Semua Bab 婚約者を奪った妹が泣き崩れた夜、御曹司は私に跪いた: Bab 51 - Bab 60

68 Bab

第51話 知らなかったという言い訳

 名前を呼ばれても、昔みたいに胸は動かなかった。  ただ、少し疲れた。 「君なら分かってくれると思った。白鳥家も、有馬家も、今崩すわけにはいかない。莉々花はまだ若くて、不安定で……」 「私も、二十二歳でした」  悠真の口が閉じた。 「母の部屋を壊されて、婚約者を妹に譲れと言われて、私が母の遺産を盗んだとまで書かれました。私なら、何をされても平気だと思ったんですか」 「そういう意味じゃ」 「だったら、どういう意味ですか」  会議室の空調が、低く鳴っている。  悠真は答えなかった。征臣も口を挟まなかった。  私はバッグから、新聞社の出資資料を出した。莉々花と瀬里奈と悠真の名前に、細い付箋が貼ってある。 「知らなかったという言葉を、あと何回使うつもりですか」  悠真の視線が、付箋の一つで止まった。  莉々花の名前だ。  紙の上で、彼の指が初めて震えた。 「莉々花さんが、情報提供者?」  悠真の声は、思っていたより小さかった。  否定でも、怒りでもない。手に持っていたものを落としかけた人の声だった。 「まだ候補です。決めつけません。残っているものを確かめます」  そう言いながら、紙を一枚めくる。  候補、という言葉は便利だ。責任をぼかすのに使える。だから、私はその便利さに逃げないよう、資料の端を指で押さえた。 「ただ、記事に出た母の遺品名を知っていた人は限られます。白鳥家の中でも、母の部屋に出入りできた人」 「莉々花は……」  悠真は何かを言おうとして、視線を落とした。 「彼女は、君と仲直りしたがっていただけだ。そう聞いていた」 「悠真さん」 「本当だ。僕には……そう言ってたんだ」 「あなたには、見たいように見せていたんですね」  返した瞬間、悠真の顔から血の気が少し引いた。  可哀想だとは思わなかった。けれど、痛くないわけでもない。私が何年も見なかったものを、彼もいま初めて見ている。  莉々花の泣き顔には、いつも決まった角度がある。  袖を掴む強さを知っている。  誰の前で、どの声を出せばいいかを知っている。  知らないふりをしていたのは、私だけではなかったらしい。 「澪、僕は」 「謝るなら、記事を止めてからにしてください。今は順番が違います」 「止める。必ず」 「そうじゃない」  悠真が顔を上げ
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第52話 莉々花を見る目

 その顔が好きだった時期もある。 でも今は、もう整えない。「澪、君は変わったな」「いいえ」 水のグラスを、かすかに向こうへ押した。「今まで黙っていた分を、口に出しているだけです。あなたが見ていなかっただけで」 悠真の視線が、私の左手で止まった。手袋の端から、包帯の白が少し見えている。「その手」 咄嗟に袖を引いた。 征臣が、斜め後ろで椅子を引く音がした。立ったわけではない。ただ、空気だけが低く変わる。 悠真もそれに気づいたらしい。背筋を少し伸ばした。「……莉々花が、君は大げさだって言っていた。僕も、その言葉に甘えた」 今度は、私ではなく征臣の手が止まった。空気が低く沈む。悠真はその沈黙に気づき、言ってはいけないことを言った顔になった。「今の、莉々花さんの言葉ですか。それとも、あなた自身の言葉ですか」「……分からない」 悠真は自分の指を見た。婚約指輪を選んだ時、莉々花が見せた涙を思い出しているのかもしれない。「僕を見て泣いたことなんて、一度もなかった気がする」 情けない声だった。私へ向ける謝罪でも、莉々花への怒りでもない。自分が選ばれた男ではなかったと、ようやく認めかけた男の声。「それを、今ここで私に慰めてもらいたいんですか。私を見なかった人が」 悠真の顔が歪んだ。けれど反論は出てこなかった。 会議室を出るころには、袖口が汗で少し湿っていた。 悠真の最後の言葉は、まだ耳に残っている。莉々花が、私の火傷を大げさだと言った。そう聞いた瞬間、痛みそのものより、あの子が母の帳簿を燃やしかけた夜を、どんな顔で話したのかを考えてしまった。 廊下の窓に、自分の姿が薄く映る。 青い手袋は上品で、遠目には傷なんて見えない。けれど、手袋の下では、包帯が少しずれている。白い布の端が、肌に擦れていた。「車を回す」 征臣が短く言った。その短さの奥で、止めたい言葉を一つ飲み込んだのが分かった。「大丈夫です」 征臣は返事
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第53話 火傷を隠す袖

