Semua Bab 婚約者を奪った妹が泣き崩れた夜、御曹司は私に跪いた: Bab 61 - Bab 68

68 Bab

第61話 母を呼ぶ声

 足元のハンカチを拾う人はいなかった。莉々花自身も、落としたことに気づいているはずなのに拾わない。  私は診断書の写しを折りたたんだ。母の名前が見えないように、端を合わせる。  母を、この場の見世物にしたくなかった。  でも、母の死をなかったことにもしたくなかった。  私はバッグの金具を握った。爪が当たり、乾いた音がする。  膝が少し笑った。勝った、と思う余裕はない。グラスの中身が誰かの口に入る前に止められた。それだけを頭の中で繰り返した。  でも、膝にはまだ力が入りにくかった。  莉々花の肩越しに、瀬里奈がこちらを見る。口元はいつもの形のまま、閉じた扇子の骨だけがかすかに軋んだ。  私はその手元から目をそらした。  ホテル責任者が戻ってくる。声を落とし、私と征臣にだけ聞こえるように言った。 「簡易確認では、グラスの縁から該当成分の反応が出ています」  莉々花の視線が、足元に落ちたままのハンカチへ滑った。  何か言えば声が上ずりそうで、私は一度だけ息を吸った。  ホテルを出るとき、空気はひどく冷えていた。  夜ではない。ラウンジの外も、まだ午後の白さが残っている。それなのに、手だけが冷たい。  征臣の車は、ホテルの裏口に回されていた。 「乗れ」  言ってから、征臣は一拍置いた。 「……乗ってくれ。ここでは、記者に捕まる」  言い直したあと、征臣はドアを押さえたまま私の返事を待った。  私は頷いた。  車内に入ると、革の匂いと、彼のシャツに残った柔らかい洗剤の匂いが混ざった。さっきの甘い匂いが鼻に残っているせいで、普通の匂いまで遠く感じる。  膝の上に、母の診断書の写しを広げた。  余白の薬剤名。ホテルスタッフのメモ。グラスの簡易確認。  紙の上では、全部がきちんと並んでいる。私は薬剤名を二度読み、また同じ行へ戻った。  頭の中だけ、順番がつかない。 「澪」  征臣の視線が、二度同じ行を追っていた私の指へ落ちた。 「今じゃなくてもいい」 「今、見ておきたいです。あとから知らされるのは、もう嫌なので」  言ってから、紙の角を押さえ直した。  征臣は何も足さず、車内灯だけを点けた。  私は一瞬だけ彼を見て、また診断書へ戻った。  窓の外では、ホテルの裏口に植えられた木の葉が揺れていた。会場の中ではあれほど息
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第62話 診断書の裏

 母の病室で使われた投薬メモの控え。誰かが診断書と一緒に挟んだまま、コピーにかけたのだろう。 そこに、空白があった。 他の日には薬の名前と時間がある。けれど、母が亡くなる前日の夜だけ、投薬欄が線で消されている。 小さな線だった。 でも、指でなぞると、そこだけ紙の色が違う。消そうとした跡。隠したいものがあった跡。「ここだけ、消されています」 征臣が身を寄せる。近すぎない。けれど、同じ紙を見るには十分な距離。「病院の正式な書類を取る」「それだけでは足りません」 自分の声が小さくなる。「母は、白鳥家の中で亡くなりました。病院へ運ばれたのは、その後です」 車の中が静かになった。 診断書の裏を見た瞬間、指が紙から離れた。笑って受け流せる話ではない。唇の内側を噛むと、血の味がして、ようやく声を低く保てた。 診断書の裏に残った空白が、母の最後の夜をこちらへ向けて開いていた。 鷹宮邸の書斎に戻ると、征臣はすぐに人を呼んだ。 顧問弁護士、医療記録に詳しい調査員、鷹宮財団の医療支援部門にいる担当者。名前を聞いただけで、私の頭はかすかに追いつかなくなる。 でも、説明は短かった。 征臣は余計なことを言わない。私の代わりに怒りもしない。ただ、紙を並べる場所を作る。「澪さん」 調査員の女性が、古いファイルを机に置いた。「お母様の当時の診療記録は、一部が照会可能です。ただし、白鳥家側で保管している私的な看護記録は別です」「私的な看護記録」「ご自宅で療養されていた期間の、投薬や体調変化の控えです」 調査員の声は淡々としていた。ありがたかった。憐れまれたら、たぶん私は紙を見られなくなる。 征臣は部屋の端に立ったまま、全員の話を聞いている。口を挟まない。けれど、調査員が専門用語を続けかけると、短く遮った。「澪にも分かる言葉で説明してくれ」 調査員が少し背筋を正した。 母の部屋にあった棚を思い出す。 細い字で日付を書いたノート。薬の袋を輪ゴムでまとめていた箱。私が触ろうとすると、父がいつも言った。 子どもが見るものではない。 私はもう、子どもではない。「白鳥家に残っている可能性があります」 調査員が言う。 征臣の視線が少し鋭くなった。「白鳥家は、任意では出さない」「でしょうね」 私は机の端に指を置いた。包帯の下の火傷が、じわりと熱
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第63話 空白の投薬欄

