我が子より他人の子?産後ワンオペ妻の離婚 のすべてのチャプター: チャプター 121 - チャプター 130

254 チャプター

第121話

奈緒はからかわずにはいられなかった。「まさか、院長が警察に通報して、お母さんを留置場に入れるのを待っているの?」蘭はからからと笑った。「今、誰が私を捕まえられるというの?」奈緒は眉をひそめた。「あら、強気ね……S国で、何か頼もしい相手でも見つけたのかしら?」「そんなわけないでしょ」蘭は冗談めかして奈緒の肩を押した。「私たち親子もずっと辛い思いをしてきたけど、ようやく報われる日が来たのよ」奈緒はこれ以上尋ねる必要はないと悟り、答えをすでに理解していた。そして、力強く頷き、心からの思いを伝えた。「お母さん、これからは誰の顔色をうかがうことも、無理をすることもないの。もう自分を追い込んで、病気になんてならないで。もう誰も私たちを馬鹿にしたり、辱めたりなんてできない……今までこの世界で味わった悔しさも恥も、すべて何倍にもしてお返ししてやるんだから」蘭は娘の肩をぎゅっと抱き寄せ、何も言わなかった。しかし、奈緒が見上げると、蘭の目にはすでに涙が溜まり、潤んでいた。……美紀は静香に無理やり病室に連れ戻されると、完全に我を失った。眠っている裕弥のことなど目に入らず、部屋中の目につくものを手当たり次第に投げつけ、粉々にした。「こんな仕打ち、許されるはずないでしょ!お母さん、もうあの母娘を殺してやりたいわ!あの二人、揃いも揃って根性腐ってるんだから!こんなの人間らしい生活じゃないわ!どうしてこうなっちゃったの?このままじゃ、本当に頭がおかしくなりそう!」美紀は怒りに任せて暴れ回り、叩かれて腫れ上がった顔に手を当てると、胸が締め付けられるような激痛に襲われた。あまりの絶望に、本当に窓から飛び降りたい衝動に駆られた。静香は苛立ちながらも、感情を必死に抑え込んで言った。「いい加減にして!冷静になりなさい。これじゃあ、あんたより先に私まで頭がおかしくなりそうよ。これからどうするのよ。仁哉さんはあんたにあんなに冷たいし、あんたのお父さんは、奈緒に謝りに行かないと縁を切るって騒いでる。栗原家は事件が起きてから、今まで誰も顔を出さない……このままじゃ、どうすればいいの。幸い、お姉ちゃんと充はあんたの味方よ。充の姉たちのことは、上の子はもう当てにならないわ。あの子は明らかに、私たちとは違う陣営。あとの二人も、は
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第122話

美紀と静香が目を合わせると、お互いの瞳の中の光が、まるで共鳴したかのように重なった。静香は怒りから一転、にやりと笑った。「それよ!どうして気づかなかったのかしら。そこから攻めるのよ!奈緒が私たちの家を燃やしたんだから、私たちも同じやり方で報復してあげる……」美紀もすかさず話を引き取り、静香とパチンと手を打ち合わせた。「クラブ・ノクターンを燃やしちゃおう!」静香はまるでいいアイディアでも見つけたように、目を輝かせた。「いける。この計画、絶対いける。でも、私たちがやったって絶対バレないような、うまい計画も考えないとね!」美紀は不敵に笑った。「簡単よ。金で店の内部の人を買収すればいいの。地獄の沙汰も金次第よ。警察が調べても、店の内部トラブルってことにできるわ。今すぐ人を使って、不満を持ってる人間を探り出させる」静香は力強く頷いた。胸に溜め込んだ鬱憤がようやく晴れるという希望で、闘志が溢れ出した。「いいわ、とにかくきれいに片付けてよ!美紀、さっきの蘭のあの顔を思い出すと、本当に腹が立って仕方ないわ!」静香は悔しさのあまり、ベビーベッドの柵を強く叩いた。次の瞬間、ベッドで眠る裕弥がいることにようやく気づいた。でも、さっきあれだけ大きな声を出して、柵もこんなに強く叩いたのに、ベッドの裕弥はまだぐっすり眠っていた。目を覚ます気配は少しもない。静香は驚きで目を剥き、美紀の方を見た。「ちょっと、美紀……一体、どれだけ睡眠薬を飲ませたの?こんな音を立てても起きないなんて」美紀は面白くなさそうに口元を歪めていた。「そんなに多くないわよ。最初はほんの少しだったの。でも、少しじゃすぐ効かなくなるってわかって、それで量を増やさせたの……小さいうちにちゃんと眠れば成長にもいいでしょ?でも、まさかこうなるとは思わなくて。あのベビーシッターのせいだわ。仁哉がいない時にやりなさいって言ったのに。もう、腹が立って仕方がない!」静香は美紀を見つめた。その目には、言葉にできないほどの衝撃が浮かんでいた。「美紀、いくらなんでも実の息子よ?そんなに小さい子に睡眠薬なんて……どれほど体に毒か分からないの?」美紀は静香を見つめ、ますます不満そうな顔になった。口ごもりながら、しばらくして、ようやく口を開いた。「
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第123話

