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愛されぬ妻が去った日

愛されぬ妻が去った日

By:  ニノマエエヅキCompleted
Language: Japanese
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「膣を広げる手術は、受けられますか。 夫のものが、その……大きくて。少し、つらいんです」 目の前にいる患者は、愛らしい顔立ちをしていた。 私、香取星乃(かとり ほしの)は少し面食らった。 手術を希望して診察に来る患者は少なくない。けれど、その多くは膣縮小術か、処女膜再生手術を望んでいる。 自分から膣拡張術を受けたいと言い出す患者は、めったにいない。 問診を終え、私は彼女を診察した。 狭窄気味ではある。けれど、手術を勧めるほどではなかった。 一度考え直してみてはどうかと伝えると、彼女は首を横に振った。 「夫のものが……本当に大きいんです。それに、私を傷つけるのが怖いみたいで、いつもすごく我慢してくれていて。 そんなふうに苦しんでいるところを、見ていたくないんです。先生、できるだけ早く手術をお願いできませんか」 その言葉を聞いた瞬間、私は反射的に御堂蓮司(みどう れんじ)のことを思い出した。 彼も、その点では驚くほどで、何度か私を傷つけたことがある。 頬が熱くなる。 私は慌てて余計な考えを振り払い、彼女の手術日を調整することにした。 そのとき、不意に診察室のドアが開いた。 ひとりの男が、大股で入ってくる。 声をかけようとした瞬間、彼女がその胸に飛び込んだ。 「あなた!」 抱き合う二人を目の前にして、私の身体から少しずつ血の気が引いていく。 彼女が口にしていた「あなた」は、私と結婚して二年になる夫でもあった。

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Chapter 1

第1話

「膣を広げる手術は、受けられますか。

夫のものが、その……大きくて。少し、つらいんです」

目の前にいる患者は、愛らしい顔立ちをしていた。

私、香取星乃(かとり ほしの)は少し面食らった。

手術を希望して診察に来る患者は少なくない。けれど、その多くは膣縮小術か、処女膜再生手術を望んでいる。

自分から膣拡張術を受けたいと言い出す患者は、めったにいない。

問診を終え、私は彼女を診察した。

狭窄気味ではある。けれど、手術を勧めるほどではなかった。

一度考え直してみてはどうかと伝えると、彼女は首を横に振った。

「夫のものが……本当に大きいんです。それに、私を傷つけるのが怖いみたいで、いつもすごく我慢してくれていて。

そんなふうに苦しんでいるところを、見ていたくないんです。先生、できるだけ早く手術をお願いできませんか」

その言葉を聞いた瞬間、私は反射的に御堂蓮司(みどう れんじ)のことを思い出した。

彼も、その点では驚くほどで、何度か私を傷つけたことがある。

頬が熱くなる。

私は慌てて余計な考えを振り払い、彼女の手術日を調整することにした。

そのとき、不意に診察室のドアが開いた。

ひとりの男が、大股で入ってくる。

声をかけようとした瞬間、彼女がその胸に飛び込んだ。

「あなた!」

抱き合う二人を目の前にして、私の身体から少しずつ血の気が引いていく。

彼女が口にしていた「あなた」は、私と結婚して二年になる夫でもあった。

蓮司は夏目萌々(なつめ もも)を見つめ、きつく眉を寄せた。

「秘書が偶然、病院で君を見かけなかったら、俺に黙って手術を受けるつもりだったのか?

