All Chapters of 輝く私の背中に、夫は必死に追いつこうとした: Chapter 681 - Chapter 690

691 Chapters

第681話

これでいい。これで、紬と二人の子供たちの未練も断ち切れる。これからは、成哉と紬が顔を合わせる機会も大幅に減るはずだ。そうなれば、彼女も成哉との関係を深めていけるだろう。悠真は落ち着いた口調で言った。「おばあちゃん、何と言われても、ママは僕たちのママなんだ。そんなことをしたって、僕たちとママの絆は断ち切れないよ」「だったら、少しずつ断ち切っていけばいいのよ」絵美は孫に向き直ると、表情を少し和らげた。「悠真くん、あなたは聞き分けのいい子でしょう?おばあちゃんに心配をかけないでちょうだい。ね?」そう言って、絵美は手を伸ばし、悠真の小さな頭を優しく撫でた。しかし悠真は、心のどこかで絵美に触れられることへ抵抗を感じていた。それでも、幼い頃から身についた礼儀のおかげで、その感情を表に出すことはなかった。悠真はすがるような眼差しで成哉を見つめた。だが成哉は黙々と食事を済ませると、「会社に行く」とだけ言って席を立ってしまう。何も言わないということは、絵美の言葉を黙って認めているのと同じだった。悠真の瞳に宿っていた光が、その瞬間、すっと消えた。やはり、この人に期待などするべきではなかった。この男は、結局何一つ変わっていない。変わろうとさえしていないのだ。――スタジオ・Nirvana。紬はオフィスで忙しく立ち働いていた。パソコンを立ち上げ、海原の市場についてリサーチを進める。やはり富裕層向けの市場をしっかり押さえなければならない――そう、彼女は改めて決意を固めていた。この層の顧客を、これ以上取りこぼすわけにはいかない。ほどなくして、紬はスタッフを集め、短いミーティングを開いた。全員が席に着くと、自ら作成したプレゼン資料をスクリーンに映し出し、単刀直入に本題へ入る。「詳しく市場を調べてみたの。うちはこれまでずっと中間層を重視して、大衆向けの路線でやってきたわ。でも、その一方で富裕層のお客様をかなり取り逃がしているの。だから今日は、この件についてみんなで話し合いたいと思って集まってもらったのよ」カナが頷いた。「確かに、最近の私たちのデザインは少しマンネリ化していましたね」紬も頷く。「ええ。それで市場調査をした結果、モダン・コルセットのデザインを取り入れてみようと思ったの。
Read more

第682話

会議が終わると、カナはふざけ半分に雅乃の背中を軽く小突きながら、退室の支度を始めた。メンバーたちは笑い合いながら談笑し、会議室には活気のある空気が満ちていた。その時、紬が声をかけた。「雅乃、ちょっと残ってくれる?」「はい、紬さん」雅乃はカナに視線を向け、先に行っていてほしいと目で合図を送る。カナは気になって仕方なかったが、紬があえて雅乃だけを引き留めたのだから、きっと大事な話なのだろうと察した。ほかのメンバーも空気を読み、足早に会議室を後にした。二人きりになると、雅乃が口を開く。「紬さん、どうかしましたか?」「清彦さんのところで進めていたデザインのサンプルが、ようやく完成したの」紬は口元をほころばせながら続けた。「あなたからも彼に連絡しておいて。いつ見に来られるか確認して、最終チェックでOKが出たら、いよいよ生産ラインに乗せるから」清彦に会わなければならない――そう思っただけで、雅乃は頭を抱えたくなった。ここ最近、彼がスタジオへ押しかけてくることはなくなったものの、あの手この手で彼女の住所を突き止め、自宅の前までやって来ては執拗につきまとってくるのだ。その厄介な光景を思い出し、雅乃は思わずこめかみを押さえた。「紬さん……彼の担当、ほかの人に代わってもらえませんか?」自分でも無茶なお願いだという自覚はあった。だが、清彦の猛烈なアプローチには、どうにも太刀打ちできない。最近も執拗につきまとわれ、そのたびに「例の男」のことを問い詰められる。一体どんな相手を好きになったのか、と。そんなこと、言えるはずがない。何しろ、その心変わりした相手というのは、彼女が苦し紛れについた架空の人物なのだから紬は腕を組み、面白がるような、それでいてどこか意味深な目で雅乃を見つめた。「雅乃、あなたと清彦さんって……」その含みのある口ぶりに、雅乃は紬の意図をすぐに察し、頬をわずかに赤らめた。「彼とは何でもありません。全部、もう終わったことですから」そして真っ直ぐに紬を見つめ、きっぱりと言い切る。「でも紬さん、安心してください。絶対に私情を仕事に持ち込んだりしませんし、進行に支障をきたすようなこともしません」またしても生真面目に言い切る雅乃を見て、紬は苦笑しながら彼女の肩をぽんと叩いた。
Read more

