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19.祈り奉る

Autor: 渡瀬藍兵
last update Fecha de publicación: 2026-07-23 11:28:38
──櫻井悠斗──

「……あ」

 止まっていた呼吸を思い出したように、僕は大きく息を吸った。

 鼻の奥に、古い埃と湿った壁の匂いが戻ってくる。

 白く清潔だった病室は消え、代わりに見えたのは、ひび割れと黒い染みに覆われた院長室の天井だった。

 誠也くんの泣き声が、まだ耳の奥に残っている。

 隣へ顔を向けると、月瀬さんは声もなく泣いていた。

 伏せられた睫毛から雫が落ち、膝の上で眠る誠也くんの頬を濡らしている。それでも彼女は涙を拭おうとせず、唇を固く結んだまま、その小さな顔を見つめ続けていた。

 ……なんだったんだ、今のは。

 誠也くんの過去が理解できなかったわけじゃない。

 むしろ、分かりすぎてしまった。

 僕自身が嗅いだはずのないお母さんの匂いも、触れたはずのない木彫りの犬の凹凸も、思い出そうとすれば鮮明によみがえる。

 ただ映像を見せられたんじゃない。

 まるで僕自身が彼の人生の一部を生きたかのように、その寂しさも、苦しさも、この身に――いや、魂にまで刻み込まれている。

 僕が理解できなかったのは、そんなものを他人へ見せた月瀬さんの力だ。

 霊能力者。

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  • 縁が結ぶ影   21.覆された価値観

    「でさぁ、優花にめちゃくちゃ叱られたんだよ」「そりゃそうでしょ。まったく……本当に危ないところだったんだよ? 翔太はもう少し、自分の軽はずみな行動を反省して」「お前まで優花みたいなこと言うなよ……」 雲一つない青空の下。 僕は学校の屋上で、無事に帰ってきた幼なじみと昼休みを過ごしていた。 フェンスを抜ける春の風が、翔太の持つパンの袋をかさかさと鳴らしている。 目の前で不満そうに頬を膨らませている姿を見ると、本当に助けられたのだと、ようやく実感できた。 あのあと、月瀬さんと僕は廃病院の探索を続けた。 霊安室があったのは、病棟の裏手。 草木に覆われた細い渡り廊下の先に、建物から切り離されるようにして建てられていた。 患者にとって、霊安室は死を連想させる恐怖の対象になる。だから病室の窓から見えない場所へ造られたのではないか――と、月瀬さんは話していた。 言われてみれば、確かにそのとおりだと思う。 その霊安室で、僕たちは翔太たちを発見した。 翔太、奏汰、蓮、遊助。 帰ってこなかった四人全員が、折り重なるように床へ倒れていた。幸い呼吸はあり、外傷も見当たらなかった。 月瀬さんが巫術を使うと、四人は一人ずつ意識を取り戻した。 そして、今に至る。 翔太たちは警察から事情を聞かれたあと、学校と家族から、これでもかというほど叱られたらしい。 原稿用紙三枚分の反省文を書かされたうえに、今後は心霊スポットへ決して近づかないという誓約書まで提出させられたという。 先生たちの執念すら感じる対応だった。 けれど、一歩間違えば四人とも帰ってこられなかったのだ。無理もない。 ただ、僕の胸中は少し複雑だった。 翔太たちにとって、桜織旧病院は恐ろしい幽霊に襲われた場所として記憶されるのだろう。 その幽霊が本当は、ずっと誰かに見つけてもらいたかった、寂しがり屋の男の子だったことを知るのは、僕と月瀬さんだけだ。 誠也くんは、これからも恐ろしい霊として噂され続けるのかもしれない。 そう考えると、胸の奥が少しだけ寂しくなった。「そういえばさ、新しい裏サイトができたんだよ」「えっ? 裏サイトって閉鎖されたんじゃなかったの?」「知ってるか、悠斗。俺たち学生はな、『するな』と言われたことほど、やらずにはいられない生き物なんだぜ」「何をそんな当然みたいに言っ

