All Chapters of 夫と子を捨てた妻が、世界を魅了するデザイナーになった: Chapter 551 - Chapter 560

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第551話

それこそが、珠季にとっていちばん気がかりなことだった。かつて樹とその父親がそろって若葉に親しげに接し、小夜を深く傷つけたと知った時、珠季の胸には、あの子に対するわだかまりも少なからず生まれていた。とはいえ、樹は小夜の息子だ。この一年は、以前よりずいぶん落ち着いていることも確かだった。だからこそ、余計に安心できなかった。最近の長谷川家の動きを見る限り、あちらは小夜を家から切り離す気などまるでない。自分がイギリスで目を光らせていなければ、その手はとっくにこちらまで伸びていたはずだ……それが、珠季には何より腹立たしかった。あの男はもう死んだというのに、子どもだの遺言だの会社だのを口実にして、いつまでも小夜を縛りつけようとする。その魂胆が、どうにも許せない。結婚したからといって、長谷川家そのものに嫁いだわけではない。ましてや、あの男はもうこの世にいない。婚姻関係だって、とっくに終わっている。それなのに、いつまでこんなことを続けるつもりなのか。もちろん、小夜の心にあるものも珠季には分かっていた。自分をかばって銃弾を受けた相手への罪悪感だ。長谷川家が大事に育ててきた後継者を死なせてしまったという負い目なのだろう。だが、あれは圭介の自業自得だ。小夜に背負わせてきたものを返しただけで、当然の報いでもある。ただ、そこへさらに、子どもから父親を奪い、片親にしてしまったという事実が重なる。放っておけないのも、無理はなかった。珠季は理解している。だが、このまま続けば、自分が目を閉じたあと、長谷川家はこの大切な姪孫を、そしてスプレンディドのたった一人の後継者を、骨の髄までしゃぶり尽くしてしまうのではないか。そんなことは、絶対に許せない。だからこそ、珠季は小夜の結婚を急いでいた。結婚し、新しい家庭を築いて初めて、長谷川家とは完全に一線を引ける。できることなら、もう一人子どもがいればなおいい。そうすれば、心から安心してあの世へ逝くことができる。ただし、そうなると相手は誰でもいいわけではない。長谷川家からの圧力に耐えられる男でなければならない。肩を並べて渡り合えるほどでなくてもいい。少なくとも、気骨のない軟弱者では困る。志があり、小夜をしっかりと支え、思いとどまらせるだけの力も必要だ。小夜が情に流され、また馬鹿な真
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第552話

海外で良縁がまとまりかけていたその頃、国内では、栄知の別邸の書斎から、年老いてなお腹の底から響くような彼の怒声が飛んでいた。「この馬鹿者めが!自分の不始末を自分で片づけようともせず、毎日毎日ろくでもないことばかりやらかして、いざ収拾がつかなくなったら、この老いぼれの顔を使って泣きつくつもりか?よくもまあ、そんなことを思いついたものだ!」書斎の机のそばに控えていた馬場執事は、栄知が怒りで息を乱しているのを見て、慌てて手を伸ばし、その背中をさすった。ようやく呼吸が落ち着いたかと思えば、電話の向こうで何を言われたのか、栄知はたちまちまた爆発した。「この大馬鹿者!夫婦の間には誠意が要ると、わしは何度言った?お前は全部、右の耳から左の耳へ聞き流してきたのか!お前が自分で招いたことだ。自分で何とかしろ!わしに尻拭いをさせようなどと思うな。毎日毎日、考えることといえばろくでもない小細工ばかりだ。手元のくだらん騒ぎをさっさと片づけて、自分で出向いて頭を下げてこい。この老いぼれが行くより、よほど役に立つだろうが!ほう、相手が会いたがっていないことはよく分かっているじゃないか。それはご立派な心がけだ。偽装死などという真似まで思いつく長谷川家自慢の賢い孫は、どこへ行ってもちやほやされるとでも思っておったのか」栄知は皮肉たっぷりに吐き捨てた。「この恩知らずのろくでなしめ。さっさと行け!」言い終わるが早いか、栄知は勢いよく電話を切り、スマホを机に叩きつけた。まだ怒りは収まっていなかった。馬場執事はすぐに一杯のお茶を差し出した。栄知がそれを飲んだのを見届けてから、馬場執事は控えめに尋ねた。「大旦那様、本当にお手を引かれるおつもりですか」「手を引けるものか。どうやって見捨てろというのだ」口では怒っていても、お茶で息を整えた栄知は、結局のところあの孫が可愛くて仕方がなかった。「見捨てられるわけがなかろう。あれは壁にぶつかるまで引き返さない性分だ。本当にそのまま突っ走って自滅させるわけにもいくまい」言い終えると、栄知はまた深くため息をついた。「あの時から、わしは二人の結婚には反対だったのだ。馬場もそう思うだろう。騙すようにして手に入れた縁に、よい結末などあるはずがない。まったく、とんだ悪縁だ」「……」「連絡を取れ
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第553話

