All Chapters of 夫と子を捨てた妻が、世界を魅了するデザイナーになった: Chapter 571 - Chapter 580

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第571話

「さっき庭園で、うっかり薔薇の枝を強く握ってしまいました。棘が深く刺さって、神経に触れたのか少し痛みます」「どうして早く言わないの!」珠季は眉をひそめ、口調を少し厳しくした。すぐそばに控えていた使用人に命じ、青山の手を洗浄させ、消毒して包帯を巻かせた。「後で医師に診てもらいなさい。本当に神経に触れていたら困るわ」「大丈夫です。小さな傷ですから」青山は淡く微笑んだ。珠季が鎮痛剤のことをそれ以上追及しなかったのを見て、胸の内で密かに安堵の息を吐いた。幸い、庭園では痛みがひどすぎて耐えきれなくなりそうだったため、薔薇の枝を折って掌に握り込み、物理的な痛みで神経痛から意識を逸らそうとしていたのだ。それが、今は思わぬ言い訳として役に立った。……しばらくして、控え室の扉が開いた。「大叔母様、犯人が見つかったって?どこ?」小夜は足早に入ってくると、扉からほど近い場所に立つ黒いマントの男と、その足元に転がる青白い血涙の仮面を即座に視界に捉えた。そして、思わずその場に固まった。珠季は小夜を見ると尋ねた。「この人なの?」「……違います」小夜はきつく眉間を寄せた。「でも、このマントと仮面は……」「高宮先生、僕じゃないと言ったでしょう!」ハーヴェイは苛立ちを隠せない様子で言った。「何度も申し上げていますが、これは僕が持ってきたものではありません。目が覚めた時には、勝手に身につけさせられていたんです……それで、もう帰ってもよろしいでしょうか」珠季は執事に目を向けた。執事が一歩前へ出て、にこやかに言った。「ハーヴェイ様、本日は当邸の不手際でご迷惑をおかけしました。後日、あらためてお詫びをいたします。こちらへどうぞ」「お気遣いなく」ハーヴェイも、これ以上事を荒立てるつもりはなかった。補償などどうでもいい。珠季の顔を立てて、この件はこれで済ませるつもりだった。彼の実家も、これ以上文句は言わないだろう。彼は去り際、厄介の種であるマントを忌々しげに脱ぎ捨て、床に放り出してから執事の後について大股で出て行った。小夜も、その頃には完全に冷静さを取り戻していた。よくよく考えてみれば、あの狡猾な男がこんなにあっさり見つかるはずなどないのだ。むしろ、見つからなくてよかった。もし大叔母様が仮面の下の顔を見て、そ
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第572話

「ありがとう、大叔母様」青山は礼儀正しく答えた。「手?」小夜ははっとして、急いで青山の手を取ろうとした。「手、どうしたの?」――手のことに関しては、どうしても過敏になってしまう。青山は以前、彼女のせいで手の骨を砕かれているからだ。……控え室の外の廊下。珠季は大股で二階の書斎へ向かいながら、執事へ低い声で命じた。「舞踏会はお開きよ。お客様をお帰しして、一人ひとり丁寧にお詫びしてフォローしなさい。あなたが直接対応して。全員が帰ったら、すぐに屋敷を封鎖して警備を強化するのよ」「かしこまりました」執事は応じてから、尋ねた。「大奥様、長谷川家の大旦那様とお会いになるおつもりですか?」先ほど控え室で耳打ちしたのは、その件だった。栄知がまた連絡してきたのだ。今回は、直接ビデオ通話までかけてきている。「ええ」珠季は書斎の扉の前で立ち止まり、冷たく笑った。「偶然だと思う?こちらでこんな騒ぎが起きた直後に、向こうから連絡が来るなんて。それに、舞踏会で小夜に絡んだあのろくでもない男。私がわざわざ呼んだハーヴェイまで襲って、私の顔に泥を塗ったわ。小夜が舞踏会でどんな姿をしていたかも把握していて、目的もはっきりしている。入念に準備して来たのでなければ、そんなことができるはずないでしょう。あの年寄りが来るタイミングも、ずいぶん都合がいいわね」珠季は書斎の扉を押し開けた。「あの年寄りが何を言うつもりなのか、聞かせてもらおうじゃないの。下手をすれば、今回のことも長谷川家の連中が仕組んだのかもしれない。毎度毎度、いい加減にしてほしいわ」書斎の重厚な扉が、音を立てて閉まった。……客室。医師はすぐに駆けつけて青山の手を診察し、あらためて包帯を巻き直した。傷は神経には達していないと何度も念を押され、ようやく小夜は胸を撫で下ろした。「僕は大丈夫だよ」「どこが大丈夫なの!」小夜は彼の言葉を遮った。テーブルに置かれたままの折れた二本の木の棒を取り上げ、複雑な表情を浮かべる。「彼は、あなたも狙っているのよ」この折れた二本の木の棒は、警告だ。自分の手の甲に残された、あの忌まわしいキスと同じ。どちらも、強烈な警告だったのだ。青山は黙っていた。数秒後、無事な右手を、小夜が木の棒を握りしめて小刻
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第573話