それは、仁哉だった。車に戻った仁哉は、しばらくシートに座り込んだまま動けずにいたが、結局秘書に頼んで飛行機の時間を変更させた。美紀の悲痛な叫び声が、頭から離れない。いくら子供の泣き声がうるさいからといって、生後間もないわが子に睡眠薬を飲ませるような母親など、到底信じたくなかったのだ。何か、本当の理由があるのではないだろうか?長い沈黙の後、仁哉は決意を固めて病院へと引き返した。病室の前にたどり着き、ドアを開けようとしたその時、隙間から美紀と静香が裕弥について話す声が漏れ聞こえてきた。静香の激しい叱責と、それに対する美紀の投げやりな口調が、まるで竹刀のように仁哉の心を激しく打ち据えた。彼はガラス越しに、ベッドに寝ている裕弥を遠くから見た。そして、視線をそらすと、ドアノブを握っていた手を離した。彼は背を向け、音もなく病室の前から消えていった。隣にある奈緒の病室を通りかかると、ドアが少し開いていた。同じように子供が病気なのに、この部屋の様子はまるで違っていた。奈緒が、黎を腕の中にしっかりと抱きしめ、何度も丁寧にタオルの先でその頬を拭ってあげているのが見えた。黎が着ているベビー服は肌に優しい最高級品で、どこを見ても清潔感にあふれていた。首元には可愛らしいよだれかけがあり、ひっかき傷を防ぐための小さな手袋まで丁寧にされていた。その子は、病気の間、母親からきめ細やかに世話をされているのがはっきり分かった。とくに、奈緒が子を見つめる目。それは、誰が見ても胸を打たれるような、やさしい眼差しだった。これこそが、本当に子供を愛する母親だ。でも、彼が帰国してから今まで、美紀は裕弥をほとんど抱かなかった。おむつを替えることも、ミルクをあげることもなかった。たまにあやすと、すぐに面倒くさそうにベビーシッターへ押しつけた。彼女は家では、パックをしたり、化粧をしたり、服を試着してめかしこんだり。そうでなければスマホでドラマを見ているだけだった……彼は美紀に、母性本能のかけらも見つけられなかった。仁哉はその光景を静かに数秒間見つめた後、深く溜息をつき、その場をあとにした。エレベーターの前に立ち、ボタンを押そうとしたそのとき。ドアが開いて、出てきたのは充だった。充はマスクをしており、どうやら数日前から微熱があり、薬を飲んで落ち着い
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第124話