青山がいじめられていないか、小夜は気が気ではなかった。「そんなことはないよ」青山は本を閉じ、穏やかに微笑んだ。「でも、大叔母様がどれほど君を心配し、深く愛しているかは痛いほど伝わってきたよ」小夜は指先で頬にかかる後れ毛を優しく絡め取り、ふっと笑みをこぼした。「ええ。昔まだ故郷にいた頃、両親は仕事にかまけて、私の面倒を見る余裕もなかったの。だから私は小さい頃から、時間がある時は田舎に住む大叔母様とおばあちゃんのそばで過ごしていたわ。アートの世界へ導き、ものづくりの手ほどきをしてくれたのも、全部大叔母様だったのよ」それだけではない。人生が荒れ狂う海であり、小夜が嵐の中で進む先を見失った小舟だったとするなら、珠季は彼女にとって、雨風の向こうに灯る灯台だった。荒波を越えるための光を与えてくれた人だ。子供の頃の様々な記憶が蘇り、彼女の口元は自然と和らいだ。しばらく目を伏せ、静かな声で語り続けた。「私の両親はいつも家で愚痴をこぼしていたわ。大叔母様は伝統に逆らい、先祖を裏切った反逆者で、まともな女じゃないって。でも私はずっと、大叔母様こそ小さい頃に出会った中で一番すごい人だと思っていたの。あの頃の私にとって、田舎に行くことが何よりの楽しみだった。お腹いっぱいご飯が食べられて、大叔母様の顔を見て、そのお話を聞くことができるから」そう語りながら、小夜は不意に言葉を詰まらせた。心の底から非現実的な感覚が湧き上がり、彼女は思わず周囲の華やかで豪奢なリビングの装飾を見回した。かつての貧しい田舎の風景とは、あまりにもかけ離れていた。もう、あれからずいぶん長い時間が経ってしまったのだ。かつて両親から容赦なく浴びせられた怒声や非難の顔すら、今では遠く霞んで思い出せない。いつの間にか、子供の頃に負った心の傷は、少しずつ癒えて消えようとしていた。もはや取るに足らないものになっていたのだ。彼女が物思いに耽っていると、思いがけず手の甲に温かい感触が重なった。振り返ると、青山の手が彼女の手を優しく包み込み、温もりに満ちた瞳でこちらを見つめていた。「それで、どうなったんだい?」彼はもっと、小夜の口から語られる過去の物語を知りたかった。「それからね」小夜は広大で美しいリビングを一瞥し、静かにつぶやいた。「おば
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第554話

