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母の健診は、猫に奪われた

母の健診は、猫に奪われた

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Idioma: Japanese
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母のために、私・林原美緒(はやしばら みお)は自分の名義で、健診センター系列のプレミアム会員になった。 登録した家族一人に限り、年に一度だけ、提携クリニックで人間ドックを無料で受けられる。高い年会費を払ったのも、その一回を母に使わせるためだった。 ただ、そのサービスには少し変わったところがあった。同じアカウントで、系列のペットクリニックの特典まで管理されていたのだ。 今年、母は「腰が痛い」と言って、予定より早く私の住む街へやって来た。 ところが、提携クリニックの受付で、思いもよらないことを告げられた。 「恐れ入ります。今年度分の人間ドック無料枠は、三か月前に系列のペットクリニックで使用済みとなっております。現在、ご利用いただける無料枠は残っておりません」 聞き間違いだと思ったのか、母はしばらく黙っていた。 それから、静かに言った。 「……では、自費でお願いします」 空いていたのは、8万円の基本コースだけだった。 しかもそこには、母がいちばん必要としていた骨密度検査が含まれていなかった。 その夜、仕事から帰ると、母は台所で温かいうどんを作っていた。 食卓の上には、病院の領収書がそっと置かれている。 「健診、どうだった?」 私が尋ねると、母は笑って答えた。 「大丈夫よ。ただ、病院のほうで少し行き違いがあったみたいでね」 後で分かった。 あの枠を勝手に使ったのは、同棲中の恋人――久我蓮司(くが れんじ)だった。 蓮司はその会員特典で、幼なじみの篠宮青葉(しのみや あおば)が飼っている猫に、ペットドックを受けさせていた。 「私に黙って、私の名義の特典を使ったんだね?」 私が問い詰めると、蓮司はキッチンカウンターにもたれたまま、私のほうを見もしなかった。 炭酸水を一口飲んで、面倒くさそうに答える。 「お前のお母さん、まだ来てなかっただろ。青葉の猫は急ぎだったんだよ。先に使わせただけだ」 「あれは、母に受けさせるために取っておいたものよ」 「使っちまったなら、もう一回申し込めばいいだろ」 腰を押さえながら病院で並んだ母の姿が頭の中に浮かぶと胸が締めつけられる。 並んで、待って、結局徒労に終わった。 その原因を作った人間は今、「もう一回申し込めばいいだろ」と図々しく言い放った。 病院の領収書を見つめながら、私の中の何かが冷えていく。 もういいんだと、静かに思った。

