INICIAR SESIÓN母のために、私・林原美緒(はやしばら みお)は自分の名義で、健診センター系列のプレミアム会員になった。 登録した家族一人に限り、年に一度だけ、提携クリニックで人間ドックを無料で受けられる。高い年会費を払ったのも、その一回を母に使わせるためだった。 ただ、そのサービスには少し変わったところがあった。同じアカウントで、系列のペットクリニックの特典まで管理されていたのだ。 今年、母は「腰が痛い」と言って、予定より早く私の住む街へやって来た。 ところが、提携クリニックの受付で、思いもよらないことを告げられた。 「恐れ入ります。今年度分の人間ドック無料枠は、三か月前に系列のペットクリニックで使用済みとなっております。現在、ご利用いただける無料枠は残っておりません」 聞き間違いだと思ったのか、母はしばらく黙っていた。 それから、静かに言った。 「……では、自費でお願いします」 空いていたのは、8万円の基本コースだけだった。 しかもそこには、母がいちばん必要としていた骨密度検査が含まれていなかった。 その夜、仕事から帰ると、母は台所で温かいうどんを作っていた。 食卓の上には、病院の領収書がそっと置かれている。 「健診、どうだった?」 私が尋ねると、母は笑って答えた。 「大丈夫よ。ただ、病院のほうで少し行き違いがあったみたいでね」 後で分かった。 あの枠を勝手に使ったのは、同棲中の恋人――久我蓮司(くが れんじ)だった。 蓮司はその会員特典で、幼なじみの篠宮青葉(しのみや あおば)が飼っている猫に、ペットドックを受けさせていた。 「私に黙って、私の名義の特典を使ったんだね?」 私が問い詰めると、蓮司はキッチンカウンターにもたれたまま、私のほうを見もしなかった。 炭酸水を一口飲んで、面倒くさそうに答える。 「お前のお母さん、まだ来てなかっただろ。青葉の猫は急ぎだったんだよ。先に使わせただけだ」 「あれは、母に受けさせるために取っておいたものよ」 「使っちまったなら、もう一回申し込めばいいだろ」 腰を押さえながら病院で並んだ母の姿が頭の中に浮かぶと胸が締めつけられる。 並んで、待って、結局徒労に終わった。 その原因を作った人間は今、「もう一回申し込めばいいだろ」と図々しく言い放った。 病院の領収書を見つめながら、私の中の何かが冷えていく。 もういいんだと、静かに思った。
Ver másそれから2か月後、連載先のWebメディアから月次レポートが届いた。赤字で強調された数字の横に、こんな一文が添えられている。【中高年女性向けの健診プラン作成サポートを利用した家庭は、累計6400世帯を超えました】思わずスクリーンショットを撮り、写真アプリのお気に入りに追加した。続いて読者コミュニティを開くと、母はそこで、すっかり顔なじみになっていた。アイコンに使われているのは、去年帰省した時に私が撮った写真だ。緑に囲まれた実家の縁側で、母が刺繍枠を手にちょこんと座っている。コミュニティの掲示板では、誰かが健診結果の写真を上げて質問していた。【この矢印って、数値が高いってことですか?それとも低いってこと?】母は数日に一度、そこへ丁寧に返信している。【基準値を超えているように見えます。自己判断せず、健診先かかかりつけ医に相談してみてください】文章の末尾には、いつも控えめなお辞儀の絵文字が添えられていた。初めて見知らぬユーザーから「林原先生」と呼ばれた時、母はわざわざその画面をスクリーンショットに撮って、私に送ってきた。【私、先生って呼ばれちゃったよ】あの時、私はこう返した。【お母さんは、立派な先生だよ】久しぶりに実家へ帰る日、新幹線に4時間半ほど揺られた。最寄り駅に着いたのは、午後3時だった。