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一〇九話:禁術・祓火

Penulis: 渡瀬藍兵
last update Tanggal publikasi: 2025-07-02 18:54:50

「本当に……するの?」

 悠斗の声は、ひどく低かった。押し止めたい気持ちが喉元までせり上がっているのに、それを掴む言葉だけが見つからない。目の前の美琴は静かに立っていて、その静けさがかえって揺るぎのなさを際立たせていた。

「ええ。それが、私の役目ですから」

 ──役目。

 美琴がその言葉を口にするとき、迷いはいつも消えている。優しさも苦しさも知ったうえで、それでも進むと決めた者の響き。悠斗はもう知っていた。こうなった彼女は、止まらない。いや、止められない。

「悠斗、そんなに考え込んでどうしたんだよ? 美琴ちゃん、なにをするってんだ?」

 春雪が戸惑ったように二人を見比べる。事情を飲み込みきれていない声だったが、その表情にはただならぬ空気だけはしっかり伝わっているのが見て取れた。

「私はこれから、殺人鬼を強制的に成仏させます」

「んと、それってあれか? テレビとかでよく霊媒師がやってるようなやつだよな?」

「違います」

 きっぱりと、美琴は否定した。

「あれは、祓うといっても成仏をさせるものではありません。その霊の居場所を奪って、立ち退かせるだけです」

 そこで一度、彼女は黒崎の方へ視線を向ける。拘束されたままの殺人鬼の霊は、うめき声のようなものを漏らし、苛立たしげに身体をよじっていた。鉄と血の残滓がこびりついたような気配が、まだあの場に沈んでいる。

「居場所をなくした霊は行く宛てを失い、やがて形を保てなくなります。同時に、霊としての存在感も薄れていく。それはつまり……」

「なるほどな……それは、ひでーな……」

 春雪の顔が引きつる。軽口を叩く余地もないらしく、声の端に素直な嫌悪が滲んだ。

「でも、私がこれから行うのは……もっと非情な行いです」

 その一言で、空気が変わった。

 美琴は声を荒げたわけでもない。ただ淡々と告げただけなのに、その静かさの奥にある決意があまりにも重い。

「私がするのは、禁術・禊火という術です……って、この説明は二度目になりますね。とにかく、その術を向けられる霊に、とてつもない苦しみを与える術だと認識してもらえれば」

『ん゛〜ッ!?』

 黒崎がひしゃげた声を漏らした。言葉の意味を正確に理解したわけではないはずなのに、本能だけで拒絶しているのだろう。

「それと同時に、術者にも代償が降りかかります」

「代償!? だから悠斗が……! そこまでする必要があんのか!?」

 春雪が思わず声を荒げた。ようやく繋がったのだ。さっきから悠斗の顔色が悪かった理由も、美琴の覚悟がただ事ではなかった理由も。

「はい」

 即答だった。

「他に考えれば……!」

「……春雪、無駄だよ」

 言いながら、悠斗は自分でもそれが苦い諦めに似ていることを知っていた。美琴を責めているわけではない。むしろ逆だった。彼女がどれほどの思いでそこへ立っているのか、少しでも分かってしまうからこそ、言葉が鈍る。

「こうなった美琴は、もう止められない。彼女は巫女だから、僕や春雪の考え方とは違うんだ」

 言い切ったあとで、胸の奥が鈍く痛んだ。

 役目。使命。救うために、自分ごと焼くような選び方。それは悠斗にはまだ完全には分からない。けれど、美琴がそこから逃げるつもりなど最初からないことだけは、嫌というほど分かってしまっていた。

「……! で、でもそれじゃ、お前も辛いだろ!?」

 春雪のその言葉は、まっすぐだった。

 だからこそ深く刺さる。喉の奥が詰まり、悠斗は一瞬だけ息を忘れた。辛い。そんなもの、決まっている。止めたい。代われるなら代わりたい。美琴にそんな痛みを背負わせたくない。胸の内には、そういう言葉ばかりがいくつも渦巻いている。

 それでも。

 彼女は止まらない。止まるつもりもない。ならば、その決意を無理やり引き裂くことだけが正しいのかと問われれば、悠斗にはもう答えられなかった。美琴がそこまでして成し遂げたいことなら、自分はそれを見届けるべきなのかもしれないと、そう信じるしかないのかもしれない。

