ログイン余命宣告を受けたその日、久我千景が目にしたのは、最愛の夫・玲司が、初恋の女である鷹宮香澄とその子供の誕生日を優しく祝う姿だった。 かつては、誰よりも真摯に千景のバイオリンに耳を傾けてくれた優しい夫。 けれど今の玲司は、冷徹な瞳で千景を睨み、妻としてではなく、まるで憎むべき相手のように扱ってくる。 大学時代の先輩・成瀬奏人に支えられながら、千景は少しずつ真相へと近づいていく。 しかしその一方で、玲司はまるで正気を失ったかのように、痛みを滲ませた執着を千景へ向け始める。 「頼む……俺から離れないでくれ」 縋るように告げる玲司を、千景は冷めた瞳で見つめ返した。 「私はもう、あなたに愛されたいとは思っていない」
もっと見る玲司はスマホを耳に当て直し、私に背を向ける。 「……わかった。今から行く」 掠れていたはずの声には、もう迷いがなかった。 「玲司……?」 呼び止めても、彼は振り返らない。 さっきまで私たちの子供を、生まれてこない方がよかったと言っていた人が、別の女の妊娠を告げられた途端、そのもとへ駆けつけようとしている。 あまりにも残酷だった。 それでも一言ぐらい、私に何か言い残してくれるのではないか。 そう期待したけれど、玲司の足音は遠ざかっていくばかりだった。 やがてその背中は墓石の並ぶ道の向こうへ消え、私は冷たい風の吹き抜ける墓園に一人取り残された。 追いかける気力はなく足元から力が抜け、その場に膝をつく。 目の前には、白峰紗良と刻まれた墓標がある。 添えられた遺影の中で、紗良さんは穏やかに笑っていた。 「……あなたは、どう思うの?」 問いかけても、答えが返ってくるはずはない。 「玲司の言っていることは、本当なの?」 私の母が、娘である私を救うために紗良さんを見捨てた。 玲司の口から突きつけられた話は、あまりにも衝撃的だった。 母がそんなことをするはずがないとそう信じてきた。 誰よりも患者に真摯に向き合い、自分の時間を削ってまで命を救おうとしてきた人だ。 私に対して厳しいことはあっても、医師として間違ったことをする人ではない。 けれど、三年前の記憶が頭をよぎる。 病室で目を覚ました私を見下ろしていた母の顔。 無事だったことを喜んでいるはずなのに、なぜか泣きそうな表情をしていた。 安堵だけではなく、何かに怯え、悔やみ、自分自身を責めているような瞳だった。 あのときは、手術で私を救えなかったかもしれない恐怖が残っているのだと思っていた。 だけど、本当にそれだけだったのだろうか。 母は、私が眠っているあいだに何をしたの? 生まれて初めて、母に対する疑念が胸に芽生えた。 玲司が何かを誤解しているのだと思いたい。 それなのに、母のあの表情を思い出すたび、玲司の話を完全には否定できなくなる。 息をするたびに胸の奥が痛んだ。 私は乱れた心を落ち着かせるように、鞄からハンカチを取り出した。 墓石の表面には、雨に運ばれた砂埃が薄く付着している。 水を含ませたハンカ
玲司の眉が僅かに動いた。「三年前に知っていたんでしょう?」「ああ」「そのときに話してくれればよかったじゃない」 声が震える。 それでも、目だけは逸らさなかった。「あなたが話したことが事実なら、お母さんのしたことは、謝って許されるようなことじゃないと思う」 自分の口から母を責める言葉を発するたび、胸の奥を刃物で切り裂かれているようだった。 母は私を救うために、紗良さんを見捨てたのかもしれない。 それでも、その可能性から目を背けるつもりはなかった。「私が何も知らなかったからって、紗良さんの死と関係がないなんて言うつもりもない。お母さんが本当にあの人を見捨てたのなら、私はその事実と向き合わなきゃいけないと思ってる」「今さら何を言ったところで、紗良は戻らない」「分かってるわよ!」 思わず声を張り上げると、墓園の静寂に私の声が響いた。 冷たい風が木々を揺らし、葉の擦れる音が耳に届く。「だから聞いてるの。どうして、三年間も何も話してくれなかったの?」 玲司は黙ったまま、紗良さんの墓石を見つめていた。「私がお母さんに確かめることもできた。二人で記録を調べて、何があったのか突き止めることだってできたかもしれない」「お前に話したところで、何が変わる」 吐き捨てるような声だった。