Short
研究より弟子を選んだ夫と離婚

研究より弟子を選んだ夫と離婚

By:  夢静かCompleted
Language: Japanese
goodnovel4goodnovel
11Chapters
37views
Read
Add to library

Share:  

Report
Overview
Catalog
SCAN CODE TO READ ON APP

川崎賢斗(かわさき けんと)と、子どもを持たない結婚生活を始めて5年目。思いがけず、私のお腹に小さな命が宿った。 勇気を振り絞って妊娠を告げた私に、賢斗は驚くほど平坦な声で答えた。 「俺の研究計画に、子育てを組み込む余裕はない」 そう言って、迷いもなく中絶を勧めた。 私はお腹の子への未練も悲しみも胸の奥に押し込め、彼の言うとおりにした。 ところが心まで冷え切るような療養生活を送る中、彼は教え子と人目も憚らず抱き合っていた。 やがて、その教え子が大きなお腹を抱え、家にやってきた。

View More

Chapter 1

第1話

前日に陽性を確認した妊娠検査薬を差し出した時、川崎賢斗(かわさき けんと)は鏡の前でネクタイを締めているところだった。

最近の賢斗は「研究が忙しい」と何日も家に帰らず、広い家には、ほとんど私、川崎なつめ(かわさき なつめ)ひとりしかいなかった。昨夜も帰宅は深夜で、話す間もなく眠り込んでしまった。

「妊娠したの。1ヶ月だって」

口にした途端、胸の奥で小さな波紋が広がった。

賢斗の手が止まる。鏡越しに視線がぶつかった。

「……どうして妊娠なんてしたんだ」

私も不思議だった。子どもを望まない彼に合わせ、毎回欠かさず避妊していた。だからこそ、すべての確率をすり抜けて宿ったこの子は、授かるべくして授かった奇跡ではないかと思ったのだ。

「私、この子を産みたい」

彼は検査薬を一瞥しただけで、軽くため息を吐いた。

「なつめ、困らせるな」

胸の奥が、すっと冷えた。彼はいつも、聞き分けのない子どもをあやすような口調で私の願いを退ける。

唇を動かしたが、言葉は出なかった。

彼はネクタイの結び目を整えると、手を伸ばして私の髪を撫で、額に軽く口づけを落とした。

「まだ早いうちに堕ろしてくれ。俺の研究計画に、子育てを組み込む余裕はない」

声はすぐ耳元から聞こえているのに、まるで水中にいるように思考が遠のいていった。

分かっていたはずだった。

結婚する時、賢斗はこう言ったのだ。

「なつめ、俺はこれからの人生を研究に捧げる。あそこには、生涯追い続けたいものがある。お前と過ごす時間は少なくなる。それでも、一緒にいてくれるか?」

恋に浮かれていた私は、彼を一途な人だと思っていた。けれど結婚5年目の今、あの熱はいつの間にか静かに冷めきっていた。そんな孤独な日々の中で授かったこの子に、私はかすかな光を見たのだ。

