ログイン「青木家の理想の妻」として5年間を過ごしてきた青木奈緒(あおき なお)は娘の出産祝いのパーティーの日にようやく気が付いたのだった。 夫の青木充(あおき みつる)は、初恋の人にはありったけの愛を捧げてきた。なのに、自分にだけは「物分かりのいい、自立した妻」であることを求めているのだ。 だから、奈緒は耐えかねて周囲を顧みず叫んだ。「離婚よ!この5年間、もう我慢の限界!」 だが充は冷たく笑うだけ。「お前もつまらない女になったもんだ。何かあればすぐに離婚だなんて」 しかし奈緒が本当に姿を消したとき、充は初めて彼女なしでは、何もかもうまくいかない、平穏の暮らしが崩壊したことに気づくのだ。 3年後、国際会議で再会した奈緒は、世界的な建築家として、会場の視線を独り占めしていた。 すると充は人々の注目の中ひざまずいてやり直したいと懇願するのだったが、奈緒は、隣にいる男性に寄り添い、微笑んでそばを通り過ぎていった。 やがて充の元に一通の豪華な招待状が届く。封を切ると、そこには純白のドレスをまとった奈緒が、彼の親友の腕に寄り添って幸せそうに微笑む「前撮り」のフォトカードが添えられていた。 それを目にした充は涙で目を真っ赤にしながら式場に乗り込む。だが、そこで奈緒に淡々と一言告げられるだけだった。 「充、物分かりのいい妻を演じるのには、もう疲れたの。これからは、自分のために生きていくわ」
もっと見る奈緒は、白黒のストライプ柄のシャツをきちんと着こなしていた。襟元は少し開いて、白くほっそりした首がのぞく。ハイウエストの黒いフレアスカートをはき、その裾からはまっすぐで細い足がのびて、7センチの黒いハイヒールをはいていた。彼女は全身から、人を寄せつけないクールな雰囲気を漂わせていた。まるで抜いたばかりのナイフのように、冷たく鋭い光を放っていた。そこに立つ彼女は、まるで魂を抜かれたようにやつれた充とは、あまりにも対照的だった。奈緒は電話に出ていた。相手は蛍だった。仁哉は、やっぱり心配だったのだろう。だから、蛍にことのなりゆきを伝えたのだ。蛍はすぐに電話をかけてきたのだ。「奈緒、青木社長と離婚の手続きに行くなんて。こんな大事なこと、どうして私に内緒にするのよ?」奈緒は答えた。「今日はただ離婚届を提出するだけ。離婚ってそう簡単にはいかないの。財産分与に親権の問題……他にも片付けるべきことが山積みでね。今日は、一人でも大丈夫だから、心配しないで」蛍が声を荒げた。「だめ!親友として言わせてもらうわよ。これからの人生の重要なステップは、絶対私がそばにいなくちゃいけないの。出産みたいにまた黙り込むなんて絶対にナシ!そんなことされたら、私すごく悲しいんだから!」奈緒は思わず笑ってしまった。「分かった、分かったよ。蛍はまだ仕事中だろうと思って。会社を休ませてまで付き合わせては申し訳ないと思ったの」蛍は豪快に笑った。「何言ってるのよ!仕事より奈緒のことの方が大事に決まってるじゃない?それに私、従兄の遼の会社で働いてるの、知ってるでしょ?」夏川遼(なつかわ りょう)という従兄の存在は、奈緒もよく知っていた。蛍がそう言うのを聞いて、奈緒はそれ以上、彼女の申し出を断ることはしなかった。「待っててね、すぐに行くから!遼が新しいフェラーリを買ったのよ。奈緒の離婚の話を聞いて、自ら運転して奈緒の付き添いに行くって言ってるの。私たち、奈緒のために横断幕まで作ったんだからね。青木社長と役所を出てきた瞬間に広げる予定よ。そこには『奈緒、地獄脱出おめでとう!これからの人生、順風満帆で福の神も味方につけて、お金もお仕事もいい男もぜんぶ手に入れよう!』って書いたわ!どう?めいっぱい派手にしてあげるでしょ?私、親友として最高じゃない?」さすがは蛍ら
充は椅子に深々と座り込み、眉間を力いっぱい押さえて、あふれ出しそうな感情を懸命に抑え込んでいた。その時、胡桃がノックをして入ってきた。ヒールが床を叩く音が小気味よく響く。彼女はいつもの強気な様子で言った。「充、昨日、宮本さんに署名させた書類はどこ?見せて。問題がないか確認するから」充は無表情のまま一番上の書類だけを抜き取り、残りを突き出すように渡した。胡桃は彼の顔色がひどく青ざめているのを見て、心配そうに尋ねた。「どうしたの?大丈夫?」充は両手で顔を覆った。声には力がなく、まるで気力をすべて吸い取られたようだった。「大丈夫だよ。俺、奈緒と離婚することにした。子供は奈緒に渡す。