小夜はその場に立ち尽くした。最近の青山がますますストレートに感情を伝えてくることには気づいていたが、まさか会うたびに、その熱量が増していくとは思ってもみなかった。激しく動揺した小夜は、しばらく言葉を失ったまま、胸が大きく跳ねるのを感じた。青山はふっと微笑み、小夜の細く白い手を優しく引き上げ、その手の甲にそっと口づけを落とした。「大丈夫だよ。努力するから」熱い吐息が触れたかと思うと、唇はすぐに離れていった。小夜の手の甲に電気が走ったような痺れが生まれ、その熱が腕を伝って、耳の後ろまで一気に赤く染め上げた。――ああ、どうしよう。小夜は慌ててその場から逃げ出そうとしたが、指先が完全に離れる寸前で再び彼に捕らえられた。青山は目を細めて笑い、優しげに問いかけた。「それなら、ささよ。舞踏会で僕と一曲踊ってくれる?」「舞踏会はまだ始まってないわ」小夜はようやく彼の手から指をすり抜けさせ、逃げるように慌ただしくその場を後にした。……リビングに残された二人は全く気づいていなかった。屏風の影に隠れた階段の踊り場で、一段高い場所に立っていた珠季が、半ば暗闇に身を沈めながら、こらえきれずに口元をほころばせていたことに。珠季はしばらくの間、静かに笑い続けた。やがて階段を降り、屏風の裏の通路を抜けて裏庭の花園へと向かった。大切にしている薔薇の手入れをしようとしていたその時、極度に緊張した面持ちの執事と出くわした。「どうしたの」これほど冷静で頼りになる彼が、これほど取り乱すことなど滅多にない。「大奥様」執事は一礼し、ためらいがちに言葉を紡いだ。「……長谷川家の大旦那様から、面会を求める連絡が届きました」珠季は足を止め、眉をひそめた。長谷川栄知。彼がどれほどの大物かはよく知っている。安全保障分野の要職を退いた元老であり、第一線を退いた今でもその影響力は計り知れない。過去に二人は一度も面識がなかった。互いに名前を聞き知っている程度の関係だ。そいつがこんな時期に、いったい何の用で連絡してきたのか。ろくな話ではないはずだ。珠季は無表情のまま裏庭へと歩き出した。執事は驚いてその場に立ち尽くし、慌てて後を追いかけた。「大奥様、お会いにならないのですか」「会う必要がどこにあるの」珠季は冷たく
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第555話

夜の八時を回った頃。薔薇の邸宅は眩い光に照らし出され、淡いピンク、白、赤、黄色、紫、青など、さまざまな色の薔薇が、ライトの下で美しく揺れ動いていた。次々と車が邸宅の前に滑り込んできた。着飾って車を降りる客たちは皆、珠季の名声と招待に惹かれてやって来た者ばかりだった。誰もが顔の半分、あるいは全体を覆う仮面をつけていた。花びらが敷き詰められた道を歩き、芳醇な香りに包まれた広大な薔薇の庭園へと散らばっていく……まだ舞踏会は始まっておらず、人々は顔を隠したまま花を愛でていた。回廊の脇にある長いテーブルには、見た目にも美しい料理の数々が並べられていた。仮面舞踏会。それは文字通り、招待客がテーマに沿った衣装を身にまとい、完全に素顔を隠して参加する宴だ。互いの正体を知らぬまま、直感だけを頼りに相手を誘い、共に踊る。そこには未知の神秘と刺激が満ちている。小夜はまだ寝室でドレスに着替えていた。舞踏会の開催は急に決まったものだったが、珠季の邸宅には彼女が着るにふさわしいドレスなどいくらでも揃っていた。……今まさに彼女が身にまとったのは、珠季の指示で届けられた、かつての彼女のスタイルとは全く異なる雰囲気を放つ一着だった。鏡の中の女性。漆黒のチュールドレスが首元まで覆い、金色のシルクリボンが腰を細く締め上げていた。高い襟元にはサファイアをあしらった金のネックレスが絡みつくように配置され、彫刻が施されたダークブルーの宝石の先端から、涙型のパールが静かに垂れ下がっていた。耳元にも同じ涙型のパールのイヤリングが揺れていた。艶やかな黒髪は高く結い上げられ、唇には鮮やかな真紅のルージュが引かれていた。美しさの中に、どこか凛とした攻撃的な強さが潜んでいた。小夜がその新しい自分の姿に少し戸惑っていると、ドアの外から芽衣の声が聞こえてきた。「小夜、準備はできた?」「今行くわ」小夜は返事をし、ドレッサーの上に置かれていた、長い黒のヴェールがついた狐を模した黄金の仮面を手にした。顔に当てると、燃えるような瞳だけが覗いた。仮面に繋がった黒いヴェールが、結い上げた黒髪をすっぽりと覆い隠し、自分でも見知らぬ他人のように思えた。ウォークインクローゼットを出た。外で待っていた芽衣も同じように黒のチュールドレスを着ていたが、デザインは異なっていた。彼
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第556話