仁哉は、充の方を向いて肩を軽く叩いた。「裕弥に飲ませた睡眠薬は、美紀がベビーシッターに指示して盛らせたものだ。君のこの従妹は、君が思ってるほど純粋じゃないぞ」仁哉はそれだけ言うと、背を向けエレベーターに乗り込んだ。かつて信頼し合ったはずの親友に対し、仁哉の胸には今、深い影が落ちていた。うまく言葉にできない、よそよそしさだった。昔の彼と充のあいだには、女絡みの話なんて一度もなかった。話題はいくらでもあった。命を預けあえるような義理もあった。互いを認めあう息のあった仲でもあった。でも今、その感覚は、すっかり別のものに変わってしまった。当時、充の人柄を信じ、かつ彼が美紀の幼い頃からずっと面倒を見てきたと強調しなければ、仁哉もこれほど軽々しくこの結婚を決めることはなかっただろう。けれど結局は、親友を信じたのが間違いで、妻選びも間違っていた。二度と抜け出せない深い落とし穴に落ちてしまったのだ。落とし穴だと気づいていても、自ら足を踏み入れた以上、そこから抜け出すには並大抵ではない痛みが伴うことを、仁哉は理解していた。エレベーターの中、仁哉には自分の体が重く感じられ、まるでエレベーターがその重みに悲鳴を上げるかのようにギシギシと音を立てていた。……充は、呆然とその場に立ち尽くしていた。思考は停止し、仁哉が吐き出した言葉の意味を理解するまで、長い時間がかかった。美紀がベビーシッターに睡眠薬を盛るよう指示したのだと?そんなことがあり得るはずがない。美紀が、そんなことをするわけがない。美紀は……充は混乱のさなか、冷たい気配を纏ったまま、裕弥のいる病室へと駆け出した。病室のドアを開けた瞬間、ちょうど美紀が裕弥を抱きかかえていた。目を覚ましたばかりの裕弥にお腹が空いたと泣かれ、美紀はぎこちない手つきで哺乳瓶を持ち、飲ませていた。先ほどまで美紀は、裕弥の世話をしていたベビーシッターを怒鳴りつけて追い出しており、全ての罪をベビーシッターに押し付けていた。そのベビーシッターもまた美紀から指示を受けた確たる証拠を残していなかった。全責任を押し付けられた挙げ句、紹介業者への賠償金まで抱える羽目になり、散々な結果に終わっていた。美紀は、ベビーシッターとの争いに勝ったばかりで、ずいぶん機嫌がよくなっていた。裕弥を
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第125話

「仁哉が今出て行ったって?充さん、本当?」美紀は信じられないという表情で目を見開いた。静香の顔も曇った。彼女は不思議そうに言った。「仁哉さんはとっくに出発したはずよ。飛行機の時間に間に合わなくなるし、今出たなんてありえないわ」充は何かおかしいと感づき、椅子から勢いよく立ち上がった。「さっきエレベーター前で会ったんだ。まさか、彼が言っていたことが真実だというのか?」元々厳しい充の表情が、一瞬で凍りついたように沈んだ。充は片手をポケットに突っ込み、その全身から冷たいオーラを放つ。鋭い漆黒の瞳が、相手を圧倒する威圧感で二人を見下ろした。美紀は動揺を悟られまいと、必死に無実を装って言った。「充さん、どうしたの?仁哉に何て言われたの?」静香もあわてて口を挟む。「そうよ、何を言っていたの?」充は二人をじっと睨みつけた。その目には強烈な疑念が渦巻いていた。仁哉の性格はよく知っている。推測だけで、勝手に決めつけるような男ではないのだ。美紀と静香の今の様子を見て、彼は薄々何かを察していた。まるで無数の針を飲み込んだように、苦しくて仕方なかった。充は低く呟いた。「美紀、正直に言え。裕弥くんの睡眠薬のことは、本当はどうなっている?それほどの長期にわたって、ベビーシッターの勝手な行動だけとは考えにくい。いつも裕弥くんと一緒にいるお前が、何も気づかなかったとでも言うのか?」充は胸が張り裂けそうだった。正直に言えば、自分が幼い頃からそばで見守ってきた美紀が、こんな無責任な性格だとは、どうしても信じたくなかった。美紀は純粋で優しく、子供の頃の充にとって、癒してくれる天使のような存在だったのだ。美紀が実の息子を傷つけるなど……どうしても信じたくはなかった。美紀はまるで首を絞められたかのように息を呑み、次の瞬間には大粒の涙を零し始めた。ここ最近、泣きすぎたせいで両目はひどく腫れ、頬も赤く腫れあがっている。まるで宇宙人みたいな顔で、どこか滑稽で不思議な感じがした。だが、その涙を見ると、充は本能的に動揺してしまう。「仁哉に誤解されるのはまだいいわ。でも、充さんにまでそんな目で疑われるなんて……」美紀は自分の胸を押さえて、声を上げて泣き崩れた。「そんな……私がするはずないでしょ?充さんの中で、私はそんな
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第126話