  • 縁が結ぶ影   20呪われた巫女

     最後の光が消えてから、どれほどの時間が流れたのだろう。  僕は天井を見上げたまま、しばらく動けずにいた。  誠也くんたちが昇っていった場所には、もう何もない。ひび割れた天井と、長い年月をかけて広がった黒い雨染みが残されているだけだ。  それでも、あの白い光はまだ瞼の裏に焼きついていた。 「先輩、お疲れさまでした」  隣から聞こえた声に、ようやく顔を向ける。  月瀬さんは神楽鈴を鞄へ戻すところだった。涙の跡が頬に残り、肩もわずかに落ちている。声は普段と変わらなかったけれど、その顔には隠しきれない疲れが滲んでいた。 「月瀬さんこそ。僕は……何もしてないけどね」  自分でも困るくらい、乾いた笑いが漏れた。  誠也くんを見つけたのも、凍りついていた心を解いたのも、最後に家族のもとへ送り届けたのも、すべて月瀬さんだ。  僕はただ、その隣で見ていただけだった。 「いいえ」  月瀬さんは鞄を閉じる手を止め、まっすぐ僕を見た。 「『かくれんぼをしよう』と、最初に提案してくださったのは先輩です」 「でも、月瀬さんには分かってたんでしょ? 誠也くんが、本当は見つけてほしがってたこと」 「想いを読み取れることと、その子に必要な手を差し伸べられることは、同じではありません」  月瀬さんは、誠也くんが眠っていたソファへ目を向けた。 「私は誠也くんを、救うべき御魂として見ていました。けれど先輩は、私の言う通り寂しくて誰かと遊びたがっている、ひとりの男の子として見てくださった」 「それは……」 「術で魂の縛めを解くことはできます。ですが、閉ざされた心を無理に開くことはできません。最後にこちらの手を取るのは、その御魂自身です」  そこで、月瀬さんは再び僕を見た。 「誠也くんが私たちを信じ、手を伸ばしてくれたのは、先輩が一緒に遊んでくださったからです。それに、最後にかけた言葉も――あの子が自分の人生を受け入れるために、必要なものでした」 「でも、僕じゃなくても……」 「どうか、『僕でなくてもできた』と、ご自分のしたことまで消してしまわないでください」  柔らかな声だった。  それなのに、今度は言い返せなかった。  僕の言葉を聞いたときに浮かべた、誠也くんの笑顔を思い出す。  僕が自分の言葉を否定してしまえば、あの子が受け取ってくれた想いまで嘘に

  • 縁が結ぶ影   19.祈り奉る

    ──櫻井悠斗── 「……あ」  止まっていた呼吸を思い出したように、僕は大きく息を吸った。  鼻の奥に、古い埃と湿った壁の匂いが戻ってくる。  白く清潔だった病室は消え、代わりに見えたのは、ひび割れと黒い染みに覆われた院長室の天井だった。  誠也くんの泣き声が、まだ耳の奥に残っている。  隣へ顔を向けると、月瀬さんは声もなく泣いていた。  伏せられた睫毛から雫が落ち、膝の上で眠る誠也くんの頬を濡らしている。それでも彼女は涙を拭おうとせず、唇を固く結んだまま、その小さな顔を見つめ続けていた。  ……なんだったんだ、今のは。  誠也くんの過去が理解できなかったわけじゃない。  むしろ、分かりすぎてしまった。  僕自身が嗅いだはずのないお母さんの匂いも、触れたはずのない木彫りの犬の凹凸も、思い出そうとすれば鮮明によみがえる。  ただ映像を見せられたんじゃない。  まるで僕自身が彼の人生の一部を生きたかのように、その寂しさも、苦しさも、この身に――いや、魂にまで刻み込まれている。  僕が理解できなかったのは、そんなものを他人へ見せた月瀬さんの力だ。  霊能力者。  巫女。  それを聞いてなお、今起きた出来事が現実だとは信じきれなかった。  幽霊が見える僕でさえ、他人の過去を、その痛みごと追体験するなんてあり得ないと思う。  それでも、この胸に残る痛みだけは偽物じゃない。  僕はもう、誠也くんがどれほど家族に会いたかったのかを知ってしまった。 「月瀬さん……今のは……」  沈んだ声で尋ねると、月瀬さんは濡れた睫毛を伏せた。 「先輩。お話は、すべてが終わったあとで」  わずかに震えていた声が、次の言葉では静かに整えられる。 「今はまず、誠也くんを送り届けなければなりません」 「送り届ける……?」 「私たちが彼の過去を見届け、その想いを受け取ったことで、誠也くんをこの場所へ縛っていた未練は完全に解けました」  月瀬さんは誠也くんをそっと抱き上げると、膝の隣――古びたソファの上へ優しく寝かせた。 「彼がここで生きていたことを、私たちは知りました。もう、ひとりで記憶を抱えて、この場所に留まり続ける必要はありません」  それから、傍らに置いていた鞄を開く。 「これより、誠也くんの御魂を、在るべき場所へとお還しします」  鞄