ダンスホールは巨大で、至る所に薔薇が舞い落ち、ダンスフロアの後方には生演奏のバンドが控えていた。大勢の人がなだれ込んできても、全く窮屈さを感じさせない広さだった。司会など必要なかった。人々は思い思いにペアを組み、すでに踊り始めていた。行き交うドレスの裾が翻り、花びらがホールの宙を無数に舞い踊っていた。目の前に広がる夢のような光景を眺めながらも、小夜の視線は一人でいる人影を追っていた。芽衣や、青山の姿を探していたのだ。ちょうどその時だった。青山と同じくらいの背丈をした、黒のスーツに黒いハート型の仮面をつけた男が近づいてきた。目的は明確らしく、すっと手を差し出し、一曲踊らないかと誘ってきた。狐の仮面の下で、小夜は小さく落胆した。――青山ではない。おそらく大叔母様が手配したお見合い相手の一人なのだろう。小夜はもともとダンスにそれほど興味がなく、今はなおさら踊る気になれなかった。静かに首を横に振り、無言で誘いを断った。男はもう一度誘いかけたが、無駄だと悟ると諦めて立ち去っていった。男の後ろ姿を見送りながら、小夜は伏し目がちに狐の仮面の耳元に飾られた淡いピンクの薔薇に触れた。――どうすればあの二人を見つけられるのだろうか。――青山は、自分のことが分かるだろうか。そう考えていた矢先、ふいに冷たい風が脇をすり抜けた。誰かが非常に速い足取りで近づいてくる気配を感じ、顔を向けた途端、小夜はびくりと息を呑んだ。無理もない。目の前に立つその人物の装いは、少々不気味すぎたのだ。全身を黒いマントですっぽりと覆い隠し、顔には青白い仮面をつけていた。ぽっかりと空いた漆黒の目の穴の下には、一筋の血の涙が描かれていた。見ているだけで芯から冷え込み、恐怖が這い上がってくるようなおぞましさがあった。男は手を差し出した。小夜は無意識に一歩後ずさった。小夜がそんな反応を示すとは予想外だったのか、男の動きがわずかに止まった。しかし、黒い革手袋に覆われた手は再び前へと伸ばされ、小夜の手のすぐ手前で止まった。ダンスに誘っているのは明らかだが、男は一言も言葉を発しなかった。――この相手が誰かは分からない。――だが、絶対に青山ではないことだけは確かだ。大叔母様がこんな奇妙な相手をお見合い相手に選ぶとも思えない。どちらに
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第557話

小夜の全身が凍りつき、心臓が口から飛び出しそうになるほど、血が逆流していくようだった。――あり得ない。――どうしてあの人がここにいるというの。――あり得ないはずだ。巨大な恐怖が真っ先に小夜の心臓を鷲掴みにし、息が詰まるほどの痛みをもたらした。男の身体に密着したまま、小夜は恐ろしさのあまり硬直して動けなくなった。……確証のない全ての推測が、現実の触覚とともに一瞬にして崩れ去っていった。入念に築き上げてきた心の防壁など、何の役にも立たなかった。何よりも先に、恐怖が全てを支配した。耳元で響く音楽のリズムが次第に遠のいていった。目の前にあるのは、死神の降臨を思わせる青白い血涙の仮面だけだった。ぽっかりと空いた漆黒の深淵が、牙を剥いて小夜を喰らおうとしているかのようだった。身動き一つとれなかった。一曲が終わる頃には、小夜は冷や汗にまみれ、背中はじっとりと濡れていた。青白い仮面の男が手を引いてフロアから出ようとするのを見て、小夜はハッと我に返った。汗ばんだ手で必死に抵抗し、後ろへ後ずさろうとした。――あの人であろうとなかろうと、絶対について行くわけにはいかない。男は立ち止まり、振り返って小夜を見た。仮面の下で、小夜の顔色も同じように青ざめていた。それでも小夜は視線をそらさず、まっすぐにその漆黒の穴を見据え、胸の奥で渦巻く恐怖と疑念を懸命に押し殺していた。――あなたなの?見つめ合うこと数秒。男はわずかに顔を傾けた。背後をちらりと確認したようだった。不意に小夜の手を取り、青白い仮面の端を少しだけ持ち上げた。端正で白い顎のラインと、わずかに吊り上がった薄い唇が覗いた。そして、手の甲に冷たく柔らかなキスを落とした。小夜の頭が真っ白に弾けた。そのキスは、昼間に青山が小夜の手に落としたキスの位置と、一寸の狂いもなく同じだったのだ。心臓が激しく跳ね上がり、こめかみが激しく脈打った。ある恐ろしい推測が理性を吹き飛ばしかけ、男の仮面を今すぐ叩き落としてやりたいという衝動が湧き上がった。――あなたなのか、と。だが男は急に手を離すと、狐の仮面の耳元に飾られていた淡いピンクの薔薇をそっと抜き取り、そのままフロアの外へと歩き去っていった。小夜は無意識に二歩ほど追いかけたが、すぐに足がすくんで立ち止まった。その時、不意に背後か
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第558話

