Mag-log in「もう誰にも触れさせない。お前は永遠に俺の腕の中で愛される運命だ」 家族に虐げられ、婚約破棄され地下室へ捨てられた令嬢・瀬理亜。絶望の底で彼女を迎えに来たのは、雨の夜に助けた青年――最恐の『黒竜』黎だった。 無自覚な【癒やしの力】を持つ彼女は、孤独な彼にとって唯一の『運命の番』。強引にタワマンへ攫われるが、「自分は便利な道具」と思い込む瀬理亜と、不器用な執着をぶつける黎の心はすれ違ってばかりで……。 惹かれ合いながらも焦れったい同棲生活の裏で、彼女を手放した者たちは自滅していく。 不器用な最強人外×自己評価の低い令嬢。すれ違いから絶対的な愛へと至る、極甘・救済ロマンス!
view more――冷たいはずの深夜の雨が、ひどく生温かかった。
足元のアスファルトを叩きつける水しぶきを浴びながら、両腕で胸に抱え込んだ分厚いバインダーをギュッと握り直す。 (どうして、こんなことになっちゃったんだろう……) 一時間前の出来事が、まだ頭の中でうまく処理しきれていなかった。 自室の狭いベッドの上で、いつものようにピアノの楽譜を眺めていた時のことだ。有栖川家という名門の体裁を保つためだけに、お嬢様学校へ通い、一流の講師からピアノを習わされている。屋敷に帰れば家族の肩を揉む雑用係として扱われる毎日の中で、白と黒の鍵盤に触れている時だけが唯一の息抜きだった。 将来はこっそり家を出て、どこか普通の町で、近所の子供たちにピアノを教える先生になりたい。そんなごくありふれた夢を思い描きながら、注意書きで真っ黒になった楽譜を大切になぞっていたのだ。 そこへ突然、父が乱暴にドアを開け放って怒鳴り込んできた。背後には、ハンカチを顔に当てて泣きじゃくる妹の麻里亜と、ひどく不機嫌そうな継母の姿があった。 『お姉様、どうしてこんなことを……っ。お母様の大切な宝石、欲しいなら、私に言ってくれればよかったのに』 何の話かまったく分からなかった。麻里亜が震える指で示したベッドの下から、メイドが空っぽのジュエリーボックスを引っ張り出した時も、頭の中にはてなマークが浮かぶだけだった。 「あ、あの、麻里亜。一緒に探そうか? きっとどこかで……」 心配になって声をかけようと立ち上がった瞬間、視界が横に吹っ飛んだ。 火の出るような痛みが頬に走り、床に倒れ込んだところで、自分が父に力一杯平手打ちされたのだと気づいた。口の中に鉄の味が広がる。 『言い訳など聞きたくない。手癖の悪い役立たずめ。頭を冷やしてこい!』 二の腕を乱暴に掴み上げられ、そのまま引きずられるようにして廊下を進み、土砂降りの裏庭へと放り出された。 あまりの急展開に呆然としたまま、両腕にはベッドで読んでいた楽譜のバインダーを、命綱みたいに抱え込んだままだった。大切な紙が濡れないよう、咄嗟に前傾姿勢になって背中で雨を弾く。 (麻里亜、大丈夫かな。お母様の大切な宝石、早く見つかるといいけど……) 自分が理不尽に叩き出されたというのに、なぜか泣いていた麻里亜のことばかりが気にかかる。あんなに悲痛な顔をしていたのだから、きっと本当に大切なものがなくなってショックを受けているに違いない。誰かが掃除の時に、間違えて私のベッドの下に落としたのだろうか。 ずぶ濡れの薄いブラウスが皮膚にべったりと張り付き、体温はとっくに奪い去られている。ガタガタと震える両膝を泥水に浸したまま、レンガ塀の暗がりでじっと息を殺していた。 その時だった。 ふと、アスファルトを打ち据える単調な雨のノイズに混じって、異質な音が鼓膜を叩いた。 「……っ、がはっ……」 ひどく重く、くぐもった呻き声。空気を無理やり肺の奥底に押し込もうとして、気道が激しく詰まっているような、ひどく苦しげな呼吸音だ。 びくっと肩を震わせ、泥水の中で顔を上げる。 