小夜の返事を聞いた瞬間、青山はつい堪えきれず、彼女の首元に顔を埋めたまま低く笑った。その響きが小夜の耳元を甘くくすぐり、熱を帯びさせた。「何を笑っているの?」小夜は慣れない感覚に、少し顔を横へ背けた。「嬉しいんだ」青山は笑みを含んだ声で言った。「君が初めて、僕にこんな約束をしてくれた。本当に嬉しいよ」――それはつまり、自分が小夜の心に、また少し近づけたということなのだろうか。彼が嬉しくならないはずがなかった。小夜は顔が火のように熱くなるのを感じた。首元にかかる青山の息がますます熱を帯び、全身の体温まで急上昇していくようで、慌てて彼を軽く押し返し、少し横へずれた。その瞬間、青山が低く苦しげな声を漏らした。「どうしたの?傷に障った?」小夜はすぐに身を寄せ、彼の怪我をした左手を取って確かめようとした。だが逆に、その手をふわりと捕らえられてしまう。青山は彼女が持ち上げた手の甲にそっと顎を乗せ、下から見つめてきた。その声は穏やかで、少しだけ期待が滲んでいる。「ささよ。今日の舞踏会で、僕は君を見つけた。でも、まだ一曲もダンスに誘えていなかったね」残念ながら、舞踏会はもう終わってしまったけれど。小夜はわずかに身をこわばらせた。今日は仮面舞踏会だったため、青山はいつもかけている銀縁の眼鏡を外していた。レンズに隔てられていない視線は、いつもよりずっと熱を帯びて真っ直ぐだった。美しい瞳の中に、隠しきれない柔らかな愛慕の情が揺らめいているのがはっきりと見える。あれほど熱く、それでいて柔らかい。――真っ直ぐに私を見つめ、キラキラと光っているようだった。目の奥がじんと熱くなり、思わず視線を逸らしたくなる。なぜか少し、胸が苦しくなった。「こほん」ぼんやりと見つめ合っていたその時、背後からわざとらしい咳払いが聞こえた。部屋の二人は一瞬で我に返り、声の方を振り向く。芽衣が客室の扉口に立っていた。気まずそうな表情を浮かべている。「えっと、お邪魔してごめん。小夜、ちょっと話があるの」「あ、うん」小夜は慌てて立ち上がり、芽衣について外へ向かった。扉を閉める時、少し考えてから部屋の中へ振り返る。「後でまた来るね。ちゃんと休んでて」「うん」青山は優しく微笑んだ。……「芽衣、どうしたの?」廊
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第574話

