ログイン遥side
―――――目が覚めて気がついた時には、真っ白な天井が映し出され、腕には点滴がされていた。
(ここは……森本医師の病院だわ。お腹の子は、大丈夫なの?)
しばらくするとドタバタと大きな足音が聞こえて、森本医師が慌てた様子で部屋に駆け込んできた。
「遥さん?大丈夫ですか?気分は悪くない?」
「先生、赤ちゃんは?私の……赤ちゃんは無事ですか?」
その言葉に、先生は安心したように息を吐き穏やかな声で言った。
「良かった……。赤ちゃんは無事ですよ。だけど、運ばれてきた時はかなり危険な状態で流産するところだった。もうこれ以上の無理は避けてください。ストレスだって注意が必要なんですよ。身体と心が健康でないと身体はおかしくなってしまいます」
子どもが無事だったことへの安堵と、もしかしたら大切な命を失っていたかもしれない恐怖で涙がとめどなく溢れた。
「……すみません、助けてくれてありがとうございます。病院は、誰が連れてきてくれたんですか?奏多は、今どこに?」
「いえ、あなたたちを連れてきたのは住吉家の執事ですよ。」
「私たち?……先生、奏多はどうしたんですか?」
「病院に着いた時、奏多さんは転倒したとのことで頭から血を流していました。今も処置をしているのでここには来ていません」
「それなら、奏多は私の妊娠のことを知らないのですね」
「ええ、奏多さんは病院に来てから検査と処置をしていて遥さんのことについては何も知りません」
「先生、お願いです。妊娠のことは奏多には、絶対に言わないでください。奏多にだけは知られたくないんです」
「……何か言いたくない事情でもありそうだね。わかりました。約束します」
(奏多は嫌がる私を気にすることなく自分の思いのままに私を抱こうとした。私が妊娠していることだって知っているのに……。所詮、奏多にとって私は性欲を満たすための都合のいい女でしかないんだ)
森本医師が部屋を出ていったあと、ベッドで横になって休んでいると病室の扉が再び開いた。看護師の巡回かと思い目を瞑って身体を休めていたが、目の前に現れたのは、星野麗華だった。
「やだ、奏多が心配でお見舞いに来たけれどあなたもいたのね。ちょうど良かった。あなたに言っておきたいことがあるの。」
「言っておきたいこと?何よ」
「私のお腹の子の父親のことよ。この子の父親は、奏多よ。あなたとは違って、奏多と私はお互いに愛し合っているの。だから、あなたがいると邪魔なのよね」
(やっぱり……。だからあの時、奏多は私に怒り狂ったように謝罪を求めてきたんだ。自分の子どもが危険にあったから父親として私の事を憎んだのね)
「そう、あなたは自分の立場が分かって言ってきているの?たとえあなたたちが愛し合っていても奏多の妻はこの私よ。もし奏多の子どもだとしても周りが認めると思う?あなたたちがした行為を許してもらえるのかしらね?」
その言葉に麗華の表情が一瞬で引きつった。
「愛されないからって喧嘩売っているの?今日のパーティーでの奏多の振る舞いだって見たでしょ?誰もが、私のことを妻だと思っていたはずよ。所詮、あなたは紙切れだけの関係じゃない。強がっていられるのも今のうちよ。見てなさい!」
怒りで顔を歪ませて麗華は勢いよく部屋を出て行った。その顔を見た途端、麗華が帰国して住吉家に通い始めて以来ずっと胸に溜まっていたモヤモヤとした苦しさが少しだけ軽くなった気がした。
(私との子どもを持つことはあんなに拒んでいたのに、麗華とは子どもを作るなんて。やっぱり奏多が好きなのは麗華なんだ。子どもが産まれてきたら、麗華の言う通り、私は捨てられるの?それとも今のまま黙って奏多と麗華、そして子供の三人の幸せな姿を見てなくちゃいけないの?それに、私だけでなく産まれてくる子どもも父親から愛されない人生を送らなくてはいけないの?……そんなの嫌だ、耐えられない。これ以上、奏多の側になんかいたくない)
