تسجيل الدخول◇ 髙野辺が営業フロアに足を踏み入れる前。 廊下を歩く髙野辺の隣を一緒に進む蒔田が、書類に目を通しながら話しかける。 「社長。……本当に説明をされるつもりですか?」 蒔田の言葉に、隣にいた髙野辺は彼をちらりと横目で見やった後、頷いた。 「──ああ。他の社員にはあの報告で十分だが、営業フロアは混乱しているだろう。隠す事なく、直接説明した方が良い。……他の社員に疑いの目が行く事も防がないとな」 「……なるほど、おっしゃる通りですね」 髙野辺は、同期入社した神咲が恐らく疑いの目で見られる事になる、と予想していた。 同時期に入社しただけ。 彼にとっては完全なとばっちりだ。 だが、営業社員の彼らが今回の新商品発売のために苦労した事は髙野辺も知っている。 自分達の努力が、無駄になってしまったのだ。 犯人は既に解雇され社内にはいない。 そうなると、自分達の行き場の無い怒りや憤りは、その場の1番立場の弱い者に行きやすいのだ。 「今回の件は、単独犯だ。その同期も恐ろしく愚かで、救いようの無いものだった。その人物は既に会社を去っている事をフロアでしっかりと説明する」 前を見据え、はっきりと口にする髙野辺に、蒔田は「かしこまりました」と答えた。 ◇ 髙野辺が営業フロアで、社員達への説明をしている同時刻。 出社後、デザイン室に直行したもみじは、自分の仕事に取り掛かっていた。 パソコンの前に座り、デザインに集中していたが、普段よりも集中力が続かなく、椅子にぐっと背を預けて伸びをした。 「──どうしよう、集中が続かない」 集中が続かない理由は、もみじにも分かっていた。 昨日から、胡桃の事をぐるぐる考えてしまっているのだ。 それのせいで、中々気持ちを切り替える事が出来ず、もみじはデザインに苦戦していた。 「こんなんじゃ駄目なのに。切り替えなきゃ……髙野辺さんは、私を信じてくれて、この仕事を任せてくれたんだから……」 ぺちり、と頬を叩いて気合いを入れ直すもみじ。 だが、どうしても目の前のデザインに集中し切れず、もみじは椅子から立ち上がった。 「……ちょっと甘い物を買いに行かせてもらおうかな」 髙野辺から、会社では自由に過ごしてもらって構わないと言ってもらっている。 「1階にあるカフェに、飲み物を買いに行ってこよう……」 スマホだけを持
──マジかよ。 ──徳居さんが? ──でも、そう言う事だろ?彼女のデスク、綺麗さっぱり無くなってるじゃないか。 ひそひそ、ざわざわ。 営業フロアは、朝から騒がしく落ち着かない。 それもそのはず。 会社から正式に昨日の件が説明されたのだ。 社員に一斉メールで送られたそれ。 犯人の社員は明確に誰とは書かれていなかったが、その人物と同じ部署にいる人間には、誰が犯人か察せてしまった。 徳居が犯人だったのだ──。 それで、噂話が終われば良いのだが、そうはいかなかった。 徳居と同期で、中途採用された神咲にも、その視線は集まっていた。 神咲は頭を抱え、どうして俺が、と何度も呟いた。 (何で徳居さんはあんな馬鹿な事を……!社員のログインに関して、この会社はシステムで徹底管理している……社内システムの磐石さは、入社時に説明されていたのに……!) どうして徳居がこんな真似をしたのか、神咲にはいくら考えても分からなかった。 自分と同じようにTK株式会社で働くことを誇りに思っていたのではないか。 (国内随一のデザイン会社だぞ!?だが、もしかして徳居さんは最初からこれを狙っていたのか?他社に雇われた、産業スパイ?) 他社に雇われた人間だったのだったら、納得がいく。 最初からこの会社への思い入れも、熱量もなかったのではないか。 (せっかく、同期入社したのに……) 神咲が頭を抱えていると、彼の近くにこのフロアの営業社員が数人やってきた。 「神咲、お前……徳居さんの同期だろ?」 「何か知ってたのか?」 「徳居さん、うちの会社の情報を盗むために他社に雇われたんじゃあ……」 神咲と同じ事を考える人物もいるようだ。 そんな事を聞かれても、神咲には徳居の事など何一つ分からない。 そのため、顔を上げた神咲は自分の先輩である社員を見つめ、答える。 「いえ、俺も何も……」 (昨日、徳居さんは朝の時間帯に情報を盗んだんだろう……。あの表情、きっとそうだ……) だが、神咲の返事に他の社員は不服そうに顔を歪めた。 「──本当か?お前、同期だからって庇っているんじゃあ……」 「そうだよ。お前ら、1度2人で一緒に飯に行ってたじゃん。仲良さそうに見えたけど──」 「──ッ、止めてください!俺は無関係です……!」 どこか、疑うような目を向けてくる他の社員達