「私は長い間、あいつと一緒に暮らしていたの。すべてを理解しているとは言わないけれど。でも、信じてちょうだい。あなたの言う通りに動いたところで、あいつをさらに激怒させるだけよ。あいつが何より憎むのは、欺瞞と裏切りなんだから」芽衣の提案は、どれもこれも的確に地雷を踏み抜いている。そのすべてが、あいつの逆鱗に触れるものばかりだ。「じゃあ、どうしろって言うのよ!」芽衣は髪をかきむしり、ベッドの縁に座り込んで苛立たしげな声を上げた。「このまま、あいつに獲物扱いされて、弄ばれ続けるつもり?反撃もせずに一歩ずつ後退していけば、何かいい結果が待っているとでも思っているの?」芽衣は、胸の内に渦巻く推測と不安をもう抑えきれなかった。「小夜。今あいつは、あなたが前に話してくれたコルシオの件で、あなたに構う余裕をすべて割けるわけじゃない。でも、その件が終わったらどうするの?今でさえあんな異常な状態なのよ。コルシオっていう足かせがなくなったら、あいつが次に何をしでかすか、想像もつかないの?」小夜の顔がわずかにこわばった。その可能性は、考えたこともなかった。そもそも、圭介が再び自分の前に現れたこと自体が予想外だったのだ。自分たちの関係はずっと、利用と欺瞞、利用され欺かれる関係でしかなかった。今さら、あいつがどの面下げて私の前に現れるというのか。ましてや、あんなにも当然のように自分を脅し、警告し、所有物のように扱うだなんて、思いもしなかった。どうしてあいつの思い通りにならなければいけないの?小夜は唇を少し開き、しばらくしてから、半ば投げやりに言った。「私はあいつとゲームなんてしたくない。参加もしたくないし、獲物扱いされるのもご免よ……それに、コルシオだって簡単に片づけられる相手じゃない。あの二人が共倒れになる可能性はないのかなって、そう考えてるわ」「それだって、ただの賭けじゃない!」芽衣は声を荒らげた。――待って?共倒れ?芽衣は何かを閃いたように、小夜の手をがしっと掴んだ。「じゃあ、いっそあいつが生きていることをコルシオに密告すればいいじゃない!あの男、狡猾で頭が回るんでしょう?逆に罠にはめてやれば、長谷川っていう厄介者も片づくんじゃないの?」「何を馬鹿なこと言ってるの」小夜は呆れたように芽衣の額を軽く弾いた。
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第575話

「何をするつもりなの?」芽衣は返事をもらえないまま、寝室の入口に立ち尽くすしかなかった。小夜が廊下の反対側にある客室へ歩いていき、扉をノックするのをただ呆然と見送っていた。扉を開けた青山に、小夜が何かを囁く。そして二人は、一緒に部屋を出て行った。――いったい何をするつもりなの?芽衣の頭の中は完全に混乱していた。まさか、小夜は本当に青山に心が動いたのだろうか。そうだとしたら不味い。圭介という狂犬がそれを知ったら、間違いなく激怒して暴走する。今の芽衣は、板挟みで身動きが取れなかった。親友としては、もちろん小夜にはもっと幸せな選択をしてほしい。過去の暗い影から完全に抜け出してほしい。――けれど、あの狂犬が狂うのが恐ろしい。いったい誰が、あの狂犬の手綱を引いてくれるというの?芽衣は心の中で悲鳴を上げながら、それでも必死に思考を巡らせた。どうすれば小夜に自分の提案を聞き入れさせ、あの「狩り」を試させることができるのか。少なくとも、今はこれ以上、小夜と青山を接触させてはいけない。あの狂犬が制御不能でいる限り、絶対に良い結果にはならない。芽衣が寝室の扉の枠にもたれかかり、頭を抱えていた時、ふいに室内でスマホの着信音が鳴り響いた。小夜がベッドの上に置き忘れていったスマホだった。手に取って画面を見る。そこには短い名前が表示されていた。樹。――小夜の息子?こんな夜更けに、何の用で電話してきたのだろう。だが、ちょうどいい口実ができた。まずは小夜を呼び戻そう。芽衣はスマホを掴み、慌てて二人の後を追いかけた。……時間は数分前に遡る。覚悟を決めた小夜は白猫の仮面をつけ、静かだが迷いのない足取りで廊下の反対側へ向かった。そして、客室の扉を軽くノックする。扉はすぐに開いた。仮面を付けた小夜は、扉の向こうに立つ人物を見上げた。仮面の下からはなめらかな白い顎だけが露わになり、その唇の端には微笑みの弧が浮かんでいた。彼女は両手で黒いオーガンジーのドレスの裾を軽くつまみ、優雅なカーテシーをした。「そこの紳士さん。舞踏会はまだ終わっていませんよ。私と一曲、踊っていただけますか?」扉の奥で、青山はその場に固まった。彼もまた、まだ黒い舞踏会用の礼服から着替えていなかった。白猫の仮面をつけた小夜をじっと
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第576話