音のする方向へ視線を巡らせると、レンガ塀の影に、巨大な黒い塊がうずくまっていた。 目を凝らす。野良犬ではない。ひどく大柄な男だ。仕立ての良い漆黒のスリーピーススーツを着込んでいるが、その高級な生地は泥と埃にまみれ、あちこちが無残に引き裂かれている。男は濡れたレンガに背を預けるようにして座り込み、頭を力なく垂れ下げていた。 関わってはいけない。こんな夜更けにうずくまっている正体不明の男に声をかけたりすれば、また父から「余計なことをした」と怒鳴られる。頭の中で小さく警鐘が鳴った。 しかし、男の喉から漏れる掠れた咳は、限界を超えて気管が破れそうなほど切実だった。 胸に抱えていた楽譜のバインダーを、雨を避けるようにレンガ塀の僅かな庇の下へそっと置く。 気がつけば、泥水の中を這うようにして、男の正面に膝をついていた。 間近で見ると、さらに大きい。座っているのに、顔の位置がこちらの胸元あたりにある。 「ひゅぅっ……はぁっ……」 男の胸が、激しく上下している。近づくにつれて、鼻の奥を突くような強い匂いが漂ってきた。雨の匂いではない。古い鉄錆と、何かが焦げたような、息苦しくなるような匂いだ。 男の裂けたシャツの隙間から、その匂いの発生源が見えた。胸の中央、深く抉られたような凄惨な傷口。そこから赤黒い血がとめどなく溢れ出し、周囲の雨水と混ざって足元へと流れ出している。その血溜まりから、先ほどの異様な熱気が立ち上っていたのだ。 (痛そう……それに、息が、できてない……) 私にこんな致命傷はどうにもならない。救急車を呼ぶにも、携帯電話など持たされていない。 迷っている間にも、男の厚い胸元が痙攣し、硬い指先がレンガの表面を削り取るように掻き毟っている。 痛みを抱えて苦しむ人間を見ると、条件反射で手が動いてしまう。有栖川家で長年、雑用やマッサージ係としてこき使われてきたせいで、身体が勝手に反応してしまうのだ。 「あの……大丈夫、ですか。ひどい怪我……」 震える声を絞り出し、そっと手を伸ばした。 男の胸に開いた傷口のすぐ横へ這わせる。 裂けたベストの生地越しに手のひらを当てた瞬間、ジュッ、と指先の皮膚が焼けるような熱を感じた。雨で冷え切っていた手のひらが、一瞬で沸騰しそうになる。 熱い。でも、手を引っ込めることはできなかった。指先から伝わってくる男の筋肉が、激痛に耐えるようにカチカチに硬直しているのがわかったからだ。父の肩のしこりをほぐす時と同じように、無意識に親指の腹に力を込め、その硬い筋肉の強張りを押し流すようにゆっくりと撫でる。 ――痛いの、少しでも楽になるといいな。 声には出さず、ただ指先に少しだけ体重を乗せた。 直後だった。 手のひらと、泥に塗れたスリーピーススーツの接着面から、奇妙なほど澄んだ空気が波紋のように広がった。 血の匂いと焦げ臭さが、シュワシュワと微かな炭酸が弾けるような音を立てて溶けていく。冷たい雨の匂いと泥の臭気に混ざり合って、ふわりと、干したてのシーツのような、あるいは雨上がりの陽だまりのような清潔な匂いが周囲の空気を一気に塗り替えた。 男の喉から漏れていた、気道が塞がったようなひどい呼吸音がピタリと止まる。 手のひらの下で荒れ狂っていた不規則な脈拍が、嘘のようにゆっくりとした、しかし岩盤を打つような力強いリズムへと変わっていくのが皮膚越しにわかった。 「……っ?」 不意に、力なく垂れ下がっていた男の頭がゆっくりと持ち上がった。 雨水をたっぷり吸い込んだ漆黒の前髪。その奥から現れた顔を見て、ヒュッと喉元で息が止まった。 泥と赤黒い血に汚れているはずなのに、思わず目を奪われるほどの整いすぎた顔立ちだった。真っ直ぐに通った高い鼻梁、薄く形の良い唇、そして鋭利な刃物のように美しい顎のライン。