その希望の光を、彼は何のためらいもなく消そうとしている。

子どもは研究の邪魔になる。彼にとっては、それだけだった。

今、目の前に立つ、相変わらず大人びて落ち着いた彼を見て、私の心は初めて揺らいだ。

「ひとりで行けるだろう?」

中絶に、ひとりで行けということだろうか。

無理に笑い、せめて一緒に来てほしいと言いかけた。

「悪い、研究室でまだやることがある。先に行くよ」

私は何も言い返せず、何度も頭の中で練った言葉を飲み込んだ。

彼は足早に去っていった。引き止める間さえ与えてくれないほど、あっという間だった。

あとに残された私は、その場に立ち尽くしたまま、そっとお腹を撫でた。

……
Expand
Next Chapter
Download

Latest chapter

More Chapters
No Comments
11 Chapters
第1話
前日に陽性を確認した妊娠検査薬を差し出した時、川崎賢斗(かわさき けんと)は鏡の前でネクタイを締めているところだった。最近の賢斗は「研究が忙しい」と何日も家に帰らず、広い家には、ほとんど私、川崎なつめ(かわさき なつめ)ひとりしかいなかった。昨夜も帰宅は深夜で、話す間もなく眠り込んでしまった。「妊娠したの。1ヶ月だって」口にした途端、胸の奥で小さな波紋が広がった。賢斗の手が止まる。鏡越しに視線がぶつかった。「……どうして妊娠なんてしたんだ」私も不思議だった。子どもを望まない彼に合わせ、毎回欠かさず避妊していた。だからこそ、すべての確率をすり抜けて宿ったこの子は、授かるべくして授かった奇跡ではないかと思ったのだ。「私、この子を産みたい」彼は検査薬を一瞥しただけで、軽くため息を吐いた。「なつめ、困らせるな」胸の奥が、すっと冷えた。彼はいつも、聞き分けのない子どもをあやすような口調で私の願いを退ける。唇を動かしたが、言葉は出なかった。彼はネクタイの結び目を整えると、手を伸ばして私の髪を撫で、額に軽く口づけを落とした。「まだ早いうちに堕ろしてくれ。俺の研究計画に、子育てを組み込む余裕はない」声はすぐ耳元から聞こえているのに、まるで水中にいるように思考が遠のいていった。分かっていたはずだった。結婚する時、賢斗はこう言ったのだ。「なつめ、俺はこれからの人生を研究に捧げる。あそこには、生涯追い続けたいものがある。お前と過ごす時間は少なくなる。それでも、一緒にいてくれるか?」恋に浮かれていた私は、彼を一途な人だと思っていた。けれど結婚5年目の今、あの熱はいつの間にか静かに冷めきっていた。そんな孤独な日々の中で授かったこの子に、私はかすかな光を見たのだ。その希望の光を、彼は何のためらいもなく消そうとしている。子どもは研究の邪魔になる。彼にとっては、それだけだった。今、目の前に立つ、相変わらず大人びて落ち着いた彼を見て、私の心は初めて揺らいだ。「ひとりで行けるだろう?」中絶に、ひとりで行けということだろうか。無理に笑い、せめて一緒に来てほしいと言いかけた。「悪い、研究室でまだやることがある。先に行くよ」私は何も言い返せず、何度も頭の中で練った言葉を飲み込んだ。彼は足早に去っていっ
Read more
第2話
手術の日、私はひとりで病院へ行った。待合室で名前を呼ばれるのを聞きながら、爪が食い込むほど強く拳を握りしめていた。冷たい手術台に横たわり、麻酔で意識が遠のいていく。次に目を開けた時には、すべてが終わっていた。回復室へ運ばれた頃には、外はもう暗かった。麻酔が切れてくると、私は震える手で賢斗に電話をかけた。呼び出し音が2度鳴り、切られた。かけ直しても同じだった。外ではいつの間にか雲が低く垂れ込め、黒い雲に覆われていた。細い雨がしとしとと降り続き、湿った空気が重くまとわりつく。胸の奥まで、その息苦しい夜の闇に押し潰されそうだった。すると、スマホが短く震えた。賢斗からだった。【今忙しい】画面に浮かんだのは、たったひとこと。それだけで、私の電話を迷惑そうに眉をひそめて見つめる彼の顔まで浮かんだ。