All Chapters of 夫と子を捨てた妻が、世界を魅了するデザイナーになった: Chapter 601 - Chapter 610

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第601話

何度か呼び出し音を鳴らして、ようやく電話がつながった。相手が何も言わず、ずっと黙っているのを確認してから、小夜は慎重に尋ねた。「佐々木先生でしょうか。樹の保護者の、高宮小夜です」「……話すべきことは、もう全部話しました。ほかのことは、本当に何も分からないんです」電話の向こうから聞こえてきたのは、ひどく疲労しきった声だった。小夜は一瞬、言葉に詰まった。これほど大きな事件になった以上、優奈はここ数日、何度も同じことを問いただされてきたのだろう。まして長谷川家も柏木家も、一筋縄でいく相手ではない。きっと散々振り回され、責め立てられたはずだ。完全な巻き添えだった。小夜の知る限り、この先生は責任感のある人だった。彼女は心の中でため息をつき、言った。「どうか警戒しないでください。責任を追及したり、先生を責めたりするつもりで電話したわけではありません。ただ、学校での二人の子供の関係がどうだったのか、先生から直接聞きたいんです。もし可能なら、あの日に具体的に何が起きたのかも、もう少し教えていただけませんか」そこで小夜は少し間を置き、続けた。「誰も、こんなことが起きるなんて思っていませんでした。この件の責任を、一人の先生だけが全部背負うべきではありません。停職の件も、私の方でどうにかできないか働きかけてみます」電話の向こうは、やはり黙ったままだった。けれど、通話は切られなかった。小夜も急かさず、静かに待った。……「樹くんと星文くんは、私の見る限り、関係は良かったと思います」長い沈黙のあと、電話口から再び、かすれて疲れた声が聞こえてきた。「星文くんが入学したばかりの頃、きちんと食事が取れていなかったのか、体調を崩したことがありました。その時、保健室へ連れて行ったのは樹くんでしたし、一緒に昼食を食べようと誘ったのも樹くんです……その後も、たまに言い争うことはありましたが、いつも一緒に遊んでいました。樹くんは、確かにわがままで、少し気に障るとすぐ怒るようなところはあります。でも、本質的に悪い子ではありません……あの子がこんなことを起こすなんて、私にも信じられません」優奈は深くため息をついた。あの日は、もう放課後の時間だった。本来なら列に並んで、保護者の迎えを待つはずだったのだ。ところが、あの二人が列を抜け出
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第602話

「本当に、目を覚ますんでしょうか」「必ず目を覚まします」小夜ははっきりと断言した。「目を覚ますなら、よかった……本当によかったです……」しばらくそう呟いたあと、電話の向こうで優奈が突然泣き崩れた。声はますます震え、感情が堰を切ったように溢れ出していた。「私、本当に怖かったんです。あの子が地面にうつ伏せになって血を流していて、触ることすらできなくて……」彼女は、そんな凄惨な出来事に一度も遭遇したことがなかった。あんなに小さな子供が、ついさっきまで自分の目の前で元気に走り回り、「先生、先生」と呼んでくれていたのだ。それが、血まみれになって地面に倒れ、ぴくりとも動かなくなっていた。その場にへたり込みそうになったという。帰宅してからも、何日も悪夢にうなされ、夜通し眠れない日が続いた。「佐々木先生……」小夜には分かった。優奈がここで突然感情を抑えきれなくなった理由も痛いほど理解できた。けれど、こんな時にどんな言葉をかければいいのか分からなかった。ただ黙ってスマホを耳に当て、通話を切らずにいた。自分がそばで聞いていると伝えるために、時折、短く相槌を打つ。彼女が感情を吐き出せるように、ただ待った。しばらくして、優奈はようやくしゃくり上げながら言った。「すみません、樹くんのお母様。少し取り乱してしまいました。聞いてくださって、ありがとうございます」「大丈夫です。とても疲れているんだと思います」小夜は少し間を置き、続けた。「小夜と呼んでください。安心してください、停職のことは……」「もういいんです」優奈はかすれた声で言った。「私はもう、辞めると決めました。二度とあんな状況に向き合いたくないんです。きっと私は、教師に向いていなかったんだと思います」それは、あまりにも重い決断だった。小夜は説得しようとした。だが、電話の向こうの声が先に彼女を遮った。「一つだけ、お願いがあります。もし、もし星文くんが目を覚ましたら、どうか私にも知らせてください」「……分かりました」今何を言っても無駄だと分かり、小夜はそう答えるしかなかった。「いずれにしても、今後のことは慎重に考えてください。この番号も覚えておいてください。これから困ったことがあったり、助けが必要になったりしたら、いつでも私に連絡してください。せめ
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第603話