第683話

彼の口調には、歯ぎしりしたくなるような怒りが滲んでいた。二人の間に挟まれた紬は、すっかり居心地が悪くなってしまう。「えっと、雅乃、清彦さん。二人でゆっくり話してちょうだい。私はちょっと用事があるから」そう言い残すと、紬は足早に会議室を後にし、二人きりになれるようその場を離れた。事情の全てを知らない以上、軽々しく口を挟むべきではない。やはりここは、当人同士でしっかり話し合ってもらうのが一番だ。自分が間に入ったところで、何の力にもなれないのだから。カチャリ、と会議室の扉が閉まる。密室に残された二人を、もう邪魔する者はいなかった。清彦は抑え込んでいた感情をとうとう押さえきれず、大股で雅乃の前まで歩み寄った。「どうだ。まだ考えはまとまらないのか」だが雅乃は、終始事務的な態度を崩さない。「清彦さん、仕事のお話をしましょう」「仕事だと?」清彦は鼻で笑った。何事もなかったかのように平然と振る舞う彼女を見ていると、胸の奥がぎゅっと締めつけられる。「いいだろう。それなら仕事の話をしてやる」わざと真顔を作ると、清彦は皮肉っぽく続けた。「秋葉さんの能力は高く評価してる。だったら、クライアントの感情的な問題を解決して機嫌を取るのも、君の仕事のうちなんじゃないのか」その声には意地の悪い響きが混じり、雅乃を見据える瞳には隠しきれない挑発の色が宿っていた。いったい何をそんなにためらっているのか、その本心を見極めてやりたかった。雅乃は抱えていたファイルをぎゅっと抱き締める。「申し訳ありませんが、そのような業務は私の担当ではございません。もし生理的な欲求を満たしたいのでしたら、どうぞ他の方をお当たりください」清彦は目を見開いた。胸がズキズキと痛み、気づけば雅乃の前まで踏み込み、その腕を乱暴に掴んでいた。「雅乃、君って女は本当に残酷だな。俺が何度もプライドを捨てて会いに来てるのに、どうして一度たりとも俺を振り返ろうとしないんだ!何の説明もなく突き放して、俺を馬鹿にしてるのか?あんなに君のことを心配してた俺が、まるで馬鹿みたいじゃないか!君はそうやって、人の気持ちをもてあそぶのがそんなに楽しいのか!」「清彦さん、ここは会議室です。少しは周りの目を気にしてください!」雅乃は深く息を吸い込み、胸を
Read more

