Alle Kapitel von 捨てられた下女は謎多き下官に溺愛される: Kapitel 11 – Kapitel 20

45 Kapitel

放浪

門兵に肩を乱暴に掴まれた瞬間、梅鈴の身体は軽い布切れのように外へ放り出された。乾いた地面に叩きつけられ、転がるように倒れ込む。肺の奥に溜まった砂埃が咳となってこぼれ、視界が揺れた。それでも、彼女は必死に膝をつき、震える指で地を押して立ち上がろうとする。だが、その背後で――まるで彼女の存在など初めからなかったかのように、巨大な門は無情な音を響かせて閉ざされていった。「そんな……」かすれた声が漏れた。梅鈴は縋るように門へ駆け寄り、拳を何度も叩きつける。薄い皮膚が痛みで痺れ、骨に響く衝撃が涙を誘った。「お願いです……! どうか……門を開けてください……!」叫びは風にさらわれ、石壁に吸い込まれ、誰の耳にも届かない。返ってくるのは、冷えた鉄の沈黙だけだった。やがて拳を振り下ろす力さえ失われ、梅鈴は門に額を押し当てた。閉ざされた扉の向こうに残してきたものの重さが、胸の奥で静かに崩れ落ちていった。泥に汚れた頬を、一筋の涙がゆっくりと伝い落ちた。張りつめていた糸がぷつりと切れたように、梅鈴はその場にしゃがみ込む。夕暮れの光は容赦なく長い影を地面へ引き伸ばし、まるで彼女の孤独そのものを映し出しているかのようだった。どれほどの時が過ぎたのだろう。風が冷たさを帯び、空の色が紫に沈む頃になって、ようやく梅鈴はゆっくりと顔を上げた。重い身体を引きずるように立ち上がり、一歩、また一歩と歩き出す。足取りは頼りなく、影は揺れ、胸の奥では小さな声が震えていた。(これから……どうすればいいの……)追放されたその身には、守る家も、帰る場所も、小銭ひとつさえ残されていない。あるのは、冷えた風と、暮れゆく空と、そして――歩き続けるしかないという、残酷なほど静かな現実だけだった。西の空は、燃え残った焔のように朱を抱き、その縁からゆっくりと紫が滲みはじめていた。光は弱まりながらも、最後の力で世界を照らし、長く伸びた影たちを静かに揺らしていく。風がひとすじ、乾いた土の匂いを運び、遠くで鳥が巣へ帰る羽音だけが、沈みゆく時刻の静けさを破っていた。空気はどこか温かく、どこか冷たく、昼と夜の境目が曖昧に混ざり合う。その狭間に立つ梅鈴の姿は、まるで夕暮れそのものに溶け込んでしまいそうだった。光が薄れれば薄れるほど、彼女の影は細く、長く、頼りな
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出会い

「……おい、お前。こんなところで何をしている」膝を抱え、身じろぎもせず座り込んでいた梅鈴は、不意に落ちてきた声に小さく肩を震わせた。ゆっくりと顔を上げると、薄闇に沈みゆく川辺に、役人の衣をまとった若い男の姿が立っていた。「まもなく日が暮れるぞ」男は周囲を一瞥し、眉をひそめる。「ここらは酔っ払いも泥棒も多い。娘が一人でいる場所じゃない。早く家に戻れ」その声音は叱責というより、どこか気遣いの色を帯びていた。だが梅鈴の胸には、その優しさすら鋭く触れた。こらえ込んでいた涙が、堰を切ったように頬を伝い落ちる。夕風が彼女の髪を揺らし、沈みゆく陽がその涙を淡く照らした。帰る家など、もうどこにもない――その事実だけが、胸の奥で静かに疼いていた。「ど、どうした――?」突然涙をこぼした梅鈴に、若い役人の男は思わず声を裏返らせた。その驚きは叱責ではなく、ただ純粋な戸惑いと心配から滲み出たものだった。「帰りたいのですが……帰れないのです」震える声で絞り出された言葉に、男は息を呑む。彼はゆっくりと膝を折り、梅鈴の目線まで身をかがめた。夕暮れの薄明かりの中、その瞳だけが真っ直ぐに彼女を映している。「どういうことだ」「何かあったのか」低く、しかし柔らかい声だった。追及ではなく、寄り添おうとする気配がそこにはあった。梅鈴はその視線に触れた瞬間、胸の奥に押し込めていたものがほどけていくのを感じた。誰にも言えなかった不安も、行き場のない孤独も、すべて見透かされたようで――だからこそ、涙は止めようとしても止まらなかった。ようやく呼吸を整えた梅鈴は、膝の上で握りしめた指をほどき、ぽつり、ぽつりと、途切れがちな声で語り始めた。「……わたしは、お嬢様の下女として、後宮へ参るために帝都へ連れてこられました」その言葉は、長い旅路の埃をまとったまま、静かに地面へ落ちていく。「けれど……後宮では、身なりの貧しさを咎められ、 持ち物も何もかも取り上げられて……身一つで追い出されました」声は震えてはいない。ただ、あまりに淡々としていて、かえって胸に刺さる。「行くあてもなくて……どこへ向かえばいいのかも分からず…… 気づけば、歩いて、歩いて……」語るたびに、男の顔つきがわずかに変わっていく。眉間の皺は深く、唇は固く結ばれ、まるで梅鈴の言葉が一つ落ち
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名前