「何の用?」電話に出るなり、小夜は苛立ちを押し殺して冷たく尋ねた。できることなら、この女からの電話など一生出たくなかった。どうせろくでもない面倒事に決まっているからだ。「……あなた、どこにいるの」電話の向こうの雪は、小夜の声に滲む苛立ちと嫌悪を敏感に聞き取ったのだろう。数秒黙ったあと、冷ややかな声でいきなり詰問してきた。「用件は?」小夜は質問に答える気などなかった。「どういうつもり?」雪の声はさらに冷えた。「人の首を傷つけておいて、その態度なの?私たち母子は、あなたたち母子のせいで重傷を負って入院しているのよ。病院へ来て説明もせず、解決する気もない。逃げるつもり?それとも、裁判所で話し合う?」裁判所、裁判所。口を開けば裁判所。重傷で入院?いっそあの時、本当に首の急所まで切れていればよかった。小夜は心の中で怒りに任せて毒づいた。もちろん、思うだけだ。あの疫病神が本当に命を落としていたら、今ごろ自分は学校で電話などしていない。刑務所の面会室で、ガラス越しに話しているはずだった。本当に縁起でもない。狂人どもは、どうして自分から離れてくれないのか。「……後で行くわ」どうあれ、病院には行かなければならない。雪の生死など知ったことではないが、星文を放っておくことはできなかった。たとえ、彼を突き落としたのが自分の子供ではなかったとしても。何一つ証拠がないのだ。それに、事の発端を思えば、どうしても責任の一端は感じてしまう。結局、小夜にとっても無関係なことではなかった。言い訳して断らなかったからか、雪の声色は少しだけましになった。だが、言葉は相変わらずろくでもなかった。「今すぐ来なさい」「今は無理」小夜は即座に断った。「私が訴えないとでも思っているの?」「後で行くと言ったでしょう」訴える、訴える。毎日そればかり。訴えたければ勝手にすればいい。小夜も腹が立ち、冷たい声でそれだけ言い捨てると、ぱつんと一方的に電話を切った。……電話の向こう。病院で首に包帯を巻いた雪は、スマホを握ったまま無表情でしばらく立ち尽くしていた。やがて、猛烈な勢いでスマホを壁へ叩きつける。画面のひびが、さらに細かく広がった。よくも電話を切ったな!ちょうど病室の扉を開け、書類を手に用件を報告
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第604話