第684話

紬は優しくなだめるように微笑んだ。「大丈夫よ、心配性さん。ここは私たちのスタジオなんだし、味方もたくさんいるのよ。何をそんなに怖がっているの」カナは少し考え込み、たしかにその通りだと思い直した。たちまち目を輝かせ、紬を見つめる。「その通りですね」すっかり納得したカナは機嫌を直し、そのまま仕事へ戻っていった。その後ろ姿を見送りながら、紬は苦笑まじりに首を横へ振る。カナが落ち着きのない性格で、感情の起伏も激しいことはよく分かっていた。これからもっと経験を積み、冷静さを身につけなければ、あの性格ではいつか本当に痛い目を見ることになるだろう。一抹の不安を胸に抱きながら会議室へ視線を向けると、紬は自分のオフィスへ戻っていった。誰が見ても、あの二人の間に何かあるのは明らかだ。自分が首を突っ込む必要はない。物事というものは、自然の成り行きに任せたほうがいいこともある。一方その頃、会議室では雅乃が気を取り直し、静かに口を開いていた。「清彦さん、私は真面目なお話をしています。そんなに頭に血を上らせないでください」そう言ってタブレットで最終デザインのデータを開き、清彦の目の前のテーブルへ置く。「これが、あなたと紬さんで決定した最終版です。色合いも調整しました。これで問題がなければ、生産ラインに乗せます」『紬』という名前を耳にすると、清彦は鼻の頭をかき、少しだけ態度を和らげて画面へ目を向けた。これはあくまで、理玖の顔を立ててやっているだけだ!そう思いながら視線を落としたものの、タブレットに映し出されたデザインを見た瞬間、その目は釘付けになった。堅い印象だったシャツはドロップショルダーへと変更され、肩のラインも柔らかく落とされている。標準的だったピンクも淡く優しい色合いへと変わり、刺繍されたいくつかの言葉は優美な筆記体であしらわれていた。ひと目見ただけで、人を惹きつける魅力にあふれている。紬のスタジオが確かな実力を持っていることは、認めざるを得なかった。雅乃もまた、清彦の瞳に浮かんだ感嘆の色を見逃してはいなかった。これでユニフォームの件が片付けば、もう彼がスタジオへ押しかけてくる口実もなくなるだろう。雅乃は胸の内でそっと安堵の息をつく。そして清彦に署名してもらうため電子契約書を表示さ
Read more

第685話

雅乃は微笑むだけで何も答えなかったが、その態度だけで答えは十分に伝わっていた。清彦は腹立たしさを押し殺しながら、素早くタブレットにサインを書き込む。これでユニフォームの件も、ようやく一件落着した。雅乃の笑みは、先ほどよりもいくぶん自然なものになっていた。「このたびは当スタジオをご利用いただき、ありがとうございました。おかげさまで良いお取引となりました」心の中では、そっと毒づく。――どうか、次はもう二度とお取引することがありませんように。清彦は、目だけはまったく笑っていない作り笑いを浮かべた。「安心しろ。俺も実に楽しく取引させてもらったよ」最後の数文字だけを、わざとゆっくり引き延ばすように口にする。タブレットを持つ雅乃の手がぴたりと止まった。それでも表情ひとつ変えず、その言葉の裏にある意味など分からないふりを貫く。清彦はギリッと奥歯を噛み締めた。まったく、どこまでも冷酷で情け容赦のない女だ。雅乃は淡々と追い出しにかかった。「もうご用件がお済みでしたら、お引き取りください。こちらはまだ仕事が残っていますので」清彦は口元を歪める。「なんだ、契約が終わった途端に用済みってわけか?雅乃、本当に容赦ないな」雅乃はテーブルの上の書類を片づけ始めた。「容赦ないかどうかは分かりませんが、あなたが私の業務の妨げになっていることだけは事実です。これ以上居座られるようでしたら、こちらにも考えがあります」清彦は不機嫌そうに言い放つ。「だったら、俺の連絡先を追加しろ」「すでに私のアカウントはご存じでしょう?」雅乃は意味が分からないというように清彦を見つめた。清彦はスマホを取り出し、白地に黒文字で『Nirvana』と書かれたアイコンをタップすると、呆れたように鼻で笑う。「自分でよく見てみろ。これが個人の連絡先か?まだ俺を他人扱いするつもりか。それとも、俺を馬鹿にしてるのか?」雅乃は気まずそうに耳たぶへそっと触れた。それは、後ろめたさを感じた時に無意識に出る彼女の癖だった。以前、雑談をしていた時に、その癖のことを本人の口から何度か聞いたことがある。その小さな仕草を目にした清彦は、ますます確信を深める。結局のところ、雅乃は自分を適当にあしらっているだけなのだ。雅乃は真顔のま
Read more