「もうやめよう……。こんな関係が続いたらストレスでおかしくなりそうだわ」
翌日、退院手続きを終えるとすぐに奏多に電話を掛けた。
(妻が入院しているというのに、心配するどころか退院の日にも顔を見せない。それどころか自分が愛人である麗華を病院に見舞いに来させるなんて、もう我慢の限界だわ)
長いコール音の後に不機嫌そうな声で奏多の声が聞こえてきた。
「なんだ、今は仕事中だ」
「ごめんなさい。でも大事な話があるから今夜は早く帰ってきて欲しいの」
「お前は俺に指図するつもりか。お前の命令なんか聞くつもりはない」
ツーツーツーツー
機嫌を損ねた奏多に会話の途中で電話を切ってしまった。これでは何時になるか分からない。
(用事がなかったとしても私の言うことを聞くのは嫌だから、きっと真っ直ぐは帰ってこない。もしかしたら私への腹いせに麗華と会うのかもしれない)
小さくため息をついてから家に戻ると、家政婦が私に気がついて声を掛けてくれた。
「遥様、お帰りなさいませ。体調のほうはいかがですか?何か出来ることがあればお手伝いします」
「ただいま。いいえ、結構よ。私のことは気にしないで。少し部屋で休むわ」
家政婦と話をしながら家の中を見渡すと、高価な家具や調度品が多く並べられている。見慣れた景色だったが、『私の家』だと思ったことは一度もない。二年も過ごしている家だというのに、自分の居場所がないこの空間は虚しさだけが浮き彫りになっている。
寝室に入り、ベッドサイドに置いてある机の引き出しから太陽のような絵が描かれた銀色のペンダントを取り出して鞄の中にそっとしまいこんだ。
施設の前で捨てられた私が唯一持っていた所持品で、大人になった今もずっと大切に肌身離さず持っていたものだ。今まで嫌なことがあるとこのペンダントを見ては、自分自身を励ましていた。
(このペンダントが、いつか私を本当の家族に導いてくれるかもしれない―――。)
奏多との離婚を決意したことに不安がないと言えば嘘になる。私のお腹の中の子は、父親がいない人生を歩むことになり、本当にこの決断は正しいか分からない。
子供のために父親は必要だと思い耐えながら暮らすことも考えたが、子供にまで我慢させてしまう可能性やこのまま偽りの関係を続けるよりもずっとマシなはずだ。だからこの決断でいいんだ。と言い聞かせながら、途中のままになっていた荷物をまとめていき、キャリーバッグに詰め込んだ。
――――午前零時を回っても帰ってくる気配はなく、リビングで横になりながら帰りを待っていると深夜一時、玄関の扉が開く音が聞こえてきた。
「おかえりなさい、遅かったわね」
「待ち構えているとは気味が悪いな。何の用だ」
「奏多、離婚しましょう。」
私から離婚を言いだしてくると思っていなかった奏多は耳を疑っていたが、すぐに馬鹿にしたような顔で嘲笑った。
「……お前、正気か?自分が何を言っているか分かっているのか?そんな挑発に、俺が乗るわけないだろ」
「挑発じゃない、本気よ。あなたもここに署名してほしいの」
私の欄は、全て記入・捺印してある書類を見ると、奏多はくしゃくしゃに丸めて投げ捨てた。
「ふざけるな、お前の都合なんかで離婚出来るわけないだろう」
「それならあなたの都合にすればいいじゃない。あなただって本当は離婚したいんでしょ?麗華が大事だったら、私のことなんか気にしないでさっさとサインすればいいじゃない。」
「は?俺に指図するのか?『私のことなんか気にせず』だと?何だ、俺がお前のことを思ってサインしないとでも思ってるのか?」
馬鹿するように言ってくる奏多に、私は床に投げられた離婚届を手に取り、丁寧に皺を伸ばしてから奏多の前に再び差し出した。
「お義父様の命令で結婚したんでしょ。もういい大人なんだから自分のことは自分で決めたらどうなの?」