「酷い話もあるものだな」ため息とともに落とされたその一言は、夜気に溶けるより先に、梅林の胸へ重く沈んだ。男はしばし言葉を探すように視線を伏せ、やがて低く続けた。「本来なら、身なりを整え、多少の金子や衣を持たせて送り出すものだ。それを――」言葉の先を噛み殺すようにして、男は唇を結んだ。怒りとも哀れみともつかぬ感情が、その横顔に影を落としている。やがて彼は梅林の方へ向き直り、静かに問いかけた。「お前……これからどうするつもりだ。今夜、身を寄せるところはあるのか」その声音は責めるでも詮索するでもなく、ただひたむきに彼女の行く末を案じていた。だが梅林は、首を横に振ることしかできなかった。振るたびに、心の奥で何かがきしむように痛んだ。夜の気配が濃くなるほど、彼女の孤独は輪郭を増していく。それでも、目の前の男の言葉だけが、かろうじて彼女を闇から引き留めていた。男はしばし思案するように視線を伏せ、それから静かに手を伸ばした。「ついてこい」差し出された掌は、荒々しさとは無縁の、どこか温度を帯びたものだった。梅林はその手を前に、ほんの一瞬だけ身をこわばらせる。見知らぬ男について行くなど、本来ならばあってはならないこと――(本当に、この人について行ってもいいのかしら…)胸の奥に小さな影がよぎる。だが、恐る恐る指先を重ねた瞬間、彼女の中の迷いは不思議と薄れていった。男の掌は思ったよりも力強く、そして優しかった。立ち上がった梅林の前を歩き出す男の背中は、夕闇の中で大きくも小さくも見えた。けれど、その歩みに悪意の影はどこにもない。むしろ、彼の存在そのものが、迷子の心を導く灯火のように思えた。なぜだろう――初めて会ったはずなのに、彼が悪人にはどうしても見えなかった。 廃れた町外れに沈む夕光の中、梅鈴はおずおずと問いかけた。「あなたは……お役人様ですか」その声音に、若い男は喉の奥でからりと笑い声を転がした。「まあな。とはいえ貧乏貴族の末っ子で、役人と名乗るのも気が引ける下っ端の下官だよ」気取ったところのない笑みを浮かべ、男は続けた。「俺は陽光。お前の名は」「わ、私は……梅鈴と申します」「梅鈴か。いい名だな」その一言は、彼女の胸の奥にそっと触れた。これまで誰からも与えられたことのない、温かな肯定。名を呼ばれるたびに疎まれ、
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つぎはぎだらけの衣