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Capítulo 1

第1話

母のために、私・林原美緒(はやしばら みお)は自分の名義で、健診センター系列のプレミアム会員になった。

登録した家族一人に限り、年に一度だけ、提携クリニックで人間ドックを無料で受けられる。高い年会費を払ったのも、その一回を母に使わせるためだった。

ただ、そのサービスには少し変わったところがあった。同じアカウントで、系列のペットクリニックの特典まで管理されていたのだ。

今年、母は「腰が痛い」と言って、予定より早く私の住む街へやって来た。

ところが、提携クリニックの受付で、思いもよらないことを告げられた。

「恐れ入ります。今年度分の人間ドック無料枠は、三か月前に系列のペットクリニックで使用済みとなっております。現在、ご利用いただける無料枠は残っておりません」

聞き間違いだと思ったのか、母はしばらく黙っていた。

それから、静かに言った。

「……では、自費でお願いします」

空いていたのは、8万円の基本コースだけだった。

しかもそこには、母がいちばん必要としていた骨密度検査が含まれていなかった。

その夜、仕事から帰ると、母は台所で温かいうどんを作っていた。

食卓の上には、病院の領収書がそっと置かれている。

「健診、どうだった?」

私が尋ねると、母は笑って答えた。

「大丈夫よ。ただ、病院のほうで少し行き違いがあったみたいでね」

後で分かった。

あの枠を勝手に使ったのは、同棲中の恋人――久我蓮司(くが れんじ)だった。

蓮司はその会員特典で、幼なじみの篠宮青葉(しのみや あおば)が飼っている猫に、ペットドックを受けさせていた。

……

蓮司が玄関のドアを開けた瞬間、酒の匂いが部屋に流れ込んできた。

私がスマホと、昼間、病院でもらった領収書をローテーブルの上にそっと並べると、蓮司は靴を脱ぐ手を一瞬止めた。

怪訝そうな視線をちらりとこちらに向けたものの、何も言わずにリビングへ向かう。ソファに深く沈み込むと、眉間を押さえた。

「ああ、この件か」

背もたれに頭を預け、こめかみを揉みながら、この男は何でもないことのように言った。

「あの時、青葉の猫が急に具合悪くなってさ。青葉が半泣きで電話してきたんだよ。俺のほうで手続きできたから、先に使わせただけだ」

「あれ、私の名義の特典だよ」

私はその言葉を静かに遮った。

「母に受けさせるために取っておいたの」

「でも、お前のお母さんまだ来てなかったんだろ?どうせ空いてたんだから、先に使っただけだろ」

スマホを握る手に、じわりと力がこもった。

「母は今日、病院に行ったの。受付で、今年度分の枠はもう使われていますって言われて……8万円も払ったんだよ。空いていた基本コースしか受けられなくて、いちばん診てほしかった骨密度検査も入ってなかった」