言っただろう。俺のことなんかどうでもいい。俺のために、自分の体を傷つけるな」

萌々は拗ねたような声を出した。

「でも、あなたが毎回あんなにつらそうに我慢しているのを見ると、胸が痛いの」

蓮司はそっと萌々の頬に触れた。その声は、信じられないほど優しかった。

「ばかだな。萌々がそばにいてくれるだけで、俺はもう十分だ。

そんな欲なんて、君に比べれば何の意味もない。一生我慢したっていい」

萌々は感極まって涙をこぼした。

二人は、周囲など目に入っていない様子で愛を確かめ合っていた。

蓮司の目には萌々しか映っていない。私がそこにいることにさえ、気づいていなかった。

私はその場に立ち尽くしていた。まるで、場違いな第三者みたいに。

つい昨夜まで、彼は私に身を寄せ、耳元で甘く囁いていた。

体を重ね、何度も激しく私を求めた。

それなのに今、彼は別の女のためなら、一生我慢したっていいと言っている。

「行こう。家に帰るぞ」

蓮司は萌々の手を引いて出ていこうとした。

けれど、萌々はその場に立ち止まった。

「あなた。私、やっぱり手術を受けたいの」

彼女は少し恥ずかしそうに口を開いた。

「あなたに気持ちよくなってほしいし……それに、私、あなたとの赤ちゃんも欲しい」

蓮司はきっぱりと拒んだ。

「それでも、君の体を傷つけるわけにはいかない」

二人が押し問答をしているうちに、机の上のペンが何かの拍子に床へ落ちた。

蓮司がこちらを振り返る。

青ざめた私と目が合った瞬間、彼の瞳が大きく揺れた。

けれど数秒後には、もういつもの表情に戻っていた。

「いい子だから、もう帰ろう」

蓮司は萌々を連れて出ていった。

私は椅子に崩れ落ち、全身がこわばったまま動けなかった。

胸の奥に綿を詰め込まれたみたいに、息苦しくて痛い。

蓮司が浮気をするなんて、考えたこともなかった。

けれど現実は、何の前触れもなく、こうして目の前に突きつけられた。

私は顔を覆った。涙が勝手にあふれ出して、止まらない。

そのとき、不意にドアがノックされた。

外の看護師が、診察の再開を促している。

私は慌てて涙を拭い、すべての感情を押し殺して診察を続けた。

ようやく交代の時間まで耐え抜き、感覚のない体を引きずるようにして家へ帰った。

部屋の中は真っ暗だった。

明かりをつけようとした瞬間、背後から温かな体が密着してきた。

鼻先をかすめたのは、よく知った匂いだった。

蓮司だった。

彼は私に反応する隙も与えず、私をソファに押し倒した。

自分の浮気を私に見られたあとだというのに、彼は一言の説明もしない。

ただ、欲をぶつけようとしている。

私は必死にもがいた。

「触らないで!」

蓮司は簡単に私の両手を押さえ込んだ。

「嫌なのか?」

私は信じられない思いで彼を見た。

声まで震えていた。

「蓮司、私に説明することがあるんじゃないの?」

どうしてこんなに冷静でいられるのだろう。まるで、何も起きていないみたいに。

蓮司は眉をひそめて私を見た。声はやけに落ち着いていた。

「萌々のことなら、お前には関係ない。今までどおりでいい」

自分の耳を疑った。

「な、何を言ってるの?」

「萌々の体じゃ、俺は満たされない。それに、妊娠にも向かない体質だ。お前は何も知らなかった。そういうことにしておけ。俺たちは今までどおりでいい」

そう言って、彼はスマホを取り出した。

次の瞬間、私のスマホに一億円の送金通知が届いた。

「仕事を辞めろ」

私は口を開いたまま、声を出すことさえできなかった。

そのとき、彼のスマホが突然鳴った。

蓮司は私の上から身を起こし、声色を一瞬で柔らかくした。

「ああ、すぐ行く」

電話を切るなり、彼は大股で出ていった。

私はその場に呆然と座り込んだまま、胸の奥がじわじわと冷えていくのを感じていた。

電話の向こうにいたのが萌々だということは、わかっていた。

涙は尽きることなく流れ続けた。

私はスマホを手に取り、ある番号へ電話をかけた。

「離婚協議書の作成をお願いしたいんです」

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第1話