こんな遅くに妻が病院から電話をした理由さえ、気にならないらしい。スマホを置き、窓を伝う雨粒を見つめた。また通知が鳴った。今度こそと思い、期待しながら画面を開いた。だが、送り主は賢斗ではなく、卒業以来ずっと彼についている教え子の三輪玲那(みわ れな)だった。【奥さん、ご安心ください。今日も私が先生を引き止めて、ちゃんとご飯を食べてもらいましたよ。食べ終わったら、ちゃんと帰るように言っておきますね。体を壊さないよう、私が見張り役になりますから!】最後には、愛嬌たっぷりに甘える猫のスタンプがついていた。仕事の報告のようでいて、どこか親密さを匂わせる文面だった。彼女から届いたメッセージを呆然と見つめ、私はしばらく戸惑いを隠せなかった。初めて玲那に会った日のことを思い出した。当時の賢斗はよく残業をしており、研究室にこもったきり、なかなか家へ帰ってこなかった。彼の身体が心配でたまらなかった私は、描きかけの絵をそのままにして、差し入れの弁当を届けに行ったことがある。その時、玲那はまだ研究室に入ったばかりの新人で、賢斗のすぐそばで細い身体を縮こまらせながら手伝いをしていた。私が入っていくのを目にすると、彼女は賢斗の背中へそっと隠れ、まるで怯えた小動物のような小さな声で「奥さん」と呼んだ。ひたむきで物静か、そして従順そうな印象の女性だった。誰かと視線が合えば、森の鹿のように潤んだ瞳でこちらを見つめ返し、す
Read more
第3話
あの雨の夜以降、私はすべてを知らないふりを貫き、ただ自分の傷ついた身体を回復させることだけに専念した。自宅療養を始めて5日目、ようやく賢斗が帰ってきた。彼が玄関の扉を開けた時、私はちょうど料理をしている最中だった。彼は台所に入るなり、背後から私の腰にそっと腕を回し、甘えるように私の背中へぴったりと身体を寄せてきた。その唐突な行動に驚いて背筋が強張り、思わず振り返って彼を見上げたが、賢斗はすっと視線を逸らした。「なつめ、俺を呼び戻したのは、何か用でもあったのか?」彼の大きな手が、私のお腹に触れる。「子どもは、ちゃんと堕ろしてきたのか?」私は居心地の悪さを覚え、身をよじって彼の腕から抜け出すと、正面からその目を見つめた。彼の瞳は深く沈み、底まで静かに凪いでいた。私が何も言わずにいると、彼はかすかに眉をひそめた。その顔をよぎった苛立ちにさえ、自分では気づいていないようだった。しばらくの間、彼を見つめ続けた後、私は視線を手元に落とした。「ええ、堕ろしたわ。先に出ていって。ご飯を作り終えたらゆっくり話すから」反論の隙など一切与えない落ち着いた声で、私は彼を台所からリビングへと押し出した。今日、彼がこうして帰ってきたのは、私が何十通ものメッセージを執拗に送り続けた末に、ようやく重い腰を上げた結果にすぎない。スマホでメッセージを打っていた時の、凍りつきそうに震えていた自分の手の感覚を、今でもはっきりと覚えている。我に返ると、手のひらにはまだ、さっき賢斗に触れられた時の温もりがかすかに残っていた。けれど、さっきあまりにも距離が近かったせいで、彼の衣類から漂う、決して彼のものではない甘ったるい香水の匂いに、気づいてしまった。コンロの火を止め、料理を皿へと盛り付ける。皿を持ってリビングに出た時、そこには賢斗だけでなく、もうひとりの女性の姿があった。ふんわりとしたピンク色のワンピースに身を包み、緩やかに巻いた艶やかな髪を肩に垂らした彼女は、白い肌をより一層際立たせ、とても健康的な血色の良さを見せていた。ソファに腰かけたその女性の姿を見て、私は一瞬、息を呑んで固まった。賢斗の可愛い弟子、玲那だった。私を見た彼女は、これ以上ないほど華やかで愛らしい笑みを浮かべた。立ち上がる素振りすら見せず、ソファに座
Read more
第4話