第686話

清彦が去ると、雅乃も会議室を後にした。ドアを開けた途端、カナと千鶴の二人に囲まれる。カナは腕を組み、心配そうに尋ねた。「雅乃、清彦さんに中で意地悪されなかった?」「そうよ。さっき中からすごい音がして、本当にびっくりしたんだから」千鶴も胸をなで下ろしながら、心底怯えたような表情を浮かべる。雅乃は二人を安心させるように微笑んだ。「大丈夫よ。あの人はああいう人だから。大げさなだけで、本当はたいしたことないの。心配しないで」カナは目を細め、訝しげな顔になる。「おかしいわね、雅乃。それにしても、どうしてそんなに清彦さんのことに詳しいの?」そう言うと、腕を組んだまま人差し指で存在しない眼鏡をクイッと押し上げる仕草をし、名探偵気取りで雅乃の周りをぐるりと一周した。雅乃は内心ひやりとしながらも、それを悟られまいと契約書を取り出し、さりげなく話題を変える。「もう、変なこと考えないで。それより報告があるの。制服のプロジェクト、これで完全に終わったわ」千鶴とカナは顔を見合わせ、そろって信じられないという表情を浮かべた。「嘘でしょ?」カナは雅乃のそばへ歩み寄り、タブレットを覗き込む。普段の清彦といえば、ああでもないこうでもないと理屈を並べ、難癖ばかりつけてくる相手だ。それが今回は、こんなにもあっさり了承したというのだから驚くしかない。その話を聞きつけ、これまで散々振り回されてきたレナもひょっこり顔を出した。この件について、一番苦労してきたデザイナーは彼女なのだ。これまで何度も修正を重ね、そのたびに清彦から散々酷評され、遠回りに遠回りを重ねた末、結局採用されたのは最初のデザインだった。――本当に、憎たらしい資本家だ。レナは心の中で毒づいたが、さすがに口には出せない。雅乃も、そんなレナがどれほど苦労してきたかをよく理解していた。だからこそ、契約書の画面を開いて見せる。「ええ。本当にサインをもらったわ」そう言ってレナの肩をぽんと叩き、真剣な眼差しを向けた。「安心して、レナ。あなたの頑張りはちゃんと紬さんに伝えておくから。私は全部分かってるわ」結局、この騒動の原因の大半は雅乃自身にあったのだから。最悪の場合は、紬さんに頼んで自分のボーナスをレナへ回してもらっても構わない。レナは感
Read more

第687話

天野邸。二人の子どもは家の中に閉じ込められていた。絵美が見張りをつけ、一歩たりとも外へ出られないようにしているのだ。芽依は部屋の隅に座り込み、抱き締めたロップイヤーのぬいぐるみを八つ当たりするように何度も叩いていた。ぬいぐるみは彼女の腕の中でぐにゃりと形を変えながら、主人の鬱憤を黙って受け止めている。悠真は雑炊の入ったお椀を手に、芽依のもとへ歩み寄った。「芽依ちゃん、もう怒るのはやめよう。少しでいいから食べなよ。体が資本なんだから、食べなきゃ元気も出ないだろ」「元気が出たって、どうせ外には出られないじゃない」芽依はベッドへ仰向けに倒れ込み、天井を見つめながら大きくため息をついた。今の彼女は、生きる気力さえ失いかけていた。こんな豪邸に閉じ込められた毎日なんて、籠の中の鳥と何が違うというのだろう。悠真も沈んだ表情のまま、お椀を机の上へ置く。今の状況では、彼にもどうすることもできなかった。「でも、今はどうしようもないよ。パパ……いや、あの男はまた記憶喪失になっちゃったし、あの悪い女も意地悪だし。僕たちにはどうにもできないよ」思わず「パパ」と口にしかけた悠真だったが、最近の成哉の振る舞いを思い出し、小さく言い直した。芽依はふうっと息を吐く。「お兄ちゃん、私、ママに会いたいの。ママが作ってくれたケーキが食べたいよ。ママの匂いが恋しい……」悠真も何か言葉を返そうとした、その時だった。望美が突然ドアを開け、部屋へ入ってきた。その姿を見た芽依は勢いよく起き上がり、鋭い視線を望美へ向ける。「あなた、本当に失礼ね!人の部屋に入るのに、ノックもできないの?」以前はどうして、この女がここまで品のない人間だと気づけなかったのだろう。望美はドアを閉め、そのまま部屋の中へ歩いてくる。芽依に言われても、怒るどころか平然としたままだった。悠真は警戒心をあらわにし、妹をかばうように前へ立った。「人の話が分からないのか?ここは芽依ちゃんの部屋だぞ。何しに来たんだよ」「もちろん、あんたたちの惨めな姿を見に来たのよ。もうすぐ私はこの家の女主人になるんだから、この家に私が入っちゃいけない場所なんてないでしょ」望美は得意げに笑う。もはや本音を隠そうともせず、胸の奥にある欲望をそのまま顔に浮かべていた。
Read more