実家のドアを開けると、母は台所で大根と豚の角煮を器に盛りつけているところだった。包丁がまな板に当たる音が、トントンと小気味よく響いている。西側の窓から差し込む日差しが、コンロの脇に置かれた長ネギの影を細く伸ばしていた。私は台所の入り口に立ったまま、中へは入らなかった。母も振り返らない。背を向けたまま、慣れた手つきで動きながら訊ねてくる。「道、混んでなかった?」「新幹線だから、渋滞は関係ないよ」「そうだったね」小さく笑って、それでも手は止めなかった。夕食時、母は大きなホーローの深皿をテーブルに運んできた。大根と角煮の煮込みが、器いっぱいに盛られている。照りのある煮汁の表面には、薄く油が浮かんでいた。その傍らに、ガラス皿がそっと置かれる。きれいに皮をむかれたみかんが、一房ずつ並んでいた。白い筋まで丁寧に取られていて、果肉がつやつやと光っている。席に着きな
木曜日、蓮司の会社内で出回ったという通知のスクリーンショットが、萌から送られてきた。画像に続いて、短いメッセージが届く。【自業自得】添付された画像をタップし、ざっと目を通した。【懲戒処分通知:マーケティング部長 久我蓮司顧客向け会員サービスにおける社内権限の不適切利用、ならびに本人の同意を得ないまま会員特典を第三者に利用させた行為について、同日付で部長職を解く。あわせて降格のうえ、別部署への異動を命じる】画面を拡大し、冷たいほど事務的な文面をもう一度読み返した。見落とした行がないことを確認してから、静かに画面を閉じる。青葉がSNSに謝罪文を掲載したのは、それから半日後のことだった。気づいた時には、表示回数はすでに10万を超えていた。長々と3段落にわたって綴られた文章だったが、要するに、言いたいことは一つだけだった。【私は詳細を把握しておらず、すべて関係者の方のご厚意によるものと認識しておりました……】青葉は最後まで、蓮司の名前を出さなかった。ただ頑なに、【関係者であるご友人】とだけ書いていた。コメント欄の上位には、辛辣な言葉が容赦なく並んでいる。【他人のお母さんの人間ドック枠で猫の検査を受けた時点で、普通おかしいと思わない?】【お母さんのための枠を勝手に使っておいて、猫はフルコースって普通に無理。胸糞悪すぎる】少しだけスクロールして、そのままタイムラインを閉じた。もちろん、いいねなど押さない。ただ、閉じる直前、画面の端に一つの書き込みが目に入った。【でも、あの元カノもなかなか凄腕だよね。投稿ひとつで二人まとめて沈めた】その文字をしばらく見つめてから、スマホの電源ボタンを押した。蓮司が私に会いたがっていると知ったのは、萌から電話がかかってきた時だった。「蓮司が、美緒の今の番号を教えてくれってしつこくて。知らないって突っぱねておいた」それから二十分ほどして、再びスマホが震えた。「今度は伝言。【直接会って話したい】だって」その時、私はちょうど新しい連載コラムの原稿を推敲していた。通話をスピーカーに切り替えたまま、キーボードを打つ手は止めずに尋ねる。「いつ?」「明日の午後3時。この前行った、あのカフェ」「分かった」翌日、指定されたカフェに行くと、蓮
月曜日の午後。本社9階の会議室で、コンプライアンス部による最初の聴取が行われた。蓮司は会議室の前でしばらく立ち尽くし、深く息を吸ってから重い扉を開けた。向かい側には、3人の担当者が座っていた。真ん中の男性が、一枚の書類を蓮司の前へ滑らせる。そこに印字されていたのは、3か月前、蓮司自身の社員番号で処理された会員サービスの利用履歴だった。日時、利用施設、会員アカウントの名義、処理担当者。すべての項目が、淡々と埋まっている。「この処理は、どのような業務上の必要性に基づいて行われたものですか」その男性に問われ、蓮司はかすれた声で答えた。