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霧が晴れたら、ひとりで渡ろう

霧が晴れたら、ひとりで渡ろう

By:  金魚の記憶Completed
Language: Japanese
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黒瀬玲司(くろせ れいじ)は、湊市で最も若い心臓血管外科部長だ。 誰もが言う――玲司は誰よりも腕のいい医者で、そして誰よりも冷たい男だと。 けれど私は知っている。彼だって、決して優しさがないわけではないことを。 ただ、その優しさが私に向けられたことは、一度もない。 婚約した翌日、父が突然脳梗塞で倒れ、救急救命室に運び込まれた。 仕事に追われて手が離せないところに、病院から電話がかかってきた。看護師に、家族のサインが必要だと言われた。 すぐに玲司へ電話をかけた。電話はしばらく鳴り続けてから、ようやくつながった。 向こうから、か細い女性の泣き声が聞こえてきた。彼の元恋人・柊木汐音(ひいらぎ しおん)だった。 玲司は声を潜めて言う。 「汐音が発作を起こしてる。俺がついてるから、病院には先に話をつけておけ」 スマホを握りしめた。指先が白くなるほど、力が入っている。 「先生に、家族のサインが必要だって言われた。今、仕事で本当に手が離せないの……私には玲司しかいない」 彼はほんの数秒黙り込んだあと、相変わらず落ち着いた声で言う。 「そんなに大げさに言うなよ。病院には病院のやり方があるし、まさか本当に見捨てたりはしない」 電話の向こうで、汐音がすすり泣いた。 「玲司くん、わたしのために日和(ひより)さんのことを後回しにしないで。もう行ってあげて、わたし一人でも大丈夫だから」 玲司はすぐに言う。「無理するな。俺は行かない」 電話が切れた途端、病院からまた催促の電話がかかってきた。 薬指の婚約指輪に目を落とした。あれは玲司が選んだものだ。 港は霧が深いからな。指輪が少しでも光っていれば、俺はすぐにお前を見つけられる――彼はそう言っていた。 でもあの日、彼の助けを待つのはもうやめた。 自分で手を回して、どうにか間に合って病院に着いた。 その後、父は峠を越え、私は病室の前で一晩座り続けた。 夜が明けた頃、玲司からようやくメッセージが届いた。 【汐音は眠った。お父さんはどうだ?】 窓の外に停泊する渡し船を見つめた。霧が晴れた。 もう行かなければ。