長い睫毛に縁取られた深い黄金色の瞳が、街灯の乏しい光の中でガラス玉のように透き通った光を放っている。 あまりにも整いすぎた顔立ちから放たれる、ひどく熱っぽくて暴力的なまでの美しさに、自分がずぶ濡れで泥水の中にいることすら忘れて、一瞬だけ頭の中が真っ白にショートしてしまった。 ただ怖いだけではなかった。目を逸らしたくても逸らせない、妙な引力があった。 呆然と見惚れていた、その時だ。 ガシッ!! 万力、という表現すら生ぬるい。鋼鉄の枷を嵌められたかのような抗いようのない力で、右の手首が掴み上げられた。黎の手が、私の背中に回され、そっと全体を包み込むようにして引き寄せられた。 高い鼻先が首筋に押し当てられ、長い銀髪が私の肩口にハラリとこぼれ落ちる。シルクのシャツ越しに伝わってくる彼の心音は、信じられないほどゆっくりで、そして力強いリズムを刻んでいた。 スゥーッ、ハァーッ――。 私の匂いを最後の一滴まで肺の奥底に飲み込もうとするような、深く、長い呼吸音。吸い込まれるたびに、彼の胸が鋼のように膨張し、私の頭をさらに強く、あの温かい平熱の皮膚へと押し付けてくる。「……お前がいるから」 耳元で、地鳴りのように低い声が囁かれた。「俺は、この世界で、息がしたいと願ってしまった」 声が、息の通り道のいちばん奥に触れた。「あの日、雨の夜にお前を拾った時は、ただの命綱だと思っていた。お前がいないと息ができないから、だから手元に縛り付けておくだけの、便利な道具だと自分に言い聞かせていた」 黎の長い指先が、私の髪を掬い上げる。慈しむような、ひどく繊細な手つき。「だが、違った。お前が俺の隣で、そんな風に自分の好きな音を鳴らして、一人の人間として笑っているのを見るたびに……俺のこの止まっていたはずの果てしない時間が、初めて意味を持って動き始めるのを感じるんだ。お前という最愛がそばにいるから、だから俺は、この人間の撒き散らす不快な空気の中でも、もっと深く、お前と同じ息を吸いたいと思ってしまった」 目の裏が熱くなり、泣きそうな塊が喉へせり上がってきた。「……ずるいです、そんなことを言われたら」 私は、彼の広い背中に両腕を回し、熱にしがみつくようにして応えた。「私も、黎様と同じ時間を生きて、一緒に感じたいです。……ずっと、あなたの隣で息を吸っていたいです」 黎の喉元で、甘やかな安堵の音が鳴る。 彼は私の身体を、今度は壊れ物を包み込むような慎重さで、さらに深くその腕の中へと閉じ込めた。 窓の外の夕闇は完全に帳を下ろし、東京のネオンが、真っ白な大理石の床に淡く滲んでいた。
◇「ただいまー! ねえ、聞いてよノワール、下のエレベーターのセキュリティ、また設定変えたでしょ!」 突如として、玄関ホールから鈴を転がすようなクリアな声が響き渡った。 バタン、と重厚な金属扉が開く音。 リビングへと足早に上がり込んできたのは、月の光を紡いだような白い髪を揺らす少女だった。白亜は真っ白なシルクのドレスの裾を軽快に翻しながら、アイスブルーの瞳を輝かせて、一直線にキッチンの巨大な冷蔵庫の前へと陣取った。「ブラン。貴様、なぜ毎日我が物顔で俺のテリトリーに侵入してくる。今すぐその白い翼を根こそぎ引っこ抜いてバルコニーから放り投げるぞ」 黎が不機嫌そうにソファから立ち上がり、巨大な影となって背後から睨みつける。「嫌だもんねー。私はお姉さんにプリンの在庫確認を頼まれてる正当な管理人。ほら、約束通り、今日の分の特製カスタードプリン、ちゃんと二十個に増えてるじゃん!」 白亜は冷蔵庫の奥から瓶入りのプリンを両手に抱え込むと、悪びれる様子もなく回転椅子にドカッと座り直し、銀のスプーンを口にくわえてケラケラと笑った。「二十個だと? 瀬理亜、お前、このトカゲにどれだけ資産を貢いでいるんだ。