薔薇の邸宅、書斎。珠季は執務机の後ろに座っていた。パソコンからビデオ通話の着信音が何度か鳴り響いてから、ようやく脇に控える執事に顎で目配せし、応答させた。画面が切り替わる。栄知の老いた顔が映し出された。「老いぼれ」長谷川家の人間に対して、珠季は少しも遠慮する気などなかった。開口一番、わざと棘のある言葉を放つ。「ずいぶん偉くなったものね。面会を申し出たくせに、直接顔を見せる気もなく、こんなビデオ通話で済ませるつもり?」栄知はほっほっと笑い、愛想の良い調子で答えた。「どうかご容赦いただきたい。立場上、どうにも身動きが取りづらくてな。そうでなければ、この老いぼれた骨が錆びついていようと、必ずそちらへ伺っていたさ。もっとも、わし自身は出向けずとも、ささやかな贈り物はすでに届いたはずだ。どうかそれで、少しは怒りを鎮めてくだされ」――たしかに、届いてはいた。長谷川家は毎回、面会を求めてくるたびに、高価な骨董品やら高級な滋養品やらを山ほど送りつけてくる。財力に物を言わせた、いかにもあそこらしい嫌らしいやり方だ。「高宮家が、長谷川家のそんなものを欲しがるとでも?」珠季は冷笑した。「あんなガラクタなら、とっくに外へ放り出させたわ。そんなものを交渉のダシにしないでちょうだい」「はいはい、おっしゃる通り、ただのつまらぬ小物ですとも」こちらに非があり、なおかつ頼み事がある立場の栄知は、最初から腹を括っていた。珠季がどれほど毒を吐こうとも、にこにこと笑顔で受け流し、まずは相手の怒りを吐き出させるつもりなのだ。だが珠季は、そんな機嫌取りに乗るつもりは毛頭なかった。さらに二言三言棘のある言葉を刺してから、彼女はティーカップを持ち上げ、紅茶を優雅に一口飲んだ。少し息を整え、ようやく何気ない調子で本題を切り出す。「用件は?」「まずは、親戚筋へのご挨拶をと思いましてな」栄知はあくまで礼儀正しく建前を述べた。「なら、挨拶はこれで済んだわね。さようなら。それから、二度と親戚だの何だのとおこがましい口を利かないで。両家の関係はとっくに切れているのよ。迷惑だわ」珠季は栄知が次の言葉を発する前にぴしゃりと言い放ち、脇の執事へ通話を切るよう合図した。「珠季さん」栄知は困ったような顔を作りながらも、なおも笑みを崩さず
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第577話

「あなたみたいな老いぼれが舞踏会に来て、何をどう楽しむって言うのよ」珠季の言葉は容赦なく棘を含み、その声はひたすらに冷ややかだった。「つまり、私が小夜の相手として見繕った若い男性が襲われた件についても、あなたたちは当然把握していたというわけね?それとも、長谷川家が裏で糸を引いていたとでも言うの?」「珠季さん、それは聞き捨てなりませんぞ」栄知はすかさず反論した。「わしも一族の長老として、小夜には幸せになってほしいと心から願っております。あの子が望むことなら、何であれ後押しする覚悟です。どうしてあの子の邪魔をするような真似をしましょうか」「口では何とでも言えるわね」珠季は鼻で笑った。「私はよく覚えているわよ。あの遺言で、長谷川家の資産の半分以上が小夜の名義になったはず。あの子が別の男と再婚すれば、莫大な資産がそっくり他家のものになる。長谷川家の人間が、それで大人しく引き下がるとでも?」「小夜に渡したものは小夜のものです。もとより、あの子が受け取って然るべきもの。それをどう扱おうと、あの子の自由ですぞ」栄知の表情はあくまで自然だった。この一年、小夜が長谷川家を支えてくれた功績は言うまでもなく、離婚に伴う財産分与としても当然の権利だ。そもそもあの結婚自体、あの馬鹿者が卑劣な手段を弄して無理やり手に入れたものだった。あの子には、到底許されない非道な振る舞いを数多く重ねてきた。結局のところ、長谷川家は小夜に多大な借りがあるのだ。どれほど償おうとも、到底足りるものではない。本来なら、もはやこれ以上あの子の人生の邪魔をすべきではない。だが……圭介のあの度し難い執着を思えば、栄知としても密かにため息をつき、老顔に鞭打ってでも何とか小夜を引き戻す算段を立てるしかなかった。仕方がないのだ。これ以上、事態を悪化させて一族を危機に晒すわけにはいかない。この老骨にも、あの馬鹿者の狂気に振り回されるだけの体力は残っていないのだから。……「心にもないことを」珠季は半分も信じていなかった。「でも、そこまで殊勝なことを言うなら、はっきり伝えておくわ。今後二度と、うちの小夜に近づかないで。あの子はもう長谷川家とは一切無関係よ。小夜が持っている長谷川家の株式と資産については、弁護士に整理と精算をさせるわ。売却できる現物資産の一
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第578話