  • 縁が結ぶ影   18.夢と現の狭間で

    「誠也っ!」 病室の外から、聞き間違えるはずのない声が響いた。「お母さん……?」 答える間もなく、扉が勢いよく開く。 お母さんは転びそうなほど慌てて僕のところまで走ってくると、ベッドに横たわる僕を軽々と抱き上げた。「わぁ……っ!」 そのまま、ぎゅうっと胸の中へ閉じ込められる。 身体が潰れちゃうんじゃないかと思うくらい、強く、強く。 久しぶりに嗅いだ、お母さんの匂いだった。 ずっと会いたかった。忘れるはずなんてなかった。胸の奥まで温かくなる、僕がいちばん安心できる匂いだ。 僕の身体は思うように動かなかったけれど、どうにか指先を持ち上げ、お母さんの服を掴んだ。「ごめんね……誠也。長い間ひとりにして、本当にごめんね……」 耳元で、お母さんが何度も謝ってくる。「大丈夫だよ、お母さん。誠也は大丈夫だから。それより、お仕事は?」 そう尋ねても、お母さんは答えてくれなかった。 ただ、僕を抱きしめる力が、もっと強くなる。「お、お母さん……誠也、潰れちゃうよ」 困ったように言ってみた。 いつもなら、きっと笑いながら腕を緩めてくれるはずなのに、お母さんは何も言わない。 僕を抱いたまま、小さく震えていた。「どうしたの? 何か、悲しいことがあったの?」 お母さんがゆっくりと顔を上げる。 その顔は、涙でぐしょぐしょになっていた。「お母さん……どうして泣いてるの? 誠也のせい?」「ううん、違うの。誠也は何も悪くないわ。ただ……悲しいの」 そのとき、もう一度、病室の扉が開いた。「お父さん! お兄ちゃん!」 嬉しくて、いつもよりずっと大きな声が出た。 お父さんはどこか暗い顔をしていた。それでも僕と目が合うと、いつものように優しく笑ってくれた。 お兄ちゃんは――どうしてだろう。 僕に会えたはずなのに、今にも泣き出しそうな顔をしていた。「誠也、お見舞いに来たんだ。それでさ、渡したいものがあるんだよ」「渡したいもの? なあに?」 お兄ちゃんが僕の前へ差し出したのは、小さな木