父親のことを出された奏多の怒りは頂点に達し、「いい度胸だ」とでもいうようにペンを取ると乱暴に署名し書類を机に叩きつけた。
「書いてやったぞ。後悔しても知らないからな。」
そう言い放ち部屋を飛び出していった。私は震える手で離婚届を拾い上げ、そっと胸元に抱きしめた。
奏多sideカランカラン。表彰式が終わると、俺はネクタイを緩めてある場所へと向かっていた。扉を開けると、備え付けの小さなベルが控えめな音を立てて俺の訪問を告げる。店主は入口へ視線を向け、穏やかな眼差しを浮かべた。「住吉さん、お久しぶりですね。どうぞ、お好きな席へ」最近は仕事に追われ、すっかり足が遠のいていた会員制バー。遥と離婚したばかりの頃、俺は毎晩のようにここへ来ては入り浸っていた。何倍飲んだか分からない。あの頃の俺にとって、この店は抑えきれない感情をやり過ごすための隠れ家に過ぎなかった。「お飲み物はどうされますか? いつもと同じウイスキーのダブルで?」数年ぶりの来訪にもかかわらず、マスターは俺の好みを正確に記憶していた。時の経過を少しも感じさせないそのプロの振る舞いに、どこか救われるような心地がする。「ああ、頼む」店の雰囲気もマスターも何も変わらないはずだ。しかし、不思議なことに、以前の記憶がぼんやりとしか覚えていない。記憶にあるのは、カウンターのテーブルとメニュー表のみ。店内の内装はしっかり見渡したの
遥side「社長、やりました!」広報担当の社員が、興奮を隠しきれない様子で息を乱し小走りでオフィスへ飛び込んできた。駆け寄ってくるその表情には、明らかな達成感が浮かんでいる。「一体、どうしたの? そんなに慌てて」「ビッグニュースです! 先方から連絡がありまして、今年度のトレンド大賞において、我が社の会計システムが最優秀賞を受賞しました! 他社にも類似製品はありますが、我が社が先駆者として市場シェアを独走している点と高い操作性が評価されたようです。来月、都内で授賞式が開催されますので、是非ご出席を、とのことでした!」その瞬間、オフィス内には社員たちの歓声が響き渡った。このシステムを開発するまでの道のりは、決して平坦ではなかった。連携作業での不具合、深夜に及ぶエラー対応など幾多の困難を乗り越えてようやく形にしたものが、こうして一般の方々にも広く使われ社会に認められたのだ。その喜びは、言葉にできないほど大きかった。授賞式当日、都内の高級ホテル。三百人を収容できる広大な宴会場は、華やかな空気に包まれていた。直人と共に会場へ足を踏み入れると、報道陣やTVカメラがひしめき合い、活気に満ちている。ノミネートされるだけでも企業として大きなステータスとなるこの賞は、今後の事業展開においても極めて重要な宣伝となる。「それにしても、すごい人ね…&helli
遥side柔らかな太陽の光が差し込む朝、目が覚めてリビングに降りると執事や家政婦たちが一斉に深々と頭を下げた。「遥様、おはようございます。そして、お誕生日おめでとうございます」「みんないつもありがとう。これからもよろしくね」食卓の席に着くと、直人と花蓮が既に起きていて私を見るなりパッと表情を輝かせて「おめでとう!」と声を合わせて祝福してくれた。「遥、誕生日は本当にディナーだけでいいのかい? 欲しいものがあったら、何でも遠慮なく言ってほしいんだ。君が喜ぶものなら、世界中から取り寄せてくるよ」「そうだよママ!せっかくの誕生日なんだからパパに甘えて欲しい物を買ってもらえばいいのに」「ありがとう。……でも、いいの。こうして二人がお祝いしてくれるだけで十分幸せだもの」私がそう言って笑うと、二人は少し呆れたような、でも愉快な眼差しで目を合わせている。結婚してから三年。奏多との息苦しい結婚生活よりも長くなったけれど、今も私と直人の関係は新婚当初と変わらなかった。花蓮もこの暮らしにすっかり馴染み、いつの間にか直人のことを『パパ』と呼ぶようになっていた。直人も花蓮の良き理解者で時には私よりも心を許して直人に相談や甘えることもある。