第688話

その言葉を聞いた瞬間、望美の表情が一変した。芽依へ向ける視線は、見る者が背筋を凍らせるほど陰惨で冷たいものへと変わる。その顔を目にした芽依の小さな顔にも、さっと恐怖が走った。――この女……何をするつもりなの。どうして急に、あんな恐ろしい目になったの。普段から望美に嫌われていることは分かっていた。それでも、あそこまで人を震え上がらせるような表情を見せたことは一度もなかった。なのに今は、まるで邪悪な魔女のような顔をしている。その様子を、悠真もすぐそばで見ていた。どうして芽依が子どものことに触れた途端、あの悪い女はあれほど取り乱したのだろう。ある考えが、ふと彼の頭をよぎる。――もしかして……あのお腹の子、本当にパパの子じゃないんじゃ……望美は芽依の首をいきなり掴み、そのまま締め上げると、耳元で低い声を響かせた。「警告しておくわ。その口、軽々しく開かないことね。私が本気で手を出せないとでも思ってるの?あんたみたいな生意気な小娘一人、殺そうと思えばいつでも殺せるのよ。それに、あんたのパパだって文句の一つも言わないわ」芽依の顔はみるみる赤く染まり、必死にもがきながら望美の腕を叩く。「悪魔!あ、あんたなんか……離してよ!」その光景を見た悠真は目を真っ赤にし、飛び出して望美の腕にしがみついた。「離せ、この悪魔!早く芽依ちゃんを離せよ!」息が詰まり、真っ赤になっていく妹の顔を見た瞬間、胸が張り裂けそうになった。叫ぶ声には、今にも泣き出しそうな震えが混じっている。だが、相手は大人だ。幼い子ども二人を相手にするなど、赤子の手をひねるより簡単だった。先ほど芽依が口にした言葉を思い出し、望美の胸には本気の殺意が芽生えていた。――どうせ今の成哉は記憶喪失だ。生意気な小娘が一人、事故で死んだことにしたところで、誰も何も言わないだろう。その時は、適当な言い訳を並べてしまえば済む話だ。そう考えた望美は、首を締める手に少しずつ力を込めていく。芽依の抵抗は、目に見えて弱くなっていった。望美の腕を叩いていた手にも、次第に力が入らなくなっていく。悠真は自分の力では望美の手を引き離せないと悟ると、とうとう頭を下げた。「望美さん、ごめんなさい!僕たちが悪かったよ!これからは絶対に逆らったりしな
Read more