「膣を広げる手術は、受けられますか。夫のものが、その……大きくて。少し、つらいんです」目の前にいる患者は、愛らしい顔立ちをしていた。私、香取星乃(かとり ほしの)は少し面食らった。手術を希望して診察に来る患者は少なくない。けれど、その多くは膣縮小術か、処女膜再生手術を望んでいる。自分から膣拡張術を受けたいと言い出す患者は、めったにいない。問診を終え、私は彼女を診察した。狭窄気味ではある。けれど、手術を勧めるほどではなかった。一度考え直してみてはどうかと伝えると、彼女は首を横に振った。「夫のものが……本当に大きいんです。それに、私を傷つけるのが怖いみたいで、いつもすごく我慢してくれていて。そんなふうに苦しんでいるところを、見ていたくないんです。先生、できるだけ早く手術をお願いできませんか」その言葉を聞いた瞬間、私は反射的に御堂蓮司(みどう れんじ)のことを思い出した。彼も、その点では驚くほどで、何度か私を傷つけたことがある。頬が熱くなる。私は慌てて余計な考えを振り払い、彼女の手術日を調整することにした。そのとき、不意に診察室のドアが開いた。ひとりの男が、大股で入ってくる。声をかけようとした瞬間、彼女がその胸に飛び込んだ。「あなた!」抱き合う二人を目の前にして、私の身体から少しずつ血の気が引いていく。彼女が口にしていた「あなた」は、私と結婚して二年になる夫でもあった。蓮司は夏目萌々(なつめ もも)を見つめ、きつく眉を寄せた。「秘書が偶然、病院で君を見かけなかったら、俺に黙って手術を受けるつもりだったのか?言っただろう。俺のことなんかどうでもいい。俺のために、自分の体を傷つけるな」萌々は拗ねたような声を出した。「でも、あなたが毎回あんなにつらそうに我慢しているのを見ると、胸が痛いの」蓮司はそっと萌々の頬に触れた。その声は、信じられないほど優しかった。「ばかだな。萌々がそばにいてくれるだけで、俺はもう十分だ。そんな欲なんて、君に比べれば何の意味もない。一生我慢したっていい」萌々は感極まって涙をこぼした。二人は、周囲など目に入っていない様子で愛を確かめ合っていた。蓮司の目には萌々しか映っていない。私がそこにいることにさえ、気づいていなかった。私はその
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第2話
ここを去る日は、一週間後と決まった。翌日、私はいつもどおり病院へ出勤した。ただ、退職することだけは院長に伝えておいた。院長はひどく惜しんで、何度も引き止めてくれた。「仕事に何か不満があったのか。それとも、何かあったのか?君ほどの医師を失うのは、うちの病院にとって大きな損失だ」目の奥が熱くなった。それでも、私は断った。私はこの仕事を愛している。これからも、この道で働き続けるつもりだ。ただ、場所を変えるだけ。院長には目をかけてもらった恩がある。これ以上ここにいたら、本当に気持ちが揺らぎそうだった。私は慌てて用事を口実に、その場を離れた。診察室へ戻ったばかりのところで、見覚えのある人物が目に入った。萌々が入ってきて、マスクを外す。「香取先生、手術をしてください」私は必死に表情を取り繕い、どうにか取り乱さずに済んだ。「ご主人は……手術を許していないのでしょう。夏目さん、やめておいたほうがいいと思います」事情を知らない彼女を、責める気にはなれなかった。どうせ、私はもうすぐここを去る。けれど萌々は私の手をつかみ、すがるような顔をした。「香取先生、お願いします。助けてください。先生も見ましたよね?うちの人、あんなに素敵な人なんです。今は私をすごく愛してくれているし、そういう気分になっても、私を傷つけたくないって、ずっと我慢してくれています。でも、このまま時間が経てば、ほかの女に誘惑されるんじゃないかって怖いんです。私たち、もうすぐ結婚して一年になるのに、あの人はまだ一度もちゃんと満たされていないんです。先月、私も全部受け入れようとしたんですけど、少し裂けてしまって……そのあと半月ものあいだ、あの人は薬まで飲んで我慢してくれて……」萌々はとめどなく話し続けていた。けれど、私の耳にはもう何も入ってこなかった。蓮司は欲が強い。ベランダ、ソファ、キッチン……家のいたるところに、彼と体を重ねた記憶がある。けれど一年前から、彼は急に残業や出張が増えた。一か月のうち半分は外にいて、帰ってくるたびに、彼は私を激しく求めた。先月も、二週間家を空けてから戻ってきた。私は丸三日、ベッドから起き上がれなかった。それなのに今日、別の女の口から、彼がどれほど抑えて耐えていたかを聞かされ
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第3話