金の無駄だ、明日からあのタワマンの冷蔵庫のロックをすべて変更する」「無駄じゃありません。白亜ちゃんがいてくれたから、あの船の底で流れを変えられたんですから」 私は口角を緩め、黎のシャツの胸元を掴んでいた右手に控えめに力を込めた。「フン。トカゲの分際で、いちいちお前のお人好しな本能に漬け込みおって」 黎は本気で忌々しそうに舌打ちをしたが、それ以上白亜を追い出そうとはしなかった。彼自身も、あの夜会での共闘を経て、この銀髪の来訪者に対して、どこか家族のような不器用な情を抱き始めているのを、その声の端々の柔らかさから読み取ることができた。「はいはい。大型犬の遠吠えは無視して、お姉さん、このメロン味のやつも半分あげるからね!」 白亜は機嫌よくスプーンを動かし、新しいプリンの瓶の蓋をパカッと開けた。 広い、広すぎるペントハウス。 最初は逃げ出せない空っぽの鳥籠だと思っていた、この冷たい黄金の空
「……おい、瀬理亜」 不意に、黎の口から紡がれたのは、ひどく低く、熱を帯びた響きだった。 初めて私の名前を呼んだあの夜から、数ヶ月。今ではもう、息をするのと同じくらい自然に、その音節が彼の唇から滑らかに零れ落ちる。「なんですか、黎様」「手を出せ。皮膚がまた冷えているのではないか」 黎は半分空になったカップをテーブルに置くと、大きな掌を伸ばし、私の右手首をガシッと掴んだ。 熱い。でも、出会った頃のあの骨を砕かんばかりの暴力的な力加減はどこにもなかった。ただ、目の前にある最愛が、自分の知らないところで壊れてしまうのを恐れる、ひどく臆病なほどの慎重さが、その掌の厚みから伝わってくる。「冷えていません。さっきまでピアノを弾いていましたから、むしろ温かいです」 繋いだ手を彼自身のシャツの胸元、心臓の真上あたりへと引き寄せ、ピタリと押し当てられた。 ヒヤリとした金属のような異物感は、もうどこにも残っていない。禍々しい黒い鱗の群れも、すべて皮膚の下へと溶けるようにして消え去り、そこにあるのは、皮膚の奥まで届く確かな熱と、岩盤を打つような力強い鼓動の地鳴りだけだった。「……吸い取らんな」 黎が、黄金の瞳を限界まで細め、繋いだ手元を食い入るように見つめた。「ええ。言ったでしょう。一人で背負わなければ、命は削られないんです。白亜ちゃんの空気の流れを借りて、場の淀みを外へ逃がす方法を、私はもう知っていますから。……だから、もう二度と、黎様のために自分の命を薪みたいに燃やし尽くしたりしません」 まっすぐに、その琥珀色の瞳を見つめ返す。 黎の目の奥で、様々な感情が激しく渦巻き、やがて一つの、どうしようもないほどの熱い光へと収束していくのがわかった。「……浄化できなくなっても、いいと言ったはずだ」 黎の大きな右手が、こちらの頬を包み込んだ。 ごつごつとした指の関節から伝わってくる、確かな人間の皮膚の質感と、愛おしいものの温度。「お前が俺のこの肺の痛みを癒やしてくれな
ペントハウスのリビングは、すっかり陽が傾き始め、オレンジ色の淡い夕暮れの影に沈み込みつつあった。 キッチンカウンターの前に立ち、ボウルの中に新鮮なコーヒー豆をパラパラと投入する。ハサミでクラフト紙の袋を切った瞬間、深く焙煎された芳醇な苦味が湯気のように弾け、室内の空気を一気にビターな香りで満たしていった。 引き出しからペーパーフィルターを取り出し、陶器のドリッパーに慎重にセットする。お湯を注ぐと、シューッという微かな音とともに、ふっくらとドーム状に粉が膨らみ始めた。 背中越しに、ずしりとした質量を持った「気配」が近づいてくるのがわかった。 足音は驚くほど小さい。けれど、彼の内側から放たれる強い熱波が、空調の冷風を完全に相殺して、背中の皮膚をじわじわと伝わってくる。「……終わったか。