顔が止まった。静かな仏間には並ぶ二枚の遺影。向日葵の目が少し潤む。「ねえ、毬おばあちゃん」「聞いてよ」「玄ちゃん、本当に酷いんだよ」「修学旅行の時もさ」「和菓子もっと買えってうるさくて」「クレープなんて、あんな変なの選ぶし」話しながら、もう返事はない。「買った時だってさ……」そこで声が止まった。ぽたり。頬を伝った涙が畳へ落ちる。「玄ちゃん……」「毬おばあちゃん……」「もう会えないのかなぁ……」涙が止まらない。仏間の窓から、柔らかな風が入ってくる。土産の包装紙が揺れた。向日葵の耳元で本当に微かに。聞き慣
向日葵は毬の手を握ったまま、静かに俯いている。昔から変わらない優しい温もり。「おばあちゃん……」家族たちも皆、言葉少なくベッドを囲んでいた。そして、向日葵の中には玄太郎が見守っている。向日葵にしか分からない存在。玄太郎は長い間、ただ毬を見つめていた。やがて、呟く。『毬……』その声はあまりにも小さい。『待たせたな』向日葵は顔を上げる。『それと……すまなかった』『ずっと一人にさせてしまった』『今、やっと帰って来られた』玄太郎は静かに毬を見つめ続ける。『伝えたいことを伝えられず』『後悔ばかり抱えて彷徨ってきた』『それでも……ようやくお前の側まで戻って来られた』向日葵は涙を堪えながら玄太郎の声を聴いていたが、「玄ちゃん……」玄太郎はずっと毬だけを見ていた。ふと毬の頭元が揺らぐ。「……え?」思わず目を細める向日葵。そこに居るのは病室のベッドに眠る毬ではない。おさげ髪の若い毬。そして、白い軍服を着た若い玄太郎。向かい合う二人の姿。「玄ちゃん?」若い姿の毬が声を出す。次の瞬間、涙が溢れた。「遅いよ……本当に遅い」声を震わせながら笑う。「玄ちゃん……」「私、八十年近く待ってたんだよ……馬鹿でしょ……」俯いて泣く毬。玄太郎はそんな毬を静かに見つめた。そして優しく答える。『そうは思わない』向日葵は息を呑んだ。何度も聞いた口癖。不器用で、頑固で…。でも玄太郎らしい言葉を。玄太郎は少し困ったように笑っている。「毬、未練がましく彷徨ったおれを……笑ってくれるか?」毬は涙を拭いながら顔を上げる。「笑わないよ」「だって、玄ちゃんだもん…。」玄太郎の前に立つ毬。八十年越しの言葉を伝えた。「…おかえりなさい」玄太郎はゆっくり頷いた。そして。「毬、あの時駅で言えなかった」「聞いてくれるか?」二人の視線が重なる。玄太郎がゆっくり口を開く。その瞬間だった。ピーーーーーー……病室に長い電子音が響いた。「お母さん!」「おばあちゃん!」家族たちの悲鳴、泣き崩れる声。向日葵も毬の手を握ったまま離さない。もう若い毬の姿はない。玄太郎の姿もない。玄太郎の声も聞こえない…。…けれどベッドの上の毬は、今まで見たことがないほど穏やかな顔で微笑んでいた。長い長い旅を終えて、ようやく大切な人と再会できたような顔だった。向日葵は涙を拭った。「……伝えられたんだね」夜の風がカーテンを揺らす。もう玄太郎の声は聞こえない。けれど向日葵
規則正しい電子音が病室に響いていた。一定の間隔で鳴り続けるその音だけが、この部屋で流れる時間を知らせている。窓の外は夕暮れだった。西日が白いカーテンを薄く染めている。向日葵はベッドの横に置かれた椅子へ座ったまま動けなかった。白い布団の中で眠る毬は、いつもよりずっと小さく見えた。一ヶ月前まで元気だったのに。縁側でお茶を飲みながら笑っていたのに。玄ちゃんの話になると止まらなくなって。「玄ちゃんったらね」そう言いながら嬉しそうに笑っていたのに…。今は目を閉じたまま動かない。向日葵はそっと毬の手を握った。細くなった指。しわの刻まれた手。何度も頭を撫でてくれた手だった。温もりはまだ残っている。けれど握り返してはくれなかった。「おばあちゃん……」返事はない。電子音だけが続く。本家から電話が掛かってきたのは三日前だった。毬が倒れた、搬送している。と。それだけだった。詳しい話はほとんど覚えていない。気付けば向日葵は病院へ向かっていた。嫌な予感がしていた。あの日…。電車の中で聞いた玄太郎の言葉が忘れられなかった。『毬の死期が近い』信じたくなかった。けれど今…、目の前にいる毬おばあちゃんを見ていると、その言葉が何度も胸の中で繰り返される。