私は、皮膚が破れて血のにじむ腕を押さえながら、萌々の手術をしたことが蓮司に知られたのだと思った。「彼女が望んで……」言い終える前に、蓮司は乱暴に私を引きずり起こした。車は猛スピードで走り、私は病院へ連れていかれた。萌々は病室のベッドに座っていた。私を見るなり、涙で顔をぐしゃぐしゃにして責め立ててきた。「どうしてこんなことをしたんですか?私、あんなに先生を信じていたのに。わざと私を傷つけたんですね。私から夫を奪って、私たちを離婚させて、もう二度と私に触れられないようにするつもりだったんでしょう?」何が起きているのか、わからなかった。喉はからからに乾いていた。「手術は順調でした。私はあなたを傷つけようなんて……」「嘘をつかないで!下からひどく血が出たんです。さっき診てもらったら、あなたの手術ミスで中が傷ついているって言われました!」萌々の涙はいっそう激しくなった。「わざとだったんでしょう。私に仕返しして、夫を奪うつもりだったんでしょう!」私ははっと顔を上げ、萌々を見た。それから、蓮司に目を向ける。「違います。手術に問題はありませんでした。あなたに仕返ししようなんて、考えたこともありません。私は医師です。そんなことをするはずがありません」けれど、二人は信じなかった。萌々は泣きながら蓮司にすがり、自分のために仕返ししてほしいと訴えた。「蓮司、こんなことをされてまで彼女をかばうつもりなら、私、もう二度とあなたの前には現れない。ねえ、答えて。彼女を選ぶの?それとも私?」萌々は蓮司をじっと見つめ、答えを待っていた。私も蓮司を見た。胸の奥に、ほんのわずかな期待が芽生える。彼だけは、私を信じてほしい。少なくとも、私は彼の妻なのだから。けれど次の瞬間、蓮司は萌々を腕の中に抱き寄せ、暗い目で私を見た。「俺は確かに警告したはずだ。どうして言うことを聞かなかった。お前が過ちを犯した以上、罰を受けて当然だ」背後にいたボディーガードたちが素早く近づき、私を押さえつけた。私は必死にもがいた。声がひどく震える。「御堂蓮司、何をするつもりなの?私じゃない。本当に彼女を傷つけてなんかいない。お願い、信じて……」返ってきたのは、彼の冷たい視線だけだった。「やれ」心臓が口か
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第4話
蓮司が萌々を愛しているのは、確かだった。だからこそ、あそこまでして私を苦しめたのだ。もう嫌というほど思い知らされていたはずなのに、それでも胸はひどく痛んだ。「星乃、これが不倫女の末路よ」萌々は私を見下ろし、その目に軽蔑を滲ませていた。私は顔を上げ、かすれた声で言った。「私は御堂蓮司と正式に結婚した妻よ。不倫女はあなたのほうでしょう」萌々の顔に、一瞬怒りが走った。けれどすぐに、彼女は笑った。「まさか、知らなかったの? 蓮司はとっくにあなたと離婚しているの。戸籍上の妻は、今は私。それに蓮司が言っていたわ。あなたは、欲を処理するためだけの相手にすぎないって」信じられない思いで、萌々を見つめた。頭の中が真っ白になる。離婚している。欲を処理するためだけの相手。「蓮司が本当にあなたを愛しているとでも思っていたの?私を傷つけたくないから、そういう欲を片づけるために、あなたをそばに置いていただけよ。星乃、あなたって本当にみじめね」私は不意に笑い出した。けれど、熱い涙が頬を伝って落ちていく。真実は、想像していたよりずっと惨めだった。彼が毎日のように私を求めてきたことを、私は愛だと思っていた。けれど実際は、別の女への愛だった。笑い声はどんどん大きくなり、胸の奥が震えて痛んだ。萌々は眉をひそめ、二歩ほど後ずさった。「気でも狂ったの?」私は赤く充血した目で彼女を見つめ、不意に口を開いた。「私がただの遊び相手だっていうなら、あなたは何を怖がっているの?」萌々の目が大きく揺れた。次の瞬間、図星を突かれた怒りが顔に浮かぶ。彼女は尖った爪で、私の傷口を容赦なく突いた。「私があなたを怖がっていると思う?教えてあげる。蓮司があなたなんかに心を奪われることは、絶対にない。それに、あなたにほんの少しの隙だって与えるつもりはないわ!」そう言い終えると、萌々は人に命じて私を引きずらせた。「離して!どこへ連れていくの……」私は必死にもがいたが、傷だらけの体に残った力ではどうにもならない。どれくらい時間が経ったのか、わからない。気づいたとき、私は口に布を詰められ、手術台に縛りつけられていた。一枚のカーテンを隔てた向こう側に、萌々と蓮司がいる。萌々は涙を流し、声を詰まらせていた
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第5話