ちょうどよかった。小夜の方にも、校長に用があったのだ。これ以上校長と回りくどいやり取りをする気にはなれず、小夜は単刀直入に本題へ入った。その場で樹の休学について話し合い、あわせて優奈の停職処分を解除する件も持ち出した。教師に停職処分が下れば、単に経歴に傷がつくだけではない。社会的な信用も壊れ、学校や保護者、世間からの信頼を失うことになる。それは、教員としての生命が絶たれることを意味する。その仕事に強い思い入れがある人にとっては、人生そのものが壊れるに等しい。だから優奈本人がもういいと言ったとしても、小夜は気にしないわけにはいかなかった。できるなら手を貸したい。今の小夜には、その力もある。あの二人のろくでなしのせいで、これ以上無関係な人間の人生を台無しにさせるわけにはいかない。だが、校長は困ったような顔をした。「高宮社長、私も力になりたいのは山々ですが、この件は私一人の判断では決められません」そこで一度言葉を止め、小夜が眉をひそめるのを見ると、慌てて続けた。「高宮社長が長谷川家を代表して、追及しない意向を示されるのは構いません。ですが、柏木家の方が……」小夜には、彼の言いたいことが分かった。これは長谷川家だけの問題ではない。とりわけ、怪我をした子供は柏木家の子だ。柏木家が頑として責任を追及するなら、優奈はその責任を背負わされることになる。だが、彼女が背負うべき責任ではない。少なくとも、彼女一人が背負うべきではない。生徒が校内で事故に遭った以上、学校も無関係ではいられないし、むしろ最大の責任を負うべき立場だ。けれど、学校も校長もこの様子では、誰か責任者を差し出すしかないとなれば、背景のいちばん弱い優奈が選ばれるのだろう。まるでそれが、当然のルールであるかのように。ビジネスの世界に長く身を置いてきた小夜には、その理屈も手口もよく分かる。だからこそ急にうんざりし、これ以上言葉を費やす気もなくなった。「柏木家には、私から説明します」小夜は無表情で言った。「それなら問題ありません」校長はにこやかに応じ、戻り次第すぐに優奈の停職解除申請を提出し、追加処分もしないと約束した。この時点で、小夜にはもう話す気力がなかった。社交辞令で数言応じただけで、相手が自ら見送るという申し出も断り、手短に挨拶を済
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第605話

まして今は、非常にデリケートな時期だった。教師は、澄人が余計なことを言って小夜を怒らせるのではないかと気が気ではなかった。「そんなことはありません」小夜は特に気にしていなかった。教師が来たのを見て軽く頷き、そのまま立ち去ろうとする。だが、その背後で澄人が突然口を開いた。「あいつは、そんなことしない」小夜はひどく意外に思い、振り返った。澄人は教師に掴まれた手を振りほどき、数歩前へ出た。小さな顔を少し上げ、不機嫌そうに言う。「長谷川はそんなことしない。あいつはムカついたら、その場で殴ってくるだけだ。そんなこと、こそこそやるようなやつじゃない!」「……」小夜は黙り込んだ。何と言えばいいのか分からなかった。自分の子供をかばってくれているようにも聞こえる。だが、どうにも引っかかる言い方だった。それでも、好意で言ってくれたのは確かだ。小夜は澄人の頭に手を置き、少しやわらかい声で言った。「ありがとう、澄人くん」澄人は固まった。次の瞬間、顔色を変え、小夜の手を強く払いのける。そして、親の仇でも見るような目つきで睨みつけた。「僕の頭に触るな!」「……」小夜は言葉を失った。子供の心理というのは、本当に読めない。「高宮社長、本当に申し訳ありません……」横にいた教師は、怒りで顔を真っ赤にした澄人を引き止めながら、何度も謝った。「大丈夫です。私が子供本人の同意もなく……頭を撫でてしまったので」小夜は困ったように笑った。なるほど、この二人が昔喧嘩になったのも頷ける。口が悪いだけではない。どちらも、少し触れただけで火がつく性格なのだ。こんな二人がぶつかれば、うまくいくはずがない。そう思いながら、今度こそ立ち去ろうとした。けれど、また背後から声がした。澄人が教師の手を振りほどき、追いかけてきて、小夜の服を掴んだのだ。不機嫌さと苛立ちを隠さずに言う。「おい、あいつは戻ってくるんだろ。この前殴られた分、まだ仕返ししてないんだけど!」そのことを思い出したのか、澄人はぎりぎりと歯を食いしばり、小夜を睨んだ。「あんた、ママなのになんでそんなに馬鹿なんだよ。先に殴ってきたのはあいつだ。僕は口で言い返しただけだ!あいつの言ってることは嘘っぱちだ!どうして何でも信じるんだ!」彼は、前回の喧嘩の恨みをまだ覚えてい
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第606話