蓮司の口元がわずかに動いた。何か言い返そうとして、結局飲み込んだらしい。

けれど次に出てきたのは、謝罪ではなく、面倒くさそうな、短いひと言だけだった。

「……本部には、明日こっちから言っておく」

「言っておくって、どうするの?」

「お前のお母さんがもう一回、無料でドックを受けられるようにしてもらう」

「今さら形だけ整えて、それで済むと思ってるの?」

蓮司を見つめたまま、私は言葉を重ねた。

「母が今日、待合室で3時間も待たされたことまで、なかったことになるとでも思ってる?」

苛立ったようにソファに寝転がり、天井を仰ぎながら、蓮司は喉の奥からうんざりした声を絞り出した。

「こんな夜中に、なんでそんなに責めるんだよ」

私は答えなかった。

代わりに、去年のことが頭をよぎった。

母が膝を痛めた時、提携クリニックから膝を専門に診ている病院へ紹介状を書いてもらえないかと、蓮司に頼んだことがある。

返ってきたのは、あっさりした拒絶だった。

「お前のお母さんの症状なら、一般外来で十分だろ。その枠、取引先の役員に回す予定なんだよ」

結局、母は紹介状も予約もないまま一般外来に回され、半日近く待たされることになった。

それなのに、同じ年の冬。

青葉の猫が少しくしゃみをしただけで、蓮司は夜中にもかかわらず自分で車を出し、系列の動物病院にある会員専用の夜間受付まで連れて行った。

「青葉のお母さんが、冬でも暖かいところに行きたいって言った時、あなた、ビジネスクラスまで取ってあげたよね」

私はソファに横たわる蓮司を見つめた。

「それなのに、私の母がこっちに来る時は、迎えがいるかどうかさえ聞いてくれなかった」

こちらの言葉が終わるなり、蓮司は勢いよく身を起こした。ソファの前に立ち、冷ややかな目で見下ろしてくる。

「あれは青葉のお父さんに直接頼まれたんだよ。青葉の家から頼まれたら、断れるわけないだろ」

「去年も、一昨年も、あなたは一度も断らなかったよね」

私は声を荒げなかった。

「あなた、私の母のことだけは平気で断るんだね」

蓮司はしばらく私を睨みつけていた。

やがて、ローテーブルを乱暴に避けるようにして寝室へ向かう。ドアの前で一瞬だけ足を止めたが、振り返ることはなかった。

「その枠の件は、明日本部に言っておく。もうこの話はするな。会社に知られたらまずい」

バタン、と寝室の扉が閉まった。

私はリビングの真ん中に立ち尽くしたまま、しばらく身動きができなかった。

ローテーブルの上には、二枚の紙が並んでいる。

一枚は、系列の動物病院の利用明細。金額は12万円。項目の一番上には【心エコー検査】とあった。

もう一枚は、母が今日、自分で支払った8万円の領収書だった。

但し書きには【人間ドック基本コース】と印字されている。

会員特典の欄は、空白のままだった。

スマホの画面が、静かに明るくなった。

母からのボイスメッセージだった。

再生すると、スピーカーから聞き慣れた柔らかな声が流れてくる。

「美緒、無事にホテルに着いたよ。持ってきたみかん、冷蔵庫に入れておいたから、あとで食べてね」

返事はできなかった。

画面を消し、8万円の領収書を手に取る。

半分に折る。

もう一度、半分に折る。

それをコートのポケットの奥にしまい込んだ。

胸の奥は、不思議なほど静かだった。

怒りも涙も、もう表に出てこなかった。

ただ冷えた水のように、底のほうでじっと凪いでいた。

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第1話
母のために、私・林原美緒(はやしばら みお)は自分の名義で、健診センター系列のプレミアム会員になった。登録した家族一人に限り、年に一度だけ、提携クリニックで人間ドックを無料で受けられる。高い年会費を払ったのも、その一回を母に使わせるためだった。ただ、そのサービスには少し変わったところがあった。同じアカウントで、系列のペットクリニックの特典まで管理されていたのだ。今年、母は「腰が痛い」と言って、予定より早く私の住む街へやって来た。ところが、提携クリニックの受付で、思いもよらないことを告げられた。「恐れ入ります。今年度分の人間ドック無料枠は、三か月前に系列のペットクリニックで使用済みとなっております。現在、ご利用いただける無料枠は残っておりません」聞き間違いだと思ったのか、母はしばらく黙っていた。それから、静かに言った。