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Chapter 1

第1話

黒瀬玲司(くろせ れいじ)は、湊市で最も若い心臓血管外科部長だ。

誰もが言う――玲司は誰よりも腕のいい医者で、そして誰よりも冷たい男だと。

けれど私は知っている。彼だって、決して優しさがないわけではないことを。

ただ、その優しさが私に向けられたことは、一度もない。

婚約した翌日、父が突然脳梗塞で倒れ、救急救命室に運び込まれた。

仕事に追われて手が離せないところに、病院から電話がかかってきた。看護師に、家族のサインが必要だと言われた。

すぐに玲司へ電話をかけた。電話はしばらく鳴り続けてから、ようやくつながった。

向こうから、か細い女性の泣き声が聞こえてきた。彼の元恋人・柊木汐音(ひいらぎ しおん)だった。

玲司は声を潜めて言う。

「汐音が発作を起こしてる。俺がついてるから、病院には先に話をつけておけ」

スマホを握りしめた。指先が白くなるほど、力が入っている。

「先生に、家族のサインが必要だって言われた。今、仕事で本当に手が離せないの……私には玲司しかいない」

彼はほんの数秒黙り込んだあと、相変わらず落ち着いた声で言う。

「そんなに大げさに言うなよ。病院には病院のやり方があるし、まさか本当に見捨てたりはしない」

電話の向こうで、汐音がすすり泣いた。

「玲司くん、わたしのために日和(ひより)さんのことを後回しにしないで。もう行ってあげて、わたし一人でも大丈夫だから」

玲司はすぐに言う。「無理するな。俺は行かない」

電話が切れた途端、病院からまた催促の電話がかかってきた。

薬指の婚約指輪に目を落とした。あれは玲司が選んだものだ。

港は霧が深いからな。指輪が少しでも光っていれば、俺はすぐにお前を見つけられる――彼はそう言っていた。

でもあの日、彼の助けを待つのはもうやめた。

自分で手を回して、どうにか間に合って病院に着いた。

その後、父は峠を越え、私は病室の前で一晩座り続けた。

夜が明けた頃、玲司からようやくメッセージが届いた。

【汐音は眠った。お父さんはどうだ?】

窓の外に停泊する渡し船を見つめた。霧が晴れた。

もう行かなければ。

画面に浮かんだ玲司からの一文は、細い針みたいに胸の奥へ刺さって、そのまま抜けなくなった。

私は病室の外のベンチに座っていた。手にはまだ、ペンを握りしめている。キャップはとっくに握りつぶれていて、細いプラスチックの縁が掌に食い込んでいる。

看護師がドアを開けて出てきて、声を落として言った。

「お父様は、ひとまず危険な状態を脱しました。この後も経過観察が必要です」

頷いた。スマホがまた震えた。玲司から二通目。

【汐音が落ち着いた。今から行く】

そのメッセージをしばらく見つめてから、一言だけ返した。

【来なくていい】

彼はすぐに電話をかけてきた。出なかった。

父が集中治療室に運ばれた頃には、もう夜が明けていた。ガラス越しに見える父は、ベッドに横たわっていて、顔の半分が酸素マスクで隠れている。

ふと、婚約披露宴の夜を思い出した。玲司が指輪をはめてくれたとき、指の腹が私の関節をかすめた。

「日和、これから何かあったら、真っ先に俺を頼ってくれ」

あのとき、会場の拍手はとても大きかった。それを、信じてしまっていた。

朝8時、玲司がようやく病院に駆けつけた。昨夜と同じダークグレーのコートを着ていて、襟元は少し皺になっている。消毒液と、女性ものの香水が混ざった匂いがする。

彼は私を見て、一瞬足を止めた。

「なんで電話に出なかった」

壁にもたれたまま、掠れた声で言った。

「汐音さんの睡眠、邪魔しちゃ悪いから」

玲司の眉間に皺が寄った。

「日和、そんな言い方しなくてもいいだろう」

顔を上げなかった。

「じゃあ、どう言えばいいの?こんなに忙しいのに来てくれてありがとう、って?」

玲司は少し黙ってから、私の手首を掴もうとした。その動きはひどく優しくて、まるで医者が患者をなだめるようだった。

「昨日はちょっと事情があったんだ。汐音は重い不安障害を抱えてるから、刺激しちゃいけない」

手を引いた。

「うちの父は救急救命室にいたのに」

「わかってる」

彼の口調が和らいだ。

「でも、お父さんはもう病院にいるだろ。医者だってついてるんだから。汐音の方には俺しかいないんだ」

――俺しかいないんだ。

その一言が胸に落ちた瞬間、思わず笑ってしまった。

玲司は私を見て、目の奥にわずかな不快感を滲ませた。

「いい加減にしてくれ、もう来ただろ」

彼はいつも、顔さえ見せれば帳消しになると思っている。遅れて届くハグも、遅れて届く言い訳も、遅れて届く気遣いも――彼が差し出しさえすれば、私が黙って受け取るのが当たり前だとでも言うように。