奈緒が欲しいと言うなら、全部持っていけばいい。5年間も連れ添ったのに、ちゃんとした結婚式の一つも挙げられなかったんだ。俺がずっと、奈緒を苦しめていたんだから……」胡桃はハッとして、すぐに断固とした強い口調で返した。「償いが必要なら、常識の範囲内なら協力する。でも、子供を渡すなんて?あの子は充の最初の子供よ!古い男尊女卑みたいな考えはやめなさい。今の時代、息子だろうが娘だろうが、どっちも宝でしょ!」充はしばらく黙り込んでいた。深く落ちくぼんだ瞳には、慢性的な睡眠不足と心労の跡が濃く残っている。「姉さん、奈緒は黎をすごく愛している。俺に渡すわけがないよ。こんなに長いこと言い争って、もう疲れ切ったんだ。今はただ、ここから逃げ出したいだけ。もう出て行ってくれ。一人にしてほしい」胡桃は、喉まで出かかった言葉を飲み込んだ。弟がここまでやつれてしまって。姉として、見ているだけで胸が痛んだ。でも、どうすることもできなかった。所詮、恋愛や夫婦仲の問題は他人が口を挟めるものではない。胡桃は書類を持って肩を落としながら自分のオフィスに戻り、溜息をつきながら中身を確認した。……昼食後、奈緒はオフィスを立ち去る準備を始めた。仁哉は、彼女がバッグを持って出かけようとするのを見て、不思議そうに聞いた。「どこへ行くんだ?」充が離婚に応じたことは、奈緒がまだ誰にも伝えていなかった。あれこれと言いふらすより、まず行動で結果を見せるのが彼女の流儀だった。しかし、仁哉に対しては、なぜか根拠のない信頼を抱いていた。奈緒は小さく微笑んだ。
長い長い綱引きが、やっと終わったみたいだった。二人ともくたくたなのに、相手が急に、綱を握る手をぱっと離したのだ。その瞬間、奈緒が感じたのは、楽になった喜びではなかった。ふいに、宙に放り出されたような感覚だった。ずっと宙に浮いていた心臓が、急に「ドン」と地面に叩きつけられた。あとには、言葉にできないほどの、大きな空しさだけが残った。奈緒は沈黙したまま、文字を打ち込んだ。【分かった】碧瀾郷のリビングで、充は一人で座っていた。目の前のワインボトルは空になり、グラスには、まだ半分ほど残っている。窓が大きく開き、秋の冷たい風が流れ込んでくる。体は凍えるほど寒いが、心のざわつきは収まらなかった。スマホの画面に何度も打ち込んでは消し、力が入りすぎて指先が白くなっていた。やっとの思いでメッセージを送った。彼は、奈緒がすっきりした顔をするか、それか泣きわめいて自分を罵るだろうと思っていた。まさか、こんなにシンプルで、感情も揺らさない一言が返ってくるとは。気持ちが行き着くところまで行くと、こんなにも冷たくなるものなのか。言い争いさえ、もう無駄なもののようだった。あとには、ただ死んだような静けさだけが残っていた。充はその一言を見つめた。目が焼けつくようで、涙があふれそうになる。彼はソファに固まったまま座っていた。風化した黒い石みたいに黙りこんで、まわりには息が詰まるほどの、うちひしがれた空気が漂っていた。机の上の離婚協議書と離婚届が、風にあおられて床に落ちた。紙のこすれる音が、がらんとしたリビングにやけに耳ざわりに響いた。離婚協議書の淡々とした条文が、二人が過ごした5年という歳月は取るに足らないものだったと笑っているようだった。充は目元を熱くしながら、それを拾い上げた。本当は書類の中身を確認するつもりもなかった。財産分与の欄を少し見ただけで、心臓が握り潰されるような窒息感に襲われたからだ。署名欄に、充は無表情のままペンを走らせた。すべての書類にサインを終えると、茶封筒に入れ、渉が渡した会社の機密ファイルと重ねて置いた。その瞬間、自分の魂まで一緒に封じこめてしまったような気がした。立ち上がり、抜け殻のような重い足取りで寝室へ向かった。充はアロマキャンドルに火をつけた。一番好きだった香りが、今はただひ