奏多side「佐藤、午後の会議資料はこれで問題ない。参加者に送っておいてくれ。それから、別件で来月に薔薇の手配を頼む。送り先は……」言い淀むまでもなく、秘書の佐藤は全てを察したように頷いた。「遥様のところですね。住所は存じ上げておりますので、滞りなく手配いたします」俺は深く溜め息をつき、それ以上は何も言わなかった。薔薇の花束を贈るのも、今年で三回目になる。一年目は驚きに目を丸くし、理由を尋ねてきた佐藤も、今では年間行事の一つとして何も言及せずに粛々と遂行してくれるようになった。「……あれから、もう三年か」オフィスビルから街を見下ろしながら、あの河川敷での出来事を思い出す。遥と最後に会った、あの誘拐事件の日のことだ。あの時、遥は俺に対して一点の曇りもない瞳で自らの信念を突きつけてきた。俺が過去の過ちを謝罪し、本当に愛していたのはお前だけだったと募る想いで伝えても、遥の心は微塵も揺れなかった。迷う素振りなど皆無で毅然と拒絶された。「……俺がかつて麗華をあしらい、冷たく突き放したように、今度は俺が遥に拒まれるなんてな。あの時の遥の瞳には、俺の入る隙間なんて最初から一ミリも残されていなかったな……」
遥side「えっ……遥?」驚きのあまり、声も出せずにこちらを見つめる直人だったが、チャペルな扉がゆっくりと開き、私は前を向いたまま一歩、また一歩とバージンロードを踏みしめる。祝福の拍手と、参列者たちのざわめき。その中にかつて私を地獄から引き上げてくれた恩人たちの顔がある。周囲の拍手を聞き、ふいをつかれて動揺していた直人も真剣な眼差しに切りかえてゆっくりと進んでいった。参列してくれたハリー、俊、そして私のこれまでの全てを知る信頼できる友人たち。彼らは心からの笑顔で私を見守り、中にはうっすらと涙を浮かべて「おめでとう」と眼差しで語りかけてくれる人もいた。私たちの結婚式を、こんなにも多くの人が祝福してくれる。自分の人生が、決して誰かの付属品ではなく、これほど多くの人々に支えられ、愛されていたという実感が、胸の奥を熱く突き上げて感動で視界が滲む。壇上には、未来の私たちが立っている。壇上に辿り着くと、リングガールを務める花蓮が大勢の視線を一身に浴びながらも、誇らしげに胸を張って歩いてくる。彼女は小さな宝物を届けるように、慎重に私たちの元へ指輪を運んでくれた。その役目を果たし、安堵したのか壇上の脇へ戻ろうとしたその時、直人が素早く花蓮の手をそっと握り、壇上の真ん中へと促した。「……え? 直たん、花蓮はもう終わったから
遥side「遥、準備はできたかい? 開けても大丈夫かな」俊がドアをノックする音に、私は慌てて髪を整えながら返事をする。鏡に映る自分は、八年前に経験した結婚式とは別人のような穏やかな笑みを浮かべていた。「大丈夫よ。でもあと少しだけ待って……髪飾りを留めたら終わるから」ドアが開く音と同時に、仕立ての良いスーツに身を包んだ俊と、淡いピンクのドレスでおめかしした花蓮が部屋に入ってくる。二人の顔を見た瞬間、心から力が抜けていくのが分かった。「ママ、すっごく綺麗!プリンセスみたい!」「そうだね。遥、本当に綺麗だよ。直人君もすごく喜ぶんじゃないかな」ウェディングドレスを纏い、髪をアップにまとめた私を見て、花蓮は興奮気味に小さな手を叩いている。私は屈みこみ、花蓮の鼻先を軽くつついた。「プリンセスだなんて大袈裟よ……でも、ありがとう。みんなに祝福されて本当に幸せだわ」「それにしても……遥、今日はウェディングドレスを着ないのかい? 結婚パーティーなんだから、白を着ても誰も文句は言わないのに」