先生が医局から出てきて、会計伝票と今後の治療方針をまとめて渡そうとした。私が手を伸ばしかけたところで、玲司が先に受け取った。

「俺がやる」

指先が紙面をなぞる仕草は、手慣れていて、どこまでも冷静だ。

「手術方針はもう一度、専門医に評価させる。あまり気を張るな」

昔の私なら、この一言で目が潤んでいたかもしれない。でも今は、ただ心が冷めているだけだった。

そのときスマホが鳴った。玲司が視線を落とすと、表情が明らかに緩んだ。

画面に浮かんだのは、汐音の名前だった。

彼は出ずに、そのまま切った。次の瞬間、汐音からのメッセージが届いた。

【玲司くん、目が覚めたの。部屋がすごく静かで、ちょっと怖い】

玲司が書類を握る手に力がこもった。

私はそれに気づいた。彼も、私が見ていることに気づいていた。

数秒、空気が静まり返った。

彼が顔を上げた。口調はあくまで落ち着いていた。

「先にお父さんの支払いを済ませてから、あっちを見に行く」

私は彼の手にある会計伝票を見た。

「もういい」

玲司が眉をひそめた。

「日和、意地なんか張ってる場合じゃないだろう」

彼の手から書類を抜き取り、一枚ずつ揃え直した。

「意地なんて張ってない。

うちの父のことは、自分でやる」

彼は私をじっと見つめた。まるで、私がまた沈黙で彼を追い詰めようとしているのか確かめるように。

でも私はただ、会計窓口に向かって歩き出しただけだった。

背後で、汐音からの着信がまた鳴り出した。今度は、玲司が出た。

彼は声を落として言った。

「怖がるな、すぐ戻る」

足は止まらなかった。

列に並ぶ人は多く、窓口の照明が点滅している。

俯いて、薬指の指輪を見つめた。

ダイヤモンドはまだ輝いていた。でもふと、その光はもう、玲司の目には映らないのだと感じた。

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第1話
黒瀬玲司(くろせ れいじ)は、湊市で最も若い心臓血管外科部長だ。誰もが言う――玲司は誰よりも腕のいい医者で、そして誰よりも冷たい男だと。けれど私は知っている。彼だって、決して優しさがないわけではないことを。ただ、その優しさが私に向けられたことは、一度もない。婚約した翌日、父が突然脳梗塞で倒れ、救急救命室に運び込まれた。仕事に追われて手が離せないところに、病院から電話がかかってきた。看護師に、家族のサインが必要だと言われた。すぐに玲司へ電話をかけた。電話はしばらく鳴り続けてから、ようやくつながった。向こうから、か細い女性の泣き声が聞こえてきた。彼の元恋人・柊木汐音(ひいらぎ しおん)だった。玲司は声を潜めて言う。「汐音が発作を起こしてる。俺がついてるから、病院には先に話をつけておけ」スマホを握りしめた。指先が白くなるほど、力が入っている。「先生に、家族のサインが必要だって言われた。今、仕事で本当に手が離せないの……私には玲司しかいない」彼はほんの数秒黙り込んだあと、相変わらず落ち着いた声で言う。「そんなに大げさに言うなよ。病院には病院のやり方があるし、まさか本当に見捨てたりはしない」電話の向こうで、汐音がすすり泣いた。「玲司くん、わたしのために日和(ひより)さんのことを後回しにしないで。もう行ってあげて、わたし一人でも大丈夫だから」玲司はすぐに言う。「無理するな。俺は行かない」電話が切れた途端、病院からまた催促の電話がかかってきた。薬指の婚約指輪に目を落とした。あれは玲司が選んだものだ。港は霧が深いからな。指輪が少しでも光っていれば、俺はすぐにお前を見つけられる――彼はそう言っていた。でもあの日、彼の助けを待つのはもうやめた。自分で手を回して、どうにか間に合って病院に着いた。その後、父は峠を越え、私は病室の前で一晩座り続けた。夜が明けた頃、玲司からようやくメッセージが届いた。【汐音は眠った。お父さんはどうだ?】窓の外に停泊する渡し船を見つめた。霧が晴れた。もう行かなければ。画面に浮かんだ玲司からの一文は、細い針みたいに胸の奥へ刺さって、そのまま抜けなくなった。私は病室の外のベンチに座っていた。手にはまだ、ペンを握りしめている。キャップはとっくに握りつぶれてい
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第2話