「こ、こもも……っ、私っ、私どうしたらっ!」 パニックに陥っている徳居の声に、胡桃は訝しげに声を潜めた。 〈何よ……?何があったのかちゃんと説明してよ〉 「わっ、わたっ、クビにっ」 〈──はあ?クビ……?〉 徳居が口にした「クビ」と言う言葉に、電話向こうにいる胡桃の雰囲気が変わった。 徳居が言葉につっかえながら時間をかけて説明すると、胡桃は電話の向こう側で暫く沈黙した。 「こもも……?こもも……」 私はどうしたらいいの。 そう続ける徳居に、胡桃は舌打ちをしたくなるのを耐え、答えた。 〈……分かったわ。詳しい話は後日。謹慎を命じられているんでしょう?余計な事はしないで、家に閉じこもっててよ〉 胡桃はそれだけを言うと、徳居がまだ何かを言っているにも関わらず、通話を切ってしまった。 徳居は、自分の部屋で胡桃に何度も電話をかけ直したが、今度は繋がる事は無かった──。 ◇ そして、迎えた翌日。 徳居が朝起きると、自分のスマホにTK株式会社の人事部から連絡が入っていた。 届いたメールを確認すると、一通の添付がある。 それを見た瞬間、徳居は小さく声を漏らし、視界を滲ませた。 「──あ、あぁ……っ、本当に……?私、本当に聖さんの会社をクビに……?」 徳居のスマホに届いていた添付書類。 それは、解雇理由証明書だった。 処分内容が記載されたそれらに目を通す事なく、徳居はスマホをソファーに投げつけた。 「苦労してっ、苦労してTKに入ったのに……っ、聖さんの傍で働くために苦労したのにっ、それなのに……っ!私の邪魔をしたのはあの女なのにっ!どうして私だけがこんな目に遭うの!?」 徳居は、わっと大声で泣き喚く。 「あの女の毒牙から、聖さんを守りたかっただけなのにっ!ただ、それだけなのにっ!」 顔を覆って泣いていた徳居は、ふ、と伏せていた顔を上げた。 「──そう、そうよ……。あの女さえいなければ……!あの女に、聖さんは毒されているから、騙されているから……っ!」 徳居は投げたスマホを引っつかむと、急いで出かける支度をする。 普段使っていた通勤用の鞄を手に持ち、中にあるICカードを確認する。 「……このままじゃダメよ、戦わなきゃっ!」 徳居は正気を失ったような目で呟くと、よたよたと玄関に向かって歩いて行った。 ◇ 一方、TK株式会
もみじが、徳居を訴えるとは思わなかったのだろう。 もみじは優しい人間だ。 自分に被害がなければ、今までのもみじだったらそのまま不問にしていただろう。 だが、徳居の背後には胡桃がいる。 それに、胡桃の言いなりになって徳居はもみじを陥れようとした。 今回、デザイナーであるもみじはそもそもアクセス権限を持っていない。 だからもみじが無実だ、という事はすぐに判明した。 だが、もしもみじにも権限があったら? もみじは自分の名前を勝手に使われて、犯人にされる可能性があったのだ。 人から疑われて、調査対象になっていたかもしれない。 会社の損害を、もみじが払わなければいけないという事になったかもしれない。 今回はたまたま運が良かっただけで、この先も似たような事がまた起きるかもしれない。 だが、今回しっかり罪を追求して、徳居に指示をしたのが胡桃だと分かれば。 胡桃がきちんと罰せられれば。 同じことを繰り返さないかもしれない。 もみじは、そう考えたのだ。 だが、もともと心根が優しいもみじだ。 相手が悪い事をしたとはいえ、もみじは精神的にも相当辛いだろう。 (そんなもみじさんを、俺がしっかり支えないと……) 髙野辺は心の中で強く誓い、もみじに顔を向けた。 「もみじさんが、徳居さんの背後にいる妹まで追求したい事は分かりました。……まず、社内に今回の件は、徳居元社員による蛮行だったと発表します。……そして、もみじさんは、自身の名誉を傷つけられた事で、彼女を名誉毀損で訴えましょう」 「名誉毀損……」 「ええ、そうです。もみじさんはただの一般社員じゃありません。れっきとした、我が社のデザイナーだ。……それに、コンテストの受賞者でもある。あなたの名前を騙る事は、その信用や信頼を失墜させる大変酷い行為です」 髙野辺の説明に、もみじはこくりと頷く。 「徳居元社員に対して、民事訴訟を起こす──……それを、我が社でも発表します。そうすれば、きっとすぐに徳居さんに指示をした妹──嶋久志 胡桃の耳にも入るでしょう。徹底的にやりましょう、もみじさん」 髙野辺の強い視線を受け、もみじは深く頷いた。 頑張りましょう、と手を差し出してくれる髙野辺の手を、もみじはぎゅっと強く握った──。 ◇ 「出て、出てよ……!私、これからどうしたらいいの……っ」 徳居は、
