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第4話

Author: 狐坂
頬を打たれ、顔が横へ弾かれる。切れた口の端から、血がにじんだ。

母の瞳が、わずかに揺れる。叩いた手が宙で止まった。目の前にいるのが自分の娘だと、ようやく気づいたようだった。

私は母を見つめ、静かに尋ねた。

「お母さん、今になって手を止めるの?」

母の喉が小さく動く。

その瞬間、望が泣き崩れた。

「お姉ちゃん、そんなふうにお母さんを見ないで……悪いのは私だから、お母さんを責めないで……お願い……」

母の目に浮かんだ一瞬の動揺は、たちまち怒りに塗りつぶされた。

「望がここまで言ってるのに、それでもこの子を謝らせる気なの?」

パシッ――

二度目の平手打ちが飛んだ。

耳の奥でキーンという音が鳴り響き、頬の感覚が完全に消えた。

浩二が思わず一歩踏み出す。

しかし母が彼の腕をつかみ、冷たく言い放つ。

「母親が娘をしつけているだけよ。浩二さんが口を挟むことじゃないわ」

望は口元を押さえ、涙を流す。

「お母さん……もうお姉ちゃんを叩かないで。お姉ちゃんだって、つらいんだから……」

その言葉を聞いた母の目は、さらに険しくなった。

「つらいからって、周りを巻き込んでもいいっていうの?」

母は私のスマホを奪い取り、私の指を無理やり押し当ててロックを解除した。

私は抵抗した。

その拍子に脚の傷が引きつり、真っ白な包帯が瞬く間に赤く染まる。

母はスマホを浩二へ投げるように渡した。

「先の投稿を削除して、代わりに訂正文を投稿しなさい。美幸は転倒したショックで気が動転し、事実とは異なることを書いてしまった。結婚式は中止ではなく延期。望に関する噂も事実無根――そういう内容で」

浩二はスマホを持ったまま、ためらっていた。

私は彼を見つめる。

「……やってみたら」

彼は私と目を合わせようとしなかった。

「美幸、まずは落ち着こう。ケガもしてるんだ。これ以上、ことを大きくするな」

そう言うと、彼は画面に視線を落とし、文字を打ち始めた。

私は、ふっと笑ってしまった。

痛みが限界を超えると、人は本当に涙も出なくなる。

母は私から目を離すと、医師に向かって言った。

「先生、この子に鎮静剤をお願いします。明らかに情緒不安定で、正常な判断ができていません」

医師は戸惑った表情を浮かべる。

「すみません。患者さんの意識ははっきりしています。現時点で鎮静剤を使うほどではありません」

母はバッグから身分証を取り出し、有無を言わせぬ口調で続けた。

「私はこの子の母親です。それに、災害対策委員会の顧問でもあります。この子は昨夜、大きな精神的ショックを受けていて、自傷行為や突発的な行動に出るおそれがあります。適切に対応してください」

母はそう言って、私の「正常」を、「病気」にすり替えた。

看護師が困ったように私を見る。

私は布団の端を握りしめ、かすれた声で言った。

「……違います」

母はまばたきひとつしなかった。

「本人に病識がないケースも少なくありません」

そのときだった。

望が突然、壁にもたれかかりながら弱々しくつぶやく。

「お母さん、頭がくらくらする……」

母は反射的に私から離れ、望を抱きしめた。

「望、大丈夫?また息が苦しいの?」

浩二もすぐに駆け寄る。

浩二の母は慌てて医師を呼んだ。

病室のなかの全員が望のほうへ向かい、私に背を向けた。

私はベッドに横たわったまま、叩かれた頬の熱を感じていた。

脚の傷口はまた開き、スマホは浩二に取り上げられ、仕事さえ、母は奪おうとしていた。

しまいには、正気でいることさえ「情緒不安定」と決めつけられようとしている。

その瞬間、私はずっと昔のことを思い出した。

12歳のあの日。

豪雨の日に転んで腕を骨折した。

泣きながら母に電話すると、返ってきたのはこんな言葉だった。

「今日は望の司会コンテストの日なの。あの子は緊張しやすいんだから。自分で保健室へ行きなさい。お母さんを困らせないで」

私は保健室で、日が暮れるまでひとりきりで待っていた。

ようやく母が迎えに来て、最初に言ったのは――

「望が一等賞を取ったのよ。お姉ちゃんなんだから、一緒に喜んであげなさい」

私は、何年も望のために喜び続けた。そして何年も、自分の痛みに耐えた。

それでも、あの人たちには足りないらしい。

みんなが望を取り囲んでいる隙に、看護師がそっと私の予備のスマホを布団の中へ滑り込ませた。

「裏口のエレベーターから出られます。早く!このままでは、本当にお母さんが鎮静剤を使わせるかもしれません」

私はスマホを握りしめ、歯を食いしばって布団をはねのけた。

足を床につけた瞬間、脚の傷が裂けた。血が包帯を伝って落ちる。

壁に手をつきながら、一歩、また一歩と裏口へ向かう。もう少しでドアノブに手が届く。

そのとき、背後から浩二の声がした。

「美幸」

全身がこわばった。

浩二の手には、私のスマホが握られていた。画面には、彼が勝手に書き換えた投稿。

【転倒のショックで気が動転し、事実とは異なる投稿をしてしまいました。結婚式は延期いたします。関係者への憶測や誹謗中傷はお控えください】

私は喉がひりつくような笑い声を漏らした。

「浩二……本当に最低」

彼の顔から血の気が引く。

「脚からまだ血が出てる。もうやめよう」

そう言って手を伸ばしてくる。

私はその手を思いきり振り払った。

背後のワゴンにぶつかり、トレーや医療器具が大きな音を立てて床に散らばった。

その音に重なるように、母の冷たい声が響いた。

「誰か、美幸を止めなさい」

何人もの足音が、一斉に私へ近づいてくる。

混乱の中、誰かの体が強くぶつかった。

後頭部がドア枠へ激しく打ちつけられる。

世界から、音が消えた。私は壁にもたれたまま、ゆっくりと崩れ落ちる。

視界が少しずつ暗くなっていく。

意識が途切れかけた、その瞬間――

廊下の奥で、轟音が響いた。

ドンッ!!

病室の扉が、外から勢いよく蹴り開けられた。

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