父が一般病棟に移った日、玲司が看護計画を持ってきた。几帳面すぎるくらいだ。服薬の時間、リハビリの予定、食事制限、それに介護士のシフトまで、全部書き込まれている。彼はファイルをベッドサイドの棚に置いた。「リハビリテーション科の部長に話を通してある。明日、会診に来てくれる」父は目を覚ましたばかりで、口元がまだ少し歪んでいて、言葉もはっきりしない。「玲司くん……苦労かけて、すまないな……」玲司はわずかに身をかがめた。「お父さん、どうかお大事になさってください」人当たりもよく、気配りもできる。誰が見ても、非の打ちどころのない婿候補だった。――汐音さえいなければ。昼、汐音がフルーツの詰め合わせを提げてやってきた。アイボリーのニットワンピースを着ていて、顔は青白く、手首にはまだ病院のリストバンドが巻かれている。部屋に入るなり、真っ先に玲司の方を見た。「わたし、タイミング悪かったかな……」玲司は手にしていたコップを置いた。「まだ本調子じゃないのに、何しに来たんだ」汐音はうつむいて、声はかすれていて、今にも消えてしまいそうだった。「日和さんのお父さんが目を覚ましたって聞いて、いてもたってもいられなくて……あの日、わたしのせいじゃなかったら、玲司くんだって……」言いかけて、目が赤くなった。父はわけがわからず、慌てて手を振った。「いいから、いいから。泣かなくていいよ」私は窓際に立ったまま、彼女がフルーツの詰め合わせをテーブルに置くのを見ていた。中には輸入物のブルーベリーが入っている。父には食べさせられない。玲司はちらりと見て、汐音の代わりに説明した。「汐音だって、わざとやったわけじゃない」私はフルーツの詰め合わせを持ち上げ、入り口にいた介護士に渡した。「すみません、ナースステーションに配ってもらえますか」汐音の顔が一瞬、こわばった。「日和さん、まだわたしのこと嫌ってるの……?」玲司が私を見た。その視線は素っ気なかったが、はっきりと釘を刺すものだった。――汐音に恥をかかせるな。昔の私は、こういう視線が一番怖かった。彼にわきまえがないと思われるのも、大げさだと思われるのも、怖かった。だから何度も、我慢してきた。汐音が夜中に熱を出したときは、記念日のディナーを放り出された。
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第3話
午後、玲司の母・黒瀬雅子(くろせ まさこ)が病院にやってきた。部屋に入るなり、バッグを椅子に置いて、私をたしなめるような口調で言った。「日和、お父さんが入院したのに、そんな大事なこと、どうしてすぐに教えてくれなかったの?」父の手を拭いているところだった。「教えましたが」雅子は一瞬言葉に詰まったが、すぐに笑みを浮かべた。「玲司は仕事が忙しいのよ、もう少し分かってあげて。彼の立場じゃ、どれだけの患者が命を待ってると思ってるの」私は何も答えなかった。父はベッドに横たわったまま、少し申し訳なさそうな目をしていた。「ご迷惑をおかけしております」雅子はすぐに手を振った。「何言ってるの、水くさいわね。もう家族同然なんだから」そう言うと、バッグから赤い招待状の見本帳を取り出した。「そうだ、結婚式の招待状、作り直させたのよ。前に日和が選んだくすみブルーは地味すぎるし、縁起も良くないから。汐音ちゃん、あの子はセンスがいいから、この箔押しのやつを選んでくれたの」私の手は、父の指先で止まった。「汐音さんが招待状を選んだんですか?」雅子は当然のように頷いた。「そうよ。あの子は小さい頃から玲司と一緒に育ってきたんだから、彼の好みを一番わかってるの」その招待状を見つめた。表紙には、洒落た英字の飾り文字で、こう書かれていた。【Happy Wedding】皮肉なものだ。雅子は続けた。「それと結婚式当日の席次だけど、汐音ちゃんは体が弱いから、メインテーブルの近くに席を取らせるわ。玲司も世話しやすいでしょう」私は顔を上げた。「結婚式の当日まで、彼女の世話をするんですか?」雅子の表情が、少し冷めた。「日和、そんなにみみっちいこと言わないで。汐音ちゃんには両親がいないのよ、玲司が少し気にかけてあげるくらい、何が悪いの?もうすぐうちの花嫁になるんだから、細かいことに気を取られてちゃダメよ」父が小さく咳をした。「日和、雅子さんも結婚式のために心配してくれてるんだ」私はタオルを洗面器に入れた。水面が小さく揺れた。「おばさん、結婚式は一旦保留にさせてください」病室が静まり返った。雅子の笑みが、そのまま固まった。「何を言ってるの?」「父がこんな状態で、結婚式を挙げる気になれません」雅子が眉を
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第4話