病院に着いた時には、すでに午後になっていた。入院フロアへ上がると、小夜は遠くから、病室の前を行ったり来たりしている男を見つけた。手提げ鞄と書類を持ち、きちんとしたスーツ姿だ。若いのに、どこかひどく疲労した顔をしている。近づいてみると、相手はまだ汗を拭いていた。小夜は不思議に思う。「中に入らないんですか?」ふと、小夜は思い出した。雪は出所してからまだ一年しか経っておらず、精神状態も正常とは言いがたい。今のところ柏木グループの中核業務を掌握しているわけではないが、それでも一応は社長だ。多少の仕事は見なければならないのだろう。この男は、柏木グループの社員に違いない。それなのに、なぜ病室の前でうろうろしているのか。「あ、高宮社長。ご用があるなら、どうぞお先にお入りください。こちらは急ぎではありませんので」男は小夜に気づくと、礼儀正しくそう言い、扉の前から身を引いた。小夜は深く考えなかった。病室の扉に手をかけ、一歩踏み込んだ瞬間、手首を掴まれた。何が起きたのか理解するより早く、不意に体ごと中へ引きずり込まれた。彼女の後ろについて中へ入ろうとしていた男は、その光景に固まった。書類を握る手がわずかに震え、踏み出しかけた足を即座に引っ込める。そして素早く病室の扉を閉めた。もう迷ってうろうろすることもなく、廊下の壁際にある椅子へ腰を下ろす。彼は急に悟った。どうやら、自分の用件はそこまで急ぎではないようだ。後にしよう。……病室の中。小夜は腕を背中側にねじられ、壁に顔を押しつけられていた。しばらく呆然としたあと、ようやく何が起きたのか理解する。すぐさま、後ろへ蹴りを入れた。背後でくぐもった呻き声がした。だが、小夜の腕を押さえる手の力はさらに強くなる。雪の歯ぎしり混じりの声が後ろから響いた。「誰が、私の電話を切っていいと言ったの?」その後の電話も、一度として出なかった。雪がいつ、こんな屈辱を受けたことがあるというのか。以前、一方的に着信拒否された時はまだ耐えられた。だが今は、自分に理がある。どうして我慢しなければならないのか。「……」小夜は言葉を失った。それだけの理由で?何という狂人だ。怒りが一気に込み上げる。小夜は目を閉じ、肩に走る圧迫痛をこらえながら、だいたいの位置を判断
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第607話

最後には、ぼろぼろになるまで使い潰される。それに、小夜自身も本当に我慢の限界だった。誰も彼も、自分を御しやすい相手だとでも思っているのか。しばらく睨み合ったあと、雪は片手を壁についたまま動かなかった。少しして、ゆっくり視線を逸らし、冷たい顔で命じる。「足が痛い。来て、座らせなさい」小夜は視線を下げた。おそらく、さっき自分が踏みつけたせいだろう。雪はまだ中ヒールのサンダルを履いており、見たところ足の甲は腫れていた。自業自得だ。人に手を貸してもらう態度でもない。小夜は聞こえなかったことにして、一歩も動かなかった。「……来なさい」雪の声が冷たく沈む。小夜はそのまま無視した。星文のベッド脇へ行って腰を下ろす。子供は相変わらず昏睡したままだが、特に異変はなさそうだった。先ほどの騒ぎの影響も受けていないように見える。「高宮小夜!」雪の顔色が険しくなった。その声量に、小夜の表情も沈む。彼女は雪を睨み返した。「子供がここにいるのが見えないの?少し声を落とせない?それから、人に頼むなら『お願いします』くらい言えないの?」いったい何なのか。一応、名家で育った人間のはずだ。礼儀はどこへ行ったのか。「あんたみたいな人間に、私がお願いするとでも?」雪は冷笑した。小夜に頼るのを諦めたのか、歯を食いしばって痛みをこらえながら壁伝いに扉へ向かう。外にいる人間を呼ぶつもりで、拳を上げて扉を叩こうとした。しかし、手を上げたところで掴まれた。視線を向けると、すぐ横に小夜が立ち、沈んだ顔で雪の手を掴んでいる。雪は思わず冷笑した。分かっていた。星文が病室にいる限り、この女は自分に扉を叩かせるはずがない。この息子も、まだ少しは役に立つ。「私を支えて……」そう命じようとした瞬間、雪は手首を強く引かれた。そのまま力ずくで病室の外へ引きずり出され、廊下へ出る。足の痛みで冷や汗が噴き出し、一時は声も出なかった。病室の外。廊下の壁際にある青い椅子に座り、書類を持ったまま報告に入るべきか迷っていた秘書は、物音を聞くなり慌てて立ち上がった。「柏木社長、高宮社長」何が起きたのか。なぜ出てきたのか。雪がうつむき加減に腰をかがめているのを見て、彼は慌てて尋ねた。「柏木社長、どうなさいましたか」「ああ、何
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第608話