「少なくとも、何も知らない私を三年間も憎み続けることにはならなかった!」 玲司の表情が険しくなるけれど、もう止まれなかった。「私はずっと、あなたの気持ちが変わった理由を考えてた。何か悪いことをしたのかもしれない。私が気づかないうちに、あなたを傷つけたのかもしれないって……何度も何度も、自分を責めた」「お前が苦しむのは当然だ」「本当にそう思っているの?」 玲司の言葉を遮る。「私が苦しめば、紗良さんは戻ってくるの?」「黙れ」「私を傷つけ続ければ、あなたは救われるの?」「黙れ!」 怒声に、肩が跳ねた。 胸の奥が竦み、逃げ出したい衝動に襲われる。 それでも、ここで怯んではいけなかった。「あなたは私を罰していたんじゃない」 震える声を押し出す。「自分自身を罰するために、私を傷つけていたのよ」 玲司の顔から、感情が消えた。 否定も、怒りもしない。 その沈黙が、何より雄弁に答えを語っていた。「私は紗良さんに申し訳ないと思う。お
玲司の言葉が、胸の奥深くへ突き刺さった。 息ができず、目の前にいる玲司の顔も、墓石に刻まれた名前も、すべてが滲んでいく。「私が……紗良さんを……?」 ようやく絞り出した声は、自分のものとは思えないほど掠れていた。 事故に遭ったことは覚えている。激しい衝撃と、全身を焼くような痛み。 目を開けたときには、真っ白な病室の天井があった。 けれど、その裏側で一人の少女が命を落としていたなんて、知るはずもなかった。「三年前、俺は紫苑医科大学附属病院に残されていた内部資料を調べた。正式な手術記録だけじゃない。変更前の予定表や看護記録、当直医が残した報告書までだ」 玲司が私へ視線を戻す。「朝霧美玲は、娘であるお前の命を救うことを選んだ。紗良の命と引き換えにな」 視界がぐらりと揺れる。 倒れそうになり、私は墓石へ手をついた。 冷たい石の感触が、掌から身体の奥まで伝わってくる。「突然、執刀医が変更されたことで現場は混乱する。手術の手順も人員も組み直さなければならなかっただろうから引き継ぎにも時間がかる」 玲司は吐き捨てるように言う。「そこまでのことは記録なんてされたないが、容易に想像がつく。それで紗良の手術は遅くなった」 玲司は、手のひらから血でも出るんじゃないかと思うほど拳を握りしめた。「ようやく手術を始めたときには、紗良の容体はさらに悪化していた。大量出血を止めることができず、手術中に死んだ」「そんな……」 お母さんが私の命を救おうとしたことを、責めることなどできなかった。 けれど、その結果として紗良さんが死んだのだとすれば、私は何を思えばいいのだろう。「病院は、紗良の死を事故による損傷が激しく、救命が困難だったためだと処理した」「それは、嘘だったの?」「紗良の怪我が重かったことは事実だ。美玲が執刀していれば、必ず助かったとも言い切れない」 玲司の言葉に、わずかに息を吐く。 けれど、安堵することなど許されなかった。「だが、助かる可能性はあった」 玲司は低く言い切った。「その可能性を奪ったのは、突然の担当変更と、それによって生じた手術の遅れだ」 胸が締めつけられる。「正式な記録には、美玲が紗良の手術に関わる予定だったことは残されていない。執刀医の欄には、実際に手術を担当した医師の名前しかなかった」「
【玲司side】 紗良と初めて言葉を交わした日のことは、今でも覚えている。 星見の丘へ預けられて間もない頃、俺は施設の裏庭にある古びたベンチに、一人で座っていた。 ここでは誰も信用するつもりはなかった。 そんなふうに思っていた俺の隣へ、紗良は何の断りもなく腰を下ろした。「これ、半分あげる」 差し出されたのは、小さな袋に入ったビスケットだった。「いらない」「でも、お腹鳴ってるよ」「鳴ってない」「鳴ったよ。ぐうって」 紗良はそう言って笑うと、ビスケットを二つに割った。 力加減を間違えたのか、片方は大きく、もう片方は随分と小さかった。 紗良はそれが当然だと言うように、大きい方を俺へ差し出した。「こっち、お兄ちゃんの分」「俺はお前の兄貴じゃない」「私より大きいから、お兄ちゃんでいいの」 勝手なことを言う奴だと思った。 