父の経過観察の日、玲司は午前10時に、術後の会診に付き添うと言っていた。9時半、私は車椅子を押して、リハビリテーション科の入り口で待っていた。父は少し元気になっていて、口元を歪めながら尋ねてきた。「玲司くんは、忙しいのか?」膝掛けを彼の膝にかけ直した。「うん、忙しいの」10時5分。彼は来なかった。10時20分、先生が番号を呼んだ。玲司に電話をかけた。一回目は誰も出ず、二回目は切られた。三回目で、ようやく出た。背後はやけに静かで、どこかの個室にいるようだった。「日和、こっちでちょっと用事があって」待合室のモニターで点滅する番号を見つめた。「先生が待ってるの。検査資料、玲司が持って行ったままだけど」昨夜、私が失くすといけないからと、彼が自分のカバンにしまい込んだのだ。電話の向こうで、一瞬間が空いた。「汐音が、手首を切った」スマホを握る手に、じわりと力がこもった。「深刻なの?」「傷は大したことない。でも、かなり参ってる」彼の声は疲れきっていて、どこか責めるような響きがあった。「昨夜、お前が結婚式を保留にするって話を知って、自分のせいだと思い込んで、取り乱してるんだ」私は目を閉じた。「それで、資料は?」「秘書に届けさせる」「どれくらいで?」「30分」診察室のドアが開いて、先生がこっちをちらりと見た。「ご家族の方、資料はまだですか?後ろにも患者さんが控えてますので」父は車椅子に座ったまま、頑張って手を持ち上げ、私の肩を叩いた。「大丈夫、少し待とう」電話の向こうから、汐音の声がかすかに聞こえてきた。「玲司くん、日和さんを責めないで。わたしが悪いの」玲司はすぐに声を落として、彼女をなだめた。「お前のせいじゃない」汐音のせいじゃない。なら、誰のせいだというのか。私のせい?結婚式を保留にしたことが悪かったのか。彼女に罪悪感を抱かせたからなのか。経過観察の日に、父の資料を求めたことまで、責められるのか。私は先生に頭を下げた。「すみません、また予約を取らせてください」先生が眉をひそめた。「術後の経過観察を勝手に先延ばしにされては困ります。ご家族がもっと気を配らないと」気を配る、か。私は父の車椅子を押して外へ向かった。タイヤが床のタイルの継ぎ目
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第5話
明け方5時20分、湊市の埠頭に濃い霧が立ち込めていた。父を車椅子で船に乗せていると、介護士が小さな荷物を提げて後ろについてきた。父はまだ、これから別の街のリハビリ施設へ向かうことを知らない。車椅子にもたれかかったまま、くぐもった声で言った。「日和、どこへ行くんだ?」私は彼のマフラーを整え直した。「もう少し静かな場所で、療養するの」船室に人は少なかった。窓際の席に座り、湊市の明かりが少しずつ遠ざかっていくのを眺めた。スマホの電源を入れると、着信履歴が表示された。三十七件。すべて玲司からだった。雅子からのメッセージも届いていた。【日和、お父さんをどこに連れて行ったの?結婚式まであと七日なのよ、いい加減にしなさい】汐音からも一通、届いていた。【日和さん、玲司くんが一晩中あなたを捜してたの。すごく心配してる、早く戻ってきて】スマホを裏返して、テーブルに置いた。介護士が水を差し出してきた。「桜庭さん、リハビリ施設はもう受け入れ確認済みです。高瀬(たかせ)先生も、ご自分で対応してくださるそうです」私は頷いた。「ありがとう」昨夜のうちに、私が連絡をつけておいたことだった。高瀬先生は母の生前の教え子で、今は霧ノ湊で神経リハビリを専門にしている。事情を話すと、彼はひと言だけ返してきた。「お父さんを連れてきてください。あとはこちらで手配します」船体が小さく揺れる中、父はいつの間にか眠りに落ちていた。白髪交じりの父の頭を見つめ、ようやく息をついた。霧ノ湊が近づいてきた頃、また玲司から電話がかかってきて、私は出た。電話の向こうから、怒りを抑えた声が聞こえた。「日和、どこにいる?」「船の中」「お父さんを連れ出したのか?」「うん」彼の息が、少し荒くなった。「病状が安定したばかりで、勝手に転院させたら危険だって分かってるのか?」「先生には確認した」「どの先生だよ。俺に言うより、他人を信じる方を選んだのか?」窓の外の深い霧を見つめた。「言ったって、どうせまた汐音さんのところへ行くんでしょう?結局、次に何かあれば、そっちを優先するんでしょう?」電話の向こうが、数秒静かになった。「昨夜また汐音が発作を起こして、お前の電話に気づかなかった」私は小さく笑った。「だから、かけな
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第6話