薬を塗らずに悪化したら、厄介なことになる。万が一、それを口実にまた絡まれても面倒だ。雪は形だけ少し抵抗したが、すぐに大人しくなった。ただ、わずかにうつむき、小夜のつむじをじっと見つめていた。その目は冷たいのに、どこか奇妙な色も混じっている。足の甲に薬を塗られたところが、ひりひりと熱く痛み、そこへ細い清涼感が滲んでいく。この人間は、本当に奇妙だ。最近の接触と、これまでに知ったことを合わせて考えると、雪は高宮小夜という人間が、ひどく奇妙な存在だと感じていた。情にもろいかと言えば――人を傷つけることもする。復讐する時も容赦がなく、しかもかなり根に持つ。感情の問題、とりわけ婚姻関係を処理する時には、終わらせると決めたら本当に果断で揺るがない。振り返らないと決めたら、絶対に振り返らない。あの圭介という男をここまで追い詰め、あんな極端な手段を講じさせ、この私にまで助力を求めに来させたほどだ。ならば冷酷かと言えば――ほとんどの人に対しては、いつも穏やかでやわらかい。水のように、相手へ自然に合わせる。多くの場合、困っている人間に手を貸すことも厭わない。お人好しと言っていいほどだ。特に子供に対しては。硬くもあり、柔らかくもある。まるで矛盾の塊だ。奇妙な人間だった。「終わったわ。この二日間はこまめに薬を塗って、あまり歩かないこと」小夜は冷淡に言い、雪の足を下ろしてヒールサンダルの上に置いた。さらに一言だけ付け加える。「歩くなら、せめてサンダルじゃなくてスリッパにしなさい」言い終えると、雪が答えるかどうかも待たずに薬を置き、手を洗いに行こうとした。だが立ち上がった途端、雪が顎を上げ、包帯の巻かれた首を見せた。「首も。あんたが切ったんだから、手当てしなさい」「……少し待って」相変わらず失礼ではあったが、少なくとも先ほどのような高圧的な命令の響きは薄れていた。きちんと話すなら、小夜もむげに突き放すつもりはない。手を洗って戻り、今度は雪の首の傷を手当てした。あの夜は、途中から精神がひどく朦朧としていた。だから今になって初めて、小夜は傷口をはっきり見た。雪の首にある傷は、思った以上に深い。しかも切り口はあまり整っておらず、赤く生々しく、ひどく痛々しかった。これを、自分が傷つけたのだ。もし、
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第609話