向日葵は唇を噛んだ。「おばあちゃん」声が震える。「起きてよ」返事はない。「まだ話したいこといっぱいあるのに」修学旅行の話も全部終わっていない。またお土産を持って来る約束もしていた。まだ一緒に食べたい和菓子だってある。…なのに…、毬は静かに眠ったままだった。向日葵は俯く。そして胸の奥へ呼び掛けた。「玄ちゃん」返事はない。「玄ちゃん」もう一度呼ぶ。しばらくして。『……向日葵』掠れた声が聞こえた。向日葵は顔を上げた。「おばあちゃん大丈夫だよね」沈黙。「大丈夫って言ってよ」『……』「玄ちゃん」向日葵の目に涙が浮かぶ。「連れて行ったりしないよね」返事はなかった。その沈黙が何より怖い。向日葵は首を横に振る。「嫌だ」涙が零れる。「まだ駄目だよ」「やっと会えたじゃん」「玄ちゃんの帰る場所を見つけたじゃん」握った毬の手に力を込める。「だからまだ駄目」涙が止まらない。「まだ二人とも一緒にいてよ」病室の空気が重くなる。玄太郎は何も言わなかった。ただベッドを見つめていた。向日葵にも分かる、玄太郎も苦しんでいる。毬が大切だから。誰よりも大切だから。だからこそ言葉が出ない。長い沈
本家を出る時、毬は玄関先まで見送りに出てくれた。「またおいでね」「うん」向日葵が靴を履くと、毬は少し悪戯っぽく笑った。「今度も玄ちゃんを連れてきて」向日葵は思わず吹き出す。「だから見えてないでしょ」「どうかしらねぇ」毬は楽しそうだった。その笑顔はいつも通りだった。元気そうで、明るくて、 何も変わっていない。だからこそ向日葵の胸に残る不安の正体が分からなかった。玄太郎はあれから何も話さない。『そういうことか……』そう呟いてから、ずっと沈黙したままだった。「じゃあね」手を振る。「気をつけて帰るんだよ」夕陽の中で手を振る毬を見ながら、向日葵は本家を後にした。電車へ乗り込む。窓際の席へ座ると、列車はゆっくり動き始めた。聞き慣れた揺れが身体に伝わる。踏切を通り過ぎる。カン、カンという警報機の音が遠ざかっていった。向日葵は窓の外を見つめた、流れる景色。沈み始めた夕陽、住宅街の屋根。どれだけ待っても玄太郎は何も言わない。「玄ちゃん」返事はない。「玄ちゃん?」沈黙。胸の奥がざわつく。一つ目の駅を過ぎる。二つ目の駅を過ぎる。そして三つ目の駅を出た頃だった。突然、声が聞こえた。『呼ばれたのではなかった』向日葵は顔を上げた。「え?」玄太郎の声は妙に静かだった。まるで全てを受け入れてしまった人のように。『毬の死期が近い』向日葵の思考が止まる。「何言ってるの?」思わず声が大きくなった。周囲の乗客がちらりとこちらを見る。それでも構わなかった。「毬おばあちゃん元気だったじゃん!」『分かっている』「だったら!」『分かっている』その声は優しかった。優しいからこそ苦しかった。『毬がおれを感じ始めている』窓の外の景色が流れていく。『法事の頃からずっと、おれを感じていた』向日葵は言葉を失った。『迎えに来たんだ』「え?」『おれが』向日葵は首を振った。「嫌だ」『……』「そんなの嫌だ」胸が苦しくなる。「やっと会えたじゃん」「やっと帰る場所を見つけたじゃん」「なのに何でそんな事言うの」玄太郎はしばらく黙っていた。そして静かに語り始める。『知覧で思い出した』向日葵は息を呑んだ。『最後の日を』油の匂い、熱い機体、轟音。それらが突然流れ込んでくる。『おれはあの日、青い空に飛んだ』向日葵の胸に冷たい感覚が広がる。『目的地に迎う途中、たくさんの戦闘機に追われた』『弾が当たり、海へ墜落した』息が出来ない、肺が焼ける。冷たい海