「お見舞い以外なら、お断り」玲司は聞こえなかったふりをして、じっと私の顔を見つめた。「痩せたな」昔なら、その一言だけで嬉しくなっていたのかもしれない。けれど今は、余計なお世話でしかない。「黒瀬部長が、何のご用」その呼び方に、彼の眉間がこわばった。「その呼び方はやめてくれ」「じゃあ何て呼べばいいの?元婚約者?」彼の喉仏が動いた。「結婚式は延期させただけだ、中止じゃない。少し落ち着いたら、また話そう」私は彼の横をすり抜けて、病室へ向かった。彼が手を伸ばして私を止めた。無理に掴んだりはしなかった。ただ、行く手を遮るように、一歩だけ前に踏み出した。「日和、あの日俺の対応が悪かったのは認める。だが、それだけで俺を見限るなよ」私は顔を上げて彼を見た。「救急救命室の外で、玲司を待ってた時、わたしのことを気にかけてくれる人は、誰もいなかった」玲司の顔が青ざめた。「あんなに深刻だとは、思わなかったんだ」「言ったのに」「あの時のお前は取り乱しすぎてて、俺はてっきり……」言いかけて、口をつぐんだ。玲司も、まさにそこに気づいたのだろう。私が取り乱していたと、彼は言った。その時点で、助けを求める声はもう、まともに届いていなかったのだ。玲司の横を、そのまま通り過ぎた。彼が不意に、指輪を私の目の前に差し出した。「持ってきた」指輪は彼の手のひらに乗っていて、ダイヤモンドが廊下の灯りの下で光っていた。「あの日、手がむくんでるって言ってたから、はめなかった。今、はめさせてくれないか?」私はその指輪を見つめた。港は霧が深いから、指輪が少しでも光っていれば、ひと目で私を見つけられる。でも玲司は、一度も私を見つけたことがない。「玲司、もう似合わない」彼が指を強く握りしめた。「汐音のせいか?もう関わらないようにする」言い終わるより早く、彼のスマホが鳴った。画面に、ある名前が浮かび上がった。汐音。玲司は反射的に、それを切った。次の瞬間、また彼女からかかってきた。彼は顔をしかめ、電源を切った。私は小さく笑った。「ほら、出なくても、結局は同じでしょう」玲司の声が、かすれた。「何とかする」「玲司が考えることでしょ」病室の入り口から、高瀬先生が出てきた。玲司をちらりと見てか
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第7話
「招待状を選んだのは、おばさんと汐音さんでしょう。説明なら、彼女に頼んでください」雅子は、一瞬言葉に詰まった。「嫌味はやめなさい。玲司はここ数日、あなたのために手術の予定まで変えて、げっそりやつれてるのよ。いい加減、帰ってきなさい」私の声は、自分でも驚くほど抑揚がなかった。「やつれてるなら、汐音さんに慰めてもらえばいいでしょう」「日和!」雅子は怒りを押し殺していた。「お父さんがあんな状態で、これから何かとお金もかかるでしょう。玲司と本当に縁を切るつもりなら、誰が頼りになると思ってるの」私は手を止めた。彼女の目には、私が玲司と結婚するのは、医療費を払ってくれる相手を探すためだと映っていたらしい。「ご心配には及びません」「強がるんじゃないの。支えきれなくなったら、どうせ頭を下げに来るくせに」電話を切った。すぐに弁護士から返信が届いた。【桜庭様。婚約解消に法的な問題はありません。婚約披露宴の費用は、割合に応じて精算できます。それと、お父様が以前黒瀬グループと交わした療養施設の投資契約は、このまま継続なさいますか】その最後の一文を見つめた。あれは玲司が婚約前に持ちかけた話だった。黒瀬グループの名義で父の療養施設に出資して、父が定年前の最後のプロジェクトをやり遂げられるように、と。父はこのことを、ずっと喜んでいた。私は返信した。【終了してください】夕方、玲司がまた現れた。今度は病棟には入らず、リハビリ施設の入り口に立っているだけだった。手には書類を持っている。「療養施設の投資契約、もうサインしておいた」階段を下りた。「もういらない」「お父さんが、ずっとやりたがってたプロジェクトだろう」「出資者なら、別に探す」玲司は私をじっと見た。「高瀬先生か?」答えなかった。彼の口調が、とうとう抑えを失った。「日和、あの男と知り合って、まだどれくらいだよ」私は彼を見た。「少なくとも、助けを求めた時、あの人はちゃんと来てくれた」玲司の顔から、一瞬で血の気が引いた。書類をつかむ指に、力がこもった。「俺への当てつけか?」「違う」カバンから婚約解消の声明文を取り出し、彼に差し出した。「ただの、お知らせ」彼は受け取らなかった。「サインはしない」「なら、こっちで
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第8話