「何事なの?」舞踏会が中盤に差し掛かった頃、知らせを受けて一階の控え室に駆けつけた珠季は、一目でソファに丸まって青ざめている小夜の姿を捉えた。顔色が一変し、ソファの脇にしゃがみ込んでいる青山を鋭く睨みつけた。「高宮先生、ご説明いたします」大方の事情を聞き出していた青山が先に口を開いた。しかし、彼が語った内容はすべてが事実というわけではなく、慎重に言葉を選び、ところどころ脚色を加えていた。これも彼が考え抜いた末の判断だった。珠季の現在の体調がどれほどの衝撃に耐えられるか分からない以上、圭介が生きているという事実については、ひとまず伏せておくのが最善だと思ったからだ。「……というわけで、舞踏会に黒マントに血涙の仮面をつけた男が現れ、非常に無礼な態度で強引にささよと踊り……その後、こうなってしまったのです」「それだけのこと?」珠季はすぐには信じなかった。確かに無礼極まりない行為であり、珠季自身も激怒していた。しかし小夜の性格を考えれば、その程度の無礼なら自分で対処できるはずだ。まして、ここまで異常な状態に陥るとは考えにくい。――怯え方が尋常ではない。青山はすぐさま言葉を継いだ。「高宮先生、邸宅の監視カメラの映像と来客名簿を拝見できませんか。その男を見つけ出したいのです」「もちろん探し出すわ」内容に大いに疑念は残るものの、それだけでも珠季を激怒させるには十分だった。自分の大切な小夜に、しかも自分の邸宅で手を出そうとするなど。――言語道断の振る舞いだ。珠季はすぐさま振り返り、背後に立っていた執事に命じた。「舞踏会を直ちに中止し、邸宅を封鎖しなさい。人員を動員して一人ずつ調べ上げ、黒マントに血涙の仮面の男を引きずり出すのよ。不満を口にする者がいれば、私の指示だと言いなさい。その輩が舞踏会で私に無礼を働いたのだと。無関係の者には、後日私から相応の補償をさせてもらうわ」「かしこまりました」執事はそう応じて部屋を出て行こうとした。「待ちなさい」執事がドアに手をかけたところで、珠季は彼を呼び止め、少し思案してから言った。「私が自ら現場で指揮を執るわ」今回の舞踏会は彼女が主催したものであり、招待客には業界の重鎮やイギリスの有力な貴族も多数含まれていた。気の荒い者がいれば大きな衝突に発展しかねな
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第559話