手術台の上には、おびただしい血が広がっていた。蓮司は、先ほど研修医たちが口にしていた言葉を思い出した。胸の奥から、得体の知れない恐怖がせり上がってくる。ここにいたのは……誰だ?脳裏に、ひとつの名前がよぎった。けれど次の瞬間、彼はその考えを振り払った。ただの偶然に決まっている。蓮司はすぐに助手へ電話をかけた。「調べろ。星乃がどこへ連れていかれたのか」その時点で蓮司は、私が病院にいるはずがないと思っていた。萌々には、私を人体モデルにすると言った。けれど実際には、そんな命令は下していない。あれはただ、萌々の機嫌を取るための言葉だった。どうあれ、私は彼の女だ。蓮司の矜持が、自分以外の男が私に触れることを許すはずがなかった。それなのに、あの研修医たちの言葉だけが、いつまでも耳の奥にこびりついて離れない。蓮司は深く眉を寄せた。胸の奥で、苛立ちだけがじわじわと膨らんでいく。その声に、そばで眠っていた萌々が目を覚ました。彼女は起き上がり、蓮司の隣へ歩み寄った。手術台の血を目にしたとき、その目に満足げな色が一瞬よぎった。けれど次の瞬間には、口元を押さえ、怯えたように蓮司の胸へ逃げ込んだ。「きゃっ、これ、どういうこと?どうしてこんなに血が……?」蓮司は薄い唇をきつく結び、彼女をなだめるように背を軽く叩いた。「大丈夫だ。怖がらなくていい。人を呼んで片づけさせる」ほどなくして、助手から電話が入った。蓮司は数歩離れてから、通話に出た。「御堂社長、こちらの者は奥様をお迎えできておりません。ただ、奥様が病院へ向かわれたのを見た者がいます」「病院に何をしに来た?」そう問いかけたところで、蓮司は私の折れた手首を思い出した。目の奥を、何かの感情が素早くよぎる。「今どこにいるか調べろ」電話を切ったあと、蓮司は数秒、その場に立ち尽くした。何を考えているのか、自分でもわからなかった。彼は、私が折れた手首の処置を受けに病院へ来たのだと思っていた。少しすれば、家に戻ったという連絡が入るはずだとも。けれど三時間が過ぎても、助手は私の行方をつかめなかった。その代わり、別のものが見つかった。「御堂社長、先ほど留置場へ行き、奥様の状況を確認したところ……偶然、ある話を耳にし
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第6話
数人は互いに顔を見合わせたまま、震えて口をつぐんでいた。彼らも馬鹿ではない。本当のことを話せば、自分たちの未来がそこで終わるとわかっていた。蓮司は、その考えを一目で見抜いた。彼が視線をひとつ送ると、背後にいたボディーガードがすぐに動いた。数人は殴られ、地面に膝をついて命乞いをした。そのうちの一人は顔中を血で濡らし、泣き叫びながら真っ先に口を割った。「さっき……さっき僕たちは、実習をしていました。手術の練習を……」蓮司の手がかすかに震えた。実習。手術の練習。本当に、ただの偶然なのか。「その練習台にされた人間は、誰だ?」数人は一斉に首を横に振り、涙をぼろぼろこぼしながら訴えた。「知りません。僕たちも手配されて来ただけで……本当に何も知らないんです」「そうです。僕たち、本当に何も知らないんです。どうか許してください……」蓮司は冷ややかに彼らを見下ろした。その目には、温度などひとかけらもない。視線を巡らせ、彼はそのうちの一人に狙いを定めた。「お前、さっき手術台の女も医師だと言っていたな?」名指しされた男は、全身を震わせた。口を開こうとした、そのときだった。萌々が突然やってきた。萌々はその数人を見た瞬間、心臓が大きく跳ねた。顔を青ざめさせ、蓮司の手を握って、不安げに口を開く。「蓮司、何があったの?この人たち、誰?」蓮司はそれを見て、振り返り、ボディーガードに目配せした。すぐに全員が外へ引きずり出される。「何でもない。少し聞きたいことがあっただけだ」蓮司は萌々を見つめていた。その瞳は、底の見えない黒に染まっている。胸の中には、すでにひとつの予感が湧き上がっていた。だが彼は、それが外れていてほしいと願っていた。一時間後、尋問を終えたボディーガードが戻ってきた。口を開こうとしたところで、助手から電話が入る。「御堂社長、確認が取れました。留置場で奥様を痛めつけるよう話を通したのは……夏目様です。それに奥様は今朝、留置場を出た直後、夏目様に連れていかれています。行き先は――病院です」そして、私が萌々に連れていかれた場所は、まさに先ほどの手術室だった。そのとき、別のボディーガードが、全身血まみれの男を押し込んできた。男の左脚はすでに折られ
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第7話