陽光は、梅鈴を下町の外れに佇む小さな食堂へと導いた。古びた建物は年季を感じさせるものだったが、どこか暖かくも感じた。建付けの悪い木の扉は、長い年月を吸い込んだように重く、押し開けると微かな油と薬味の香りがふわりと漂う。昼下がりの店内は静まり返り、客の姿はひとつもない。「李婆、いるか!」陽光は奥へ向かって声を張り上げた。「そんな大声を出さなくても聞こえてますよ」帳場の奥から、ゆっくりとした足取りで初老の女が現れた。白髪をひとつに束ね、皺の刻まれた目元には、長年この店を守ってきた者だけが持つ穏やかな強さが宿っていた。陽光は、ふいに「李婆」と呼ばれる老女へ深々と頭を垂れた。「李婆。今夜、この娘を泊めてやってほしい」その声音には、どこか頼み慣れた気安さと、梅林を気遣う真剣さが同居していた。李婆は驚きもせず、長年の諦めを含んだため息をひとつこぼす。「まったく……犬や猫だけじゃなく、今度は人間の娘まで拾ってくるとはね」そう言いながら、ゆっくりと梅林へ視線を移す。老いた瞳は鋭くも温かく、梅林の全身を一度で見抜いた。「まあ……なんて小汚いんだい。まるで山猿じゃないか」その言葉に、陽光が堪えきれず吹き出す。「おいおい。若い娘に山猿はひどいだろう」李婆は梅林に手招きをした。「おいで。中庭で洗ってやるよ」「……あ、ありがとうございます」梅林は陽光に深く礼をし、李婆とともに奥へと消えていく。その小さな背中には、長い旅の埃と、ようやく辿り着いた安堵の気配が静かに揺れていた。「陽光さん……そろそろ戻る時間だろうよ」李婆の声は、叱るでもなく、ただ長い年月の重みを帯びた柔らかな諭しだった。陽光は一瞬だけ迷うように目を伏せ、それから静かに頷く。「……そうだな。李婆、梅林を頼む」短い言葉に、彼の不器用な優しさが滲む。陽光は店の戸口へ向かい、振り返ることなく外気の冷たさへ身を滑らせた。夕闇が街路をゆっくりと沈めていく。陽光はその中を歩きながら、胸の奥でそっと呟く。(明日……また様子を見に行ってみよう)足取りは軽くも重くもなく、ただ静かに、思いを抱えたまま家路へと続いていった。中庭には、古い井戸と小さな菜園が寄り添うように並び、脇にはニワトリとヤギの小屋がひっそりと身を寄せていた。李婆は井戸のそばに椅子を引き寄せ、梅林をそっと座
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美しい髪

梅鈴が冷たい水を浴びた瞬間、春先の夕暮れの風が肌を撫で、ひやりとした感触が骨の奥まで染みわたった。だが、その冷たさは彼女にとって日々の営みの一部にすぎない。洗い清められた身体に、李婆から借りた古着をそっとまとったとき、ふと胸の奥が温かくなる。(古いけれど…なんて上等な仕立てなの)指先に触れる布は柔らかく、まるで長い旅路の末にようやく見つけた安らぎのようだった。帯をきゅっと締め、姿勢を整えて李婆の前に歩み出る。「上等なお着物を貸していただいて、ありがとうございます」深く頭を下げる梅鈴を、李婆はしばし無言で見つめた。(…こりゃあ驚いた)つい先ほどまで“山猿”と揶揄されていた面影は、どこにもない。そこに立っているのは、洗いざらしの黒髪を夕風に揺らし、澄んだ瞳をまっすぐ向ける、ひとりの美しい少女だった。粗末な暮らしの影は跡形もなく、まるで水面から姿を現したばかりの清らかな精霊のように。籠の外では夕靄がゆるやかに立ちのぼり、李婆はその気配を愉しむように喉の奥でくっくと笑った。(明日陽光さんがあの娘を目にした時こそ見ものだよ)老いた声はどこか含みを帯びていた。「おいで、梅鈴。髪に香油を塗ってあげようね」李婆の節くれだった指が、梅鈴の黒髪をそっとすくい上げる。香油が温められたようにほのかに香り、指先が髪を滑るたび、夜の水面のような艶が静かに広がっていった。「こしがあって、なんて豊かな髪だろうねぇ」李婆はうっとりと目を細め、まるで宝物でも撫でるようにその髪を眺めた。「そんなふうに言われたの……はじめてだわ」梅鈴の声は驚きと、かすかな照れが混じり合い、胸の奥でそっと震えていた。李婆のこしらえた素朴な夕餉を挟み、梅鈴と李婆は、湯気の立つ椀の向こうで、ぽつりぽつりと身の上を語り合った。梅鈴の言葉に、李婆はただ相槌も打たず、長い歳月をくぐり抜けた眼差しで静かに耳を傾けていた。やがて、湯飲みを口に運びながら、李婆はふう、とひと息ついて問いかけた。「それでお前さん……これから、どうするつもりだい」その声音には、詮索ではなく、ひとりの娘の行く末を案じる温かさが滲んでいた。梅鈴は膝の上で指をぎゅっと結び、小さく息を吸ってから答えた。「どこかで仕事を探して……故郷へ戻る旅費を、少しずつ貯めるつもりです」その言葉は、決意というよ
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居場所

