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一〇一話:臆病者の刃

Author: 渡瀬藍兵
last update publish date: 2025-06-28 19:00:30

 やがて追いつかれたのは、三度目の角を曲がり損ねた時だった。

 背中に、冷たい衝撃。

 刃が肉を裂く感触はない。血も出ない。けれど魂の表面を鋭利な何かが抉る感覚は、肉体の痛みよりもよほど深く、よほど正確に悠斗の神経を灼いた。霊の刃は肌を素通りし、その奥にあるものだけを傷つける。身体は無傷のまま、中身だけが壊されていく矛盾。

「うっ……!!」

 膝が折れかける。視界が歪み、コンクリートの床が急激に近づいた。両手をついて踏みとどまったのは、意志の力というより反射だった。背中から腰にかけて広がる鈍痛が、立ち上がるという動作そのものを拒絶している。

 それでも、悠斗は立った。

 よろめきながら、また走る。もう走るとは呼べない速度で、壁伝いに、足を引きずって。

 背後の気配が変わっていた。

 さっきまでの怒号がない。暴れ回る足音もない。代わりに聞こえるのは、ゆったりとした足取り。そして——鼻歌でも歌い出しそうなほど弾んだ気配。

『どうやったら、オマエをもっと苦しめられるかなぁ……』

 振り返らなくても分かる。あの男は今、笑っている。満面の笑みを浮かべて、わざとペースを落として、獲物が逃げ惑う姿を眺めている。苛立ちに支配されていたほんの数分前とは別人だった。自分より弱い存在を痛めつけられるという、ただそれだけの事実が、黒崎剛三のすべてを満たしている。

 ——人とは、ここまで簡単に切り替わるものなのか。

 吐き気がした。恐怖とは違う、もっと根本的な嫌悪。この男を美琴の前に立たせてはいけない。獣ですらもう少し理由のある殺し方をする。

「はぁ……、ははっ……」

 不意に、笑いが漏れた。

 自分でも驚くほど自然に、乾いた笑声が喉から転がり出る。痛みと疲労の果てに辿り着いた場所で、悠斗は笑っていた。

 あんなに臆病だった自分が、ここにいる。霊を前にして震えるだけだった自分が、殺人鬼の囮を買って出て、挑発までして、刺されてなお走っている。怖くないわけがない。身体は限界をとうに過ぎている。けれどこの瞬間、後悔という感情だけは、どこを探しても見当たらなかった。

 母のようにはいかない。美琴のようにもなれない。それでも——その隣を、今は歩けている。

 今の自分が、嫌いではなかった。

『んだよ、何笑ってやがる。気でも狂ったかァ?』

 黒崎の声に、わずかな苛立ちが戻る。獲物が怯えていない。それが気に食わないのだ。

『命が惜しいんだったら、命乞いしてみせろよ。気分によっちゃあ、今は助けてやる』

「今は、だって?」

 悠斗は肩越しに振り返った。口元にはまだ、薄い笑みが残っている。

「ははっ。笑わせないでよ」

 声は掠れていた。けれど震えてはいなかった。

「あなたはそう言って結局人を殺すんだ。短い時間だけど、あなたのことはよく理解できた」

 足を引きずりながら、それでも悠斗は黒崎の目を見た。

「あなたはそういう臆病者だよ」

 沈黙。

 黒崎の表情が、凍った。笑みが剥がれ落ち、その下から露わになったのは——図星を突かれた者だけが見せる、あの歪み。歯を軋ませる音が、静まり返った通路に響く。忌々しげに細められた目の奥で、殺意が一段、色を濃くした。

『なら死ねやぁ!!!!』

 遊びの消えた声。全力の踏み込み。ナイフを振りかぶった黒崎が、悠斗の背中めがけて一直線に突進する。

 刃が届く、その刹那——

『やめろ黒崎!!』

 壁を突き破って、影が飛び込んだ。

『うぉ!?』

 石津明。工場の元持ち主の霊が、全身で黒崎に組みついていた。壁をすり抜けてきた勢いのまま、黒崎の腕を掴み、その身体を横へ押し倒す。ナイフの切っ先が悠斗の背中を掠め、空を裂いて逸れた。​​​​​​​​​​​​​​​​

「っ……石津さん……!」

 声が裏返った。石津の霊が黒崎を押さえ込んでいる——その光景に、悠斗の膝から力が抜けかける。

『黒崎、お前は何故そんなに人を殺したがる!?  お前も同じ人だろうに!』

 石津の声は怒りというより、痛みに近かった。かつての部下に、かつての工場主が問いかける。霊と霊が組み合い、互いの輪郭がぶつかるたびに淡い光の粒子が散る。

『うっせぇよジジィ!!  てめぇ、いままでどこにいやがった!?』

 黒崎が歯を剥く。石津の腕を振りほどこうともがきながら、その目には獣じみた歓喜すら浮かんでいた。殺す相手が増えた——ただそれだけのことを、この男は喜んでいる。

『……俺はお前に縛られ、喉を一突き。それでコンテナの中で息絶えた…!』

 石津の声が低く沈んだ。

『やっぱり、そんなことを忘れるくらい、お前にとって俺や、他人の命はどうだっていいってのか……!?』

『あぁ!  いいねぇ!』

 黒崎は笑った。心の底から楽しそうに。

『特にてめぇは俺に恥をかかせていたじゃねぇかよ!』

『恥だと?』

『他の連中の前で、やけに俺だけ目の敵みてぇに叱りつけてたよなぁ!? 忘れたとは言わせねぇぞ! あの時のてめぇのツラ、今でも覚えてんだよ——だから最初に殺してやったんだ。感謝しろや、一番最初に選んでやったんだからよぉ!』