静香は慌てて美紀を抱き寄せ、なだめすかしてようやく美紀を落ち着かせた。充はぼう然と立ちつくし、体が固まってしまった。蘭が、美紀を殴ったのか?美紀の子供が入院しているこの時期に、奈緒と蘭はわざわざ病院まで押しかけて手を出したのか?あの二人、一体どこまでやりたい放題なんだ?一体、何がしたいんだ?本気で美紀を死に追い詰める気なのか?充の胸の中で怒りの炎が渦巻き、全身の体温が上昇するような感覚と、脳がパンクしそうなほどの頭痛に襲われた。蘭には早く海外から戻ってきてほしいと思っていたのに。帰国したら奈緒をよく説得し、冷静にさせて、皆が平穏に暮らせるようにしてほしかった。それなのに、戻ってきたのは奈緒よりも狂っていて、冷酷で、人情の欠片もない人間だった。もう、こんなことを続けさせるわけにはいかない。このままでは、本当に取り返しのつかないことになる。充は拳を強く握りしめた。「彼女はどこにいったんだ?今すぐ行って説明させてやる」耐え忍ぶような静かな口調だが、そこには危険な空気が漂っていた。美紀は望みを見出し、泣き声を止めると廊下を指さした。「あそこの、すぐ先にある病室よ」充の胸の中で怒りが噴き上がった。目には冷たい怒りが宿り、何も言わずに身をひるがえして外へ向かった。考える間もなく隣の病室に駆け寄ると、ドアを勢いよく蹴り開けた。病室の中。ちょうど蘭を帰らせたばかりだった。黎の熱は下がっていた。授乳し、子守唄を歌って何とか眠らせたばかりだったのだ。彼女と香織がやっと座って何か食べようとしていた。今日はずっと黎のことで気が気ではなく、何も喉を通っていなかったのだ。でも、数口も食べないうちに、突然ドアが乱暴に蹴り開けられ、充が鬼のような形相で現れた。次の瞬間、黎はひどくおびえて、体をびくっと震わせ、酷い泣き声をあげた。奈緒は胸が締めつけられるように痛んだ。飛びつくように駆け寄り、娘をベッドから抱き上げた。「ママがここにいるわよ。怖くないわよ。いい子ね……」奈緒は黎の頬に自分の顔を押し当て、必死になだめた。充は病室の入り口で固まった。怒りは、目の前で震える黎を見た瞬間に消し飛んだ。のぼせきった頭が急速に冷えていく。黎の病衣姿と入院患者を示す腕のリストバンドに、頭の中は完全にシ
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第127話

奈緒は、中の水を彼の顔にぶちまけてやりたかった。だが、腕の中でようやく落ち着いた黎を見て、必死でその手を止めた。奈緒は鋭い視線で充を睨みつけ、その瞳には深い憎しみが渦巻いていた。充は自分の非を認め、ドアの前で微動だにせず、先ほどまでの荒々しい気配を消して立ち尽くしていた。彼は不安げに奈緒の腕の中の黎を見つめ、その小さな顔を見て罪悪感に苛まれていた。奈緒の懸命ななだめにより、黎はなんとか再び眠りについた。奈緒は慎重に黎をベッドに寝かせ、香織に目配せして見守るよう頼んだ。その後、充に殺気立った視線を送り、廊下へ出るよう促した。黎がウイルスに感染した件について、もともと充を問い詰めるつもりだったのだ。まさか、彼の方からあんなふうに怒鳴り込んでくるとは思わなかった。考えるまでもなかった。彼がさっき、あんなに怒って乱暴にドアを蹴り開けたのは、きっとあの母娘に、話を大げさに吹き込まれたからだ。見るからに、彼はまた鵜呑みにしたのだ……そう思うと、奈緒は思わず皮肉っぽく口をゆがめた。二人はそのまま廊下の先にある非常階段へと向かった。充は苛立ちを隠せず、思わずタバコを取り出して強く吸い込み、謝罪を口にした。「悪い、黎が……そんな状態だったとは知らなかった」奈緒はうっとうしそうに言った。「黙って。聞きたくないわ。用件は何?今度は私の何にケチをつけたいわけ?」充は奈緒の顔を見て息苦しさを覚えたが、構わず続けた。「お前のお母さんが病院の廊下で美紀を殴ったそうだが、本当か?」奈緒は腕組みをして、冷たい眼差しを充に向けた。「それで?また美紀の肩を持ちに来たわけ?」充は眉間にしわを寄せた。「話し合いで解決できないのか?いい歳をした大人が、何でもかんでも暴力で解決するなんて……」その言葉が耳障りで、奈緒は冷たく言い放った。「悪いけど、私は今、乱暴なやり方が好きなの。乱暴で、下品で、みっともないやり方ほど、すっとするのよ。だから、私に近づかない方がいいわ。次はあなたがひどい目に遭うかもしれないから!」奈緒の心はすでに冷めきっており、黎の件ですら充と話し合う価値があるのか疑問に思っていた。言葉を交わすだけで心身ともに疲れ果ててしまうのだ。奈緒が病室へ戻ろうと背を向けたその時、充が背後で低く呟
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第128話