「いいんだ」

 絞り出すように、悠斗は言った。

「彼女を……彼女を信じよう」

 「悠斗……」

 春雪の掠れた声が、すぐそばで止まる。

「先輩。いえ、……悠斗くん、ありがとうございます」

 不意に名前を呼ばれた、その一瞬だけだった。心臓が大きく跳ね、胸の奥が熱を帯びる。けれど美琴はすぐに視線を外し、ためらいを切り捨てるように黒崎へ向き直った。

「あなたに悔いがあれば、聞きましょう」

 言うと同時に、美琴の指が胸元で静かに動く。祈りとも印ともつかない複雑な形を結んだ次の瞬間、黒崎の口元を塞いでいた紅い膜が、薄氷みたいに音もなく解けた。

『ぷはっ!! お、おい! クソアマ! 俺になにしようってんだ!?』

 吐き出す息まで荒い。さっきまで拘束されていた苛立ちと、見えない不安がごちゃ混ぜになっている。

「あなたをこれから、強制的に成仏させます」

「あなたの罪はとてつもなく重い。きっとこの世とあの世を隔てる境にて、想像を絶する痛みに襲われるでしょう」

『は、はぁ!? ふざけんなよ!! 誰が成仏なんて……!』

 喚きかけた黒崎を、美琴はただ見た。その目は怒ってもいない。哀れんでもいない。ただ、裁きを前にした巫女の目だった。

「どうやら、あなたから悔やむような言葉は聞けそうにありませんね」

 わずかな間。

「……始めます」

「──かしこみ、かしこみ申す」

 ──空気が変わった。

 それは音ではなかった。風でもない。なのに場を満たしていた温度も重さも、目には見えない膜ごと入れ替わったように感じられる。春雪もさすがに異変を察したのだろう、息を呑んだまま声を失っていた。

「──白蛇の大御神、懸けまくも畏き御名を奉る。祓え給い清め給え」

『な、なんだ!? 何が起きるってんだ!?』

 黒崎の声が裏返る。さっきまでの威勢は、もうない。

「──いま此処に、禍を為す霊あり」

 美琴の声が響くたび、空間の輪郭そのものが引き締まっていく。目には見えないはずなのに、悠斗には見えた。彼女の足元から、濃い紅の火が滲むように立ちのぼっている。炎というより、熱そのものが形を持って集まっているようだった。

「──その穢れ、その執念、その罪科――御前に顕せ」

「──我が灯火を削り、言霊を立て奉る」

『ま、待て!! 俺が悪かった!! もう悪いことはしねぇ!! だから、やめてくれ!! なっ!? なぁ!?』

 黒崎が叫ぶ。縋るような声だった。

 あまりに軽い。あまりに遅い。吐き捨てるみたいに人を殺してきた男が、今さら命乞いだけは必死に並べ立てている。その惨めさに嫌悪が走る一方で、悠斗の背中には別の冷たさも這っていた。黒崎が怯えているのは、美琴の言葉ではない。この場に満ち始めた“本物”の何かだ。

 だが、美琴は止まらない。

 きっとこの異様さを肌で感じ取れているのは、自分と黒崎くらいなのだろう。彼女の周囲では、空気そのものが灼けていた。紅蓮の炎が噴き上がっているわけではない。けれど、そこに立つだけで身を焦がされそうな濃密な熱が、巫女の小さな身体を中心に渦を巻いている。

「──御札をもって道を定め、琴音の名をもとに、印をもって門を開く」

 結ばれた指先が揺れる。白く細いその指が、今だけは刃物みたいに鋭く見えた。

「──此岸と彼岸の隔てを、いま一息に穿ち通し、逃げ場なき境の火にて、穢れを灼き、魂を濾せ」

 詠唱が深まるたび、場の明度が落ちていく。いや、暗くなっているのではない。ほかのすべてが退いて、美琴の立つ一点だけが異様に濃くなっているのだ。

「──成仏せよ。拒むならば、身を焼くが良い」

  その直後だった。

 黒崎の全身から、炎が噴き上がった。火柱というには粘ついていて、煙というには輪郭がありすぎる。生き物のようにうねりながら、炎は黒崎自身を内側から食い破るみたいに膨れ上がっていく。

『ぎゃあ゙あ゙あ゙あ゙っ!!!!?』

 絶叫が、廃工場の空気を引き裂いた。黒崎は地を転がるようにもがき、自分の身体にまとわりついた炎を振り払おうとするが、消えるどころか勢いは増していく。いや、それだけではない。炎は燃え広がるほど色を深め、赤ではなく、闇そのものを煮詰めたみたいな黒へと変わっていった。

 悠斗には、それがただ焼いているようには見えなかった。

 まるで黒崎の内にこびりついていた穢れや執念や罪そのものを、一枚ずつ剥ぎ取っているようで。悲鳴のたびに削られていくのが肉ではなく、もっと奥の、言い逃れも取り繕いもできない何かに思えて、息が詰まる。

『あ゙、あ゙づい゙い゙ぃぃぃ!! お゙、お゙れが悪かったからあ゙ぁ!! 火を消してぐれぇぇぇ!!』

「……っ」

 喉がひきつる。あまりにも凄惨で、思わず悠斗は美琴を見た。

 彼女は目を逸らしていなかった。ただじっと、黒い炎に呑まれていく黒崎を見つめている。その横顔は冷たくはない。むしろ、見ているこちらが痛むほどに静かだった。けれど、瞳だけが揺れていた。ほんのわずかに、けれど確かに。

『嫌だァァァァ!!!! 消えたくない……! 消えたく……!!』

「あなたは罪を犯しました」

 美琴の声は震えていない。小さいのに、黒崎の絶叫を真っ直ぐ貫いた。

「あまつさえその罪を償うことなく、逃げた。あなたに、楽をして浄土へ上がる権利などありません」

 黒い炎が、ひときわ大きく脈打つ。

「もっと早く、自分の罪と向き合うべきでしたね」

 その言葉に返る声は、もう悲鳴とも言えなかった。

 やがて黒崎――いや、黒崎だった何かは、炎に輪郭を崩され、形を失っていく。腕も、顔も、怒りも、最後には何ひとつ留められないまま、黒い火の中でほどけ、細かな煤のように空気へ溶けていった。

 

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