茶椀を置く李婆の指先は、長年の働き者らしく節くれ立ち、しかしどこか寂しげに見えた。「…あたしももういい年でねぇ。最近は腰が痛くて、仕事も思うようにいかないんだよ」ぽつりとこぼれた声は、湯気のように淡く揺れ、梅鈴の胸に染み入った。李婆はゆっくりと顔を上げ、まっすぐ梅鈴を見つめる。「もし、あんたさえよけりゃ…旅費が貯まるまで、この店を手伝ってくれないかい?」思いがけない言葉に、梅鈴は反射的に椅子を蹴るように立ち上がっていた。「い、いいのですか…?」声が震え、胸の奥が熱くなる。李婆は肩をすくめ、照れ隠しのように笑った。「たいした駄賃は払えないよ。けどまあ、部屋は余ってるしね。寝る場所くらいはあるさ」その言葉は、荒野に落ちた一粒の灯火のようだった。行き場を失った少女の心に、ようやく“居場所”と呼べる温もりが灯る。梅鈴は胸の前で手をぎゅっと握りしめ、深く頭を下げた。「…ありがとうございます。わたし、精一杯働きます」李婆は「まったく、律儀な子だよ」と呟きながらも、どこか嬉しそうに目を細めた。店の二階──李婆の住まいへ続く急な階段を上りきると、古い木の匂いがふわりと漂った。李婆は北側の扉の前で足を止め、建付けの悪い戸をぐっと押し開ける。中は薄い埃が舞い、古道具や布包みが積み上がっていた。「ここは物置にしてる部屋なんだがね……しばらく、ここを使っておくれ」梅林は戸口で一瞬ためらい、そっと足を踏み入れた。李婆が「明日中には片付け──」と言いかけたその時、梅林が小さく息を呑む。「……こんな立派な部屋を、本当に私が?」李婆は思わず言葉を失った。物置同然のこの部屋を“立派”と言われるとは思ってもいなかったのだ。梅林は部屋を見回し、子どものように弾んだ声をあげる。「だって、すごいわ。壁に隙間がないんですもの!風が入ってこなくて暖かいし、雨漏りの心配もない。それに……寝台まであるなんて」彼女は寝台にそっと触れ、振り返る。「李婆さん。この寝台、本当に私が使ってもいいの?」その瞳は、長い旅路の果てにようやく見つけた“安全な場所”を確かめるように揺れていた。李婆はそのまっすぐな喜びに胸を突かれ、ほんの少しだけ視線をそらす。「……好きにおし。婆さんの古い寝台でよけりゃね」はしゃぐ梅林の姿を見つめながら、李婆の胸には言いようのない複雑な
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変貌