玄太郎の話を一度始めるとなかなか終わらなかった。向日葵は縁側に座り、お茶を飲みながら相槌を打つ。「それでね、玄ちゃんったら「そうは思わん」って私が言う事をぜーんぶ否定するのよ。」「えっ、玄ちゃんが?」『……。』頭の中から少し恥ずかしそうな感情が伝わってくる。「でもあの口癖は否定じゃないの。玄ちゃん不器用だったからね」毬は楽しそうに笑う。「あ!屁理屈だ!」口から出て笑ってしまった。毬はますます笑った。話は次から次へと続いた。見合いの日、結婚式の日。一緒に食べた羊羮の話。夕暮れの畑を歩いた話。夫婦だった時間は決して長くない。それでも毬の中には、今も昨日のことのように残っていた。向日葵は頬杖をつく。「なんか凄いなぁ……」「何が?」「そんなに好きだったんだね」毬は少し首を傾げた。「どうだろうねぇ」「え?」「最初から好きだった訳じゃないもの」向日葵は思わず身を乗り出した。「えっ!?でも今でも大好きじゃん!」毬は声を立てて笑った。「そうねぇ」そして遠くを見るような目をした。「玄ちゃんと暮らして、優しい所を知って」「不器用な所を知って少しずつ好きになったのよ」向日葵は黙り込む。好きというものは最初からあるものだと思っていた。竹中先輩みたいに。格好いいと思う人を好きになるものだと思っていた。でも毬の話は違った。好きは育つものだった。時間をかけて。誰かと一緒に生きる中で。「私もそんな恋が出来るかな……」気付けば呟いていた。毬は優しく笑う。「出来るわよ、向日葵ちゃんは優しいから。」向日葵は少し照れた。その時だった。毬が突然向日葵を見つめた。「そういえば」「なに?」「向日葵ちゃんの中に玄ちゃん居るんでしょ?」向日葵は盛大にむせた。「えっ!?」『な、何だ!?』玄太郎の感情も大きく揺れる。毬は楽しそうに笑った。「玄ちゃん、出てきなさい!」向日葵の心臓が止まりそうになる。『な、なんだ突然……』「ほらほら」「ひ孫に取り憑いて!私に取り憑かないとは、どういうこと!」『馬鹿なことを言うな…。』「出てきそうでしょ?」毬はいたずらっぽく笑う。向日葵は呆然とした。「毬おばあちゃん……」「なんとなくね」笑顔のまま言う。「感じるの」縁側から見える庭へ視線を向ける。「法事からずっと。玄ちゃんを」庭木の葉が揺れる。向日葵は息を呑んだ。冗談を言っている顔ではなかった。『毬……』玄太郎の感情が震える。言葉にならない想
修学旅行から帰った翌日。向日葵は朝から落ち着かなかった。部屋の床にはお土産袋が並んでいる。「毬おばあちゃん用」小さく書かれた袋を持ち上げる。中には鹿児島で買った和菓子が入っていた。『それだけか?』頭の中から玄太郎の声が響く。「十分でしょ」『そうは思わん』「出た」向日葵はため息をつく。『毬は和菓子が好きだ』『羊羮も好きだ』『饅頭も好きだ』『最中も好きだ』「全部好きなだけじゃん」『うむ』全く悪びれない。向日葵は呆れている。「これ以上買ったらお小遣い無くなるよ」『むう』不満そうな感情が流れ込んでくる。まるで駄々をこねる子供だった。「それに九州の写真も見せるし」『おお』今度は一気に機嫌が良くなる。『桜島も見せろよ』『知覧もだ』『あの青い海も見せたい』向日葵は少しだけ表情を曇らせた。知覧。その名前を思い出すだけで胸が痛くなる。だが玄太郎の感情は以前とは違っていた。悲しみだけではない。何かを受け入れた後の静けさがあった。『毬は驚くだろうな』「そうかな」『毬が見られなかった景色だ』その言葉に向日葵は何も言えなくなる。玄太郎がずっと見せたかった景色も、会いたかった人も、全て止まったまま。だからこそ今は、スマホの中の写真一枚一枚が宝物だった。昼過ぎ。向日葵は電車に乗り本家へ向かった。窓の外には初夏の景色が流れていく。『変わったな』玄太郎が呟く。『変わらぬものもある』「なに?」少し沈黙した後、『毬だ』向日葵は笑った。「はいはい」『本当だ』照れもなく返ってくる。向日葵は窓に映る自分の顔を見ながら思った。八十年も同じ人を好きでいられるものなのだろうか。自分にはまだ分からない、が羨ましいとは思った。本家に着くと玄関の戸が開いた。「向日葵ちゃん!」毬おばあちゃんだった。顔を見るなり嬉しそうに笑う。「おかえり」向日葵は少し照れながら答えた。「ただいま」このたった一言だが、玄太郎の感情が大きく揺れた。まるで長い旅から帰ってきた人のように。『毬……』懐かしい声がそして愛しさ。玄太郎の毬への想い、いや想いだけではない。様々な感情が向日葵の胸へ流れ込む。居間へ通されると、さっそくお土産を広げた。「はい、鹿児島のお菓子」「まあ、ありがとう」『ほらみろ、だからもう一つ買えば良かったのだ』「うるさい」思わず口に出る。毬が不思議そうに首を傾げた。「向日葵ちゃん?」「なんでもない!」慌てて誤魔化す。それから向日葵