前日に陽性を確認した妊娠検査薬を差し出した時、川崎賢斗(かわさき けんと)は鏡の前でネクタイを締めているところだった。最近の賢斗は「研究が忙しい」と何日も家に帰らず、広い家には、ほとんど私、川崎なつめ(かわさき なつめ)ひとりしかいなかった。昨夜も帰宅は深夜で、話す間もなく眠り込んでしまった。「妊娠したの。1ヶ月だって」口にした途端、胸の奥で小さな波紋が広がった。賢斗の手が止まる。鏡越しに視線がぶつかった。「……どうして妊娠なんてしたんだ」私も不思議だった。子どもを望まない彼に合わせ、毎回欠かさず避妊していた。だからこそ、すべての確率をすり抜けて宿ったこの子は、授かるべくして授かった奇跡ではないかと思ったのだ。「私、この子を産みたい」彼は検査薬を一瞥しただけで、軽くため息を吐いた。「なつめ、困らせるな」胸の奥が、すっと冷えた。彼はいつも、聞き分けのない子どもをあやすような口調で私の願いを退ける。唇を動かしたが、言葉は出なかった。彼はネクタイの結び目を整えると、手を伸ばして私の髪を撫で、額に軽く口づけを落とした。「まだ早いうちに堕ろしてくれ。俺の研究計画に、子育てを組み込む余裕はない」声はすぐ耳元から聞こえているのに、まるで水中にいるように思考が遠のいていった。分かっていたはずだった。結婚する時、賢斗はこう言ったのだ。「なつめ、俺はこれからの人生を研究に捧げる。あそこには、生涯追い続けたいものがある。お前と過ごす時間は少なくなる。それでも、一緒にいてくれるか?」恋に浮かれていた私は、彼を一途な人だと思っていた。けれど結婚5年目の今、あの熱はいつの間にか静かに冷めきっていた。そんな孤独な日々の中で授かったこの子に、私はかすかな光を見たのだ。その希望の光を、彼は何のためらいもなく消そうとしている。子どもは研究の邪魔になる。彼にとっては、それだけだった。今、目の前に立つ、相変わらず大人びて落ち着いた彼を見て、私の心は初めて揺らいだ。「ひとりで行けるだろう?」中絶に、ひとりで行けということだろうか。無理に笑い、せめて一緒に来てほしいと言いかけた。「悪い、研究室でまだやることがある。先に行くよ」私は何も言い返せず、何度も頭の中で練った言葉を飲み込んだ。彼は足早に去っていっ
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