奈緒は落ち着いて話したかった。でも、充と向き合うと、どうしても冷静ではいられなかった。感情を抑えきれず、取り乱してしまう。自分が命がけで産んだ娘が、かつて深く愛し、慕った男に、こんなにも雑でいい加減に扱われていると思うと、胸を巨大な手に握りつぶされるような痛みに襲われ、全身が引きつった。風邪をひいている時は赤ん坊に近づかない。健康でもむやみに頬にキスなんてしない。親として当然の知識……充には愛情なんて欠片もなくて、ただ父親としてのパフォーマンスをしているだけだった。その結果、まだ生後2か月の黎を入院させる羽目になったなんて。苦しむ黎の姿を思い浮かべ、奈緒は感情を抑えられなくなった。泣き崩れ、その場にうずくまってしまった。もう耐えられなかった。娘は自分にとって、この世界でたったひとつの弱みなのだ。充は立ち尽くしていた。何が起きたのかを理解するまでに、長い時間がかかった。わずかな時間の面会が、黎を入院させる結果になるとは夢にも思わなかった。ただ会いたかっただけで、他に方法がなかったんだ。頬にキスしたことに関しては、認める。黎が愛しくてたまらず、親としての本能でやってしまっただけなんだ。病気にさせる気なんて毛頭なかった。風邪だという自覚さえ、その時はなかったのだ。それどころか、あとで微熱が出はじめたときも、彼はどこか運がいいと思っていた。風邪をひく前に娘に会えてよかった、と。でも、ウイルスには潜伏期間がある。もっと慎重になるべきだったんだ。今、充の頭の中は真っ白になった。仕事でもプライベートでも、いつも冷静に対処できていたのに。なぜ奈緒と黎のことになると、これほど失敗ばかりを繰り返してしまうのか?焦れば焦るほど混乱し、混乱すればするほど間違える。間違えるほど、めちゃくちゃになる……何でもできたはずの自分が、急に臆病になってしまった。動くたびに間違えて、そのたびに終わりだ。激しく泣き、全身を震わせる奈緒を見て、充は胸が引き裂かれる思いだった。奈緒は強かった。普段なら、どれほど彼女を罵倒しても、悔しさを隠して涙を堪えていたはずなのに。でも今、奈緒は子供のように泣きじゃくっている。彼女は本当に娘を宝物のように思っている。心の底からいとおしいからこそ、少しの苦しみも味わわせたくないのだ。そんな奈緒に対して
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第129話