珠季は聞いているうちに苛立ちを募らせ、冷笑を浮かべて言い放った。「それで?あの子の父親が死んでからもう一年も経つというのに、どうしてまだ長谷川家と関わりを持たなければならないのか、私には理解できないわね。母親が生きているのだから、子どもは母親の元へ返しなさい」身も蓋もない、あまりにも直接的な物言いだった。その場の空気が一瞬にして凍りつき、死んだように静まり返る。ビデオ通話の双方に控えていた執事たちは、主人の機嫌が最悪であり、一触即発の空気であることを痛いほど感じ取っていた。今はただ息を潜め、頭を深く下げて黙り込むしかなかった。だが、珠季本人はむしろ気楽なものだった。彼女にしてみれば、交渉が決裂するならそれで構わない。状況がこれ以上悪化することもないからだ。せいぜい、樹の親権を取り戻せなかったというだけで、彼女の根幹の計画には何の影響もない。――小夜に一刻も早く、気が合って人柄も良い相手を見つけさせ、新しい家庭を築かせる。どうしても跡継ぎが必要なら、もう一人生めばいい。それが成就すれば、長谷川家がどれほど騒ぎ立てようと知ったことではない。本来なら、ここまで話がこじれるはずもなかったのだ。名目上夫が死んだ時点で、両家の縁は完全に切れるべきだった。それなのに長谷川家の恥知らずどもは、未練がましく小夜に執着して手放そうとしない。珠季の考えは揺るがなかった。――結婚したからといって、長谷川家という一族そのものに嫁いだわけではない。あの一家は揃いも揃って狂っている。珠季が、画面の向こうで押し黙っている栄知をさらに急き立てようとした時だった。痛いところを突かれて言葉に詰まったのかと思いきや、栄知の顔からはいつの間にか、あのへらへらとした笑みが消え失せていた。彼は淡々とした声で言った。「珠季さん、その話はひとまず置いておきましょう。いずれにせよ、小夜は樹の法的な保護者でもある。あの子が今回あんな大騒ぎを起こした以上、母親として関わらざるを得ませんぞ」「……どういう意味?」珠季の顔色が、一瞬にして険しく沈み込んだ。栄知は何も答えなかった。傍らに控えていた馬場執事に、整理し終えたばかりの資料のデータを送信させると、珠季の返事も待たずに一方的にビデオ通話を切断した。穏便に話し合えないというのなら、これ以上こじれる前に
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第579話