 私はその違和感を、もう無視しない。 宮野真理。名前を心の中で呼んでみる。返事はない。けれど、母の部屋に残っていた古い便箋の匂いが、かすかに戻ってきた気がした。 母のそばにいた人なら、母の最後の夜を知っているかもしれない。知っていて、黙らされていたのかもしれない。 ページの端に、見慣れない施設名が印字されていた。 みどり療養センター。「療養センター?」 声に出すと、書斎の空気が少し変わった。 調査員は頷く。「宮野真理さんは退職後、数年ほど所在が不明でした。ただ、最近の住所照会で、この施設の関連資料が出ています」「病気、ということですか」「そこまでは分かりません。入所というより、短期滞在の履歴に近いです」 短期滞在。 逃げ込んだ、という言葉が喉まで上がって、飲み込んだ。 決めつけるのは簡単だ。けれど、母のことは、簡単な言葉にしたくなかった。 征臣がファイルを一枚取る。「面会簿は」「一部だけ。古いものは施設側で保管期限を過ぎています。ただ、出入りの履歴が一件残っています」 調査員の指が、紙の下の方を示した。 来訪者欄に、白鳥瀬里奈の名前があった。 日付は、母が亡くなった翌月。 私は息を止めた。「……母の秘書に、継母が会いに行っていたんですか」「少なくとも、書類上は」 征臣の手が、袖口の手前で止まった。 怒っている。声を荒げない分、指先の動きが硬い。「この資料は保全する」「承知しました。保全を開始します」 調査員が返事をする。 私は紙から目を離せなかった。 母が亡くなったあと、父は言った。宮野さんは体調を崩して辞めた。もう関わりのない人だ、と。 でも、瀬里奈は会いに行っている。 関わりのない人に、わざわざ。 紙の上の瀬里奈の名前は、ひどく丁寧に印字されていた。誰かの人生を隠す書類ほど、外側だけは整っている。 母の秘書。継母。療養センター。三つの言葉が
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第64話 母の名前を呼ぶ人

 みどり療養センターは、都心から少し離れた坂の上にあった。 白い壁。低い植え込み。玄関脇には、雨で色の薄くなった案内板が立っている。病院ほど冷たくはない。けれど、家と呼ぶには静かすぎる場所だった。 受付で名前を告げると、職員の女性が一度だけ私の顔を見た。「白鳥様……」 その声に、何かを思い出したような揺れがあった。 私は背筋を伸ばした。「宮野真理さんに、お会いできますか」「確認いたします。少々お待ちください」 待合室の椅子に座る。 征臣は隣ではなく、少し離れた壁際に立った。来るとは言った。でも、私の前には出ない。 その距離が、今はちょうどよかった。 壁には季節の花の写真が飾られている。古い額の端に、細い傷がある。母の部屋にあった額縁と少し似ていて、手元が落ち着かない。 受付でもらった番号札を握る。薄いプラスチックが、手のひらで少し曲がった。母の名前を聞く前から、もう逃げ場がない気がした。「帰るか」 征臣が低く聞いた。「帰りません」 それ以上は言わない。 ありがたい。けれど、わずかながらずるい。何も言われないと、自分で決めるしかなくなる。 受付の奥から、紙をめくる音がした。誰かが小声で確認している。名前を告げただけで、古い引き出しが開いていくような音だった。 膝の上で、指を重ねる。包帯の端が少しほつれていた。直そうとして、やめた。今は何かを整えるより、崩れるものを見届ける方が先だ。 施設の時計が、かち、と小さく鳴った。待合室にいる人たちは誰もこちらを見ない。それなのに、自分だけが古い部屋の真ん中に立たされている気がした。 母がこの人を頼ったのか。あるいは、この人が母を守れなかったのか。答えはまだ来ない。 廊下の奥から、足音が聞こえた。 ゆっくりした足音。途中で一度止まり、また近づいてくる。 職員に支えられて現れた女性は、私を見るなり、手に持っていたハンカチを握りしめた。 白い髪が混じっている。けれど、目元の線に、覚えがあった。 
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第65話 宮野真理の沈黙