「……系列ペットクリニックでの、新システムの動作確認です」「テストであるなら、なぜ実在する顧客アカウントを使用する必要があったのですか」蓮司は答えられなかった。二度目の聴取は、その2日後だった。今度は人事部の担当者も同席していた。机の上に広げられたのは、社内システムの操作ログだった。「この会員アカウントの契約者とは、どのようなご関係ですか」突きつけられた履歴を、蓮司は黙って見つめていた。操作担当者の欄には、紛れもなく彼の社員番号が残っている。タイムスタンプは秒単位まで記録され、アクセス元はマーケティング部の共有スペースにある予備端末だった。どれだけ言い訳を重ねても、ログという客観的な証拠は揺らがない。今年度分の人間ドック無料枠が、誰のために、どの施設で消化されたのか。データは、彼自身よりもずっと雄弁に真実を語っていた。三度目の聴取を終えてビルを出ると、外はもう暗かった。街灯が灯り始めたエントランスの前で足を止め、無意識に上着のポケットへ手を入れる。何かを探すように指先を動かしてから、自分が煙草も持ち歩かない人間だったことを思い出した。その時、ロータリーにタクシーが滑り込んできた。後部座席のドアが開き、蓮司の母親が降りてくる。車はハザードを点けたまま、エントランス前で待っていた。「その篠宮さんって人とは、どういう関係なの?」立ち尽くす蓮司を一瞥して、母親は抑揚のない声で切り出した。「……ただの、仕事関係だよ」答えを聞いても、表情は変わらなかった。息子の前まで歩み寄り、バッグの持ち手を指に二度巻きつける。「今日の
翌朝、蓮司は早番だったらしい。玄関のドアが閉まる音が、かすかに聞こえた。カチャリと鍵がかかり、足音が共用廊下の向こうへ遠ざかっていく。ベッドの中で、その音が完全に消えるのをじっと聞いていた。体を起こすと、カーテンの隙間から朝の光が一筋差し込み、チェストの上に置き去りにされた領収書を照らしていた。そこに印字された【8万円】の文字だけが、妙に生々しく見えた。ベッドから抜け出し、荷造りを始める。クローゼットから服を引っ張り出し、用意しておいた段ボールへ手当たり次第に詰め込んでいった。季節も色も関係なかった。夏物のTシャツの隣に、厚手のダウンコートを無理やり押し込む。冷蔵庫を開けると、あの紙袋に入ったみかんがまだ残っていた。母が軽く口を縛った袋の中に、みかんがいくつか入っている。そのうちの一つを取り出し、手のひらの上で転がすように見つめた。リュックの底にそっと入れ、ファスナーをきっちり閉める。午前十時ちょうど、親友の森下萌(もりした もえ)がやってきた。手には梱包用のテープと、大きめのゴミ袋を抱えている。部屋に足を踏み入れた萌は、真っ先にローテーブルの上の書類に目を留めた。健診センターの会員サービスを解約するための書類だった。萌はそれをそっと手に取り、何も言わずに元の場所へ戻した。それから私を見たが、何も訊かなかった。荷物を運び出すのを手伝いながら、萌がぽつりと言った。「……もっと早く、こんな家、出ればよかったのに」「うん」短く頷いた。スーツケースのキャスターが玄関の段差を越える時、カタンと小さく乾いた音が響いた。新居は古いマンションの六階だった。エレベーターのボタンは年季が入っていて、押してからランプが灯るまでに妙な間がある。立ち会った管理会社の担当者が、鍵を渡しながら説明した。「電気と水道はもう使えます。ガスは開栓の立ち会いが必要なので、ガス会社にご連絡ください。インターネットは別途ご契約をお願いします」受け取った鍵を、しばらく手の中で握っていた。がらんとした部屋には、まだ家具一つない。うっすら埃の積もったフローリングを歩くたび、細かな埃が朝の光の中で舞った。萌が段ボールを壁際に積み上げながら、「マットレスはいつ届くの?」と訊ねてくる。「午