「大した問題はありません」一通りの検査を終えると、医師はさらにいくつか基本的な状況を確認したうえで、やや不調がある以外、大した問題はないと告げた。仕事でも精神面でも、あまり無理をしないこと。夜更かしを控えること。怒りすぎないこと。怒っても、ため込みすぎないこと。そんな忠告だった。そのほかは、どれも小さな問題ばかりで、日常で少し気をつければ済む程度らしい。忠告をしっかり頭に入れたあと、小夜は星文の今日の様子も尋ねた。医師の判断は変わらず、薬による治療を続けて数日間観察し、改善がなければ手術を検討するというものだった。診察室を出る。そこで小夜はようやく、ずっと無言で後ろについてきて、分厚い報告書の束を抱えている彰へ振り返った。眉間をつまみ、医師の忠告を何度も頭の中で反芻しながら、できるだけ心を穏やかにしてから口を開く。問いは、単刀直入だった。「私を尾行していたの?」朝、樹の学校へ行った時から、何度も誰かに見られているような感覚があった。病院に入ってから、その感覚は消えた。長谷川家の強引なやり口を思えば、ここで彰の顔を見た以上、彼が関係していると考えない方が難しい。「尾行ですか?」彰はその言葉を聞くと、眉をひそめた。だが、返ってきた答えは率直で、予想外だった。「私、あるいは長谷川家が手配した者があなたを尾行していたのなら、決して気づかれるようなことはありません。具体的には、どちらで視線を感じましたか」「……」小夜は唇を引き結び、言葉に詰まった。言いたいことは分かった。今回は、長谷川家とは関係がない可能性が高い。彰がこの件で嘘をつくとも思えなかった。そもそも長谷川家の人間たちの図太さを考えれば、尾行のようなことをしていたとしても、小夜が聞けば堂々と認めるだろう。実際、堂々と尾行されたことも、一度や二度ではない。それに、よく考えてみると。ああいう不気味な、狙われているような感覚は、今回が初めてかもしれない。まさか――コルシオ?この共通の敵の存在を、小夜は忘れていなかった。この件で意地を張る必要はない。彼女は素直に、違和感を覚えた場所や感覚をすべて話した。彰はそれを聞くと、スマホを取り出して少し離れた場所へ行き、何本か電話をかけた。おそらく、部下を動かして調べさせ
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第610話

「……」彰は沈黙した。「もういいわ」言いたくないなら、こちらもわざわざ問い詰める気はなかった。「あの男に伝えて。子供を利用して傷つけたこと、私は絶対にこのままでは済ませない」この借りは、いずれ必ず清算する。そう言い残し、小夜は彰の横を通り過ぎた。……「どうしてもっと早く言わなかったの!」病室の扉を開ける前から、中から怒鳴り声が聞こえてきた。小夜は少し足を止めてから扉を押し開ける。中では、雪が書類の束を手に、文彦に向かって何かを怒鳴っていた。文彦は、ひたすら恐縮した様子で応じている。内心では泣きたかった。雪があれほど不機嫌な最中に、どうして仕事の話など切り出せるというのか。取引先から催促され、もうこれ以上先延ばしにできず、しかも雪の署名が必要だったから、今日ここへ来ざるを得なかったのだ。そうでなければ、自ら病室へ顔を出すことなど絶対になかった。つらすぎる。幸い、彼には巨額の高給がある。それがなければ、こんな仕事はとても続けられない。定期的に振り込まれる賞与と給料を思い出した文彦は、すぐに気を取り直した。萎縮していた背筋を少しだけ伸ばす。大丈夫だ。せいぜい叱られるだけだ。言い訳せず、柏木社長の怒りが収まるまで黙っていればいい。自分なら耐えられる。初めてではない。もう慣れているのだ。文彦があまりにも手慣れた様子で対応しているのを見て、小夜はようやく、この人がまだ若いのに、なぜあれほど疲労しきって見えるのか理解した。こんな上司の下で働けば、そうもなるだろう。おそらく、これが彼の日常なのだ。だが、小夜には関係ない。彼女は見なかったことにし、淡々と病床のそばへ歩いた。折りたたみ椅子を引き寄せて座ると、自然な動作でスマホを取り出し、黙々と画面を打ち始める。空気が一瞬で静まり返った。声が止んだのを確認し、小夜は手元のメッセージを送り終えてから、平静な目で雪を見た。「終わった?それなら、本題を話しましょう」空気が凍りついた。傍らの文彦は、心臓が止まりそうだった。今すぐその場から消えたかった。意外にも、仕事中に横槍を入れられることを何より嫌うはずの雪は、小夜を冷たくしばらく睨んだだけで、何も言わなかった。ざっと書類に目を通し、問題がないと確認すると、パパッ
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