翌朝。李婆は、鶏の甲高い鳴き声に背中を押されるようにして目を覚ました。寝台の縁に手をつき、ゆっくりと身を起こす。白髪を指先で整えながら櫛を通していると、階下から微かな物音が立ちのぼってきた。こんな早い刻限に――と眉をひそめ、階段を降りる。朝の薄明かりが差し込む食堂では、梅鈴がひとり、黙々と箒を動かしていた。その姿は、夜露を含んだ若木のように慎ましく、どこか凛としている。李婆は思わず足を止めた。静かな朝に響くのは、箒が床を掃く柔らかな音だけだった。「あっ、おはようございます」梅鈴は朝の光を受けてぱっと顔を上げた。「あんた……こんな夜明け前から何をしてるんだい」眠気を押しやりながら李婆が声をかけると、梅鈴は箒を握ったまま、不思議そうに首をかしげた。「何って……店の掃除です。故郷では日が昇ると山へ薪拾いに行ってましたから。都では、どこへ拾いに行けばいいんでしょうか」そのあまりに素朴な問いに、李婆は思わず口元をゆるめた。「ここではね、薪は拾うもんじゃないよ。買うものさ」そう言って、彼女は肩をすくめながらも、山の暮らしがまだ身体に染みついた娘をどこか愛おしげに見つめていた。店の掃除を終えると、梅鈴はためらいもなく家畜小屋へ向かい、餌をやり、水桶を抱えて井戸へと歩き出した。その一連の動きには、無駄がひとつもない。まるで身体そのものが“働く”という営みに馴染みきっているかのようだった。李婆は、軒先に腰を下ろしながらその姿を静かに見つめていた。(ほんとに、よく働く娘だねぇ)感心というより、どこか胸の奥を温めるような思いが滲む。井戸の滑車がぎぃ、と鳴り、冷たい水面が桶の縁に揺れる。梅鈴はその重みを両腕に受け止め、息を整えながら運び出した。その表情には苦しさも不満もなく、ただ淡々と、しかし確かな誠実さだけが宿っている。彼女にとってこれは、田舎で過ごした日々となんら変わらない“いつもの仕事”だった。湯気の立つ鍋が静かに煮え、炊きたての飯の香りが店内に満ち始めた頃、まるでその瞬間を待ち構えていたかのように、陽光が店先へ姿を現した。「梅鈴。昨日はよく眠れたか」勢いよく戸を押し開け、軽やかな足取りで踏み込んだ陽光。だが、振り返った梅鈴の姿を目にした途端、その動きはふっと止まった。目の前に立つ少女を見た瞬間、陽光の胸中で
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故郷

湯気の立つ鍋の香りがまだ店内に残るなか、梅鈴は小鹿のように弾む足取りで陽光へ駆け寄った。「陽光さん!ここで働かせてもらえることになったんです!」その声は、朝の光をそのまますくい取ったように明るく澄んでいた。振り返った陽光は、思わず息を呑んだ。昨日まで旅塵をまとっていた少女が、まるで別人のように凛として立っている。髪は李婆に整えられ、香油のほのかな甘い香りが、梅鈴の動きに合わせてふわりと揺れた。「そ、そうか……よ、よかったじゃないか、梅鈴」言葉を返しながらも、陽光の視線は彼女の変化に追いつけず、戸惑いが胸の奥で静かに波紋を広げていく。梅鈴はそんな陽光の心の揺れに気づくこともなく、ただ嬉しさを抱えきれない様子で微笑んだ。その笑みは、昨日までの不安を洗い流し、新しい居場所を得た少女の輝きそのものだった。陽光が戸口をくぐったその瞬間、奥の薄闇から李婆のくぐもった笑い声が転がり出た。「おやまあ、陽光さん。おはようさんだね」皺の刻まれた頬をにやりとゆるませながら、李婆は湯気の向こうから姿を現した。その視線に含まれた“何かを見透かすような色”に気づき、陽光は胸の鼓動を悟られまいと、わざとらしいほど平静を装う。「あ、ああ……李婆。梅鈴を雇うことにしたって?」声は落ち着いているはずなのに、どこか喉の奥でつまずくような硬さがあった。李婆は肩をすくめ、まるで当たり前のことを告げるように言う。「そうさね。旅費が貯まるまで、店の二階で寝泊まりしてもらって、 その間は店を手伝ってもらうつもりだよ」  李婆はふと梅鈴へ視線を向け、柔らかく顎をしゃくった。「梅鈴、奥で湯を沸かしておくれ。陽光さん、どうせ朝飯を食べていく
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李婆の古着