第689話

そう言い残すと、望美は上機嫌な様子で部屋を後にした。ドアが閉まるのを見届けると、悠真はようやく芽依の目を覆っていた手を離す。その瞬間、涙をいっぱいに溜めた芽依の黒い瞳と目が合った。――自分だって、あんなにもママに愛されていた。それなのに、以前の自分はその幸せを少しも大切にしてこなかった。その結果が、今だ。他人に支配され、自由まで奪われてしまっている。こんな状況になったのは、すべて自分たちの自業自得だった。悠真も堪えきれず涙をこぼし、妹をぎゅっと抱き締める。「芽依ちゃん、怖がらないで。お兄ちゃんが絶対に守るから。だから今は、前みたいにあの女に逆らっちゃ駄目だ」芽依は小さな体を震わせながら、声を上げて泣いた。「あいつ、頭がおかしいわ。さっき、本気で私を殺そうとしたのよ……」思い返すだけで、背筋が凍るような恐怖が蘇る。「僕にも分かった。だからこそ、あの女には逆らっちゃいけないんだ。今の僕たちは、どう考えても圧倒的に不利なんだから」悠真は努めて冷静に状況を分析した。幼い兄妹は身を寄せ合い、この先どうすればいいのかを話し合う。ふと、芽依はさっきの望美の目つきを思い出し、悠真の耳元へ顔を寄せ、小さな声で囁いた。「お兄ちゃん、私ね……あの女のお腹にいる子、本当にパパの子じゃないんじゃないかって思うの……」その瞳は真剣そのものだった。だって、あの女はまるで嘘を見抜かれたかのように、あれほど激しく取り乱したのだから。聞かれるのが怖くて、芽依にはもう大きな声で望美のことを話す勇気はなかった。あの女は、本物の狂人だ。悠真もまた、芽依とまったく同じ考えに至っていた。あの悪い女があそこまで激昂したということは、その推測が図星だった何よりの証拠だ。「でも、私たちまだ子供だもの」芽依はうつむく。「何もできないし、この家からも出られない。それに今は、ママにも連絡できない。誰も助けてくれないわ」「いるよ!」悠真は力強く言い切った。「パパがいるじゃないか」「お兄ちゃん、本気で言ってるの?」芽依はぽかんと口を開け、信じられないという表情で悠真を見つめた。「もちろん本気だよ。パパの記憶を取り戻す方法を考えるんだ」パパさえ記憶を取り戻せば、きっとあの悪い女の化けの皮を剥いでくれる。
Read more

第690話

彼は望美のその艶やかで美しい顔を見つめた。記憶にある姿と少しも変わらないはずなのに、なぜか心の底から一抹の拒絶感が湧き上がってくるのを感じていた。望美の瞳から次第に光が失われ、口元の笑みも不自然に強張った。成哉はどうしてしまったの。まさか、記憶を失ってまで、まだあの忌々しい紬のことを考えているというの。だが次の瞬間、成哉はふっと話題を変えた。「望美ちゃん、考えすぎだ。君が会いに来てくれて、俺は本当に嬉しいよ。何を持ってきたんだ?少し味見させてくれ」成哉が話を逸らした以上、彼女もそれに調子を合わせるしかなかった。望美はスイーツの箱を開けながら、偽装した火傷の跡をさりげなく成哉の目の前へ晒した。「私が手作りしたスイーツよ。どれも成哉の好きなものばかりだから」案の定、成哉は望美の手をきゅっと掴み、痛ましそうな顔つきになった。「どうしたんだ、これ」望美はにっこりと微笑み、成哉を安心させるように言った。「ああ、ちょっと不注意で火傷しちゃっただけ。気にしないで。それより、早くアフタヌーンティーにしましょう」しかし、成哉の表情は依然として険しかった。「望美ちゃん、俺のために君が怪我をするなんて嫌だ。俺の心が痛むんだ」望美は甘く囁き、自分の想いを伝えた。「ええ、わかったわ。あなたは私の愛する人だもの。当然、私が心を込めて作ったスイーツを食べてほしいわ。あなたのためなら、どんなことだって喜んでできるの」成哉はゴクリと喉を鳴らした。望美からの真っ直ぐな告白を聞きながら、彼は心の底で自分自身を激しく嫌悪した。さっき俺は何を躊躇っていたというのか。なぜ素直に愛の言葉を口にできなかったのか。成哉は腕の中にいる望美を見つめた。ふいに衝動に駆られ、その薄い唇をゆっくりと彼女へ近づけていく。望美は成哉の胸元のシャツをきゅっと掴み、とうに心の準備を整えていた。彼女がそっと目を閉じようとしたその瞬間、ドアをノックする音が響き渡った。望美の瞳の奥には邪魔をされたことへの不快感が掠めたが、成哉は彼女に立ち上がるよう目で合図した。ここはあくまで会社であり、人目につくのは体裁が悪いからだ。仕方なく、望美はしぶしぶと立ち上がった。成哉は声のトーンを整え、扉越しに呼びかけた。「入れ」舞絵はタイトスカート
Read more
PREV
1
...
656667686970
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status