「ここでは、話せませんか」 宮野さんの肩が小さく揺れた。頷くことさえ怖いのか、ハンカチだけをさらに握り込む。 征臣が一歩、前に出ようとした。 私は手を上げて止めた。 彼の靴音が、そこで止まる。「宮野さん」 声が低く出た。怒っているわけではない。震えないようにすると、こうなる。「母のことを知りたいです。でも、無理に話してほしいとは言いません」 宮野さんの目が、ゆっくり私へ戻った。「お嬢様は……奥様と同じことをおっしゃる」「母も、そう言いましたか」「はい。あの方は、いつも……人を急かしませんでした。急いでいらしたのに」 最後の言葉だけ、ひどくかすれた。 みぞおちのあたりで、何かが薄く破れる。母は急いでいた。では、何に追われていたのか。誰に。 聞きたいことは喉まで来た。けれど、今問い詰めれば、この人はまた閉じてしまう。 私は膝の上で指をほどいた。「今日は、お顔を見られただけで十分です」「いけません」 宮野さんが、初めてはっきり首を振った。 職員が驚いたように横を見る。 宮野さんは、ハンカチを胸元に抱えた。銀鈴の刺繍が、彼女の指の間で歪む。「あれは、奥様から……お嬢様にだけ、と」「あれ?」 廊下の奥で、誰かの台車が鳴った。 宮野さんは息を詰め、またカメラを見た。 それから、唇だけをほとんど動かさずに言った。「銀鈴のことは、お嬢様にだけ」 その一言で、胸の奥が小さく痛んだ。母の名前を呼ぶ人が、まだこの施設にいた。 面会時間は、あと十五分で終わると言われた。 宮野さんは職員に支えられて廊下の奥へ戻っていった。背中は小さく、白いカーディガンの肩が片方だけ落ちている。直してあげたいと思って、手が動きかけた。 でも、彼女は振り返らなかった。 受付横の時計が、やけに大きく見える。針が一つ進むたび、母に近づいているのか、遠ざかっている
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第66話 消灯後の談話室

「防犯データと面会簿を残してください。正式な照会は相沢から出します」 征臣の声から、普段の余白が消えた。 職員は一度だけ廊下の奥を見てから、分厚いファイルを胸へ抱えた。 消灯の音楽が流れる。古い童謡をオルゴールにしたような曲で、明るい旋律のはずなのに、白い廊下を余計に寂しくした。 別の職員が私を呼んだ。「宮野様が談話室でお待ちです。お一人で、と」 番号札を握っていた指へ力が入る。「澪」「……行ってきます」「無理なら出てこい。廊下にいる」 大丈夫とは言えなかった。代わりに一度だけ頷いた。 談話室は廊下の一番奥にあった。小さなガラス窓の向こうで、宮野真理さんが丸いテーブルに座っている。向かいの椅子は空いていた。 扉を閉めると、冷めた麦茶と消毒液の匂いが混じった。窓際には葉の薄い観葉植物、壁には手書きの予定表。膝の上の青い布片だけが、その普通の部屋から浮いて見えた。 宮野さんが椅子を示す。「どうぞ、お嬢様」「澪で……お願いします」 言い直すと、彼女の眉が少し下がった。「奥様も、同じことをおっしゃいました。名前で呼んで、と」 椅子を引く手が止まりかけた。母の声を聞いたわけではないのに、喉が熱くなる。 座ってから、テーブルについた細い傷を見た。爪で何度も削ったような跡だった。青い布より、今はそちらの方が見ていられる。 宮野さんは布片を両手で包んだ。「これは、奥様から預かりました」「母が、あなたに?」「ええ。もし、いつかこれを澪様のものではないと言う人が現れたら、渡してほしいと」 その言い方に、すぐ返事ができなかった。 父の声が頭に戻る。家のため。姉なら。誰のおかげで。言葉は違っても、最後には私の名前を小さくする。 宮野さんが布を広げた。 褪せた青いリボン。端は丁寧に始末され、片側だけ切り取られたように短い。 指を伸ばして、途中で止めた。「……触っ
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第67話 青い布片