真剣な表情で、強い意志の宿った瞳でキッパリと言い切るもみじ。 そんなもみじを見た髙野辺は、もみじに伸ばしていた手を下ろし、頷いた。 「──ええ、もみじさんが妹さんと戦うと言うなら。俺も力になります。協力させてください」 髙野辺の言葉に、もみじは一瞬だけ迷ったような表情を浮かべたがすぐにそれは消えた。 「ありがとうございます、髙野辺さん。お手伝いをお願いしたい事が出来たら、お願いしますね」 「ええ、もちろん」 にこり、と笑顔を返してくれる髙野辺に、もみじも笑顔を返す。 そして自分の顎に手を当て、頭の中を整理するように言葉を紡ぐ。 「胡桃は、不倫騒動で炎上するまでSNSでは多分そこそこ有名な人物でした。時々、胡桃から撮影とかインタビューの依頼があった、と自慢される事があったんです」 「インタビュー……?」 「ええ。ネットの記事を書く……記者?のような人を紹介された、とか……そんな事を自慢気に話された事があるんです」 「──なるほど」 もみじの言葉に、髙野辺が納得したように頷いた。 「……と言う事は、今回、何らかのきっかけでもみじさんの妹と徳居さんが繋がり、徳居さんが俺たちの写真を撮って、もみじさんの妹が知り合いの記者に写真を流した可能性が高いですね。……それで、徳居さんの話を鵜呑みにした記者が、俺の浮気記事を書いた……」 「……多分、そうなんだと思います。……髙野辺さん、徳居さんが胡桃の名前を出したって言ってましたよね?胡桃の言う通りにやったのに、って……。胡桃は、今回の件に関しても徳居さんに指示をしていたかもしれません……」 申し訳なさそうに告げるもみじに、髙野辺は頭を抱えたくなった。 部外者の言う事を真に受け、疑いもせず実行してしまう徳居の浅はかさ。 そして、そんな大胆な事を裏から指示をする胡桃。 「……信じられない。徳居さんがもし逮捕されたら、自分だって危ないのに……。彼女はその危険性も考えなかったのか……?妊婦なのに……?」 「胡桃は、私の事が嫌いですから……。私を陥れるためなら、形振り構わないのかもしれません」 「……自分は、もみじさんの夫を寝取ったのに……?妊娠までしたのに、それでも満足しないんですか」 嘘だろう?と言うように目を見開く髙野辺に、もみじもどうしてここまで胡桃に恨まれているのか。 憎まれ、毛嫌いさ
パタン、と背後で扉が閉まる音がした。 髙野辺は驚きに目を見開き、顔だけ扉に振り返る。 「──こもも。……胡桃?もみじさんの妹の名前が、どうしてあの女性の口から……」 髙野辺は呟き考えるように自分の口元に手を当てる。 そうして、はっとすると急いで廊下を歩き出した。 ◇ 「──もみじさん!」 「わっ!?」 デザイン室の扉が勢い良く開き、髙野辺が焦った様子で駆け込んで来る。 帰り支度をしていたもみじは、勢い良く入ってきた髙野辺にびっくりして声を上げた。 「ど、どうしたんですか髙野辺さん?」 「──彼女、徳居 朱音の口から、もみじさんの妹の名前が出てきたんです……!」 「え……っ。胡桃の名前が……?どうして……」 「俺にも詳しくは分からないのですが……もしかしたら今回、俺ともみじさんが写真を撮られた事も、それを記事にされた事も、妹さんが関わっているのかもしれません……。それと、今回我が社のデータを他社に売ったのも……」 そこでいったん言葉を切った髙野辺は、ちらりともみじを見る。 まさか自分の名前でログインされている、とはもみじも知らないだろう。 だが、当人が知らぬ間に犯人に仕立て上げられる。 そんな事が実際、起こったのだ。 巻き込まれたもみじにも、知る必要がある。 「……今回、他社に情報を売ったのは徳居さんでした。……その時、データを入手するために社外秘のサーバーにログインする時に、徳居さんはもみじさんの名前でログインしたんです」 「──えっ!?私の名前で、ですか!?」 ぎょっと目を見開くもみじに、髙野辺は申し訳なさそうに眉を下げ、説明をした。 そもそも、営業社員と会社の役員がログイン出来るサーバーの情報が他社に流れた。 デザイナーであるもみじは、そのサーバーへのアクセス権限は持っていない。 それに、ログインするためのIDもパスワードも発行されていない。 普通の営業社員だったらそれくらい簡単に分かる。 だが、徳居の目的は仕事ではなく髙野辺個人だったのだ。 だから会社のシステムも、仕事もどうでも良かった。 覚える必要がなかったのだ。 そのため、徳居はその基本的な情報すら頭に入れていなかった。 だからこそ、そんな信じられないミスを犯したのだが──。 「徳居さんが、こももの言う通りにやったのに、と呟いたのが去り際に