 組み合いの均衡が、じわりと傾いていく。黒崎の怒りが力に変わり、石津の腕が少しずつ押し返されていた。悪霊の膂力は、憎悪の深さに比例する。そして黒崎の中に渦巻くものは、憎悪というにはあまりに幼い——叱られたことへの逆恨みだった。

『……そうか、お前にはあれが目の敵に感じていたんだな』

 石津の呟きに、悲哀が滲む。その声を聞きながら、悠斗は自分の無力さに唇を噛んだ。動かなければ。石津を助けなければ。けれど身体が言うことを聞かない。壁にもたれた姿勢から一歩を踏み出すことすら、今の悠斗には——

「悠斗っ!!」

 前方から、聞き覚えのある声。

 悠斗は目を疑った。薄暗い通路の奥から駆けてくる影。息を切らし、額に汗を浮かべた少年の顔が、非常灯の残光に照らされる。

「春雪……!?  なんでここに……!」

 ありえなかった。工場の鍵を取りに自宅へ戻ったはずの春雪が、こんな早く戻れるわけがない。往復の時間を考えれば——

 美琴だ。悠斗の思考が一瞬で答えに辿り着く。結界の設置に向かう途中、あるいはその最中に、美琴が春雪に何かを伝えたのだ。

「いいから、肩貸してやる……!」

 春雪が悠斗の傍らに滑り込み、その腕を自分の肩に回す。

「怪我は……してねぇけどしてるんだろ!?」

 霊感を持たない春雪には何も見えていないはずだった。黒崎も、石津も、この場で繰り広げられている死者同士の格闘も。それでも真っ直ぐにここへ来た。見えないものに囲まれた暗闇へ、躊躇なく飛び込んできた。

 悠斗が答えるより先に——

『オラァ! くたばり損ないがよぉ!! 二度目があると思ってんじゃねぇだろうなぁ!?』

 鈍い音。

 石津の胸に、黒崎のナイフが深く突き立てられていた。

『ゔっ……!』

 石津の身体が痙攣し、組みついていた腕から力が抜ける。霊の胸を貫く刃。実体のない身体を、実体のない凶器が抉る。その矛盾が、しかし確かな苦痛として石津の顔を歪めていた。

「石津さんっ!!」

 叫びが喉を裂いた。黒崎はナイフを引き抜くと、もう一度、石津の胸へ振り下ろそうとする。二度目を許せば石津が消滅しかねない。

「だ、誰かいんのか!?  殺人鬼の霊に追われてるんだろ!?」

 春雪の声が遠い。悠斗はその肩を振りほどき、最後の霊力を瞳に灯した。ほとんど消えかけた霊眼術——染まるはずの視界が、今はうっすらと色づく程度。それでも、霊に触れるにはこれで足りる。

 がら空きの背中へ、体ごとぶつけた。

 全体重を乗せた体当たりが、黒崎の無防備な背を捉える。ナイフが石津の胸に届く寸前、黒崎の身体が前のめりに崩れ、コンクリートの床へ叩きつけられた。

『てめぇ!!!! あぁもうマジでいい加減にしろや!! 何回体当たりしてくんだこのガキはよぉ!! 腸ぶちまけてやる!!』​​​​​​​​​​​​​​​​

 転倒した姿勢から跳ね起き、黒崎が悠斗を睨む。その目に宿る殺意は、もはや感情と呼べる域を超えていた。獣ですらない。壊れた機械のように、ただ破壊だけを求めて起動する何か。

 黒崎が地を蹴った。ナイフの切っ先が悠斗の胸を目指す——

 その瞬間、黒崎の全身を電流のようなものが貫いた。

『あがっ……! あがが…!!?』

 痙攣。四肢が意思に反して強張り、振り上げたナイフが空中で止まる。黒崎の顔が驚愕に歪んだ。

『な、なんだ……これ……!!  身体が……身体が動かねぇ……!!』

 五芒星の結界。五枚の御札が描く封印の陣が、完成したのだ。

 美琴が、間に合った。

 悠斗は崩れるように膝をつき、冷たい床に両手をついた。指先が震えている。全身が震えている。けれどその震えの中に、確かな安堵が混じっていることを、悠斗は静かに感じ取っていた。​​​​​​​​​​​​​​​​

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