 宮野さんが、ハンカチの上に別の写真を置いた。 莉々花が政財界の夜会で見せた銀鈴のリボン。調査員が撮影した拡大写真だった。 宮野さんの指が、縫い目を指す。「こちらは、奥様の縫い方ではありません」「分かるんですか」「はい。奥様は、返し縫いの最後だけ、必ず内側へ隠します。癖でした」 私の手の中のリボンを見る。青い糸の終わりが、裏側へ小さく逃げていた。 写真の莉々花のリボンは、そこだけ違っていた。糸の終わりが外へ出て、銀鈴の輪に引っかかっている。 宮野さんは、声を落とした。 糸の終わりだけが、写真と違っていた。小さすぎる違いなのに、目がそこから離れなかった。「莉々花様のものとは、縫い目が違います」 縫い目の違いなんて、知らなければただの糸だ。 けれど一度見えてしまうと、もう戻れなかった。 手の中のリボンと、写真の中のリボン。青の濃さも、銀鈴の大きさも似ている。けれど、糸の終わり方だけが違う。母の癖だけが、片方にない。 先に見た「特別登壇」の通知が頭をよぎった。数日後、とだけ覚えている。 演題はまだ分からない。私は写真のリボンと、手元の布を交互に見た。「莉々花は、これをどこから」 言いかけて、私は口を閉じた。 聞く前に、荒らされた母の部屋が浮かんだ。燃えかけた帳簿と、伏せられた肖像画。 宮野さんは、ハンカチを握った。「奥様の図案箱が、一度なくなったことがありました」「いつですか」「奥様が亡くなられる、少し前です。数日後には戻りました。でも、中の写真が何枚か……」 そこで言葉が切れる。 私は続きを待った。テーブルの傷を見つめる。一本、深いものがある。爪ではなく、金属でつけた傷に見えた。「写真が、なくなっていたんですね」 宮野さんは小さく頷く。「温室で撮った写真です。男の子の顔は写っていませんでした。肩の包帯と、青いリボンだけが写っていました」 征臣の左肩。 征臣の名前は出さなかった。宮野さんも、そこは
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第68話 縫い目の向き

 青い糸の下に、もう一文字、細く縫い込まれていた。 もう一文字は、苗字ではなかった。 菜。 母の名前の最初の字だった。 みお、菜。二つの名が、青い糸の中で寄り添うように隠れている。 指先が動かなくなった。 宮野さんが慌ててハンカチを差し出す。「すみません。おつらいものを……」「そうじゃない」 声は、自分で思っていたより低く出た。飲み込んできたものが、今さら声の形を持ったみたいだった。 怒っていると思われたかもしれない。宮野さんの肩がびくりとした。 私は息を吸い直す。「つらいです。でも、知らないままの方が、もっと嫌でした」 宮野さんの目元がゆがむ。「奥様は、最後までお嬢様を」 言葉がそこで止まった。 私は続きを待った。 けれど、宮野さんはハンカチを握ったまま、言葉を継がなかった。 私はリボンをハンカチの上へ戻した。「宮野さんは、これをどうして今まで」 口にした瞬間、声が硬くなった。宮野さんの肩が縮む。「責めたいわけじゃ」と言いかけて、やめた。そう言えば、余計に責めているみたいだった。 宮野さんは、膝の上で両手を重ねる。指の節が細く白い。「怖かったのです」 小さな声だった。「奥様が亡くなられたあと、白鳥のご当主様から、もう菜月様の名を出すなと。瀬里奈様からは、あなたが余計なことを言えば、お嬢様の居場所がなくなると」 居場所。 その言葉で、母の部屋が浮かんだ。新婚部屋に変えられた、あの部屋。 私は膝の上の手を組み直した。「それで、ここへ」「はい。療養という名目で。逃げたのです」 宮野さんは、唇を噛んだ。「ごめんなさい。私は、奥様も、お嬢様も、守れませんでした」「大丈夫です」が喉まで出て、飲み込んだ。大丈夫ではなかったし、宮野さんにそう言わせるのも違う気がした。 宮野さんの指が、ハンカチの中へさらに沈んだ。「今日、聞いたことは忘れません」
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