「秘書に持たせている」 征臣はそう答えてから、私の袖口へ視線を落とした。「ただ、隠されると、何もできない」 責められたように聞こえて、指先に力が入った。 征臣も自分の声に気づいたらしい。すぐに目をそらす。「今のは、悪かった」「……責められたようには、聞こえました」「そうだな」 言い訳はしなかった。 それで気持ちがほどけるわけではない。けれど、私も反射的に大丈夫だと言って終わらせる気にはなれなかった。 白鳥家では、痛いと言えば大げさだと笑われ、黙っていれば後から面倒を増やしたと責められた。どちらを選んでも、最後には私の落ち度になる。だから、傷を見せる前に隠す癖だけが残った。 征臣は秘書から黒いケースを受け取り、ロビーの隅にあるサイドテーブルへ置いた。「ここに置く。使うかどうかは、君が決めてくれ」 蓋に手をかけることもなく、一歩下がる。 近づかないことまで、わざわざ見せつけるような態度ではなかった。ただ、私が動くのを待つための距離だった。 袖の下で、包帯が肌に擦れた。 傷を見られるのが嫌なのではない。傷を見つけた人に、かわいそうだとか、守らなければならないとか、私の知らないところで意味を決められるのが嫌だった。 征臣がそうする人ではないと、頭では分かり始めている。それでも、身体はまだ白鳥家にいた頃の順番で動く。 それでも、火傷は放っておけない。今さら癖を変えられるかは分からない。それでも、任せる前に自分で選びたかった。 私は黒いケースを自分の方へ引き寄せた。 留め具を外すと、絆創膏、軟膏、消毒綿、包帯、小さなはさみが隙間なく収まっていた。ホテルのロビーで開くには、妙に本格的だ。「本当に持ち歩いていたんですね」「使うのは今日が初めてだ」「それは、よかったと言うべきですか」「たぶん違う」 思わず、息がわずかに漏れた。 征臣は笑わなかったが、張りつめていた眉間がほんの少し緩んだ。 私は手袋の縁に指をかけた。 青い
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第54話 薬箱だけが置かれる

 白いカーテンが、視界の端で揺れた。  金属のベッド柵。薄い掛け布団。窓際の花瓶。父が病室へ入るたび、母ではなく腕時計を見ていた横顔。  ここはホテルのロビーだ。  分かっているのに、息が入ってこない。 「澪」  遠くで征臣が呼んだ。  テーブルの上を、グラスがゆっくり滑る。彼が指で押し、私の前まで寄せて止めた。  手を握られるより、その動きの方が今はありがたかった。触れられれば振り払ったかもしれない。けれど、放っておかれたら、それはそれで怖かった。  視界の端で、征臣の指が一度カフスへ触れる。何か言おうとしてやめた時の癖だと、いつの間にか覚えていた。 「水」  短い言葉だった。  グラスを持つと、縁が歯に当たった。一口飲み込むまでに時間がかかる。  ロビーの照明は暖かい色をしているのに、記憶の中では病室の白さばかりが広がった。母の呼吸は浅く、ベッドの横には触れてはいけないと言われた薬が並んでいた。子どもの私には、どれが必要で、どれが不自然なのか判断できなかった。  ただ、瀬里奈さんが来た日は、いつもより甘い匂いがした。  子どもの私は香水だと思っていた。今、消毒綿の奥から似た甘さが立つ。勘違いかもしれない。そう思っても、病室の白いカーテンまで一緒に浮かんだ。 「この匂い……母の病室に似ています」 「消毒液か」 「たぶん。でも、少し違うような」  征臣は薬箱のそばに立ったまま動かなかった。 「医者は」 「呼ばないでください」  強い声が出た。  彼は一度だけ頷いた。  そのまま離れもしない。近づきもしない。私が次に何をするか分からないまま、そこにいる。待たれていることに慣れていないせいで、その沈黙まで落ち着かなかった。  説明を求められないことに、肩の力が少し抜ける。病院が怖いのか、知らない人に触れられたくないのか、自分でもまだ分からなかった。  軟膏を取り出し、片手で蓋を回す。指が滑り、小さな蓋がテーブルを転がった。  征臣の手が動き、途中で止まる。 「取っても?」  私は蓋から手を離した。  彼はそれを拾い、私の手元には戻さず、テーブルの端へ置いた。  傷へ軟膏を塗ろうとする。だが、利き手を傷めているせいで、狙った場所に指が届かない。包帯の端だけがまた汚れた。  征臣は口を挟まない。  黙ったまま見
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第55話 手を差し出すまで

