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第五話

last update publish date: 2026-06-21 17:14:22

それからしばらく、沙月は穏やかに暮らしていた。

「沙月〜、ちょっときてー」

陽介に呼ばれて洗い物の手を止める。

リビングに行くと、陽介はソファーのクッションをどけて何かを探している様子だった。

「あれさあ、テレビのリモコン、どこに置いた?」

沙月は濡れた手を拭いて、テレビ台の端に置いたリモコンをとってやる。

「使ったらここに戻そうって、こないだ決めたでしょ」

「あー、そうだった、ごめんごめん」

リモコンを受け取った陽介はソファにごろりと寝そべる。

「あ、洗い物の途中だった? 手を止めさせてごめんな」

そう言いながら野球中継をつける陽介を見て、沙月の中に小さな棘が生まれる。

だけど、薔薇一本に値するほどの痛みはない――

ある日、沙月は陽介の親族の集まりに連れてこられた。

名目は“陽介の曽祖母の13回忌”。

沙月にとっては一度も会ったことのない人物だし、集まるのも親戚のごく一部だけという、こじんまりとした食事会だったのだが。

食事会の間中、沙月は“子供の頃から陽介を可愛がっているおじちゃん”にずっと絡まれていた。

「何、陽介ちゃん、こんな美人さんのお嫁さんもらったの!」

酒も入って上機嫌な“おじちゃん”は、大喜びで小さい頃の陽介がいかに可愛かったかを、沙月に延々と語って聞かせた。

それ自体は不快ではない。

むしろ沙月は、陽介がおねしょがなかなか治らなかったことや、初めてカエル取りに行って田んぼに落ちた話などを、微笑ましい気持ちで聞いていた。

さらに酒が進んだおじちゃんは、馴れ馴れしく沙月の肩を叩いて、上機嫌で言った。

「俺から見ても陽介はいいやつでさ、優しいでしょ」

「まあ、そうですね」

「浮気はしない、変な遊びもしない、嫁さんを大事にする男だと思うよ、俺が保証する!」

親戚が集まる宴席で、しかも酔っ払い相手に小さな不満を告げ口しない程度の分別が、沙月にはある。

「そうですね、大事にしてもらっています」

「そうでしょうそうでしょう、どう、ちゃんと仲良くやってるの?」

「ええ、まあ」

「そっか、じゃあ、赤ちゃんも、もうすぐかな」

ちくり。

言語化する必要すらないほどの、小さな小さな棘が沙月の中に生まれる。

「陽介はねー、あれはいいお父さんになるタイプだと思うよー、ほら、今時の親って子供を虐待して死なせちゃったりするじゃない、ああいうことは、うちの陽介は絶対にしないね!」

「ハハ……そうですね」

沙月は、愛想笑いでその場をやり過ごした。

やがてお開きになって、帰りの車の中で、助手席に座る陽介はやたらと上機嫌だった。

「いやー、うちの親戚みんな、君のこと褒めてたよ」

「そう」

「特におじちゃんなんかさ、嫁さんが美人だから、可愛い娘が生まれるぞ、子作り頑張れよーって」

心を突く棘を無視することは、もうできなかった。

「私のいないところで、そんな話をしていたの?」

「ん、なに、どしたの、なんか不機嫌?」

陽介は一瞬だけ驚きに目を見開くが、次の瞬間には何に納得したのか「あー」と声をあげて深く頷いた。

「わかる、こういう話題ってちょっとセクハラっぽいよな、でもおじちゃんには、そういうエロい意図はないと思うぞ」

「そういうことじゃなくて」

「じゃあ、どういうことだよ」

「それは……」

棘は確かに心に刺さっている。

だが、それを表す言葉がない。

「それは……」

沙月は口を閉ざした。

そんな沙月を見た陽介は、どうやら機嫌を取ろうと思ったらしい。

ちょっとおどけた口調で言う。

「帰り道にさ、コンビニあっただろ、そこに寄って、何か甘いものでも買おう。今日は俺の奢りってことで、どうよ?」

しかし沙月は、極力平静に聞こえるように声音を取り繕って答えた。

「ううん、大丈夫、ちょっと行きたいところがあるから、まずはあなたを家まで送るわね」

「ええっ、やっぱり不機嫌?」

「違うって、本当に、不機嫌なわけじゃないから、気を遣ってくれてありがとね」

「うん、そう? じゃあいいか」

陽介を自宅の前まで送った沙月は、そのままカウントダウンクラブに向けて車を走らせた。

言語化できない、小さな棘を胸の中に抱えたままで。

外観だけボロボロなビルの三階、“事務室”の幾つかスチールデスクの並ぶ“事務所”の一番奥に座っていた遥子は、入ってきた沙月を見て深く頷く。

彼女は何かを尋ねることも、ましてやここにきた理由を聞くようなこともなかった。

「お茶を用意するわ、あとはケーキがあるんだけど、食べる?」

その態度には、逆に沙月の方が戸惑いを感じるほどだ。

「あの、私……」

「なあに?」

「嫌なことが、あって、その」

「あらあら」

「でも、薔薇を置いていいのかどうかわからなくて……」

「だったらまず、お茶を飲みましょう」

「えっ」

「大丈夫、あなたのお話はちゃんと聞くわ、でも、急いできたから喉が渇いているでしょう?」

「それは……はい」

「さ、こちらへいらっしゃい」

沙月が通されたのは、前回と同じ“相談室”だった。

マダムは沙月と対面に座り静かに微笑む。

だが沙月は、ここにきて「人様に話して聞かせるほどの出来事があっただろうか」と思い始めていた。

“おじちゃん”が話していたことは、どこの親戚の集まりでもありがちな、身内の親しさゆえの言葉ばかりだ。

それに腹を立てている自分の方が狭量なのでは?

沙月はガバッと立ち上がる。

「ごめんなさい、勘違いでした、今回は薔薇はいりません」

だがマダムは、そんな沙月に向かって優雅に片手を掲げて、彼女を引き留める。

「まだよ、まだ帰っちゃだめ」

「え、でも、私の勘違いだったってことで……」

「そうじゃないわ、まだケーキが来ていないでしょ?」

「ケーキ……」

その時、相談室のドアが開いて、ケーキの乗った皿を片手に掲げた若い女性が部屋に入ってきた。

「どもー、ケーキお届けですー」

沙月は、その女性を見た。

化粧っ気のない素朴な顔立ち。

着ているものも洗いざらしたジーンズに簡単なロゴが入ったシンプルなTシャツという素朴さ。

童顔であることもあいまって、一見するとアルバイトの大学生かと思うような、そんな女性である。

だが、遥子は彼女をこう呼んだ。

「先生、よかったら一緒にお茶して行かない?」

「先生? なんの?」

「うちの顧問弁護士の加藤木美沙先生よ、だから先生って呼んでるの」

ケーキの皿を置きながら、先生こと加藤木美沙は軽口を叩く。

「なんすか、マダム、弁護士が必要になるような難しい話するつもりですか」

「違うわよ、彼女と歳が近い“友人”気分で聞いてあげてちょうだい、ほら、私は年上だから」

「私に言わせりゃ、マダムは乙女枠ですけどね」

「ま、お上手。でも、いいから座って」

加藤木を隣に座らせてから、遥子は姿勢を正して沙月を見た。

「まずはあなたの話を聞かせて。私は聞くだけだど、大丈夫、ちゃんと全部聞いてあげるから、落ち着いて話しなさい」

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