それなのに、差し出されたビスケットを拒むことはできなかった。 口に入れると、ひどく甘かった。 それから紗良は、何かにつけて俺の後をついて回るようになった。 眠れない夜には、職員に見つからないよう廊下を抜け出し、俺の布団へ潜り込んできた。「また怖い夢を見たのか」「見てないよ」「なら戻れ」「お兄ちゃんが怖い夢を見そうだったから来たの」 紗良はそう言い張り、布団の中で俺の手を握った。 その温もりがある間だけは、母を失った夜のことを思い出さずに眠ることができた。 紗良が年上の子供たちに囲まれていたこともあった。 大人しくて言い返せない紗良は、配られたばかりの菓子を奪われそうになっていた。 気づけば俺は、相手の胸倉を掴んでいた。 殴られ、地面に倒されても、紗良の前から退かなかった。 騒ぎを聞きつけた職員が来る頃には、俺の頬は腫れ、手のひらから血が滲んでいた。「お兄ちゃんの馬鹿」 医務室から包帯を持ち出してきた紗良は、泣きながら俺の手に巻きつけた。 包帯は緩く、結び目も不格好で、少し指を動かしただけで解けそうだった。「下手くそだな」「うるさい。お兄ちゃんが怪我するから悪いんだよ」「お前が何も言い返さないからだろ」「だって、お兄ちゃんが助けてくれると思ったから」 あまりにも真っ直ぐに言われて、俺は何も返せなかった。 血の繋がりなんて関係なく。紗良にとって俺は
面会を終えてICUの外へ出ると、今度は事務員が私を待っていた。「久我様、入院手続きと費用についてご説明があります」「……費用?」「集中治療室での管理になりますので、通常の入院より費用が高額になる可能性があります。また、今後の治療内容によっては、保険適用外の費用や差額室料、保証金なども発生いたします」 事務員はそう言って、差し出してき書類を受けとる。 私はそこに記載された金額を見て、息が止まった。「……こんなに?」 私の貯金をすべて使っても、到底足りない額だ。「まずは入院保証金として、こちらの金額をお願いしております」「今日中に、ですか?」「原則としては二十四時間以内です
聞き間違えるはずがない、香澄の声だ。 頭が真っ白になりかけながらも、必死に言葉を絞り出した。「お願い……少しだけでも来て……!」『千景』 低く、面倒くさそうな声だった。『自分の母親のことだろ? それぐらい自分で対応しろ』「……え?」『病院なら医者がいる。俺が行ったところで何ができる』「でも……」『明日の朝には家に帰る。その時なら話を聞いてやる』 プツッ、と一方的に通話が切れた。 耳元で鳴り続ける無機質な電子音だけが聞こえるスマホを握ったまま動けなかった。 微かに感じた希望は、そもそも私の気のせいだった。 窓の外では、イルミネーションが流れていく。今日はクリスマス
息ができない。 視界が滲む。 潰れた車体と瓦礫の隙間から、かろうじて外の光だけが見えていた。 遠くで、誰かの声がする。「香澄! 大丈夫か!?」 切迫した玲司の声で、意識が引き戻された。 私は必死に顔を上げる。 けれど、玲司が真っ先に駆け寄ったのは、私ではなかった。 助手席側にいた香澄だった。「やだ……っ、痛い……!」「大丈夫だ。今助けるからな!」 香澄は泣いていた。 腕から血を流していたけれど、意識ははっきりしている。身体も動いている。 それなのに玲司は、瓦礫に押し潰された私ではなく、真っ先に彼女の方へ駆け寄った。 私は……? 声を出そうとしても、喉が震える
「申し上げにくいのですが……久我さんに残された時間は、このままだともうあまり多くありません」 「え……?」 真っ白な診察室で、私は医師の言葉を聞き返すことしかできなかった。 久我千景(くが ちかげ)。 それが、私の名前だ。 数年前の事故で負った怪我の経過を見るため、いつものように病院へ来ただけだった。 今日も、形式ばかりの説明を受けて終わる。 そう思っていた。 けれど、医師の口から告げられたのは、あまりにも予想外の言葉だった。 「先日の血液検査と追加検査の結果、久我さんは血液を作る骨髄そのものが壊れていく病気だと分かりました」 「血液を作る骨髄が壊れる病気…
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