 征臣はすぐには触れなかった。 向かいの椅子を引き、薬箱を自分の側へ寄せる。金具の触れ合う音が、やけに大きく聞こえた。 私は差し出した手を引きたくなり、膝の上の左手でスカートをつまんだ。 消毒綿の袋が開く。 冷たい綿が傷へ触れた途端、指先が跳ねた。「痛いか」「少しだけ」 征臣の手が止まる。「そのままで。……止めないでください」 征臣は返事をせず、触れる力だけをさらに軽くした。 包帯を外した傷は、赤黒く細い線を残していた。大げさに騒ぐほどではない。けれど、触れられるたびに、暖炉の熱と焦げた紙の匂いが戻る。 征臣の親指が、私の手首へ近づきかけて止まった。さっき伝えたわけでもないのに、そこには触れない。私が手を引かなかったことを確認してから、傷の周りだけを拭いていく。 礼を言おうとして、やめた。今ここで必要なのは、彼の行動を褒めることではない気がした。 その慎重さが、かえって落ち着かない。「そんなにゆっくりでなくても」「急いで痛ませる理由はない」 返し方は相変わらず愛想がない。それが少しおかしくて、張りつめていた指から力が抜けた。 征臣は私が笑った理由を聞かなかった。 包帯を巻く間、二人とも黙っていた。ロビーを行き交う人の靴音だけが聞こえる。沈黙は気まずかったが、何か正しい言葉を言わなければならない空気よりは楽だった。聞かれないまま、消毒綿の冷たさだけを感じていられる。白鳥家では、傷を見せれば誰かが勝手に大きな意味をつけた。可哀想な娘。面倒な娘。家の恥。 征臣は傷だけを見ている。 それでも、薬の匂いが鼻先をかすめた瞬間、別の景色が開いた。 母の病室。白いカーテン。窓際の花。看護師ではない誰かが、枕元で小さな薬袋を開けていた。 息が止まる。「澪」 呼ばれて、浅く吸った。「その薬……」「軟膏か」「違います。似ているだけかもしれないけど」 征臣は消毒綿を傷から離した。「どこで
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第56話 匂いの記憶

 秘書が持ってきた封筒は、角が少し擦れていた。 母の死亡診断書の写し。 私は巻き直された包帯で封を押さえ、左手で中身を抜いた。「ここ」 余白に薄い鉛筆の跡がある。消されていたが、末尾の数文字だけ残っていた。 さっき嗅いだ薬の名前までは分からない。それでも、病院の正式な記載とは違うことは分かった。「母は、本当に病気だけで亡くなったんでしょうか」 征臣は紙を覗き込まなかった。「調べてみよう」「結果は、私にも見せてください」 征臣は診断書の写しを閉じず、私の前へ戻した。 短い返事に、胸の奥の硬さが少し緩んだ。 数日後、白鳥家と親しい夫人たちの茶会へ出席した。表向きは慈善ガラの反省会。ホテルラウンジの奥には白い花が並び、テーブルにはスパークリングワインが用意されている。 征臣は同席していない。私が断ったからだ。莉々花が私を一人だと思って何をするのか、見ておきたかった。 ただし、本当に一人で来たわけではない。ホテルの責任者には席と時刻を知らせ、ラウンジの映像を消さないよう依頼した。飲み物には口をつけない。異変があれば隣室の警備担当と提携医へ連絡する。征臣には、その条件ならと渋い顔で折れてもらった。 以前の私なら、そこまで準備する自分を疑ったと思う。妹を信じられない冷たい姉なのではないか、と。 今は、疑うことと断定することを分けて考えられる。母の診断書を見たあとでは、何も起こらないことへ期待するだけでは済まなかった。私が警戒を解けば、莉々花は安心する。その安心の中で、また誰かの言葉や持ち物が消える。 私はバッグの中の小さな保管袋へ触れた。診断書の写しも入っている。紙一枚で母の死を決めつけるつもりはない。けれど、目の前の違和感をまた家族の言葉で消されるつもりもなかった。薬箱に入っていた袋を一枚、持ってきている。使わずに終わるなら、それがいちばんいい。「お姉様、飲まれないんですか?」 莉々花が小首を傾げた。「あとで飲むわ」 私の前のグラスだけが、指一本分ほど右へずれている。脚の下には、置かれたばかりにしては広すぎる水滴の輪があっ
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第57話 グラスの位置