「……では、自費でお願いします」空いていたのは、8万円の基本コースだけだった。しかもそこには、母がいちばん必要としていた骨密度検査が含まれていなかった。その夜、仕事から帰ると、母は台所で温かいうどんを作っていた。食卓の上には、病院の領収書がそっと置かれている。「健診、どうだった?」私が尋ねると、母は笑って答えた。「大丈夫よ。ただ、病院のほうで少し行き違いがあったみたいでね」後で分かった。あの枠を勝手に使ったのは、同棲中の恋人――久我蓮司(くが れんじ)だった。蓮司はその会員特典で、幼なじみの篠宮青葉(しのみや あおば)が飼っている猫に、ペットドックを受けさせていた。……蓮司が玄関のドアを開けた瞬間、酒の匂いが部屋に流れ込んできた。私がスマホと、昼間、病院でもらった領収書をローテーブルの上にそっと並べると、蓮司は靴を脱ぐ手を一瞬止めた。怪訝そうな視線をちらりとこちらに向けたものの、何も言わずにリビングへ向かう。ソファに深く沈み込むと、眉間を押さえた。「ああ、この件か」背もたれに頭を預け、こめかみを揉みながら、この男は何でもないことのように言った。「あの時、青葉の猫が急に具合悪くなってさ。青葉が半泣きで電話してきたんだよ。俺のほうで手続きできたから、先に使わせただけだ」「あれ、私の名義の特典だよ」私はその言葉を静かに遮った。「母に受けさせるために取
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第2話
翌日の午後、蓮司からメッセージが届いた。スマホの画面が光ったことには気づいていたが、すぐに開く気にはなれなかった。数分後、さらに一通届く。【今夜、店を予約した。前に行きたいって言ってた和食の店。お前のお母さんのために、特上のアワビも頼んである】その文面を、私はただじっと見つめていた。台所から、母が夕飯の支度をする音が聞こえる。トントン、と規則正しくまな板を叩く包丁の音が、静かな部屋に響いていた。迷った末に、短く返信する。【何時?】返事はすぐに来た。【六時。個室を取ってある】蓮司が食事に誘ってくれたと伝えると、母は「えっ」と目を丸くした。慌ててエプロンで手を拭き、奥の部屋へ引っ込む。しばらくして戻ってきた母は、いちばん気に入っているよそ行きのブラウスに着替えていた。それから、実家から持ってきたみかんをいくつか選び、丁寧に風呂敷で包んで紙袋に入れる。「蓮司くんにも食べてもらおうと思って。すごく甘いのよ」昨夜の出来事は、結局、母の口からも私の口からも出ないままだった。6時ちょうどに店へ着いた。打ち水で濡れた石畳を抜け、案内されたのは奥の個室だった。仲居さんが「先にお飲み物だけでもお持ちしましょうか」と声をかけてくれたが、私は首を振った。「もう少し待ちます。まだ連れが来ていないので」6時20分。出されたお茶は、すっかり冷めていた。仲居さんが気を遣って様子を見に来てくれたが、母は申し訳なさそうに笑った。「大丈夫です。仕事が忙しい子なので、きっと少し遅れているだけですから」6時半。母は手元の紙袋をテーブルの端にそっと寄せた。「急がなくていいのにね。道が混んでいるのかもしれないし」6時40分。母は困ったように笑って、メニューに目を落とした。「……先に、何か軽いものだけ頼んでおこうか?」蓮司に送ったメッセージに、既読はつかなかった。7時半。ようやくスマホが震えた。「美緒、ごめん。青葉のお母さんが急に倒れたらしい。青葉のお父さん、出張中でいないって言うから、今、俺が病院まで送ってる。お前のお母さんには謝っといてくれ」電話の向こうで、バタン、と車のドアが閉まる音がした。「特上のアワビを頼んであるって――」「悪い、また後で」こちらの言葉を
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第3話