賢斗が辛いものを苦手なことくらい、私が一番よく知っている。彼に嫁いだあの日から5年間、私はずっと彼の舌に合わせて、かつて自分が好きだった刺激的な料理を封印し、あっさりとした優しい味付けに変えてきたのだから。けれど今日はどういうわけか、まるで自分の中の何かに導かれるかのように、食卓を辛い料理ばかりで埋め尽くしてしまっていた。賢斗が冷ややかな一瞥をこちらへ向けると、玲那のすぐ隣の椅子に腰を下ろした。口いっぱいに頬張る彼女を見て、彼はテーブルの上のティッシュを1枚手に取り、いかにも慣れた手つきで汚れた口元を優しく拭ってやった。「そんなに慌てないで、ゆっくり食べろ。お腹……」そこまで言ってから無意識の失言に気づいたのか、賢斗はふと私の方に目をやり、慌てて残りの言葉を飲み込んだ。玲那はその言葉を聞くと、まるで条件反射のように、お腹を庇うようにそっと手を添えた。そして賢斗に向かって舌をぺろりと出し、小さく甘えるように呟く。「先生が言ってくれないと、つい忘れちゃうところでした。さすが先生、とっても優しいんだから」ふたりは声を潜めて話していたが、その内容はしっかりと私の耳に届いていた。玲那がお腹に添えたその手に視線を移した時、私は初めてある事実に気がついた。ピンクのワンピースの下、彼女の腹部はわずかに妊婦特有の膨らみを見せていた。それは明らかに、妊娠して数ヶ月が経っていると分かる膨らみだった。思わず、息を呑む。玲那が、妊娠していた?「奥さん」私の思考を遮るように、玲那が口を開いた。箸を置き、いかにも申し訳なさそうな顔をする。「私が悪いんです。せっかく妊娠してるのに、こんなに辛いものなんて食べちゃって。赤ちゃんに良くないですよね」頭の中で、張り詰めていた糸がぷつりと音を立てて切れた。ありえないと思いながらも、すべての辻褄が合う考えが、脳裏に浮かび上がった。玲那は口元に微かな笑みを浮かべ、得意げな光を宿した瞳で、私を見つめていた。箸を握る手に力を込め、まっすぐに彼女の瞳を見据える。「……そのお腹の子は、賢斗の子なの?」込み上げる感情を無理やり抑え込み、できる限り平坦な声でそう尋ねた。彼女の肩が明らかに強張った。まるで不意打ちで突きつけられたかのように、言葉を失っていた。椅子に座っていた賢斗が、勢
Read more
第5話
私は彼の返事を待たず、一方的に言葉を続けた。「今すぐ3人で病院へ行って、親子鑑定を受けましょう。もし玲那のお腹の子があなたの子じゃなかったら、喜んでふたりに謝るわ。でも、もしあなたの子だったら……その時は、離婚しましょう」賢斗の瞳に信じられないという色がよぎり、やがて笑いに紛れて消えた。「なつめ、それ本気で言ってるのか?」彼が笑う理由は分かっていた。私が彼のもとを去るなど、微塵も信じていないのだ。無理もない。彼と一緒になるために、大学時代のほとんどをすり減らして尽くしてきた女が、今さら彼を手放すはずがないと思っているのだろう。初めて賢斗に出会ったのは、大学のアトリエだった。期末課題を仕上げるために訪れたその日、誰かと話している彼の姿を偶然目にしたのだ。彼は、体のラインも骨格のバランスも、まるで絵のモデルになるために生まれてきたように整っていた。美術を学んでいた私は、初めて彼を見た瞬間から、この人を描いてみたいと思った。そしてその気持ちは、結婚してからも変わらなかった。けれど今、私は自分がまるで道化のように滑稽に思えてならなかった。「賢斗。賭ける度胸、ある?」私は目を逸らさなかった。彼はこちらを見つめ返しながら、また一瞬視線を泳がせ、後ろめたそうに唾を飲み込んだ。しばらく黙り込んだあと、賢斗は低い声で言った。「……ああ。彼女が妊娠してるのは、俺の子だ」一瞬、全身の力が抜け落ちるような感覚に襲われた。それでも、崩れ落ちそうになる身体を必死に支えた。重い息をひとつ吐き出し、5年間愛し続けた男を見つめる。「じゃあ、離婚しよう」その言葉を口にした瞬間、全身が軽くなったように感じた。「離婚なんて、絶対にありえない」怒りを通り越して、あきれ返って笑いがこぼれた。これだけのことをしておいて、まだ誠実な夫の仮面を被るつもりなのか。「なつめ、困らせないでくれ」賢斗の声が、わずかに低くなる。分かっている。彼は今、機嫌を損ねているのだ。「ねえ、賢斗さん……」そばで玲那が不満げな声を上げたが、賢斗にすぐに遮られた。彼は苛立ったように玲那を一瞥すると、低い声で言い放った。「先に帰ってろ」玲那はまだ何か言おうとしたが、「帰れって言ってるだろう!」と賢斗の声が一段と大きくなっ