医者や看護師たちも、それにつられて慌てだした。皆が奈緒を診察室へ運ぶ中、充はドアの前でへたり込み、両手で顔を覆って絶望に打ちひしがれていた。いつの間にか側にいた香織が、深い溜息をついてこう言った。「奥様はこの2日間、ろくに眠りもせず、食事ものどを通っていないんです。黎様の看病に疲れ切って、自分のことなんて二の次でしたから。奥様は、本当に黎様のことを大切になさっていました。産後も本来なら体を休めなければいけないのに、黎様が泣けばすぐに飛び起きて、自分の体までボロボロにしてしまったんです。旦那様、どうか奥様を労わってあげてください。黎様が生まれてからずっと、奥様は心も体も張り詰めた糸のような状態でいらっしゃるんですから」充は言葉を失った。胸が締め付けられる思いで、呼吸すら止まった。この時、充はふと気づいた。奈緒がこれほどまでに感情的になるのは、すべて安心感が欠けていたせいではないだろうか?夫として、なすべき役割を果たせていなかったのではないか?妊娠中も出産も、自分が奈緒の苦労や心細さを蔑ろにしてきた。「しっかり者だから一人で何でもこなせるだろう」という勝手な思い込みのせいで、奈緒のことに気づかないふりをしていたのだ。奈緒が倒れた原因は、極度の空腹と低血糖だった。処置を終えて点滴で栄養を補った後、医師の勧めで黎の病室へ戻って休むことになった。奈緒が目を覚まし、点滴の袋を自分で高く持って出てくるのが見えた。充はさっと駆け寄って、その袋を受け取った。彼女の手を支える動きはそっと丁寧で、その顔は真剣で、罪悪感に満ちていた。奈緒は本能的に嫌悪を覚え、突き放したくなった。彼にそばに寄られたくなかった。特に充が漂わせる消毒液の匂いが鼻につき、より一層冷めた気持ちになった。心底、自分の視界から消えてほしかった。だが今の奈緒に、充を拒絶する体力すら残っていなかった。ただ目を閉じ、彼の手を借りて黙って病室へ戻った。VIP個室には、介護用の付き添いベッドが備えられていた。ベッドに腰を下ろすと、香織はすかさず温かいうどんを持ってきて、彼女に差し出した。「奥様、召し上がってください。たった今作ったばかりですよ」奈緒は小さく頷き、促されるまま口に運んだ。頭がぼんやりしてフラフラする中で、いつの間にか眠りについていた。
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第130話

「お母さん、充さんはいったいどうなっているの?文句を言いに行ったはずなのに、なんでこんなに帰ってこないの?裕弥のそばについていなさい。私が見てくるわ!」美紀は落ち着かなくなり、静香に裕弥を任せると、病室のドアを開けて外へと出ていった。でも、数歩も歩かないうちに見てしまった。充が、やつれて弱った奈緒を大事そうに支えている。点滴袋を高く持ち上げて、病室へ戻ってくるのだ。美紀は金縛りにあったように、その場で固まってしまった。あれほど怒っていたはずの充が、一転して奈緒の甲斐甲斐しい夫に戻り、寄り添って歩いているのはどういうことだろう?互いに体を預け、寄り添う二人を見て、美紀は一瞬にして感情の制御が利かなくなってしまった。自分の病室へ戻ると、腹いせにドアを勢いよく閉めた。その衝撃で、深く眠っていたはずの裕弥が驚き、泣き叫ぶ声が部屋に響き渡った。静香は怒りに声を荒らげた。「美紀、何してるの?こんな小さな子がいるのよ。ドアくらい、そっと閉められないの?」美紀の目には怒りがあふれていた。「お母さん、さっき私が何を見たか知ってる?充さんはあの女に文句を言いに行ったんじゃなく、すっかり良き夫を演じてたのよ!信じられないなら見てきなさいよ。今もまだ、あの女の病室から出てこないはずだから!」静香は呆然として裕弥をあやしながら、信じられない様子でつぶやいた。「そ、そんな馬鹿な……さっきあんなに怒っていたし、そもそもあんな奈緒を許すような人じゃないはず……ありえないわ」美紀は怒りで腰に手を当てて言い放った。「本当よ、私が見たんだから!あの女が充さんの前でか弱いふりをして点滴まで打って。多分、それを見た充さんがまたいい顔をしたのよ。片手に点滴袋、もう片方の手で彼女を支えて、それはもう仲良しだったわ!このままじゃ二人でよりを戻してしまうわ。すぐに翠さんに電話して。あの二人を絶対に仲直りさせちゃだめ!」それを聞いた静香の目に、鋭い光が宿った。彼女は今や、奈緒とその娘を骨の髄まで憎んでいた。新しい恨みも古い恨みも、胸の中で絡み合っていた。母娘が笑いものになるのを、早く見たくてたまらなかった。あの二人が、昔の蘭のように、みんなに叩かれる惨めな姿になればいい。充が奈緒と仲直りするなど、静香には何よりも許しが
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