  • 縁が結ぶ影   17.残された時間

    「ゲホッ、げほっ……」 胸の奥を引っかかれるような咳が続いて、僕は口元を押さえた。 白い布に、小さな赤い染みがついていた。 まただ。 誰かに見つかる前に、僕は布を小さく折り畳み、枕の下へ隠した。 僕がこの病院へ入院してから、もうすぐ二か月になる。 お母さんとお父さんは、ときどき病室へ来てくれる。来るたびに「もう少しだからね」と言ってくれるけれど、僕はまだ退院できないみたいだった。 咳は、前よりもひどくなっている。 夜になると何度も目が覚めるし、咳き込みすぎて息ができなくなることもあった。最近は、口から赤いものが出てくる回数も増えている。 けれど、そのことはなるべく誰にも言わないようにしていた。 扉を叩く音がして、白衣を着たおじいさんが病室へ入ってきた。「誠也くん、おはよう。今朝の具合はどうかな」「じいちゃん先生、おはよう!」 僕はすぐに身体を起こそうとした。 けれど腕に力が入らなくて、途中で背中がベッドへ戻ってしまう。それでも、何もなかったように笑ってみせた。「誠也はね、元気だよ!」「そうかい」 じいちゃん先生は、いつもの優しい顔で笑った。 それから僕のそばまで来ると、冷たい聴診器を胸に当てた。「少しだけ、じっとしていておくれ」「うん」 息を大きく吸おうとすると、すぐに胸が苦しくなった。 我慢しようとしたけれど、喉の奥がむずむずして、また小さな咳が出てしまう。 じいちゃん先生は聴診器を外すと、僕の顔を静かに見た。「誠也くん。私はね、お医者さんなんだ」「うん。知ってるよ」「具合の悪いところを隠されてしまうと、誠也くんを治してあげられなくなってしまう。苦しいときは、苦しいと言っていいんだよ」 声はいつもと同じように優しかった。 だから、すぐにはわからなかったけれど――たぶん、僕は怒られたのだと思う。「……ごめんなさい」「謝らなくていい。ただ、私には本当のことを教えてほしいんだ」「うん」 僕は頷いた。 けれど、本当のことは言えなかった。

  • 縁が結ぶ影   16.約束

     ──山口誠也── 僕は、車の後ろの席に座っていた。 手には、緑色のロボットのおもちゃ。 窓の外では、家や電柱が後ろへどんどん流れていく。僕はロボットを膝の上に立たせながら、ぼんやりとその景色を眺めていた。「誠也……」 前の席から、お母さんの声が聞こえた。「強い身体に産んであげられなくて……ごめんね」 また、悲しそうな声だった。 だから僕は、お母さんに聞こえるように、いつもより大きな声で答えた。「誠也なら大丈夫だよ! お医者さんが言ってたんだ。誠也は強い子だね、って!」「……誠也」「そうだな」 車を運転していたお父さんも、前を見たまま頷いた。「誠也は強い子だ。病気なんかに負けないよな」「うん!」 僕は大きく頷いて、お母さんの返事を待った。 笑ってくれるかな、と思ったから。 だって、お母さんはいつも悲しそうなんだ。 僕が病院から帰ってくると、ケーキを作ってくれる。僕が食べたいと言ったものを、何でも作ってくれる。 おもちゃだって、前よりたくさん買ってくれるようになった。 嬉しいはずなのに、お母さんは僕が喜ぶたび、今にも泣きそうな顔をする。 どうしてなんだろう。 僕のかかった病気は、そんなに――。「げほっ、げほっ……!」 いきなり胸の奥がぎゅっと縮んだ。「げほっ……ごほっ、ごほっ!」 熱い何かが喉までせり上がってくる。 息を吸いたいのに、咳ばかりが出て、うまく息を吸えない。「誠也!?」 お父さんが急いで車を道の端へ止めた。 お母さんは前の席から身体をひねり、僕の口元へ白いハンカチを当ててくれる。「大丈夫よ、誠也。ゆっくり息をして。大丈夫だからね」 お母さんの手が、何度も背中を撫でてくれた。 しばらくすると、少しずつ咳が治まっていく。 けれど、僕の口を拭いてくれた白いハンカチは、赤く染まっていた。 その赤いところが怖くて、僕は見なかったことにした。 僕は、けっかくという病気になってしまったらしい。 咳がた

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