Read more
第6話
私と賢斗の夫婦仲が破綻したという噂は、瞬く間に広まった。彼は隠す素振りすら見せず、玲那を展覧会に連れて行き、ジュエリーを買い与え、時には恋人同士のようにサプライズまで用意していた。彼女を溺愛するあまり、周囲の目など気にもしていないようだった。世界中の良いものを、すべて彼女の前に差し出したいとでも言うように。結婚式で指輪を差し出しながら「生涯を研究に捧げる」と言っていた、あの男とは思えないほどに。それだけではない。私が長年探し求めていた、ある著名な画家の作品まで彼の手に渡っていた。その話を私が知ったのは、他でもない玲那の口からだった。玲那と再会したのは、大学時代の同級生、日高彩美(ひだか あやみ)が主催する個展のオープニングだった。私はその絵の前に立ち止まり、静かに見つめていた。不意に響いた驚きの声に、思考を遮られる。「なつめさん、こんなところで会うなんて奇遇ですね」玲那は片手でお腹を支え、もう片方の手で親密に男の腕に絡みついていた。そばに立つ賢斗は、私を見た瞬間、表情を少しも変えなかった。大学の同級生である彩美も、当然賢斗のことは知っている。異様な雰囲気を漂わせるふたりを見て、気まずそうに私の後ろへ下がり、そっと腕を引いて事情を尋ねようとした。けれど言葉を発する前に、玲那が先に口を開いた。私が見つめていた絵に気づいた彼女は、興奮した様子で賢斗の腕を掴んだ。「賢斗さん、これがあなたが買った絵ですよね?」そう言いながら、彼女の視線がこちらへ向いた。「なつめさん、この絵、お好きなんですか?」私が黙っていると、彼女は構わず続けた。「残念ですけど、この絵はもう賢斗さんが私にくださったんです。まあ、私が飾り終わったあとなら、なつめさんのところへ送ってあげてもいいですよ?」私は何も言わなかった。代わりに、主催者である彩美が背後から説明してくれた。「この絵、少し前にオークションで落札されたの。落札者が賢斗さんだったなんて、私も知らなかったのよ。その時、間に入って連絡を取り合っていたのがこの玲那さんだったの」彼女は続けて、申し訳なさそうに付け加えた。「あなたが欲しがってるって知ってたから、連絡したのに。まさか、そんなことになっていたなんて……」まさか落札の裏にいたのが賢斗で、贈ったのが彼の弟子
Read more
第7話
展覧会場を出て、近くのカフェに腰を落ち着けた頃、ようやく気持ちが落ち着いてきた。彼は微笑みを浮かべ、からかうように言った。「先輩、久しぶりに会ったと思ったら、ずいぶん優しくなりましたね。昔、僕のこと殴ってた勢いはどこへ行ったんですか」その言葉に、大学時代、絵を描いていると彼があの手この手で私を驚かせていたことを思い出した。驚いた後は、決まって筆を握ったまま彼を追いかけ回したものだ。思い出すと、怒りを通り越して、あきれ返って笑いがこぼれた。私が笑ったのを見て、彼はどこかほっとしたように息をついた。気持ちを落ち着けて、話題を変える。「そっちこそ、どうしてここにいるの」「ああ、今回の展覧会、僕もスポンサーのひとりなんです。知ってるでしょう。うちの親父、こういうのが好きなんですよ」なるほどと納得しながら、他愛のない話を続けた。夜が更ける頃、彼は車で私を家まで送ってくれた。道端に立って、彼を見送る。車が見えなくなってから、ゆっくりと家路についた。鍵を取り出し、扉を開けようとしたその瞬間、扉が内側から開いた。賢斗が青ざめた顔で立っていて、私を強引に引きずり込むと、扉を勢いよく閉めた。壁に押し付けられ、歯を食いしばりながら彼が言う。「なつめ。知らない間に、ずいぶん後輩を手なずけたものだな。