蓮司はたしかに、私を愛してなどいなかったのかもしれない。それでも、萌々が自分に隠れてこんなことをしたのは許せなかった。まして、ほかの男に私に触れさせるなど。かつて彼が萌々に惹かれたのは、彼女の無邪気さと、生き生きとした明るさのせいだった。けれど今、改めて萌々を見ると、可憐な顔の裏に毒を隠しているようにしか思えなかった。たとえ愛していない相手でも、数年もそばにいれば、それなりの情は湧く。萌々はうまく隠したつもりでいた。けれど、蓮司にこれほど早く知られるとは思っていなかった。彼女の顔に、一瞬だけ動揺が走る。すぐに前へ出ると、蓮司の腕に抱きついた。「蓮司、私、ただあなたのことが好きすぎただけなの。彼女にあなたを奪われるのが怖かったの。ごめんね。怒らないで、ね?」蓮司は冷たく彼女を振り払った。「彼女を罰したいなら、それは構わない。だが、どうしてあんなやり方をした?」萌々の目に涙が浮かぶ。「彼女は体ひとつで、二年もあなたのそばにいたのよ。あなたが彼女に慣れてしまうんじゃないかって、怖かったの……それに、私はあなたが言ったとおり、彼らに人体実験をさせただけ。あの人たちがあんなことをするなんて、私だって思わなかった……もう悪かったってわかってる。今回だけは許して。私、もう二度とこんなことしないから」可哀想な女を演じるのは、彼女の得意技だった。けれど今回は、蓮司には通じなかった。「ここでおとなしく傷を治せ。用もないのに出歩くな」そう言うと、蓮司は一秒も留まらず、そのまま出ていった。家に戻るなり、彼は苛立たしげにネクタイを緩めた。そのまま浴室へ入る。立ち込める湯気の中で、ふいに蓮司の脳裏に、あの日の私の目がよみがえった。壊れたような、絶望したような目。そして、濃い憎しみに染まった目……蓮司はきつく眉を寄せた。胸の奥に、抑えようのない感覚が生まれる。彼は、自分が私を愛しているとは思っていなかった。私を娶ったのも、ただ体の相性がよかったからにすぎない。そう思っていた。けれど今、言葉にできない何かが胸の奥にまとわりついて、どうしても離れない。蓮司はその違和感を押し殺し、バスタオルを巻いて寝室へ戻った。だが、誰もいない空っぽのベッドを見た瞬間、また抑えようもなく私の
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第8話
一か月が過ぎ、私は少しずつ、あの傷から立ち直り始めていた。折れた手首と指は、どれもどうにかつないでもらえた。けれど治療が遅れたせいで、もう二度とメスを握ることはできない。つらくないと言えば嘘になる。それでも、人は前に進まなければならない。だから私は、絵画教室に通い始めた。メスを筆に持ち替えたとき、自分が何を感じるのか試してみたかった。その日のレッスンを終え、イーゼルの上の絵を見つめる。胸の奥に、ふっと達成感が湧いた。けれど外へ出た直後、背後から聞き慣れた声がした。「星乃」その二文字を聞いた瞬間、体がひどくこわばった。私は手を握りしめ、振り返って蓮司を見る。声は、自分でも驚くほど冷たく落ち着いていた。「何しに来たの?」蓮司は手にしていた煙草をもみ消し、こちらへ歩いてくる。「迎えに来た。家に帰ろう」あまりにも馬鹿げた言葉で、笑えてきた。私は口元に皮肉な笑みを浮かべた。「家?あなたと夏目萌々の家のこと?私の記憶が間違っていなければ、今の私たちはもう何の関係もないはずよ。御堂社長、冗談はやめて。それから、私に近づかないで。もうこれ以上、理不尽な災いに巻き込まれたくないの」蓮司は私を見つめた。声の調子は、相変わらず静かだった。「俺とお前の家だ。婚姻届は、もう一度出せばいい。萌々はもう海外へ送った。これから先、俺は二度とあいつに会わない。お前を傷つける者も、もう現れない」彼の視線が、私の手首に落ちる。声が少し低くなった。「星乃、俺がお前に負わせたものは、全部、一つずつ償う」その瞬間、本当に笑いたくなった。そして私は、本当に笑っていた。目尻ににじんだ涙を拭いながら、ひどく皮肉っぽい声で言う。「御堂蓮司、まさかこれだけのことが起きたあとで、自分が私を愛していたことに気づいた、なんて言うつもり?」蓮司はまっすぐ私を見つめ、迷いなく認めた。「ああ。星乃、俺はお前を愛している」その言葉に、保っていた冷静さが一瞬で崩れた。「蓮司、私はあなたが憎い!本当に、死ぬほど憎い!私があなたを愛していたとき、あなたは私を愛してくれなかった。それどころか、夏目萌々が私を傷つけるのを許した。私をただの遊び相手のように扱って、私が信じていた結婚さえ偽物だった!なのに今さ
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