あの男の目的はすでに達成されているはずだ。――彼は自分を利用して、社会にも、そしてあのコルシオという男にも、自分が死んだと完全に思い込ませた。彼の計画は着実に進んでおり、このまま少し待てば勝利を手中に収められるはずだ。それなのに、なぜわざわざ自分を探しに来たというのか。――自分が彼の死の偽装を暴いたわけでもないし。――コルシオに密告したわけでもない。――なのに、どうして。――これ以上関わりたくなかった。ただ自分のささやかな居場所を守り、身の丈に合った暮らしを静かに続けていきたかったのに。利用価値がなくなったのなら、かつてのようにあっさりと切り捨ててくれればいい。そうすれば、互いに干渉することなく、二度と関わることもなかったというのに。――どの面下げて、また自分を探しに来たというのか!――一体、自分に何を求めているというのか。――それとも、これはただの警告なのだろうか。一体何に対する警告だというのか。手の甲に落とされた冷たいキスを思い出し、小夜の手は思わず震えた。……あの男のこれまでの傲慢で身勝手な振る舞いや、理不尽で狂気じみた執着を思うと、脳裏に一つの荒唐無稽な推測が浮かび上がった。――つまり、自分を捨て去った後でさえ、他の誰かと親しくすることは許さないということか。依然として自分を所有物のように扱っているのか。――いったい何様のつもりなのか!ずっと心の奥底に押し留めていた煮えたぎるような憎悪が、恐怖を飲み込む業火となって燃え上がった。小夜は唇をきつく噛み締め、血が滲むほど力を込めたが、痛みすら感じなかった。胸を突き破らんばかりの激しい憎しみだけがそこにあった。――あの、忌まわしい男。「ささよ」不意に背中を優しく叩く手の感触があり、小夜を見守っていた青山が、監視カメラの映像を表示したパソコンを横目で見ながら声をかけた。小夜が唇を噛み締め、血を滲ませているのを見て、青山は慌てて抱き寄せ、穏やかな声でなだめた。「ささよ、口を開けて。僕がここにいるよ」背中を撫でる優しいリズムと、耳元で囁かれる温かい声に包まれ、小夜は次第に穏やかさを取り戻していった。口元から力を抜き、顔を青山の胸に埋めたまま、静かに沈黙を守った。それだけで、ほんの少しの安らぎを得られた。給仕から救急箱を受け取った青
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第560話

ついに、その時が来た。最初の男がダンスの誘いに失敗して立ち去った後。小夜の左斜め前、監視カメラの死角から、黒マントに青白い血涙の仮面をつけた男がゆっくりと姿を現した。男は明確な意志を持って、人混みを掻き分けながら真っ直ぐに小夜へと向かってきたのだ。――その後の展開など、わざわざ見るまでもない。――見たくもなかった。一方、青山はこの一部始終を目にした。男がダンスを終え、小夜の手の甲にキスを落とし、髪飾りの薔薇を奪い取って去っていく光景を見て、いつも穏やかな青山の瞳が、次第に冷たく沈んでいった。――ふっ。青山にははっきりと見えていた。男は立ち去り際、近づいてくる青山に向けて挑発するような視線を向けていた。――そしてそれは、同時に警告でもあった。――これ以上、小夜に近づくなという警告だ。青山は静かに膝の上で両手を握りしめた。指先が微かに痙攣し、そこから走る刺すような痛みが神経を伝って脳を直撃し、こめかみが激しく脈打った。――一年前に圭介の死を知らされて以来、一度も出ていなかった手の骨を砕かれた時の神経痛の後遺症が、またぶり返そうとしていたのだ。――よりによって、こんな時に。青山は両手を固く握りしめ、顔ににじみ出る痛みを必死に押さえ込んだ。隣にいる小夜に異常を悟られまいと耐えていたが、その額には冷や汗が浮かんでいた。薔薇を奪って去っていく男の後ろ姿を画面越しに見つめながら、青山もまた確信に至っていた。――間違いなく圭介だと。――こんな真似をするのは、あの男しかいない。――あの男。――「死んだ」のだから、そのままおとなしく死んでいればいいものを。いつまでもまとわりついてきやがって。「青山」映像が目的の場面を過ぎたのを見計らい、小夜は視線を元に戻そうとした。その時、ふと机の下で固く握りしめられた青山の手が目に入り、心配そうにその手を握った。「どうしてこんなに汗をかいているの?」青山はハッと我に返り、小夜に痛みを悟られまいとして手をそっと引き抜いた。そして、少し強張った声で誤魔化した。「ああ、少し暑くてね」「暑いの?」青山が滅多に着ない黒と金の刺繍入りスーツを隙間なく着込んでいるのを見て、初夏に近い気候を考えればそれも無理はないと思い、小夜は疑わなかった。暑いなら、いっそ上着を脱い
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