そんなにいい男なのか?帰る時間も忘れるくらい」賢斗との距離はあまりに近く、彼の身体から発する熱を肌で感じるほどだった。息苦しさを覚えながらも、思わず顔を背けた。けれど、負けじと言い返した。「私に男をその気にさせる力があるかどうかなんて、あなたが一番よく知ってるでしょう?だって、あなたを落としたのも私なんだから。それがほかの男だと、急に気に入らなくなるの?彼に魅力があるかどうかは知らないけれど。少なくともあなたは、もう私にとって何の魅力もないわ」その言葉に苛立ったのか、彼は顔を近づけて口づけようとしてきた。逃げ場を塞がれた私は、思い切り彼の頬を平手打ちした。そのまま力任せに突き飛ばし、冷たく言い放つ。「賢斗、言ったでしょう。汚らわしいって」数歩よろけた彼の顔色が、みるみる冷え込んでいく。怒りを抑えつけながら、嘲るように笑った。「口づけも許さないほど、俺が汚らわしいのか?だが、忘れるな。俺
Read more
第8話
家を出た後、この数年で貯めてきた貯金を使い、自分だけの小さな家を買った。賢斗との思い出をすべて忘れようと、そこで新しい暮らしを始めた。賢斗と別れてから初めて人前に出たのは、母校に戻り、指導教官の彫刻展の手伝いをすることだった。教官の学生たちの技術がまだ未熟な上、時間も差し迫っていて、短期間で完成度の高い作品を仕上げるのは難しい状況だった。たまたま卒業後もずっとこの街に留まっていた私は、大学で何か催しがあるたびに、時間があれば母校を訪れていた。教官から急いで助けてほしいと電話をもらった時、私はちょうど自分の作品の下絵を仕上げているところだった。学校の彫刻教室に駆けつけると、すでに大勢の人が集まっていた。教官は私を見つけるなり、慌ただしく未完成の彫刻のデザイン案の前へと私を引っ張っていった。「なつめ、よく来てくれた」「君が来てくれたから、もう安心だ。あとはふたりに任せられる。君が来るまでは心配で、昼飯も喉を通らなかったよ」そう言うと、荷物を手に慌ただしく立ち去った。去り際、振り返って声をかけるのも忘れなかった。「蓮、事情を先輩に説明しておいてくれ。俺は飯を食ったら戻る」いつまでも子どものような教官の様子に、私は呆れながらも思わず苦笑した。蓮が私のそばに立った。「先輩、これが今回のメイン展示品のデザイン案と資料です。本来なら時間は十分あったんですが、担当グループの手違いで遅れが出てしまって」資料を受け取りながら、思わずからかってしまう。「ふふ。今日はなつめって呼ばないのね。やけに他人行儀に感じるわ」蓮は一瞬驚いた顔をして、それから目を細めて笑った。「だって、僕ももう大人になったから。それに、これだけ親しくなったのに先輩なんて呼んだら、他人行儀じゃないか」彼を見上げて笑いながら、確かにその通りだと思った。手元のデザイン案に目を落とし、思わず眉をひそめる。蓮の言う通りだった。担当グループのコンセプトは「人と自然の共生」。当初の計画では樹脂とガラス繊維を使い、高さ2.4メートルの幻想的な自然の女神像を作る予定だったらしい。けれど今、目の前にあるのは組み立てたばかりで、しかもところどころ壊れてしまった不完全な骨組みだけだった。「先生の考えでは、これを一度解体して、一から作り直すべきだと
Read more
第9話
学校の彫刻展当日、キャンパスは大勢の来場者で賑わっていた。メイン展示品の前で、蓮と一緒に写真を撮った。帰ろうとしたその時、突然手首を掴まれた。賢斗の顔が目の前に現れた。彼の顔色は険しく、歯を食いしばっている。「なつめ、俺と離婚したのは、この男のためだったのか?俺を汚らわしいと言ったのは、自分の浮気を正当化するための言い訳だったんだろう」蓮は冷ややかな視線を彼に向けながらも、何も言わず、さりげなく私の前に立った。賢斗に視線を移すと、久しぶりに見る彼の目の下には濃いくまができていた。あまり良い暮らしをしていないようだった。玲那は賢斗のもう片方の腕に両手でしがみついていて、お腹はすでに目立つほど膨らんでいた。