あの騒がしい人間の子供どもが、ようやく俺の城から消え失せたな」 頭の上から降ってきたのは、心底不機嫌そうな、けれどどこか子供のように強張った低い声。 振り返ると、黎がキッチンカウンターの端に寄りかかり、太く硬い腕を胸の前で固く組んで立っていた。仕立ての完璧な漆黒のシャツの襟元は少し開けられ、そこからは、人間のそれへと完全に回帰した太い首筋が見えている。 長い銀髪はいつものように無造作に流され、その奥で光る黄金色の瞳は、こちらの手元を落ち着かなさそうに追っていた。「騒がしくなんてありません。みんな、すごく一生懸命に練習してきたんですよ」 二つの真っ白なマグカップに、熱いコーヒーを注ぎ分ける。「俺にとっては同じだ。お前が俺以外のもののために指先を動かし、あの小さな肉体に体温を分け与えていること自体が不快でたまらん。空気が薄くなる」 黎はフンと鼻を鳴らし、組んでいた腕を解いて、ローテーブルの方へと大股で歩いていった。椅子に深く腰を下ろすと、長い脚を無造作に投げ出す。黒いスラックスの生地が張り詰め、規格外の筋肉の起伏が夕暮れの光の中に晒された。 トレイを両手で持ち、ダイニングテーブルへと歩み寄る。彼の目の前に、砂糖を山盛りに三杯投入し、ミルクを並々と注ぎ込んで白茶色になったマグカップをそっと置いた。
けれど、もしそれを解決する方法があるのなら。「……行きます」 声が、震えずに口から出た。 ソファに沈んでいた巨体が、バッと顔を上げる。「馬鹿なことを言うな! あの家には二度と近づかせんと言ったはずだ!」 空気をビリビリと震わせる怒声。「でも、このままじゃ、私は……」「お前が灰になる前に、俺がこの街の淀みをすべて吸い尽くしてやる! だから、ここから動く必要はない!」 ドンッ! と、大理石のテーブルを叩く大きな音。 置いてあった
時は少し逆戻る。 吹き抜ける横殴りの雨風が、無惨に砕け散った窓枠からリビングへと遠慮なく流れ込んでくる。 足元のペルシャ絨毯は雨水をたっぷりと吸い込み、革靴で踏みしめるたびにジュクジュクとひどく不快な音を立てていた。 獅子王理恩は、壁に背中を預けたまま、自分の右手の指先をじっと見つめていた。 オーダーメイドのネイビースーツの袖口から覗く指の表面には、うっすらと白い霜が降りている。雨の湿気と室内の暖かな空気が混ざり合っているにもかかわらず、その霜は溶ける気配すら見せない。 ガチガチ、ガチガチと。 自分の奥歯がぶつかり
向かう先は、誰も寄り付かない本邸の最下層だった。 軋む木製の階段を下り、さらにその奥にある、むき出しのコンクリートの階段へと足を踏み入れる。一段下りるごとに、空気が急激に冷え込んでいくのが肌でわかった。雨の湿気とは違う、何十年も澱んだままの、カビと埃が混ざったような不快な匂いが鼻腔を塞ぐ。 地下二階に相当する深さ。そこの突き当たりに、分厚い木製の扉で仕切られた古い地下室があった。使われなくなった家具やガラクタが放り込まれるだけの、暗く冷たい物置部屋だ。 黒服の男が重い扉を引き開け、背中から突き飛ばした。 「ああっ……」 冷たいコンクリートの床に膝を打ち付け、ドレスの裾が埃ま
翌日。 昨夜の得体の知れない熱と恐怖に当てられたのか、終始ぼんやりと魂が抜けたような状態のまま、流行遅れの地味な色のドレスを着せられ、ホテルの宴会場へと連れ出されていた。 有栖川家と獅子王グループの結びつきを祝う、華やかな婚約パーティー。 控室から促されるままに入場し、親同士が取り決めた婚約者である獅子王 理恩(ししおう 理恩)の隣に立った、その直後だった。 パリンッ! シャンパングラスの乾いた破砕音が、静まり返った宴会場に響き渡った。 足元に散らばる鋭いガラス片よりも冷たいのは、こちらを見下ろす百人以上の招待客たちの、嘲笑と侮蔑を含んだ視線だ。 「君との婚約は、今
Rebyu