週末、母を連れて系列の別の健診センターへ向かった。自費で骨密度検査を予約し、腫瘍マーカーもオプションで追加した。母が検査室へ入っていくのを見送り、私は廊下のベンチに腰を下ろした。向かいの壁のモニターには、医療グループ各施設の紹介映像が流れていた。しばらくして、画面が系列ペットクリニックの公式ライブ配信に切り替わった。【青葉と行く!系列ペットクリニック見学】タイトルの横には、小さく【LIVE】の文字が点っている。それを見た瞬間、思わず息を止めた。画面の中で、青葉は診察台の端に腰かけ、猫を抱いていた。隣に立つ蓮司は、獣医師の説明にうなずきながら、カメラに向かってエコー検査の流れを紹介している。獣医師の言葉を受け売りしているだけのはずなのに、その口ぶりは妙に慣れていた。画面の端には、視聴者のコメントがテロップのように次々と流れていく。【彼氏さん解説ガチすぎw】【蓮司さん今日もかっこいい】【コバンちゃん愛されすぎ】カメラに向かって、青葉が照れたように笑った。「もう、みんな変なこと言わないでよ。蓮司にはちゃんと彼女がいるんだから」青葉はそう言って、照れたように笑った。それでも、画面の端を流れるコメントは止まらなかった。【彼女さん、他人の猫にここまでしてるの知ってる?w】【これ彼女見たら乗り込んでくるでしょw】近くに座っていた女性たちが、モニターを見上げて小さく笑った。「恋人同士みたいね」その声だけが、妙にはっきり耳に残った。私は何も言わなかった。スマホを開き、配信画面を映す。最新のコメントが、またひとつ流れる。【この前揉めてた動画の人が彼女?キツそうだったよね】スマホの画面を消し、静かに立ち上がった。気づけば、足は敷地内のペットクリニック棟へ向かっていた。ガラス張りの見学スペースの前で、足が止まる。中では蓮司がしゃがみ込み、猫じゃらしであのラグドールをあやしていた。その口元には、私にはもう長い間見せてくれなかった、気の抜けたような無邪気な笑みが浮かんでいる。ふと顔を上げた蓮司が、こちらに気づいた。笑みが、すっと消える。手にした猫じゃらし棒だけが、行き場をなくしたように揺れていた。青葉も彼の視線を追い、ドアの前に立つ私を見る。一瞬だけ目
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第4話
検査が終わると、私は疲れ切った母を支えるようにして駐車場へ向かった。背後から慌ただしい足音が近づいてくる。振り返るより早く、蓮司が私たちの横を回り込み、行く手を塞いだ。さっき配信に映っていたコートではなく、目立たない上着に替えている。走ってきたのか、髪が乱れ、肩で息をしていた。「美緒、送っていく。今日のことは、あとでちゃんと説明するから」それから後部座席のドアを開け、母に向かって頭を下げた。「今日は長い時間お待たせして、本当にすみませんでした」その声を聞きながら、ふと足元に目が落ちた。母のかかとが赤く擦れている。慣れない靴で歩いたせいだろう。立っている間も、痛む足から無意識に体重を逃がしていた。母をこれ以上歩かせたくなかった。私は無言で小さく頷き、母を後部座席に乗せた。助手席へ回り、ドアに手をかける。その時だった。蓮司のスマホが震えた。運転席に乗り込もうとしていた彼の手が止まる。センターコンソールに置かれたスマホの画面に、篠宮青葉の名前が表示されていた。車内が、一瞬で静まり返った。その静けさを破るように、蓮司が電話に出た。スマホ越しに、青葉の泣き声が漏れてくる。「蓮司くん……どうしよう、お母さんがまた倒れちゃった……私、一人じゃ怖いよ……」静まり返った車内に、そのか細い声だけが妙にはっきり響いた。運転席に半分身を乗り入れたまま、蓮司はスマホを握りしめていた。そして、助手席のドアの前に立つ私を見る。眉間に、深い皺が寄った。そこにあったのは、私への後ろめたさではなかった。「またか」とでも言いたげな苛立ちだった。それでも、次の瞬間には肩の力を抜く。まるで、これまで何度も繰り返してきた選択を、今日もまた選ぶと決めたように。「……美緒」声だけが、不自然に柔らかくなった。「今回だけだから。少しだけここで待っててくれないか。様子を見て、すぐ戻る」「昨日も、そう言ったよね」「昨日は昨日だろ。今日は本当に緊急なんだ。命に関わるかもしれない」蓮司は苛立ったように、指先でハンドルを叩いた。「お前も、少しは察してくれよ」私は笑った。ほんの少しだけ口元が引きつるのが、自分でも分かった。そのまま、彼の目を真っ直ぐに見返す。「一昨
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第5話