私は冷笑を浮かべ、賢斗の手を強く振り払った。「賢斗、まだ分からないの?私がどうしてあなたと離婚したのか。可愛がってる弟子のお腹が、あれだけ大きくなってるのよ。それだけで、あなたが浮気してた証拠としては十分でしょう。それを今さら、私のせいにするつもり?私たちはもう他人なの。私が誰といようと、あなたには関係ないでしょう。それに、彼はあなたより若いし、見た目だっていい。あなたが張り合えるところなんて、どこにあるの?」一言一句、容赦なく彼の心を抉る言葉を放った。賢斗の顔は赤くなったり青くなったりを繰り返している。深く息を吸って怒りを抑え込むと、彼は打って変わって穏やかな調子で言った。「……わかった。玲那に子どもを堕ろさせたら、俺の元に戻ってくれるのか?」その言葉に、思わず驚愕した。まさかこの場でそんなことを口にするとは思ってもいなかった。玲那の顔色もみるみる青ざめていく。私が黙っているのを見て、賢斗はさらに畳みかけてきた。「なつめ、この数日、ひとりで家にいて、家の何もかもが急によそよそしく感じられるようになったんだ。だから、戻ってきてくれ。今すぐ玲那に堕ろさせる。俺たちで、また新しい子どもを作ろう」彼の瞳は真剣だった。けれど私はただ、全身に寒気が走るような嫌悪感しか覚えなかった。思わず笑いがこぼれ、瞳には冷ややかな色が浮かぶ。「無理よ、賢斗。私はもう産めなくなったのよ。この先一生、子どもを授かることなんてできない」胸を無数の刃で抉られるように痛んだが、もうこれ以上彼と話す気力もなか
Read more
第10話
私と賢斗は離婚した。彼は強硬に拒もうとしたが、私の決意は、それ以上に固かった。離婚後、賢斗はまるで何かに取り憑かれたように、何度も何度も電話をかけてきた。うんざりした私は、彼のすべてのSNSアカウントをブロックした。連絡が取れなくなると、彼は私のマンションの下で、夜な夜な立ち尽くすようになった。けれど、結果が変わることは、決してなかった。1週間後、玲那から1本の電話がかかってきた。電話越しに彼女は泣き叫び、この上ない罵詈雑言を私に浴びせてきた。その狂ったような叫び声と断片的な言葉から、事の顛末が把握できた。玲那が流産したのだという。賢斗の仕業だった。妊娠6ヶ月を過ぎた子どもを、賢斗はもう要らないと言い出したらしい。無理やり病院へ連れていこうとした際、激しく抵抗した彼女のお腹がテーブルの角にぶつかり、その場で大出血を起こしたのだという。玲那はかすれた声で、鋭く叫んだ。「あなた、どうしてそんなひどいことが言えるの!?自分の子を失ったからって、他人の子まで産ませたくないっていうの!?」その言葉を聞いても、怒りも悲しみも湧かなかった。ただ、笑みがこぼれた。最初から最後まで、子どもを望まなかったのは、私ではなかったのだから。玲那の罵倒に対して、私は淡々と言い返した。「不倫相手になったことが、そんなに自慢なの?あなたを流産させたのは賢斗でしょう。それなのに、本人を責めもせず、私に八つ当たりするなんて……あなた、いったい何様のつもり?よくそこまで恥知らずになれるわね」電話の向こうがしばらく沈黙し、やがて賢斗の声が響いた。「なつめ、玲那の子どもはもういなくなった。これで、戻ってきてくれるか?」賢斗は狂気じみていて、ただただ嫌悪感を覚えた。私は冷たく言い放つ。「賢斗、あなたの子どもはふたりとも、あなたが殺したのよ。これで満足?あなたみたいな畜生に、子どもを持つ資格なんて一生ないわ」……蓮が私を訪ねてきた時、私の心は驚くほど晴れやかだった。彼は向かいに座り、私を真っすぐに見つめてきた。その瞳には、掴みきれない感情が揺れていた。「なつめ、先生から聞いたよ。海外に行くって」否定はせず、頷いた。学校の彫刻展の後、私はまるで長い夢から醒めたように過去を振り返り、自分の青春の半分近くを賢
Read more
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status