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第2話

Aвтор: よい物語
翌日の午後、蓮司からメッセージが届いた。

スマホの画面が光ったことには気づいていたが、すぐに開く気にはなれなかった。

数分後、さらに一通届く。

【今夜、店を予約した。前に行きたいって言ってた和食の店。お前のお母さんのために、特上のアワビも頼んである】

その文面を、私はただじっと見つめていた。

台所から、母が夕飯の支度をする音が聞こえる。

トントン、と規則正しくまな板を叩く包丁の音が、静かな部屋に響いていた。

迷った末に、短く返信する。

【何時?】

返事はすぐに来た。

【六時。個室を取ってある】

蓮司が食事に誘ってくれたと伝えると、母は「えっ」と目を丸くした。

慌ててエプロンで手を拭き、奥の部屋へ引っ込む。

しばらくして戻ってきた母は、いちばん気に入っているよそ行きのブラウスに着替えていた。

それから、実家から持ってきたみかんをいくつか選び、丁寧に風呂敷で包んで紙袋に入れる。

「蓮司くんにも食べてもらおうと思って。すごく甘いのよ」

昨夜の出来事は、結局、母の口からも私の口からも出ないままだった。

6時ちょうどに店へ着いた。

打ち水で濡れた石畳を抜け、案内されたのは奥の個室だった。

仲居さんが「先にお飲み物だけでもお持ちしましょうか」と声をかけてくれたが、私は首を振った。

「もう少し待ちます。まだ連れが来ていないので」

6時20分。

出されたお茶は、すっかり冷めていた。

仲居さんが気を遣って様子を見に来てくれたが、母は申し訳なさそうに笑った。

「大丈夫です。仕事が忙しい子なので、きっと少し遅れているだけですから」

6時半。

母は手元の紙袋をテーブルの端にそっと寄せた。

「急がなくていいのにね。道が混んでいるのかもしれないし」

6時40分。

母は困ったように笑って、メニューに目を落とした。

「……先に、何か軽いものだけ頼んでおこうか?」

蓮司に送ったメッセージに、既読はつかなかった。

7時半。

ようやくスマホが震えた。

「美緒、ごめん。青葉のお母さんが急に倒れたらしい。青葉のお父さん、出張中でいないって言うから、今、俺が病院まで送ってる。お前のお母さんには謝っといてくれ」

電話の向こうで、バタン、と車のドアが閉まる音がした。

「特上のアワビを頼んであるって――」

「悪い、また後で」

こちらの言葉を遮るように、蓮司は一方的に電話を切った。

個室の利用には、最低でも1万4千円ほどの注文が必要だと聞かされていた。

私は仲居さんを呼び、メニューを開いて、できるだけ手頃なものに目を走らせた。

母が横からそっとのぞき込む。

「お魚にしたら?美緒、魚好きでしょう」

結局、金目鯛の煮付けと季節の野菜のお浸し、それから雑炊を頼んだ。

湯気を立てる煮付けが運ばれてくると、母は目を細めた。

「やわらかくて美味しいね。やっぱりお店の味は違うわね」

そう言って、きれいにほぐした白身を私の取り皿にのせてくれる。

「さあ、食べなさい。残したらもったいないから」

俯いたまま、黙って箸を動かした。

母も、蓮司のことにはそれ以上触れなかった。

会計は1万4千円を少し超えていた。

支払いを済ませて振り返ると、テーブルの端に置いていた手土産の紙袋を、母が胸の前でしっかりと抱え直していた。

それはもう、誰かに渡すためのものではなくなっていた。

私に背を向けたまま、持ち手をきゅっと握りしめている。

帰りの地下鉄は混んでいて、座席に空きはなかった。

黙ってつり革につかまる母の体が、電車の揺れに小さく傾いた。

よそ行きのブラウスは、周りの人たちの普段着の中で、少しだけ浮いて見えた。

目を閉じた横顔は、眠っているみたいに静かだった。

SNSを開くと、十分前に投稿されたばかりの青葉の近況が目に入った。

【母が突然倒れてしまいました。そばに頼れる人がいてくれて、本当に心強かったです】

添えられていたのは、病院の待合室を写した写真だった。

画面の隅に、男物の革靴のつま先が少しだけ写り込んでいる。

見覚えのある靴だった。

去年、蓮司の誕生日に私が贈ったものだ。

靴紐まで、見覚えのある結び方をしていた。

私はスマホの画面を伏せ、コートのポケットにねじ込んだ。

視線を感じて顔を上げると、目を開けた母と一瞬だけ目が合った。

何も聞かないまま、母はまた静かに目を閉じた。

家に帰ってから、ぼんやりと冷蔵庫を開けた。

みかんの袋は、まだ棚の奥にあった。

手を伸ばすことなく、そのまま静かに扉を閉める。

ソファに深く腰を下ろし、メッセージアプリを開いたまま、親指を宙に浮かせていた。

入力欄では、カーソルだけが点滅している。

迷った末に、結局は文字を打たず、アプリを閉じた。

暗くなった画面に映る自分の顔には、何の表情も浮かんでいなかった。

その時、再びスマホが震えた。

蓮司からだった。

【お前のお母さん、怒ってないよな?明日、お詫びに美味いカニでも買って帰るから】

私は返信しなかった。

スマホをソファに放り投げると、立ち上がってバスルームへ向かった。

シャワーの強い水音が、今の私には都合がよかった。

余計な音を、すべてかき消してくれたから。

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