翌朝、蓮司は早番だったらしい。玄関のドアが閉まる音が、かすかに聞こえた。カチャリと鍵がかかり、足音が共用廊下の向こうへ遠ざかっていく。ベッドの中で、その音が完全に消えるのをじっと聞いていた。体を起こすと、カーテンの隙間から朝の光が一筋差し込み、チェストの上に置き去りにされた領収書を照らしていた。そこに印字された【8万円】の文字だけが、妙に生々しく見えた。ベッドから抜け出し、荷造りを始める。クローゼットから服を引っ張り出し、用意しておいた段ボールへ手当たり次第に詰め込んでいった。季節も色も関係なかった。夏物のTシャツの隣に、厚手のダウンコートを無理やり押し込む。冷蔵庫を開けると、あの紙袋に入ったみかんがまだ残っていた。母が軽く口を縛った袋の中に、みかんがいくつか入っている。そのうちの一つを取り出し、手のひらの上で転がすように見つめた。リュックの底にそっと入れ、ファスナーをきっちり閉める。午前十時ちょうど、親友の森下萌(もりした もえ)がやってきた。手には梱包用のテープと、大きめのゴミ袋を抱えている。部屋に足を踏み入れた萌は、真っ先にローテーブルの上の書類に目を留めた。健診センターの会員サービスを解約するための書類だった。萌はそれをそっと手に取り、何も言わずに元の場所へ戻した。それから私を見たが、何も訊かなかった。荷物を運び出すのを手伝いながら、萌がぽつりと言った。「……もっと早く、こんな家、出ればよかったのに」「うん」短く頷いた。スーツケースのキャスターが玄関の段差を越える時、カタンと小さく乾いた音が響いた。新居は古いマンションの六階だった。エレベーターのボタンは年季が入っていて、押してからランプが灯るまでに妙な間がある。立ち会った管理会社の担当者が、鍵を渡しながら説明した。「電気と水道はもう使えます。ガスは開栓の立ち会いが必要なので、ガス会社にご連絡ください。インターネットは別途ご契約をお願いします」受け取った鍵を、しばらく手の中で握っていた。がらんとした部屋には、まだ家具一つない。うっすら埃の積もったフローリングを歩くたび、細かな埃が朝の光の中で舞った。萌が段ボールを壁際に積み上げながら、「マットレスはいつ届くの?」と訊ねてくる。「午
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第6話
月曜日の午後。本社9階の会議室で、コンプライアンス部による最初の聴取が行われた。蓮司は会議室の前でしばらく立ち尽くし、深く息を吸ってから重い扉を開けた。向かい側には、3人の担当者が座っていた。真ん中の男性が、一枚の書類を蓮司の前へ滑らせる。そこに印字されていたのは、3か月前、蓮司自身の社員番号で処理された会員サービスの利用履歴だった。日時、利用施設、会員アカウントの名義、処理担当者。すべての項目が、淡々と埋まっている。「この処理は、どのような業務上の必要性に基づいて行われたものですか」その男性に問われ、蓮司はかすれた声で答えた。「……系列ペットクリニックでの、新システムの動作確認です」「テストであるなら、なぜ実在する顧客アカウントを使用する必要があったのですか」蓮司は答えられなかった。二度目の聴取は、その2日後だった。今度は人事部の担当者も同席していた。机の上に広げられたのは、社内システムの操作ログだった。「この会員アカウントの契約者とは、どのようなご関係ですか」突きつけられた履歴を、蓮司は黙って見つめていた。操作担当者の欄には、紛れもなく彼の社員番号が残っている。タイムスタンプは秒単位まで記録され、アクセス元はマーケティング部の共有スペースにある予備端末だった。どれだけ言い訳を重ねても、ログという客観的な証拠は揺らがない。今年度分の人間ドック無料枠が、誰のために、どの施設で消化されたのか。データは、彼自身よりもずっと雄弁に真実を語っていた。三度目の聴取を終えてビルを出ると、外はもう暗かった。街灯が灯り始めたエントランスの前で足を止め、無意識に上着のポケットへ手を入れる。何かを探すように指先を動かしてから、自分が煙草も持ち歩かない人間だったことを思い出した。その時、ロータリーにタクシーが滑り込んできた。後部座席のドアが開き、蓮司の母親が降りてくる。車はハザードを点けたまま、エントランス前で待っていた。「その篠宮さんって人とは、どういう関係なの?」立ち尽くす蓮司を一瞥して、母親は抑揚のない声で切り出した。「……ただの、仕事関係だよ」答えを聞いても、表情は変わらなかった。息子の前まで歩み寄り、バッグの持ち手を指に二度巻きつける。「今日の
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第7話