蘭ははっと我に返り、冷たく言った。「突き返してください。お店には受け取らないと伝えてください。誰が買ったのか知らないけれど、返品先は自分で考えさせましょう」……リビングでは、奈緒が救急箱を探し回っていた。仁哉の傷はひどかった。口元も目元もあざだらけで、腕には石で切られた傷が何本もあった。奈緒は消毒綿棒を手に取り、そっと傷口のふちをぬぐった。その手つきには、申し訳なさがにじんでいた。「本当にごめんなさい、仁哉さん。私と関わったせいでこんなことに巻き込んでしまって……充がこんなふうに誤解するって分かってたら、あなたとは関わりたくなかった」仁哉はそんな奈緒を見て、あっさりと笑って軽く言った。「奈緒さん、気にしすぎだよ。人は自分の道を歩むだけさ。他人の目を気にしてたら、自分が苦しくなるだろ。それに、ヤジン・デザインのオーナーが僕で、『NAO』が奈緒さんだなんて、誰が想像できた?これも運命なんだ。大切にしていこう。僕たちの繋がりを、恥じる必要なんてないよ」奈緒は呆然とし、そしてふっと心が軽くなった。そう、運命の歯車はもう静かに回りだしていて、誰にも先は読めない。離婚すると決めたのなら、人の目なんてどうでもいい。ただ目の前の道をしっかり歩けばいい。充がどう思おうと、勝手にすればいいのだ。「あなたの言う通りね。人の心は変えられない。自分のことをちゃんとやるだけね」奈緒の気持ちは晴れやかになり、仁哉と顔を見合わせて笑った。その時、蘭がドアを開けて入ってきた。二人の心からの笑顔を見て、胸がぎゅっと締めつけられた。「仁哉くん、傷の手当ては終わったの?もう遅いし、帰って休みなさい」蘭の声には、厳しさが混ざっていた。察しの良い仁哉は、すぐに立ち上がり席を立った。「はい。今夜は騒がしくしてすみません。それじゃあ、帰ります」仁哉を見送って戻った奈緒だが、蘭は黙ったまま、深い眼差しを彼女に向けていた。「奈緒、あなたと仁哉くんは……」「お母さん、そんな心配いらないわ」奈緒はすぐに言葉をさえぎった。その口調は、はっきりしていた。「今の私は、男の人にはまったく興味がないの。ただ仕事をちゃんとやって、黎ちゃんを一生けんめい育てたいだけ」その目を見て、蘭のこわばった表情がようやく和らいだ。「余計なことを聞く
それから、蛍は奈緒が傷つくのを心配して、充から返信ひとつないことは、結局言い出せなかった。そして、奈緒が退院するまで、充は結局、姿を見せなかった。退院後、二人は黎と香織を連れて、碧瀾郷へと引っ越した。そこは、奈緒が半年前に入手した、リノベーション済みのマンションの一室だった。蛍の家はその真向かいの部屋で、隣同士に住むのは大学時代からの二人の夢だったのだ。だから半年前、蛍の向かいの部屋が売りに出されたと聞いて、奈緒は迷わず購入した。部屋には家具や家電が揃っていたが、まだどこか殺風景だった。蛍はすぐに自分の家から布団やポットなどの日用品を運んできた。奈緒は買い物リストを
「産後の回復がかなり遅れていますね。出産時に出血が多かったですし、低血糖で倒れやすい状態です。しっかり栄養をとって、気持ちをあまり高ぶらせないようにしてください」診察が終わっても、奈緒はまだ眠ったままだった。医師は病室で蛍に病状を説明した。隣で聞いていた香織が、ため息をついた。「奥様は産後の肥立ちが悪くて……最初の2週間はお乳が張って痛くて食事が喉を通らなかったんです。その後は赤ちゃんが夜泣き続きで……それでも奥様は自分で母乳をあげていたから、夜もまとまって眠れていませんでした。昼間は仕事もしていて、体が回復する暇もなかったんですよ」それを聞いて、蛍は怒り心頭になりそうだった。
一方、音を聞きつけた恵が慌てふためいて部屋から飛び出してきて、声を張り上げた。「地震です!地震が来たんですよね?」そして、香織もギャンギャン泣いている赤ちゃんを抱っこしていたけど、その音を聞いて、裸足のままバッグを掴んで外へ飛び出し、靴を履くのも忘れてしまうほどだった。……しかし、二人がリビングに駆け込むと、いつもは冷静な奈緒が、狂ったように大切にしていた置物を次々と床に叩きつけていた。その光景に、二人はあっけにとられた。それを見て恵が慌てて駆け寄り、止めに入った。「奥様、おやめください!ちゃんと話し合ってください、奥様!」香織も泣きやまない赤ちゃんをあやしながら、
一方、奈緒は会場を出るとアクセルを踏み込み、二人の新居である水鏡ヶ丘の家へと車を走らせた。そして、ドアを開けると、昔からいる使用人の井上恵(いのうえ めぐみ)と、奈緒が雇ったベビーシッターの黒崎香織(くろさき かおり)が、一緒になって赤ちゃんをあやしていた。二人は、奈緒の顔が真っ青なのを見て、ぎょっとした。「奥様、どうかなさいましたか?」そう言われ奈緒は、なんとか笑顔を作って答えた。「なんでもないの。お腹が空いちゃって。温かいうどんかなんかを作ってくれる?」そして、香織から赤ちゃんを受け取ると、奈緒の荒れ果てた心は、そのあどけない寝顔を見てようやく落ち着きを取り戻した。