「放っておけばいいよ」「日和、落ち着きすぎでしょ」「じゃあ、どうすれば?」私はピルケースのふたを閉じた。「あの子が待ってるのは、わたしの返事じゃない。玲司が、なだめに駆けつけてくれること」美緒は鼻で笑った。「なら、残念でしたって話ね。あんたの元婚約者、昨日病院の会議で告発されたらしいよ」手が止まった。「告発って、何の?」「匿名のタレコミがあってね。汐音のために長年、ルール違反までして個室や専門医を回してたって。証拠の記録付き。病院が本格的に調査するらしいよ」私は何も言わなかった。あの記録は、湊市を離れる前に、私がまとめたものだった。復讐のためじゃない。ただ、あの人たちのために取り繕ってやる気が、ふいに消えただけだった。すぐに玲司から電話がかかってきた。この番号だけは、まだ拒否していなかった。出るなり、彼は言った。「お前がやったんだろ」「そう」彼の息が、重く沈んだ。「これが昇進の審査に響くって、分かってるのか」「分かってる」「日和、前はこんなじゃなかっただろ」また、その言葉だ。コップをテーブルに置いた。「玲司、わたしも前は思ってた。あなたは仕事に私情だけは持ち込まない人だって」電話の向こうは、長いこと黙り込んだ。「あれで、一般の患者に影響が出たことはない」「言い切れる?」パソコンを開き、シフト表のスクショを一枚、彼に送った。「3月12日。汐音さんの心理評価に付き添うために、父を診るはずだったリハビリの専門医を、玲司は急に呼び戻した。あの日、父は4時間も待たされた」玲司は何も言わなかった。私は続けた。「5月27日。汐音さんが救急外来のベッドを使ってたから、看護師に指示して、一般の患者を廊下に移させた。その人、後から苦情を入れたのに、握りつぶされた」「玲司、冷静なんじゃない。みんなが譲ってくれるのに、慣れてるだけ」電話の向こうから、かすかな息づかいが聞こえた。「全部、知ってたのか」「言わなかっただけ」彼を愛していたから、結婚すればそのうち何が一番大事なのか分かってくれると信じていた自分が、今思えば笑えるくらい甘かった。その日の夜、病院は内部調査の通知を出した。玲司は管理職務の一部を外され、調査に協力することになった。すぐに、汐音か
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第9話
「毎晩、思い出すんだ。お父さんが倒れた後、日和が俺に電話をかけてきたこと。なのに俺は、大げさに言うなって返した」玲司は少し言葉を切った。「日和、よりを戻してくれと頼みに来たんじゃない」ようやく彼の方を見た。目のふちが赤くなっているのに、必死で平静を保とうとしている。「謝りに来たんだ。すまなかった」ずっと欲しかった言葉だった。けれど、今さら聞いても、何も変わらなかった。私は言った。「受け取っておく」玲司は、その言葉に刺されたような顔をした。カバンから小さな箱を取り出し、フェンスの縁に置いた。「指輪は作り直した。内側の刻印も消してある。いらなければ、捨ててくれていい」受け取らなかった。「玲司、もう物を贈るのはやめて」彼の指が、固まった。私は静かに言った。「今の玲司は、ただ昔を取り戻そうとしているだけ。でも、わたしはもう、そこにはいないの」風が庭を吹き抜けた。霧ノ湊には珍しく、陽が差していた。父が一周歩き終えて、高瀬先生に支えられながら腰を下ろした。玲司は私の視線を辿って、ふいに低い声で聞いた。「あの男と、一緒になるのか」高瀬先生のことだ。「それは、わたしが決めること」彼は頷いた。「そうだな。俺には、聞く資格もない」しばらく黙ってから、玲司は言った。「婚約のときに用意した新居は売った。金はお前の口座に振り込む。お父さんのリハビリ費用に使ってくれ」「いらない」「同情じゃない」彼は私を見た。「これは、俺が返さなきゃいけないものなんだ」私は首を振った。「あなたが返すべきのは、お金じゃない」彼の目の奥の光が、今度こそ消えた。そのとき、父がこちらに手を振った。「日和……こっちに来なさい」玲司の横を通り過ぎて、庭へ向かった。背後で、彼がふいに私を呼んだ。「日和」足が止まった。「この先、霧が深い日があっても、怖がらなくていい」振り返らなかった。「もう、怖くない」半年後、父は自分で杖をつきながら、庭まで日向ぼっこに出られるようになった。霧ノ湊の冬は、寒くない。リハビリ施設のそばに小さなうどん屋があって、店主は私たちと顔なじみだ。いつも、野菜をひとつかみ多めに入れてくれる。父は食べるのが遅い。れんげが器の縁に当たって、小
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