木曜日、蓮司の会社内で出回ったという通知のスクリーンショットが、萌から送られてきた。画像に続いて、短いメッセージが届く。【自業自得】添付された画像をタップし、ざっと目を通した。【懲戒処分通知:マーケティング部長 久我蓮司顧客向け会員サービスにおける社内権限の不適切利用、ならびに本人の同意を得ないまま会員特典を第三者に利用させた行為について、同日付で部長職を解く。あわせて降格のうえ、別部署への異動を命じる】画面を拡大し、冷たいほど事務的な文面をもう一度読み返した。見落とした行がないことを確認してから、静かに画面を閉じる。青葉がSNSに謝罪文を掲載したのは、それから半日後のことだった。気づいた時には、表示回数はすでに10万を超えていた。長々と3段落にわたって綴られた文章だったが、要するに、言いたいことは一つだけだった。【私は詳細を把握しておらず、すべて関係者の方のご厚意によるものと認識しておりました……】青葉は最後まで、蓮司の名前を出さなかった。ただ頑なに、【関係者であるご友人】とだけ書いていた。コメント欄の上位には、辛辣な言葉が容赦なく並んでいる。【他人のお母さんの人間ドック枠で猫の検査を受けた時点で、普通おかしいと思わない?】【お母さんのための枠を勝手に使っておいて、猫はフルコースって普通に無理。胸糞悪すぎる】少しだけスクロールして、そのままタイムラインを閉じた。もちろん、いいねなど押さない。ただ、閉じる直前、画面の端に一つの書き込みが目に入った。【でも、あの元カノもなかなか凄腕だよね。投稿ひとつで二人まとめて沈めた】その文字をしばらく見つめてから、スマホの電源ボタンを押した。蓮司が私に会いたがっていると知ったのは、萌から電話がかかってきた時だった。「蓮司が、美緒の今の番号を教えてくれってしつこくて。知らないって突っぱねておいた」それから二十分ほどして、再びスマホが震えた。「今度は伝言。【直接会って話したい】だって」その時、私はちょうど新しい連載コラムの原稿を推敲していた。通話をスピーカーに切り替えたまま、キーボードを打つ手は止めずに尋ねる。「いつ?」「明日の午後3時。この前行った、あのカフェ」「分かった」翌日、指定されたカフェに行くと、蓮
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第8話
それから2か月後、連載先のWebメディアから月次レポートが届いた。赤字で強調された数字の横に、こんな一文が添えられている。【中高年女性向けの健診プラン作成サポートを利用した家庭は、累計6400世帯を超えました】思わずスクリーンショットを撮り、写真アプリのお気に入りに追加した。続いて読者コミュニティを開くと、母はそこで、すっかり顔なじみになっていた。アイコンに使われているのは、去年帰省した時に私が撮った写真だ。緑に囲まれた実家の縁側で、母が刺繍枠を手にちょこんと座っている。コミュニティの掲示板では、誰かが健診結果の写真を上げて質問していた。【この矢印って、数値が高いってことですか?それとも低いってこと?】母は数日に一度、そこへ丁寧に返信している。【基準値を超えているように見えます。自己判断せず、健診先かかかりつけ医に相談してみてください】文章の末尾には、いつも控えめなお辞儀の絵文字が添えられていた。初めて見知らぬユーザーから「林原先生」と呼ばれた時、母はわざわざその画面をスクリーンショットに撮って、私に送ってきた。【私、先生って呼ばれちゃったよ】あの時、私はこう返した。【お母さんは、立派な先生だよ】久しぶりに実家へ帰る日、新幹線に4時間半ほど揺られた。最寄り駅に着いたのは、午後3時だった。実家のドアを開けると、母は台所で大根と豚の角煮を器に盛りつけているところだった。包丁がまな板に当たる音が、トントンと小気味よく響いている。西側の窓から差し込む日差しが、コンロの脇に置かれた長ネギの影を細く伸ばしていた。私は台所の入り口に立ったまま、中へは入らなかった。母も振り返らない。背を向けたまま、慣れた手つきで動きながら訊ねてくる。「道、混んでなかった?」「新幹線だから、渋滞は関係ないよ」「そうだったね」小さく笑って、それでも手は止めなかった。夕食時、母は大きなホーローの深皿をテーブルに運んできた。大根と角煮の煮込みが、器いっぱいに盛られている。照りのある煮汁の表面には、薄く油が浮かんでいた。その傍らに、ガラス皿がそっと置かれる。きれいに皮をむかれたみかんが、一房ずつ並んでいた。白い筋まで丁寧に取られていて、果肉がつやつやと光っている。席に着きな
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