「でしたら、私がいただきますわ。疑われたままでは莉々花さんもお気の毒ですもの」  夫人の指がグラスに近づいた瞬間、体の奥が冷えた。疑いを晴らすために誰かが飲む。そんな形で終わらせれば、また本当に見なければならないものだけが消える。  口の中が乾いた。けれど水に手を伸ばせば、目の前の話から逃げたみたいになる。私は唇を湿らせるだけで、冷めたカップから目を離さなかった。  止める声より先に、泡がグラスの中で大きく弾けた。 「待ってください」  声は、思ったより低く出た。  夫人の手が止まる。グラスの縁は、まだ唇に触れていない。泡だけが細く弾けて、甘い匂いがこちらへ流れてきた。  莉々花が小さく笑う。 「お姉様、そこまでなさると失礼ですよ。せっかく皆さまが」 「失礼で済むなら、あとで謝ります」  私は夫人の手元を見た。グラスの脚。右にずれていた位置。底についた水滴の輪。 「そのグラスは、私の前に置かれていたものです」 「それが何だと言うの」  瀬里奈が柔らかく口を挟んだ。声だけは優しい。けれど、扇子を持つ指が少し硬い。 「澪さん。人前で騒ぐ癖は、そろそろ直しましょうね」 「私はまだ、声も上げていません」  テーブルの空気が薄くなる。  征臣はいない。今日、彼を同席させなかったのは私だ。莉々花が私を一人で来たと思うなら、その油断も見ておきたかった。  でも、一人ではない。  私はバッグから小さな透明袋を出した。薬箱の中に入っていた予備の保管袋。使うかどうか迷って、持ってきていたものだった。 「そのグラスには触れないでください。念のため、ホテル側に調べてもらいます」  夫人の顔から色が引いた。 「何か入っているとでも?」 「まだ分かりません。だから、調べます」  分かりません、と言うのは怖い。言い切るより、ずっと心もとない。でも、分からないものを分かったふりで飲む方が怖い。  莉々花が椅子を引いた。 「ひどい。私が何かしたって言いたいんですか」 「言っていません」 「言ってるのと同じです」
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第58話 薬剤名の余白

 ホテルスタッフの確認票には、まだ薬剤名はなかった。 異臭あり。簡易試験で鎮静作用を持つ成分の反応。ただし、正式鑑定までは断定不可。 慎重な言葉ばかりだった。それでも、母の診断書の余白に残った略号と、最初の二文字が重なって見えた。 似ているだけかもしれない。だからこそ、今ここで犯人も薬剤名も決めつけてはいけない。紙に残った不完全な文字を、私は診断ではなく照合すべき手掛かりとして見た。「……白鳥さん?」 グラスを持ちかけていた夫人が、椅子に座り直した。膝の上に置いた手が、小刻みに動いている。さっきまで私を諭す側にいた人の視線が、今はグラスの縁から離れない。「この名前に、心当たりがおありですか」 ホテルスタッフに聞かれ、私はすぐには答えなかった。 言えば、母の死をこの場に出すことになる。言わなければ、グラスの中身はただの疑いで終わる。 莉々花は泣いていた。ハンカチを目元に当てて、肩を震わせている。けれど、袖口だけはテーブルの下へ隠したままだった。「お姉様、怖いです。そんな紙を出して、私を犯人みたいに」「犯人とは言っていません」「でも、そう見せたいんでしょう」 声の震えが、少し早い。 私は診断書の写しをテーブルに置いた。余白の文字が、照明の下で薄く浮く。母の名前が人前にさらされるのが嫌で、左手でそっと隠した。「この名前は、母の診断書の余白にありました」 夫人たちの表情が変わった。 さっきまで私を責めるために整えられていた視線が、一斉に紙へ落ちる。 瀬里奈だけが笑っていた。「偶然でしょう。澪さん、お母様のことで過敏になっているのね」「偶然なら、調べて終わりです」「調べる?」「グラスと、莉々花さんの袖口と、会場の映像を」 莉々花の涙が止まった。 一瞬。目元を押さえていたハンカチの下で、息だけが止まる。 夫人の一人が、そっとスマートフォンを伏せた。録音していたのかもしれないし、誰かに送ろうとしていたのかもしれない。画面の光が消えるだけで、さっきまでの
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第59話 保全された映像