薔薇の邸宅、ダンスホール。ステップがゆっくりと止まり、ふわりと舞い上がっていた黒いオーガンジーのドレスの裾が静かに下りた。同時に、宙を漂っていた薔薇の花びらも、ひらひらと床へ舞い落ちていく。小夜は片手を青山の腕にそっと添えていた。鼓動は少し早鐘を打ち、呼吸もわずかに乱れている。これは、彼女が彼に約束した一曲だった。踊る場所にこのダンスホールを選んだのは、小夜なりの意図があってのことだ。ここは、圭介がかつて無理やり彼女を引き込んで踊らせた、忌まわしい記憶の残る場所でもある。一曲を踊り終える頃には、心拍数は上がっていた。だが不思議なことに、この場所に染みついていた恐怖の記憶は、少しずつ薄れていったのだ。「ありがとう」小夜は小さく呟いた。唐突な感謝だったが、青山はすべてを察したように何も尋ねなかった。彼は怪我をしていない方の手で小夜の腰をぐっと引き寄せ、少し驚いて目を丸くした小夜をすっぽりと腕の中に収める。そして顔を近づけ、喉の奥で低く笑いながら尋ねた。「他には?」――近すぎる。お互いの心音も、呼吸も、はっきりと聞こえるほどの距離だ。いくら覚悟を決めてここへ来たとはいえ、小夜はまだこの距離感に慣れていない。片手を青山の胸板に当て、少しだけ押し返そうとした。だが今回ばかりは、彼はその力に素直に従おうとはせず、むしろさらに距離を詰めてきた。「ささよ……僕に、何を言いたい?」青山には分かっていた。今夜、彼女がわざわざここへ来たのは、ただ一曲踊るためだけではないということを。予感がある。それはきっと、自分がずっと望んでいたことだ。小夜はまだ迷っているように見える。だからこそ、ここで自分が退くわけにはいかない。彼がさらに一押ししようと口を開きかけたその時、目の前の小夜が突然、意を決したように下唇を噛んだ。白く細い指が、青山の血のように赤いネクタイをぎゅっと掴み、強い力で下へと引き寄せる。彼は不意を突かれ、がくんと頭を下げさせられた。耳元に、小夜の熱い吐息がかかる。そして、微かに震える声が聞こえた。「一つ、お願いがあるの。私……」その言葉は、とても短かった。ほんの数語の、短いフレーズだった。それなのに、その言葉は青山の耳に雷鳴のように轟き、彼の全身をその場に縫いとめてしまった。彼は長いあいだ、身じ
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第580話

小夜が電話に出ているあいだ、青山の視線は静かに芽衣へと向けられていた。表情こそ読めないが、その瞳には鋭く探りを入れるような濃い光が宿っていた。芽衣はもちろん、その視線に気づいていた。針のようにチクチクと肌を刺す感覚がある。けれど、意地でもそちらを見ないように首を強張らせ、何も感じていないふりを装った。――後ろめたかった。さっきの私が取った行動が、あまりにも唐突だったことは自分でも分かっている。だが、どうしようもなかった。青山には申し訳ないが、今はこうするしかなかったのだ。二人の無言の駆け引きに、小夜は気づかなかった。意識は完全に電話の向こうへ向けられていた。顔色が次第に険しくなり、何度か深呼吸してから、怒りを押し殺した声で問い詰める。「本当に、私を騙していないんでしょうね?」今の小夜は、長谷川家の人間が口にする言葉など欠片も信じていない。ましてや、彰の言葉など。だから彼が何かを弁解する前に、小夜は強い口調で続けた。「スマホを樹に代わって。本人の口から直接聞きたいわ」電話の向こうで、彰は数秒沈黙した。彼がどう答えるべきか迷っている間に、そばにいた女性が強引に電話を奪い取った。「樹くんを呼ぶ必要はないわ。私が話すから」小夜は息を呑んだ。雪の声だった。「高宮、詳しい状況は彰がもう説明したでしょう。私は一言だけ言っておくわ。もしうちの子が目を覚まさなかったら、法廷で会いましょう。未成年だから前科がつかないなんて、甘く見ないでちょうだい」通話は一方的に切断された。小夜の顔色がさっと青ざめる。すぐにかけ直したが、すでに電源が切られていた。これ以上話し合うつもりはないらしい。「小夜?」芽衣は彼女の様子がおかしいのを見て、何があったのか尋ねようとした。だがその時、扉口から執事の声が聞こえた。大奥様が急ぎで呼んでいるという。……「大叔母様、私を呼んだ?」今夜は、あまりにも多くのことが起きすぎた。ようやく、圭介にどう向き合うか腹を括ったところだったというのに。ここへ来て、今度は子どもに問題が起きるなんて。頭の中がまだ混乱しているまま、小夜は珠季の書斎へと足を運んだ。本当は、大叔母様をこれ以上刺激したくなくて、少し伏せておこうと思っていた。だが、執事が彼女の前に差し出したパソコンの画面を見た瞬
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