李婆は、湯気のように静かに言葉をつづけた。「……おかしいとは思っていたんだよ。あんなに気立てのいい娘が、身ひとつで追い出されるなんてさ。たとえどんな粗相があったとしても、見知らぬ街へ銭の一つも持たせず放り出すなんて……」老女の声には、長年の世渡りで培った勘と、理不尽を許さぬ強さが滲んでいた。「新皇帝の後宮の期先候補ともあろう女人がする処遇じゃないさ」その言葉が落ちるたび、陽光の胸に小さな棘が刺さる。彼は視線を逸らし、苦笑にもならない息を漏らした。「……ああ。まったく、その通りだな」陽光の返答は短いが、その奥には言い訳も弁解もできない重さが沈んでいた。(李婆の言う通りだ……後宮に、ああいう女が紛れ込んでいるのは確かに問題だな)陽光は眉間に指を当て、思考の底へ沈んでいった。その沈黙を破るように、廊下の向こうから軽やかな足音が近づく。梅鈴が盆に湯気の立つ茶をのせ、そっと戻ってきた。その姿を見た瞬間、陽光の視線は自然と彼女の着物へ吸い寄せられる。「……梅鈴、その着物は……?」問いかける声には、驚きと、どこか言葉にできない感情が混じっていた。梅鈴はぱっと顔を明るくし、袖をふわりと揺らしてみせる。「李婆さんが貸してくださったの。とても素敵でしょう?私なんかが袖を通すのはもったいないくらいの上等品よ」梅鈴が嬉しそうに袖を広げてみせると、陽光はふっと目を細めた。その仕草は、まるで眩しいものを見つめるときのようだった。確かに——昨日の、ぼろぼろで継ぎ当てだらけの着物に比べれば、今日の装いは幾分ましなのかもしれない。だが、くすんだ鶯色に地味な柄が施されたその着物は、若い娘が胸を張って自慢するような華やぎとは程遠い。それでも、その地味さを押しのけるように、彼女の美しさだけが際立っていた。淡い光を受けた横顔は、着物の色をも塗り替えるほどに清らかで、袖を揺らすたび、春の風がそっと触れたかのように周囲の空気がやわらぐ。陽光は思わず息を呑む。着物が彼女を飾っているのではない。彼女が、着物そのものに命を吹き込んでいるのだ。「おい、李婆。もっと若い娘が着るような装いはないのか。梅鈴には、もっと華やかな色の方が似合うだろう」陽光がそう言った瞬間、店の空気がぴたりと止まった。次の刹那——李婆は腹の底から吹き出すように笑い声をあげた。
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初めての菓子

朝食を終えると、陽光は静かに腰を上げ、店の出口へと歩みを向けた。 「また来るよ、梅鈴。早く故郷に戻れるといいな」 振り返りざまにそう告げると、梅鈴はぱっと花が開くように微笑んだ。「ありがとう、陽光さん。こんな良い場所に連れてきてもらえて……こんな幸せなことはないわ」 深々と頭を下げるその姿は、まだ朝の光に濡れた若葉のようにまっすぐだった。だが、その言葉は陽光の胸に重く沈んだ。 (……こんな場末の、煤けた食堂が“良い場所”だと?) 心の奥で呟いた瞬間、昨日の光景が脳裏に浮かぶ。 李婆の古着を嬉しそうに抱え、袖を通してはしゃいでいた梅鈴―― その無垢な喜びが、陽光には痛ましく映った。胸の奥で、鈍い痛みがじわりと広がる。 彼女の笑顔が眩しいほど、世界の残酷さが際立つようで、陽光は目を伏せた。「それじゃあ、お仕事頑張ってね」 陽光が軽く手を振ると、梅鈴は朝の光を受けてほころぶように笑い、その背を見送った。 やがて姿が角を曲がって消えると、彼女はそっと息をつき、店内へ戻って後片付けに取りかかった。皿を重ね、桶に水を張り、中庭の井戸へ向かう。 井戸の滑車がぎぃ、と鳴り、冷たい水が器に満ちる。 梅鈴は袖をまくり、指先に水の冷たさを感じながら、ひとつひとつ丁寧に洗い上げていった。すべてを洗い終えると、濡れた手を軽く払って李婆のもとへ戻る。 「李婆さん。片付け終わりました。次は何をすればいいですか?」李婆は手にしていた盆を小さな机に置き、ふっと目元を緩めた。 「ああ……店を開けるまでには、まだ時間があるよ。すこしゆっくりしておいで」その声音には、働き者の娘を気遣う、年長者ならではの温かさが滲んでいた。 中庭には、朝の風がそよぎ、井戸の水面が静かに揺れている。机の上には、湯気の立つ茶碗が二つと、小皿に盛られた菓子がそっと置かれていた。 梅鈴の視線は、その菓子に吸い寄せられるように釘づけになる。「それは……何? 李婆さん」 思わず漏れた声は、まるで宝物を見つけた子どものようだった。「豆沙包という菓子だよ。食べたことないのかい?」 李婆は盆を置きながら、目尻をやわらかく下げる。「初めて見たわ……なんていい匂い……」 梅鈴の瞳は、朝露を含んだ星のようにきらきらと輝いていた。 その素直な驚きと喜びに、李婆は思わず苦笑し、皿を梅鈴の
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