 征臣は私を見なかった。  今の言い回しで、余計な誤解を先に切ったのだと分かった。私が呼んでいないこと。私が一人でこの場に来たこと。征臣の力で騒ぎを作ったのではないこと。  胸の内側の硬さがほどける。  でも、それを顔に出す余裕はなかった。  ホテルスタッフがグラスを保管袋へ入れる。透明な袋の中で、泡がまだ少し弾けていた。袋の口が閉じられる音が、小さく乾いて響く。 「袖口も見せてください」  私が言うと、莉々花はぱっと手首を引いた。 「嫌です。そんなの、屈辱です」 「飲みかけのグラスを他の方に渡すところでした」 「渡したんじゃなくて、あの方が勝手に」  そこまで言って、莉々花は口を閉じた。  夫人の一人が、目を細める。  勝手に、という言葉は優しくない。可哀想な妹なら、被害者の顔だけしていればよかったのに。  瀬里奈がすぐに割り込んだ。 「莉々花は動揺しているだけです。まだ十九歳の子に、こんな大人の詰問を」 「詰問じゃない」  征臣が初めて瀬里奈を見た。 「人が口にするものの話だ」  瀬里奈の笑顔が、薄く貼りついたまま動かなくなる。  私が持ってきた透明袋は、テーブルの上で妙に頼りなかった。たった一枚の薄い袋で、人の悪意を捕まえられるわけがない。それでも、何も持たずに座っていた昨日までの私とは違う。  征臣は私の手元を一度だけ見た。褒めない。慰めもしない。ただ、気づいたという顔だけをして、すぐホテル責任者へ視線を戻す。  そのくらいの距離が、今はいい。  莉々花はその間も泣き続けた。けれど、誰かに抱きつくことはできない。近づいた夫人が、途中で足を止めたからだ。  ホテル責任者がタブレットを持って戻ってきた。画面の中で、白い袖が私のグラスのそばをかすめていた。  保全された映像を見下ろしていると、指先にじわりと力が入った。タブレットの縁を押さえる爪が白くなる。声を荒げれば、今度は私の感情だけが記録に残る。だから黙って、画面の中の白い袖を見た。  そこに映っていた莉々花の手首は、さっきよりずっとはっきり濡れていた。
last updateTerakhir Diperbarui : 2026-07-27
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第60話 白い袖の下

「成分だなんて、まるで毒物みたいな言い方を」 瀬里奈の声が、初めて少し硬くなった。「毒物とは言っていません」 私は診断書の余白に触れた。「母の資料にも、同じ系統を示す略号が残っています」 夫人たちが息を詰めた。 母の死。病死とされたもの。白鳥家の中で、誰も大きな声で話さなかったもの。 その言葉が、ホテルラウンジの白いテーブルの上に置かれた。 夫人の一人が、椅子を引いた。帰ろうとして、立ち上がれずにいる。誰も莉々花を直接責めない。けれど、誰も彼女をかばう言葉を続けられない。 白いテーブルの上に、私の診断書と保管袋に入ったグラスが並んでいた。きれいな花瓶より、その二つの方がずっと重く見える。白い皿の縁に、飲まれなかった泡の影が揺れていた。 莉々花はまだ袖を隠している。袖口ひとつのことなのに、部屋全体がそこを見ていた。 私は自分の呼吸を数えた。一、二、三。母の話をするときだけ、数を頼りにしないと声が乱れそうになる。 莉々花が、ぽつりと言った。「お母様のことまで持ち出すなんて」 お母様。 私の母を、彼女はそう呼んだことがなかった。 いつも、あの人、先の奥様、あなたのお母様。距離を置くための言葉だけだった。 私は顔を上げた。「今、母を何と呼びましたか」 莉々花の目が揺れた。 白い袖の下に隠されたものより、莉々花が急に母を自分の母のように呼んだことの方が胸に刺さった。ずっと「あなたのお母様」と距離を置いていた口で、都合のいい時だけ近づけないでほしかった。 布の端の感触の前で、愛想笑いは出てこなかった。頬がこわばる。その不格好な顔を隠すのをやめて、私は相手を見返した。きれいに笑って許したことにされるのは、もう嫌だった。 瀬里奈の手が、娘の肩に食い込んだ。 莉々花はすぐに笑った。 泣き顔のまま笑うから、頬の上で涙だけが浮いて見えた。「そんな細かいことまで責めるんですか。怖い、お姉様」「責めていません」「責めてるじゃない」 声の端が幼くなる。
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